その蔦が屋敷を覆うまで「こんにちは」
それは凪が普段セルペントへ投げかける挨拶とは異なった。
佇まいに変化はなかったが、目は金色の縁取りを得て光の粒子がうごめくように流動している。
「あぁ、大丈夫──いや、大丈夫ではないのだけど、直接現世で強い縁を結ばねばならなくて、借りたのだ」
聞き取りやすい花守山の言葉は、凪の話す言葉と違う。
凪は父親の花守山南部の訛りが少しあるが、目の前の凪の姿をした「もの」はゆっくりと、聞き取り違いないように話す。花守山中央の国主一族たちが使う言葉だ。
それだけでセルペントはそこにいるものが何であるかすぐ推測がついた。
彼の主である叡智が常に心の端に懸念として残す霊木の新しい人格、冬清王潤越他ならない。
「わが叡智は別棟で賓客対応をされておりますが、火急のご用事か、霊木の君」
「察しが早くて結構。いや凪の器といえどあまり長時間占領はできない。5分がいいところだから、手早く済ませたい」
彼が従者であるセルペントに、セッカや執政官を通さずに関与する理由は何一つ思いつかなかった。
凪を媒介にしてくるあたりで、すでに何か作為的なものを感じさせる。
反射的に一歩だけ後退すると凪は優雅に微笑んだ。
「──叡智の果実の守り人、我らの願いに応えてくれたまえ」
アワブキは日傘を回しながら、自宅へ歩を進めていた。
アルテファリタの暮らしも随分慣れた。老師の家と呼んでいたアルテファリタの仮住まいは、今は自宅と呼ぶことを誰も否定しない。邸宅には夫を慕う学生たちが代わる代わる訪れて、開かれた場所であることはアワブキの気持ちを常に明るくさせた。人生のほとんどを閉ざされた後宮で暮らし策謀をもって生きてきたからだ。
後宮という特殊環境でも自由気ままにやっていた自覚はあったのだが、その枠すらここでは窮屈だったのだと思うほど開かれていた。
中でもアルテファリタにやってきて一番楽しいのは買い物だった。
アワブキは人生で買い物というものをした回数が両手ほどしかなかった。買う必要のあるものは花守山にはなかったのだ。
花守山で寡婦として暮らしていた時も贅沢をする気にはならなかったし、侍女が細かな生活の対応をしてくれたので、自分の手で買い物をするという経験が乏しかった。
こんな楽しい経験をこれまでさせてもらえなかったなんて。
アワブキは後悔は無駄なことだと自分に言い聞かせてきたが、これだけは後悔に値すると思った。
同居人たちの好きなものや気分を聞いて、食事に必要なものや嗜好品を選んで過不足なく買う。
口にする時、手にする時の喜びようを考えながら使う時間のなんと楽しいことか。
今日はその買い物を満喫して夫と楽しむ寝酒を選んできた。揃いのグラスは先日ふたりで時間をかけて選んだ。新しい夫は一緒に選ぶということを大切にしてくれた。
屋敷の屋根が見えてくる。
あと何年かすればふたりの結婚に際して植えた葡萄の蔦が屋根まで届くだろう。
傘の合間から差し込む陽射しと海風が心地よくアワブキは目尻を下げて微笑んだ。
「アワブキさん!」
自宅から見知った学生が飛び出して、アワブキの気持ちに反した絶叫を投げかけた。
「教授が倒れられたそうです。急いで公邸へ」
目眩がした。
しかしそれも数秒で気持ちを立て直し仔細を聞く。動揺していた他の学生に留守番を頼み公邸へ向かった。
セルペントはアワブキより年上で、高齢である。
そしてアルテファリタの民の寿命が尽きるのは、花守山より早い。
百歳を余裕とする花守山の民に比べ、アルテファリタの民はそこまで生きるのは稀だ。
結婚の話があがった時に、彼が一番気にかけていたのも年齢だったという。
大して長く共にいることもできないのに、また伴侶を失うようなことを彼女に架すのは残酷なのではないか。
彼はそんな迷いを秘めていたと彼の後継者から聞いた。
そんなこと、思いを交わさずに終わってしまうことに比べたら何も辛くない。
そして
「私のいないところで逝かれてしまう方が、もっと残酷よ老師」
アワブキは案内するフォリオと共に入室した。
すでにセッカの姿はなく静かに眠る彼とその隣で同じように並んで横になる凪の姿があった。
「兄様も一緒に倒れていらしたのです。外傷はなく、意識もこの通り」
アワブキはベッドに寄り腰掛けると、両手を広げて凪を抱きしめた。
「よかった。あなたに何かあっては弟とヴィトロが悲しんでよ」
「申し訳ありません、何があったか記憶がなく。ただ……強い干渉があった形跡が」
「干渉の…形跡?」
アワブキが首をかしげると、フォリオはメガネを外して兄とセルペント双方を見てから再度メガネをかけた。
「霊木の強い干渉痕が残っているように見えます。兄様は割とよくついていますが、おじじに残っているのは、はじめてみます。おじじは霊脈管理者ではありませんしこの類のものを正確に捉える能力はないと聞いています」
「どういうことなのぉ? もしかして老師ったら足を踏み外して霊脈に落ちたりしたのかしら」
「公邸表層にそんな危険なところはありません。外部からの攻撃であったならそろそろ布告を出されていてもおかしくありませんがそういう気配もありません」
説明する凪を抱きしめる腕を緩め、アワブキは意識を取り戻さないセルペントの側についた。
「ではただの…事故…?」
息はあるし顔色も悪くない。ただ意識がないだけだ。
「おばかさんは何か言っていて?」
「お心当たりがあるようでしたが、ひとまず周囲には過労かもしれないと言っていました」
「凪と仲良く揃って倒れたっていうの? おかしいじゃない……でも私が口を挟むべきではないわね、ヴィトロもおばかさんももう目算をつけて動いているころでしょうから」
私は私の役割を果たしましょう、とアワブキは身を乗り出しセルペントに触れた。生者の反応が返ってくる。それだけで安心できる。アワブキは夫の手袋越しの甲を掬い上げて、安堵の口づけをした。
「────んまぁ…こんな美しいお姫様のキスで、目を覚まさなくてよ。不遜な方だわぁ」
こんな時にも場を和ませようとする叔母に、緊張気味だったフォリオは頬を緩めた。
「叔母様が昔読んで下さった絵本では王子が姫にキスだったような気がします」
「……学生から一報を聞いたとき、心臓が止まってしまうかと思ってよ」
「顔色が悪いのはお兄様の方です。たまに長く霊脈に潜りすぎて向こうで昼寝とかしてしまうとこうなります」
「んもぉ…男どもはこれだから」
「いやフォリオ、叔母上、誓って昼間から寝るなどという事はしてなかった」
「夕方お父様がまた見に来てくださるそうですから、それまで兄様もおじじもここで休むようにと言われていました。私は護衛官としてそれまでここで、ふたりをお守りします」
これだけ騒いでも、セルペントはぴくりともしない。ただ深い深い眠りの底に沈んでいる。
夕刻、弟夫妻にセルペントを動かさない方が良いと言われ、アワブキははじめて公邸に泊まった。
凪はフォリオと部屋を出たので、甥の眠っていたベッドに腰をかけ、ひとりきりになってはじめてため息を漏らした。
──私に延命術が使えたのなら。私の命を貴方に分ける事ができるのに。
何度も去来した叶わない思いを零しながら、今はただ寄り添うことしか出来ない。
──このひとがいなくなってしまったら、私はアルテファリタにいていいのだろうか。
まだ何も彼のことを知らない。最近やっと彼が学士院で教授という立場にいて、国の知識の長であると知ったばかりだ。
知っているのは、出会ってから繰り返される日常の中でのセルペントだけ。
私はこの方の、何も知らない。私のこともこの方は何も知らない。
投げ出されたままのセルペントの手を掬い上げ、アワブキは力の限り握りしめる。祈るように夫の手を包み込んだまま、夜は更けていった。
朝、先に目が覚めたのは、セルペントだった。
現状をすぐに把握はできなかったが、霊木の意識体が凪の器を使って表面化し、強引に自身に干渉をしてきたのは覚えている。
さて私に干渉して一体何をするつもりか。
我が叡智の君に徹底的に身体調査をしてもらわねばならない──
考えながら身体を起こそうとしたところで、左手に重さを感じ視線を投げる。
そこには妻がいて手を握りしめたまま眠っていた。
「瑠──」
「おはよう、セルペント教授」
気配はないのに声がかかり、セルペントは注意深く左右へ意識を投げた。
目視はできないが、声はたしかに手の届く範囲から湧き上がっている。
目覚める前に聞いた流麗な花守山の発音と一致する。霊木の意識体、冬清王潤越であると理解する。
「具合はどうかな。二十歳くらいは若返ったんじゃないかと思うのだけど」
「霊木の君──これはどういう」
「うん。詳しくはセッカに聞けば御高説もらえるだろう。君に延命術を施した。霊木経由だから強烈で君の肉体年齢は二十数歳、若返った」
「何のために」
セルペントの率直な感想に潤越は軽やかに笑った。
「これまでも遠隔で延命術をしかけていたんだよ。最近調子、よかっただろう? だけど肉体年齢までどうこうしようとするとさすがに間接的には無理でね。君に期待している、そのための前払いだと言えばいいかな。対価はすでにアワブキ妃が支払ってくれている」
突然出てきた妻の名前に、セルペントは語調を強めた。
「瑠茉に触れないでいただきたい」
声だけでどこにいるのかも分からない相手にセルペントは一喝したが、潤越は怯む気配はない。
「大丈夫、君と違ってアワブキ妃は本当に普通のひとだからね……私が直接干渉などしたら発狂して廃人になってしまうよ。対価というのは、彼女が先代国主に尽くした礼節と寿命だ」
「彼女の命を削って私に与えたと」
「そうだよ。かつて我が兄が、父の最愛の妃の命を吸い上げて行った延命術と同じように」
と言っても君たちアルテファリタの民の寿命と、花守山の寿命は異なるからと潤越は説明しようとしたが、周知のことだろうと続けなかった。彼は一瞬で計算を済ませただろう。
二十歳ほど若くなったということは、単純計算でアワブキの寿命は約八十歳まで短くなった。
彼女は五十をすぎているので、残された寿命は三十年ほどになる。
「それは彼女の許可は得てのことでしょうな」
「アワブキ妃に直接聞いてご覧。いやぁ、あれだけの干渉に対して一晩寝ただけでよくここまで回復し喋れるものだ。凪は明日まで筋肉痛だと思うよ。おや、怒っているかな」
感情を言葉にできずにいるセルペントに潤越はどこか高慢に、そして小さな命を見下ろすように静かに続けた。
「縁ができたことだし、叱責の続きは夢の中でお願いしよう。セルペント教授」
それきり右を見ても、左を見ても朝日が差し込むばかりで何の気配も発生しなくなった。
一方セルペントの声でアワブキは目を覚ましたようで、寝ぼけ顔を上げ、視線が定まった先にあるセルペントの変化に目を白黒させた。
「んまぁ…どなた…かと……思いましたけれど…老師ですわよね?」
自分が握りしめた手がそのままであるので、手品でなければ入れ替えなど起きる訳がない。
「昨晩ぴくりともなさらなくて、心配しましたのよ。私の命を削ってでも老師が生きてくれたらと願って眠りましたの。そうしたらこんなに、あらやだ私、延命術が使えないのではなくて天才だったのではなくて…?」
アワブキは頬にバラ色の喜びを差し、手を伸ばしてセルペントの頬を包み込んだ。
年季を刻んでいた皺は伸び、初めてみる顔のようにも、何十年も見つめてきた顔のようにも思えた。
朝日を受けて瞬きする明るい金色の目を心から愛おしいと思った。
生きて、目を開いて、自分を映してくれることに心から感謝する。
「驚かれたのではありませんか、これは延命術と言って、卓越した仙人は肉体年齢すら引き戻せる───」
セルペントはアワブキの言葉が終わる前に細い身体を引き寄せて抱きしめた。
頬に添えていた両手は胸元に彼の頭を収めた状態で宙に浮いたので、アワブキは一瞬黙した後、ゆっくりと腕を折りたたんで抱きしめ返した。
「私はここにいますわ、何も怖くなくてよ」
「貴女は後悔をしないか」
アワブキはこれまで何度も自分に言い聞かせてきた言葉を返した。
「わたくし、後悔は嫌いですわ老師。楽しみは逃しませんのよ」
セッカが朝の往診に来たが、入り口で足を止める。
己の従者の姿が若返ったように見えたからという理由もあるが、なにより野暮すぎると踵を返した。
セルペントに残されていた金色の粒子の濃度から推察した真犯人に、もう一度呼びかける。
昨日から、何度呼んでも反応がない。
あえて返事をしないようにしているときの気配だと分かっている。意識が戻ったからよかったが、万が一のことを考えていたかどうかわかったものではない。変な所で詰めの甘い男だということをセッカは痛いほど知っていた。
彼はセッカに怒られることがわかって顔を出さないつもりなのだろう。
「あとできっちり説明してもらうからな、潤越」