白華伏魔殿 (1) 蘇門の第二候子であった折の伯善(当時は叔善と呼ばれていた)がアシュタルによる冬清王襲撃の一報を受けた時、彼は国主宮から少し離れた市街地で蘇門に土産の書物を見繕っているところだった。
宮勤めをする叔父の伝手を使って、もう一度冬清王の従者候補に上げてもらう約束を取り付けたところだった。
「なんだと冬清王殿下はご無事なのか」
「それが情報が錯綜していて、襲撃から半日は過ぎたと聞いております」
蘇門候邸に飛び込むとそれはもう混乱した様子で、青二才の伯善に構う余裕はなかった。
蘇門一族は冬清王の後ろ盾である。同時に彼を失えば宮中での発言権をはじめ、今後の一族の栄枯衰退に大きく関わる。
「璃茉へ面会を求める使いを出せ!」
「大叔父、殿下が負傷とはまことのお話ですか、一体なぜこの中央にそのような危険が」
「善、お前は宮中参内の許可を得ていたな」
「は、はい…叔父上にお話をするために」
「いま一度宮中へ上がり、状況を把握して参れ。私はすぐ蘇門候へ一報を出す。お前の兄たちがいる北の防衛戦にも危機があるやもしれん」
候邸を取り仕切る大叔父に肩を強く叩かれ命じられて、伯善は従者を伴い長い髪を揺らして走った。
いつもまともに機能していない警備が厳重に敷かれている時点で、異常事態はすぐに察せられた。書物を買うために持っていた銀貨を門兵に握らせ状況を聞く。冬の宮が渦中であると知ると、国主宮には直行せずに冬清王の住まいである冬の宮へ走った。
最中見知った官吏と出くわし腕を掴まれた。
「叔善殿この先はなりませぬ、なりませぬ。血の穢れがございます。その装いのまま行かれては穢れをかぶります。ああ恐ろしい恐ろしい」
「殿下は負傷されておいでか」
「シロツメ公主と従者が重体で、殿下のお姿はなく連れ去られたものと思われます。桜の丘が血の海でございます」
口にするのも恐ろしいとばかりに呻く官吏は、たしかに穢れ避けの頭巾で目元以外を覆っていた。
前後不覚に陥った伯善がめまいを起こす。
なんということだろう。国主がもっとも信頼し、民草から最善の王として評価された冬清王潤越を失ってしまった。
国風を体現し、国家の伝統を守りながら、決して揺るがぬ信念を持つ潔白の第二王。
伯善の理想であり目標であった。
「蘇門候邸にお戻り下さい。宮中はいまだ混乱の渦です。アシュタルの手のものが混乱を狙って攻め込んでくる可能性もあります」
揉めていると冬の宮から道を譲るように先触れがやってきて声を上げるので、端から眺めると、見知った子供が土のような顔色で運ばれていくのが見えた。
涼華領の春玲、冬清王妃のひとりに選ばれた、まだ成人も前の女児だ。
どこへ運ばれるかは分からないが、運ばれた道を清め後を追う「清め番」と呼ばれる官吏の様子を見るに相当の傷を負ったのだろう。
皆返す言葉は同じだった。
──冬清王殿下がアシュタルに連れ去られた、命はおそらくないだろう──
蘇門は宮中に何人か家のものたちを置いて主上に仕えていたが、その中でも主上の寵愛を得たアワブキ妃璃茉は蘇門候の覚えもめでたい。
地方官吏である書記官の娘だったが実弟が麒麟児として才覚を示し、弟の出世のために璃茉は自ら政治の駒になる覚悟で行動した。
宮中は伏魔殿である。
一時の諜報くらいは役には立つだろうと璃茉の入内を一族が後押ししたが、政治感覚の優れた女人であったために主上から妃として認められ、推挙が通り弟は冬清王の従者までになった。
そう、伯善が切望したが叶わなかった冬清王従者になったのである。
蘇門出の者として名誉であるが、冬清王を崇拝する伯善個人としては苦い思いだった。
己より年下の者に望んだ職を奪われる悔しさがあった。だがそうやって自分を蹴落として従者となった少年は、冬清王を守りきれなかった。
「私が従者であったならば、殿下をお守りできたに違いないというのに」
伯善はアワブキ妃に謁を通ずるため後宮へ向かった。
花の妖精たちは国主宮奥の国でもっとも美しく清廉な庭園の中で住まう。
面会ができても東屋の向こうや御簾、屏風越しで、直接姿を捉えることはできない上、女官や役人が常に監視をしている。
伯善も璃茉が妃の位を得てアワブキの花の妖精を与えられてから、顔を見ることもできなかった。
最後に顔を見たのは、私の妃になって欲しいと言えずに国主宮へ向かう馬車を見送った時だ。
「アワブキ妃に拝し奉りたく、蘇門の叔善が参じました」
聡いアワブキ妃のことであるから、事態を把握した故郷からすぐに使者がくることは分かっているだろう。
後ろ盾である蘇門候一族を拒否する権利は彼女にはない。しばらくすると側仕えの老女がやってきて「事態を鑑みて面会をお断りする」と伝えてきた。
「後宮に話は届いておらんのか。冬清王殿下のいち大事ぞ」
待合室の高価な椅子を倒す。従者が椅子を直す間、使者の老婆は微動だにしない。
「後宮には後宮の決まりがございます」
弟が重体となれば宮中での地位もぐらつくだろう。我が身第一で故郷のことは二の次か。伯善がイライラと踵を鳴らすとしばらくして老婆の側に若い女官がやってきて耳打ちする。
「アワブキ妃がお越しになります」
「賢い判断だ。今は身内で情報共有をする必要性がある」
どか、と椅子に座った横に屏風が静かに展開される。
女官が香を焚いて御簾を下ろす。姿は殆ど確認できないが、蜜のような甘い香りが漂えばそれが花の妖精がやってきた証だ。
「国の宝、花の妖精アワブキ妃に拾謁し奉ります」
「私に動揺をする時間も与えてくださらないのねぇ」
「そんなものを堪能するために妃になったのではないだろう。あなたは強い女人だし十分に権勢の蜜は舐めたはずだ、蘇門出自の妃として責任を果たさねばならんことくらい分かっているはず」
「私は故郷の狗になるために妃になったのではなくてよ」
「弟のためだろう分かっているよ。だが──残念だったな。一命をとりとめても、穢れを受けたからにはもう表舞台には立てない。従者としての役目を果たせずに主人をみすみす屠られるなど論外。殿下の従者など不相応な職を得ずに士大夫の位で満足しておればよかったのだ」
返事はない。
すぐにきつい嫌味を投げかけてくる強い女だと伯善は思っていたが、沈黙が続いた。
「………言い過ぎた。血の穢れを受けても才知まで失われることはないから」
「憧れの冬清王殿下のご不幸に動転してるのは私だけではないのね。あなたのいいところは血筋と政治手腕だけ。人の気持ちなんかこれっぽっちも分かっちゃいないわ」
「璃……アワブキ妃」
「蘇門候にすぐに北側の兵備を確認するようにお伝えして。主上は防戦から交戦の意志を強めらるはず。なんとしても殿下の亡骸を取り戻すおつもりに違いないわ。相当乱心しておいでです。夏悠王が交戦にならないように策を謹上するとさきほど聞いたけれど、どうなるかは私にも読めない」
交戦となれば田畑に杭を打ち包囲網を敷かねばならない。土地は荒れるし霊木からの恩恵に陰りを感じる昨今民草が指示に従ってくれるかどうか。どんなにアシュタルからの攻勢があろうが、清浄な土地を血で汚してはいけない。アシュタルを牽制する防衛姿勢を変えて血の穢れを受け入れるとしたら国が混乱する。
「主上のお気持ちは、わかる」
「いつでも憧れにだけは盲目ね」
「アワブキ妃あなたはもう、書記官の娘の璃茉ではないのだから、個人感情で判断すべきではない」
「よく、よく分かっていてよ。では話しはここで終わりにしましょう。蘇門第三候子叔善殿。あなたが後宮の最奥まで響く不満を撒き散らすものだから顔を立てて面会してあげたの。感謝して欲しいですわ」
絹の生地が擦れる音がして、アワブキ妃が立ち上がったことを理解する。
蜜の香りが遠ざかっていく。伯善は視線を床から離せなかった。
──今でもその床の美しいモザイクの色を、伯善は覚えている。
亡骸のない冬清王の陵墓に両膝を付き、目標であり理想を失った悲しみから、弔いのために髪を短く揃えた。
冬清王が叶えられなかった国の正しいあり方を模索し、蘇門候継子である兄を支えるために、政治の道を深めた。
蘇門候継子であった伯善の兄は、防衛線でアシュタルの護国卿に命の花を散らした。
なし崩しに伯善が後継者となった時、夏悠王──いや、この頃には慈悲王と呼ばれ圧倒的に支持された幽達の代行執政によりアシュタルとの交戦は終わった。
時世は冬清王から夏悠王幽達の掌握するものとなった。
蘇門一族は夏悠王によって領地の三割を手放すことになったが、アワブキ妃が宮中で夏悠王とうまく関係を築いているおかげでそれ以上の干渉はなかった。夏悠王の政治判断は恐ろしく早く、夏の日差しのように鋭かった。戦時中の花守山においてその迅速な判断は民草に熱狂的に支持されたし、彼は国主に並ぶ仙人としての才知を持って、霊木の全盛期再生を約束した。
彼にはそれを実行するだけの能力と、揺るがない自信があった。
これまで冬清王の影に隠れ、ただ第一王という名前だけを知られていた者とは思えぬ手際を、伯善は警戒していた。
彼は優れた政治家であるがあまりに残酷すぎる。伯善の慕う冬清王は一粒の命も削るような政治を提案しなかった。慈悲王は違う。一粒どころかそれ以上の命を削っても、国家全体を強めようとしている。
恋慕や哀愁を持たず、ただ存在する命というものに悲観し、道具として見ている。
愛は間違いを犯すだろう。だが同じだけ生きる原動力になるものだと伯善は思う。彼にはその感情が見られない。銀色の瞳は冴えすぎて揺らぎひとつない。目的のために流れる血の色も嘆きも、目的の先にある平和のために必要なことだと切り捨てる独裁者の目だ。
それは王道ではなく、覇道である。
長く国主に仕え続けた名門蘇門一族には、受け入れがたい苛烈さだった。その警戒が正しかったことを示すように、慈悲王は失脚し追放された。
その後アシュタル国交の再開、国主の乱心からのニヴルヘイム襲来による立て直し、蘇門候補佐としての日々が多忙を極める中、伯善に新しい希望が生まれた。
シロツメ公主が嫁いだアシュタルの宰相ヴルム。
話し方目つき、鳥人であるため異なるが伯善が記憶していた冬清王そのものだった。慈悲王幽達の計略による『産み直し』というアシュタルの秘術を用いた、冬清王の写し身なのだという。
理想の政治を彼の元で行いたいと願った思いが沸き立ってくる。
形を変えてしまっても、冬清王の魂は失われず、妃であるシロツメ公主を側に置き完璧に成立しているように見えた。
遠くから尊い二人の姿を見かけるだけで伯善は心が潤った。
国主が崩御し諸侯による共同国家管理が行われていた時にも、何度もアシュタル宰相を国主へ推挙すべきだと訴えた。
宰相とシロツメ公主の間にはすでに四人の子供がいる。宰相職をその子らに譲り、魂の故郷である花守山に戻ってきてもらうことこそが本来あるべき姿なのだ、と。
伯善の考えをよそに涼華候宇航が慈悲王の一子を養子にし、国主として擁立してきた際には、激しく政治的対立をした。
血統としては正当性はあるが慈悲王は叛徒の王であり、伯善にとっては冬清王を虐殺した当時者であるから容認できるわけがない。だが蘇門には、アシュタルという国家の後ろ盾がある涼華候宇航を押さえる力はなかった。やっと蘇門一族が得られた宮中官職は皮肉にも、冬清王と面差しの似た第ニ王潤天の従者職であった。
世捨ての第一王を容認し、第ニ王が国主の器であると言われ続けていたことを思えば、次代の国主の側に使えるという栄誉は好機であり、国主に蘇門の価値を正しく認識されているという喜びはあった。だが潤天の血統には蘇門の血は含まれず、涼華領の大きな懐の中にいることは変わらなかった。
宮中の立場が狭まる中、蘇門に追い打ちをかける報告を受けた。
セッカ統月がアルテファリタ執政官の伴侶となり、国を離れたという。伯善の中で暗い感情が溢れた。
主人を守れなかった従者が、セッカの号を持ちながらも国に奉仕せずに他国に籍を移すなど──
「考えられない」
まるで罪人を駆り出すように屋敷へやってきた伯善に、アワブキ妃──すでに寡婦となり、アワブキ夫人と称される璃茉は首を傾げた。
「統月が幸せになるのがそんなに嫌なの? どこまでも心が狭い嫌な男ねぇ」
「そうじゃあない。セッカだ……国のあらゆる叡智を得て称号を得た男が、国を捨てるなど蘇門の恥だ!」
「捨てるなんて大げさね…アルテファリタに行くのと中央に行くのなら、アルテファリタの方が近いくらいでしょぉ」
「距離の話しではない」
「国の損害に繋がるような行いはできないわ。統月は真面目だから…おばかさんだから、ちゃんと主上に誓約を打ち込んでもらってる。ただ愛する人の側で生きたいだけなのよ。それだけの働きをおばかさんはちゃんとしてきた。国家理想の栄誉から外れても、きちんと自分の理想を歩いていけているんだから」
刺繍をする手を止めて、アワブキ夫人はやっと伯善に椅子を勧めた。
もうふたりを阻む屏風はないが、心の距離は完全に離れてしまった。
「あなたに彼奴を説得させることはできないということか」
「する必要もないでしょぉ? 弟に国家元首の支持者ができてよかったわ。あれほど賢い子は地上どこを探してもいないのだから」
「側に置いておかずともいいと」
「何を気持ち悪いことを言ってるの? 私は弟が才能を最大限に発揮して幸福を得てくれればそれでいいの。前にもお話しましたでしょぉ? アルテファリタは温暖で雪もこちらより少ないのですって、いいわよねぇ。中央も冬が厳しかったわぁ。私、寒いのは苦手よ」
お茶を口にして気持ちを切り替えながらも、アワブキ夫人は伯善の反応に疲れた表情を見せた。
夫である先代国主が崩御し、後宮は開け放たれた。
多くの妃たちは故郷に帰り寡婦年金で暮らしている。アワブキ夫人も故郷である蘇門に戻って若い娘たちに作法を教えたりしながらのんびりと日々を楽しんでいた。
弟からの仕送りもあるのでもっと華やかな暮らしもできたが、堅実な暮らしを選んだ。
華やかな装いをすれば愛してくれた国主のことを思い出してしまう。
「立場あるものには義務がある。一二歳の冬清王妃もそれを理解しておられた。その結果和平が導かれたのだ」
「統月は王族じゃないし、シロツメ公主はアシュタル宰相夫人で冬清王妃じゃないわよ」
「セッカは特別だし、シロツメ公主は冬清王妃だ」
「うるさいわねぇもう。世捨ての寡婦の余生に世事を持ち込まないでくださる? ナズナもそうよぉ、あなたもそうなのぉ」
「ナズナ?天馬の出のナズナ公主がどうかしたのか」
「どうせあなたの耳にもすぐ入るでしょうからお伝えしますけど、主上に花の妖精格を得て妃として働いてもらえないかと誘われているの。公主不足で公務が滞っているんですって。主上は妃を国妃以外お持ちになるつもりがないというから、実質シラユリ国妃と妹のマツリカ公主で行っていることになるわけで」
「シラユリ妃にははやく次の子を産んで欲しいと諸侯からも要望を出しているが先代の妃たちを招集するとは」
「いい案じゃないかしら。 別に夫婦になるわけでもないしぃ。職業お妃様よ。ただ私みたいに隠居したいって夫人たちはお断りですけどねぇ」
アワブキ夫人は顔を上げて姿勢を正すと、伯善をきっと睨んで続けた。
「私の言っている意味がおわかりかしら? 政治の話しとはもう私は無縁なの。弟を公人として批判するのは結構だけどぉ。それを私の前でいう必要はなくってよ」
「夫人、だが蘇門は……」
「お下がりなさい。私は先代国主のアワブキ妃璃茉。寡婦の身であっても、あなたが対等に口をきける相手ではない。あなたと私の間には、永遠に屏風が立てられたままであるということを忘れないように」
「私は五年の内には蘇門領仙になる。先代の妃であっても領民であることに変わりはない。賢い夫人の口の聞き方とは思えないな」
「──ばぁや、お帰り頂いて」
アワブキ夫人は老齢の女中を呼ぶと、礼もせずに部屋の奥へと去って行った。
「璃茉…」
口では拒否をしているが、アワブキ夫人はアルテファリタに渡った弟の立場のために国主に力を貸すに違いない。これまでは国内の権勢だけに気を配ればよかったことだろうが、これからは違う。
アワブキ夫人の弟がアルテファリタの執政官の伴侶になったのならば、問題がおきたときアワブキ夫人はこれまで以上の判断を求められる。求められる前に命を危険に晒す可能性さえある。
いつでも、彼女は弟によって人生を狂わされている。
「また、中央へ赴くあなたを見るのか」
あなたは鼻で笑うだろうが、私に定められた運命はあなたを国主の妃にと見送った時に狂ってしまったのだ。
だからすべてを正しく戻せる力があるのなら、私はなんだってする。
この白き清浄なる花の国を、今一度浄化して、あるべき国の定めを紡いでいく必要があるのだ。
この時すでに伯善の思考は、存続しようとする霊木の自己保護機能──雨月の残留意志によって歪められていたが、誰ひとり伯善の孤独に絡みついた意志に、気づく者はいなかった。