一羽の鳥が朝露に濡れて、山腹を離れた。
霊脈の基点に並ぶ国主一族の宮殿が集まるそこは、霧が立ちこめている。
白華の国と呼ばれ、白い花の咲き乱れる国の都、花守山の中心地を見下ろす夏悠殿からその鳥の影が消えるまでじっと見つめる銀色の瞳があった。
「あれはこのままお使いになってよろしいのでしょうか」
冷たい床に膝を折ってつけた従者がその視線を追うように危惧を寄せると、瞳は一度まぶたを閉じた。流麗な曲線を描く鋭い線は早朝の気だるさが少しだけ残っている。
「アシュタルにはまだ駒が残っているが、あれ以外は随分と俗物であるから」
男の声は低く、刃物のような冷たさがある。感情の絞られた声色は無駄がない。
「アシュタルという国は、怪鳥を崇める国だ。その鳥をあそこまで憎み虚無の感情を向けるものはいないだろう。それが宰相をしているのだから、あの国は面白い。国を思わぬものが国を動かそうとしている」
従者が男の眼前の茶器を下げようとするが、男はそれを長い袖を流しながら止めた。
「捨てよ。穢れたものが触れたものを、二度と出すな」
美しい磁器の器は、男の指示通り二度と目の前には出てくることがなかった。
日の出に白い頬が照らされる。男の名前は幽達。
花守山の頂点にある国主にもっとも近い王、慈悲王の号で尊称される男だった。
慈悲王の目線は窓の外、霧が晴れていく花守山の姿から逸れない。一枚の絵のように美しい景色であったが、彼の心の中に広がっているのはそれに反して陰湿だった。
──シロツメ公主をアシュタルに寄せてからもう三年は経った。そろそろ『殺して』もらってもいいのだが。
慈悲王の脳内に浮かんでいたのは、ひとりの少女だった。
陽光を銀糸に織り込んで三段に分けて束にした、ふわふわとした白金の髪。生粋の花守山の民のしるし、銀に輝く瞳。背丈は幽達の半分ほどしかない。
生まれは都から離れ、石窟と花の産地として有名な涼華領。
名前は春玲(しゅんれい)、公主号はシロツメ。最初は幽達の弟である第三王の冬清王の婚約者として入内し、シロツメ公主の名を得たが、冬清王が『事故死』しその現場に居合わせ、花守山の禁忌のひとつである「諍いごとによる血」を浴び穢れた。
俗に言う穢落ちという不名誉を受け、少女の未来は完全に閉ざされた。表舞台に公主として立つことはなかった少女を、幽達が救った。
養女として迎え入れ手厚く保護したのだ。
不可抗力の禁忌に対しての救済に、花守山の民たちは皆、彼を讃え「慈悲のある王」「国主にもっともふさわしい御方」と賞賛を受けてこれまで「夏悠(かゆう)王」と呼ばれた号が、民草の声で「慈悲(じひ)王」と改められるほどの支持を得た。
そして公主は、国の礎となるために、恩に報いて敵国へ輿入れをした。
またとない名誉であり、アシュタルとの関係改善のために尽力した慈悲王はまた株を上げた。
──その少女を、いま幽達は「はやく殺してもらいたいのだが」と思ったのである。
「宰相にはもっと強く干渉するように言ったが、あれも思惑があってのことだからな、致し方ない。ここは辛抱どきか」
重い装束を翻し、慈悲王は国主への朝見に赴く準備をはじめた。
いずれ父の座を、父を跳ね除けてでも得る野心を内の内に燃やしながら、残滓として滴る雫は濃い毒、呪いの気配がした。
「どのみちアシュタルも私のもの。一時の辛抱よな」
部屋に差し込む光とは裏腹に残酷な計画を練りながら、慈悲王は宮殿の奥へと消えていった。
潮騒が耳に随分となれたとセッカは思う。
学士団としてここへ派遣された時、波の音が煩すぎて眠れなかった。セッカの生まれは、花守山の素問領と呼ばれる地方領地の奥地で、海との縁は浅かった。田舎ではあったが姉が国主の妃となっていたことで、血の穢れを受けたセッカもまたこうして役目を得て表舞台を歩いていられる。
花守山の戒律を破り血の穢れに触れたものは、職も家族も失うのが普通だからだ。
「アシュタルと国主一族に内通者がいたと考えるべきでは」
向かいの席についていたヴィトロの言葉に、セッカは顔を上げた。
「あなたのお仕えしていた冬清王の政敵がいたのなら、動機になりえます。父の仮面を持っていた理由はわかりませんが、和平交渉をしていた両国です、国主一族の一部に繋がりがあってもおかしくはありません」
「国主一族内は、そりゃ一部は仲が悪かったがそれでも血のつながった兄弟だったし、潤越は度々国主の座は自分以外がふさわしいと公式の場で発言している。そこまでされる覚えはないかな」
「わかりませんよ。世の中には国のトップが単身で敵国の公邸に飛び込んできて、拉致をすることもありますから。立場のある人間だからといって道理に基づいた行動をするわけではありません」
それってあれかな、この前話してくれた先代ユーロジオ執政官と先代ミンカラの話しかな、とセッカは少し引きつって笑顔を返した。ヴィトロは特別に感情を込めた発言をしていなかったが、心中までセッカが察するのはまだ難しかった。
「セッカ、シロツメ公主をアシュタルに寄せる見返りに、婚約者であった冬清王を殺害させたということは?」
「そりゃないな。シロツメ公主は、公主ではあるけどただの田舎娘だし、政治的な価値皆無だしアシュタルが欲しがるような人材でもない。俺は潤越の側で数年あの公主を見てる。なんてことのない普通の素朴な娘だった」
そうですか、とヴィトロはセッカの言葉に黙してしまった。
せっかくふたりでいるのにその会話なのかとアルジェンタがいればため息交じりに言ってきそうだが、彼女はこの場に遅れてやってくる。
「普通すぎる子なんだ。潤越のことで深く傷ついているはずだ。俺だってあんなになったのに」
「それでセッカは怒っていたのですか」
「そうだよ。体の良い道具扱いだろ。アシュタルと花守山で小競り合いが起きた時に、最初に血祭りに上げられるのはシロツメ公主だ。捨て石だと言ってるのも同じだ」
「セッカはそうやって、縁ができた相手に対して本気で怒ったり愛したりができる人なんですね」
「俺はお前が道具にされたら、そいつ殺すぞ。俺はもう血の穢れを受けて怖いもんなんかないからな」
ヴィトロは反応に困るようすで右、左と視線を泳がせてから「落ち着いて、お茶を飲んでください」と自分のお茶をぐいぐいと押し付けた。
「潤越は死んだらいけないやつだったのに。あいつは代理人だったのに……この混乱期に、必要な存在を花守山の人間が殺そうとするなんてまず考えられない…」
「だい…りにん?」
「あぁ、まぁもう、潤越は死んだし、お前になら話してもいいよな。代理人っていうのは、我が国花守山の宝である、霊木の代行者のことだ」
「不老不死の実をつけ、花守山の民の寿命を伸ばし、仙術の源となる宝ですね」
「そう、霊木ってもんは──いや、実物は俺も見てねぇんだけど、少なくとも自分で喋ったり動いたりとかそういうことができない。霊木っていうくらいだから、多分木なんだろ。その木が、自身の危機であったり、変化を人民に告げるための端末になる存在を、代理人って言うんだ」
「だからこそ狙われたのでは?」
「いや、だからこそ霊木に守られるし、公にはされてない。知っていたのは、俺と潤越だけだ」
「間違いなく? 国主やその周りの家族にも?」
「彼の口から漏れることは絶対にない。代理人であることが広まれば、面倒なことになるのは分かりきってる」
「あなたは冬清王に信頼されていたんですね」
「俺は、あいつのできそこないの従者だったよ」
意識がつらい現実から離れるのを、セッカは自分で止めた。
「それに代理人が死ぬことを望むやつは誰一人いないはずだ。代理人がいれば霊木は活性化の兆しがあるということだ。花守山の人間でそれを望まないやつはいない」
「外から見れば、国力を落とすためにわざわざ狙った可能性は、ゼロとはいえません。代理人が死ねば宝の価値が下がるのでしょう?」
「たしかにな、でもアシュタルは霊木の不老不死の実を欲していたし、アルテファリタも霊木に興味を持ってたはずだ、違うか?」
「………違いませんね」
「だろ? わざわざ代理人を殺して霊木の価値を下げるより、俺なら代理人をうまく使う方を選ぶね。それに代理人だけどうこうしても意味がないんだ。妖精も見つけないといけないしな。代理人が端末なら、コアの部分が妖精。霊木の花嫁、再生エネルギー源なんだ。代理人は妖精を霊木に捧げることができる唯一の存在で、霊木に不老不死の実をつけるように即したり、富をもたらすと言われてる」
「妖精って花守山の風習の…国主一族の女性たちが預かる花の霊力のかたち…でしたっけ。それが霊木にもあるのですね」
うちの習慣の話しはいい、とセッカは話しを切った。
「とにかく、それだけ潤越の死は花守山側の人間が関与するには大きすぎる問題なんだよ。潤越が公表していなくても、霊木は潤越を選んで代理人にしていた。霊木のちからの及ぶ花守山において、代理人を殺す行動を起こそうという気には、なれないはずなんだ」
だからアシュタルのやつらが、単純に国主一族の勢いを裂くために、とセッカが続けたところをヴィトロが手を差し込んで止めた。
「だからこそ、アシュタルと手を組んだのではないのですか?」
「だから、こそ?」
「あなたの主の潤越は、国の宝によって、見えざる力をもってして守られていたとして、それでもなお、殺したいと思うものが花守山に存在していたとしたら? だけれど血の穢れという戒律もあり、アシュタルの力を借りたとするなら?」
「そこまで潤越を恨む根の腐ったやつがいるっていうのか」
花守山のひとたちが、基本とても素朴でまっすぐな人間であるということは、ヴィトロも目の前のセッカを見ていて察しているが、すべてがそうとは限らない。
こと戦争下において、国主一族の内部抗争がないとは言い切れない。
「セッカ、認めなくては前に進めません。代理人という国主一族である以上の価値のあったあなたの主を、その人物が殺したのです。従者であるあなたなら、心当たりがあるはずです」
セッカは黙り込んでしまった。思慮を巡らせているのかもしれない。
うつむいて、泣いているようにも思えた。
「セッカ、泣いているのですか。すみませんきつい言い方をしましたか」
下を向いて右目を押さえたまま俯くセッカに、ヴィトロは腰を浮かせて伺うようにして彼の背にそっと触れた。花守山の織物は繊細で美しい白い花柄が特徴だった。
セッカによく似合っているとヴィトロは思いながら、窺うようにして背を撫でる。
隣についてもいいだろうか、いや慰めの方法が正しいか、分からない。
ヴィトロが躊躇して次の言葉を用意し口を開こうとした瞬間、ドアの方が一足はやく開いた。
「おまたせ、用意してきたよアシュタルの装束。ただし女物だけどね」
両手いっぱいに服を抱えてやってきたアルジェンタの弾けるような笑顔と、女物、という言葉にセッカは思わず顔を上げて固まった。
「────だれが女物を用意しろって言ったよ!」
「私が男物を用意する方が怪しいでしょ。それにあんたら女装する方が絶対怪しまれないし、私はミンカラと女子会するのに男がいたら明らかにそこでアウトでしょ」
「こんなに用意しなくても」
セッカがアルジェンタに頼んだことだったが、用意された衣装は随分とあった。
「ヴィトロもアシュタルに行くっていうから」
「なんでお前も来るんだよ」
「行きますよ。だって父の仮面を悪用したものがいるのですよ。把握しなければいけません。内通者ならすぐに対処しなければ後々禍根となります」
「ってーヴィトロは執政官らしいことを言ってるけど、セッカと行きたいだけだからね」
秒の間も与えずにアルジェンタが威厳を全力破壊したので、ヴィトロは彼女をポカポカと連続で叩いてみせたが、海風に飛ばされてしまいそうな華奢な身体から飛んでくる拳は、セッカだけでなくアルジェンタにも効果は全くなさそうだった。
「あと、私が案内できるの途中までだけど」
「それでいいよ。途中でヴィトロもお前に任せるから。お前たちを巻き込む気はない」
「なんですかセッカ、その私はオマケみたいな言い方、私だってあなたの役に」
「目的が違うだろ俺はシロツメ公主を探す、お前は仮面なんだし、団子になってると怪しまれる」
「大体セッカ、あなた国外に出る許可を学士団の方にどう言うつもりですか」
「や、それは……」
「私が執政官権限で、学士の方を研究に数日借りたいなどと口添えしないと、無理なのではないですか?」
「えっと……」
「あなたの行動の自由は私が保証しますが、それはあくまで、私の目の見える範囲で、ですセッカ」
ヴィトロの言葉にアルジェンタは笑いが堪えられない様子だった。
もっと簡単に言ってやればいいのに、一緒に行きたいって。
小声には誰も返事を返さない。
「じゃあヴィトロは女装したままミンカラと会おっか。宝石職人見習いの弟子ってことで。うーん怪しまれずに普通に帰ってこれそう」
衣装をあてながら男性としての尊厳をめった切りにされるヴィトロは言い返せない。
こういうとき、アルジェンタは心強いなとセッカはどこか安心して見ていた。女物の衣装を選んできたという点は評価ゼロだったが。
「そういえばいま、セッカ、シロツメ公主って言わなかった?」
髪飾りをヴィトロの頭にのせて本気の遊びをしだしたアルジェンタに茶を淹れてやろうと立ったセッカを、彼女が呼び止めた。
「言ったけど?」
「ツメちゃんも女子会くるよ」
セッカが茶器に触れる手がとまった。
「は?…………つ、つめ…ちゃ?」
その呼び方の砕け方もだったが、きょとんとする彼女にもセッカは疑問符しかなかった。
「ミンカラの友達なのシロツメ公主、それで知り合って一応顔見知りだけど。セッカもツメちゃん知ってる? 知ってるか同郷だもんね」
セッカは引っ張られるようにヴィトロを見た。
ヴィトロもまた、花飾りを頭に乗せたままセッカを見た。
「話しが早いですね」
ヴィトロの言葉にセッカは一度頷いた。頷いたが返事は全く別の問題への追求だった。
「それ似合ってるぞ」