ニルヴァーナ④④
今日という一日が始まったことをカーテンの隙間から差し込む太陽で知った。
朝は嫌いだ。こいつさえ来なければ自分の体温で程よく温まった布団から出なくていいし、満員電車に無理やり押し込められて、顔を顰めながら知らない連中と体を寄せ合ったりしなくていいのに。
朝が来れば休日でも、どこにいても会社のことが頭を過ぎる。骨の髄まで仕事に支配されているのを自覚してしまって、そう社会に作り替えられた自分が心底嫌になる。
朝なんて一生来なければいいのに。
ただ、今日だけは少し違った。炭治郎が待っていると思えば会社のことなんかすぐ忘れられたし、心が空飛ぶ風船のようにふわふわと浮き立つ感覚さえあった。
いつもより念入りに身だしなみを整える。「今日くらいしなくても平気」とたまにサボるシェービング後のケアも今朝は保湿クリームまで塗った。髪も手櫛で纏めてひとつ括りにしているだけだったのを、きちんと梳かして前髪を軽くヘアワックスで流れをつけた。これで少しは清潔感が出ただろうか。今更ながら炭治郎に少しでもいい印象を持たれたかった。
昨晩ランドリーへお願いしていたシャツを羽織ると、待ち合わせ場所のホテルのロビーへ降りて行く。
「おはようございます」
シンプルなTシャツに幾何学模様のハーフパンツを履いた炭治郎がヘルメットを持って立っていた。
炭治郎はいつも完成されたかわいさがある。ふわふわそうだけどコシがある赤みがかった髪と、身長差があるためにこちらを見るときは自然に上目遣いになる目。生気に満ちたツヤツヤの頬も全てが手を加えなくてもいいようにできていた。
「あれ? 今日はなんだかいつもと雰囲気が違いますね」
「そうか?」
「なんかこう、シャンとしているというかこざっぱりしてるというか。格好良いですね」
面と向かって褒められると背中がソワソワして落ち着かなかったが、できる限りの平常心で「ありがとう」とだけ答えておいた。外見を褒められて嬉しいと思ったのは今が生まれて初めてだった。
言いつけ通り朝飯抜きで来たので腹が鳴りそうになる。現地で流行っているサンドイッチを是非一緒に食べたいとのことで、昨晩から楽しみにしていた。無論、楽しみなのは炭治郎の方でサンドイッチではない。
「俺もまだ食べたことなくて。初めてなら義勇さんが一緒だと嬉しいなって思ったんです」
そう言って渡されたヘルメットは三回目でやっと手に馴染んだ感じがした。借り物だというこれは一体どこの誰の物で、何日も使わせて貰ってていいのだろうか。
「使ってないから貸してくれたんですよ、義勇さんが気を遣わなくて良いですからね」
にこやかに言われれば、背景に俺の知らない人物とのやりとりが透けて見えて何も言えなくなった。それは男なのか女なのか分からないが、物の貸し借りが出来るほど親しい相手がこの島にいると思うとその相手にどうしようもなく妬けてしまう。
故郷が同じというだけでこの島の人間より炭治郎の本当の姿を知っていると思いたかった。実際は俺の方が炭治郎を知らない。一緒に過ごす時間が圧倒的に足りていないからだ。
もっと早くに、炭治郎が日本から出る前に出会えていれば。もっと近くに居られれば……。
炭治郎のお目当てだった朝食は並ばないと手に入らないシロモノだったが、嬉しそうに待っているのを見てると俺も嬉しかった。待ち時間も苦じゃない。
ようやく順番が回ってきて、店員に店先にある小さなテーブルで食べるか、テイクアウトするのか聞かれるが、炭治郎は迷わず持って帰ることを選んだ。あまりに淀みないやりとりだったので、何か考えがあるのかと訊ねると「特にありません!」と力強い返事をもらった。
有料のビニール袋を断って、手で掴んだサンドイッチはほのかに温かい。受け取った瞬間から頬張り始めた炭治郎に倣って、俺も包み紙を開いた。
チーズとベーコンの様な薄切りの肉が挟まったなんの変哲もないサンドイッチ。そこになんの脈絡もなく挟まれたいちごジャムが断面から溢れそうになっている。子どもが思いつきで作ったメニューか? 思わず口にするのを躊躇ってしまった。
クワトロフォルマッジなんてピザが流行り始めて、今や当たり前のメニューとなったが、しょっぱいものに甘いものを組み合わせた料理はどうも苦手意識がある。ずっと食わず嫌いなのだ。
「この島でも甘じょっぱい味が流行っているんです。俺も最初はどうかなって思ってたんですけれど、一回食べたら病みつきになってしまって。美味しいですよ、一口でいいから義勇さんも食べてみてくださいよ」
なんて屈託のない笑顔で言われたら……。何回でも言うが俺は炭治郎のこの笑顔が好きだ、裏切りたくはない。
手の中のサンドイッチと、ニコニコ笑う炭治郎と。何度も見比べて、意を決してサンドイッチに齧りつく。
「どうでしょう?」
「甘いとしょっぱいと両方強く感じる……。胸焼けしそうだ」
「あらら、お口に合いませんでしたか」
残念ながら流行の味というのは俺には合わないようだった。炭治郎の勧める物が食べられなくて少し申し訳なく思う。気を悪くしてないか顔色を窺うと、炭治郎はさっきと変わらずニコニコしていた。
「次は義勇さんが好きなのにしましょうね」
ありのままを受け入れてくれる。それがどれだけ嬉しいことか、炭治郎には分からないだろう。空気が読めなくても、周りに合わせられなくても……笑顔が作れなくても。この子は簡単に隣にいる権利をくれる。
俺以外の人間にもこうやって、優しい目を向けているのだろうか。そう思うと、胸のどこかが軋むように痛んだ。
炭治郎のバイクに乗ったり、歩いたりして俺たちは色んなところへ行った。日本で言う原宿のような賑やかなショッピング街や、レンガ造りの古めかしい建物、現代アートの奇怪なオブジェなど。この島は自然は手付かずだが、都会部分は色んな時代や文化が交じり合って出来ている。
目的もなくただ街をうろつくのは時間の無駄だと考えていたが、今日はこの無意味さが楽しかった。
そしてなんでもない、取り止めのない会話を延々とした。主に喋るのは炭治郎の方だが、どれだけ話し続けても話題が尽きることがなかった。
ここが異国でなくとも、炭治郎とだったからこんなにはしゃげるのだろう。
炭治郎は、俺にとって輝かしい太陽そのものだった。降り注ぐ日差しのように暖かで眩しい。浴びれば浴びるほど、心とからだが元気になるのが分かる。手を伸ばしても届かないところもそっくりだ。
「義勇さんは、どうしてこの島に来ようと思ったんですか」
大きな集合住宅がいくつも立ち並ぶエリアを歩いていた。この辺りの建物は一階が商店のテナントになっており、色とりどりの庇が店の存在を主張するように突き出ている。道路にまではみ出して怒られないのだろうか。雨風に晒されて数年は経っているであろう古ぼけた植木鉢の横をすり抜けながら炭治郎は言った。
以前と同じような質問は受けたことがあるが、これにはただの観光客と現地人との一期一会の会話の中で出たものとは違うニュアンスがあった。選んだ理由。それは炭治郎にとっては些細なものなのかも知れない。だけど、あの時毎日の業務に疲れ切って職場に向かう電車に乗ることさえままならなかった俺が、唯一目指せると思った場所はそこしかなかったのだ。
「……海が見たかったんだ」
あの日思い描いたエメラルドグリーンと白の波打ち際の様子が頭を過ぎる。実際にビーチで見た海はそんなものではなかった。もう少しだけ透明で、エメラルドグリーンじゃなくてもっと真っ青な色をしていた。
想像していたことと現実が違うことなんてよくあることだ。俺はそんなことでがっかりなんかしてない。
ただ自分が行きたかった場所に行って、見たかった景色に出会って満たされたかった。
「海、ですか……」
炭治郎が俯く。その横顔は頭の中にある景色を探すというよりも、何かの記憶を辿っているようだった。
炭治郎の記憶の海というのはどこか遠く、深い場所にあるのだろうか。こんなにすぐ側にいるのに炭治郎と離れてしまったようで心細くなる。会って数日の俺ではたどり着けないところに行って欲しくなかった。
「なんだか見当違いの案内をしていたみたいで申し訳ないです」
「一番最初に会った場所がすでに海だっただろう」
それに洞窟の海にも連れて行ってくれた。……その後でビンタされたけれど。
今更行ってみたいとも思わない。炭治郎と出会えて話ができるだけで充分だった。満たされるというのならこの瞬間に俺は満足している。
「そんなのもったいないです」
今からでも行きましょう、と手を引かれてしまう。これまでだってされるがままに過ごしてきたけれど、いつになく強引だ。炭治郎はどうしたってその人が本当に願っていることを汲み取ってしまう。ほとんど超能力とも言っていい力で俺をどこまでも引っ張って行くのだ。