帰り道夕暮れの差し込むオフィス、まだ定時前だというのに珍しく人がまばらだ。なぜなら明日から連休があるのだ、午後休や時間給をとって早めに帰宅する人が多いのだろう。
本来なら自分も早めに退社して食事に行こうと話していたのだが、肝心の後輩君がまだ外回りから帰っておらず、仕方なくデスクの掃除をしているのだ。
…約束の時間から1時間も過ぎている。何度連絡しても繋がらないし、上長には「なんでいるんだ…?」と言わんばかりの怪訝な顔をされてしまった。
何かあったのではないかと内心気が気ではないが、今どこにいるのかも分からない状態でこちらが動くのは得策ではないだろう。せめて玄関まで様子を見に行こうかと鞄をとったとき、聞き馴染みのある声が聞こえた。
「お疲れ様です…。遅くなりましてすみません…。」
扉を開けたそこには、シャツの白い襟を血で染めたボロボロの後輩君が立っていた。スーツにも少し土がついているし、顔には殴られたのだろうか青いあざがあって痛々しい。
「ちょっとっ…!どうしたんだいその顔!何があったの?!」
思わず駆け寄ると、後輩君はにへらっと笑って言った。
「いや~、帰り道に飲んだくれに絡まれてしまって…。遅くなってごめんなさい、連絡も…しようと思ったんですけど、倒れた時に携帯をバキバキに割ってしまって使えなかったんです。あ、でも財布とかは取られていないです、体も…まあまだ歩けますよ!……全く、嫌ですよね!連休前だからって気が大きくなる奴らって!」
こちらを心配させないように必死に笑顔を作っているが、手が震えている。
いろいろ言いたいことはあるけれど、ひとまずは消毒だ。
「…とりあえず医務室に行こうか、ほら手を貸して。」
遠慮がちに伸ばされた手は、こちらが悲しくなってしまうくらいに冷たくなっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「―先輩…消毒くらい自分でできますよ。」
医務室についてから、真殻先輩はずっと無言で自分の傷の手当てをしてくれていた。
何か声をかけてもだんまり、てきぱきと脱脂綿やアルコールやらの準備をしている。いつもの皮肉の一つも飛んでこないのを見るに、やはり約束の時間に遅れてしまったことを怒っているのだろうか…。
「次は顔に触れるよ、痛くはしないから安心して。」
すっと脱脂綿を持った手が顔に伸ばされる。ちゃんと声を掛けてもらったにもかかわらず反射で体を強張らせてしまった。それでも先輩の手つきは優しくて、泣きそうになってしまう程だ。―本当、自分に腹が立つ。先輩との約束に遅れたくなくて、いつもは使わない裏道を通ったせいで飲んだくれに絡まれて、結果このざまだ。時計を見ると予約の時間は疾うに過ぎてしまっていた。
「ごめんなさい。せっかく先輩に予約してもらったのに…、こんな体たらくで。もっと自分が強かったら、きっと連中だって喧嘩を売ってこなかったのに。」
そういうと先輩は眉を下げて「そんなことはもういいんだ」と一つ言ったかと思うと、突然抱きしめられた。
鼻孔いっぱいに先輩の香りがする、背中に彼の大きな手を感じる。―あたたかい。先輩の背に手を回すと、ゆっくりと頭を撫でてくれた。穏やかな鼓動や、撫でる手つきがあんまりにもあったかくて優しいものだから、張りつめていた線がぷつんと途切れてしまった。
先輩は服が濡れるのも厭わずに、ずっと抱きしめていてくれた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「―落ち着いたかな」
「すみません、お見苦しいところを…」
泣き腫らした顔をそっと撫でる手は、やっぱり優しくてまるで大切なものを愛でているようだった。
あ、と声を上げたかと思うと、親指が唇に触れた。驚いて先輩の目を見ると、自分の気持ちとは裏腹に真剣な眼差しのものもだった。
「唇も切れてるじゃないか、ワセリンは…ってなんでこんな時に限って切れてるんだよ…。仕方がない、僕のリップでもいいかい?」
鞄をごそごそと探る背中をうわの空で眺めながら自分の唇に手をやる。先ほどまで触れられていたと思うと、どうしようもなくときめいてしまうのは一種の病なのだろう。
あったあったとこちらを振り返った彼は、よくある緑色のリップクリームを持っていた。すっと向かい合って頬に手を添えられる。
「ほら…口を開けて…?」
自分で塗れますからという言葉は、こちらを射貫くような眼差しで引っ込んでしまった。言われるがまま薄く開き軟膏を感じる、ついでに自分の早鐘を打つ鼓動も。
「これでよしっと…。お店には悪いけど今からキャンセルの電話を入れてくるよ。今日は君の好きな映画でも借りて、僕の家でゆっくり晩酌とでもいこうじゃないか、腕を振るって料理を作るからさ。…どうかな?」
先輩の手料理を食べられるなんて!…後のことは後の自分にまかせればいい、胃薬は買ってあったはずだ。元気に「はい!」と返事をすると先輩は人好きのする顔でにこりと微笑んだ。
「じゃあ決まり。今度は変な輩に絡まれないように、僕がしっかりエスコートしてあげるから。手を離さないでね?」
そう言った先輩はゆっくり優しく、しかし決して逃がすまいと手を握っていた。