その色は約束の空と同じで「はじめまして、フォリオ、我が朋友の娘」
光の中で冬清王は、はじめてセッカの娘であるフォリオの形を認識した。
霊木空間とセッカが称した霊脈だまり、霊木の中心点に存在するようになってからの冬清王は、地上の存在こと霊的素養のないその他大勢の人間をひとりひとり認識することはできなかった。
下手に認識して注視などしたら霊木の力が摂理に反してその個体に影響をしてしまう。
一時的には喜ばしいことかもしれないが、霊木に親密に関わる者はすべからく不幸になる。
大きすぎる力は素養のあるもの以外が扱うべきものではない。そういうフィルターが冬清王に備わっていたが、フォリオという小さな魂を汚染した以前の霊木の人格はそうではなかったようだ。
「返事もできないか、そうだろうね」
意識に少しでも揺らぎがおきれば、潰してしまいそうなほどに繊細な魂だった。
シャボン玉のように脆い。
それでも弾けずにいるのは、冬清王が維持できるように注視しているからだった。
霞公主がいたとしたら、彼女の跳ねる一歩で弾けてしまうほど脆い。
彼女を霊木空間から切り離したのは、ある意味で正解だった。
「まずは君の魂を安定させねばいけないね」
冬清王はフォリオの兄の凪のことはよく知っていた。おかげで魂の輪郭は見知っているので安定化のハードルは低かった。
兄の凪は霊的な素養が高いため、遊びにくる感覚で、かつてのルゥルァのようにここへやってきた。肉体と魂の切り離しも器用にこなす才能があった。
妹の方はいまこうして手のひらの上にやってくるまで、一度も認識したことがなかった。
セッカ、ヴィトロ、凪──執政官一家の3人と触れ合っていた冬清王にとって、唯一未知の命だったフォリオ。
やっと縁が結べたね、と言う言葉は望ましくはないかもしれない。彼女が自分をどう捉えていたかはわからない。もしかしたら嫌悪していたかもしれない。
家族の中でたった一人、理解できない「トウセイオウ」「ジュンエツ」という存在は、疎外感を覚えさせるだけの、気に入らない存在だったかもしれないのだ。
セッカとしての知識の蓄積、両親に纏わる歴史を紐解いていけば、フォリオであれば存在の意味を理解して──そして、自分には届かない場所の、知るべき人ではなかったのだと、そっと視線を落としたに違いないのだから。
「なんて繊細で、脆い魂。普通とはそう、こうだ」
撫でることもできない。吐息をかけることすら危ぶまれる。
だがそれゆえにとても愛おしく思えた。
王として名も知らぬ民草の命と財産を守る宿命を貸せられていた、冬清王として生者であった時代の懐かしさに心が震えた。魂の浄化などという未知の技を成功させることができるかは分からないが、それでも引き受けたのは霊木としての過ちを、抗う術のない乙女に背負わせるにはあまりに酷だと思ったからだ。
冬清王は雨月に汚染された最初の個体であったので彼の思考を理解している。
セッカ・フォリオと名乗った少女。
その存在だけで、雨月という人格は反応せざるを得なかったのだろう。
かつて奪われた最愛のひと、雪花という乙女は何があっても自分の手元におかねばならない。
そうしなければ世は乱れていく、これまでもずっとそうだったと、狂った獣のようにして依代の伯善を突き動かした。
セッカでなければ、ここまで徹底的に、残酷な傷を残されることもなかっただろう。
彼女はセッカであることを手放さなかったがために、死を招いたのだ。
「でも君にとってセッカとは、大事なものだったんだね。父親の真似でもなく、君が家族や友人を守るために、君が強くあるために、絶対に手放せないものだったんだね」
返事はない。
冬清王もまた期待せずに、小さな魂を見つめていた。
雨月によって霊的に切り裂かれた魂は無残なものだった。
葉を全て落とされた、一輪の花に等しかった。
光合成をする手段を失い、雨風に晒される花。
いっそ枝からぽきりと折って終わらせてくれればいいものを、雨月という男はそうしなかった。
雨月人格を消滅させることができなかったら、フォリオは壊れていく様を鑑賞され死に霊木の機能として永久に使い回されたに違いない。
その危機だけは回避できたが、傷は残った。
フォリオが夜光と呼ぶ愛した人は、生きるすべを失ったフォリオを守り続けた。
できるだけ呼吸ができるように、風は冷たくないように、花の前から一歩も動かずに水を与え、声をかけ続け、花弁が1枚、1枚落ち、花が地に落ちるまで目を逸らさなかった。
。
「ずっと一緒にいたいよ、結婚しよう。約束は出来なくてもいいから、俺のしるしを持っていて」
枯れ落ちた花には、その印を受け取る葉も枝も心細かった。
それでも彼を愛し応えたい気持ちで刻まれた印は、時には生きる希望にもなり、痩せた体に寂しく輝いた時もあっただろう。
むき出しの魂がふいに冬清王と波長が合うたびに告げてくる。
彼を愛しているのだと。
涙を見せてはだめだ。去るしかない女が、彼を縛り付けてはいけないんだ。終わる時がきたら気持ちを切り替えられるようにしてあげるのが私が彼にできる最大の贈り物のはずだ。
彼の優しさが嬉しい、彼のぬくもりが愛おしい、他には何もいらない、何を失ってもいい、彼と生きていきたい。
ぶつかり合うふたつの気持ちを、ままならない身でフォリオは抱き続けた。
できることは彼の暖かさに甘えさせてもらうことだけ。
それだけはどちらの自分も許せるたったひとつの許しだったのだ。
冬清王は浅い眠りから覚めた時、同調して自らの銀の瞳から流れる涙を指で擦った。
「春玲のことを思い出してしまったな。人の心はどうしてこう、複雑で愛おしいものなのだろうね」
修復するには冬清王自身の采配だけでなく、フォリオ自身の対価も必要になった。だが魂が持つ対価とは記憶しかない。幸い彼女は勉強熱心で、努力家だった。
セッカとしての膨大な知識は十分な対価になった。
選んで修復の対価にすることなどできないが、夜光は潤天を経由して冬清王に「なら俺の記憶を消していいよ、帰ってきてくれるなら、また最初からやり直すから」と伝言を頼んだという。
最終的にどの記憶が残されたかを冬清王は確認することはできなかったが、花嫁を思う夜光の望みは叶わなかった。
寝言のように魂が響かせる音は、最初から最後まで、一環して愛する男の名前だったからだ。
夜光の記憶が残ったのは、ただの偶然だろう。
フォリオはもちろん冬清王も選ぶことはできない。
だが結果そうなったことで、導き出されることはある。
セッカとしてのすべてを失い、命を賭して守りたかった親友や仲間、家族との思い出、故郷のひとたち全てを失っても、伴侶が残されていれば紡ぎ出せるものがある。
未来だ。
「君は霊木の人格たる私によって形を作り直された。現世に舞い戻る事ができても、霊木に近づき過ぎた魂は不幸を招くに違いない。それでも、君にはもう一度、何も背負わずに女性として、花嫁として生きる権利がある」
「指輪の…形をしていますね」
魂が安定し、息を吹きかけても弾けなくなった頃合いで、冬清王はフォリオの母親であるヴィトロと再会させた。
フォリオは会話ができないし、ただ今の「あり方」を共有するだけの場だったが、ヴィトロは再会を望んだ。
「夜光君からもらった指輪だそうだ。概念として丈夫なものであれば何でもよかったんだけど、より思いの強いもので、魂をコーティングして維持したかったからね」
「そうですか、とてもきれいです」
「霞公主が君に変な刺激をしたそうだね。お母さんだなんて呼ばれて心をざわつかせてしまったとか。悪い子ではないんだ許してあげてくれ」
「フォリオの体を維持してくれているんですから、怒る筋合いはありませんよ」
冬清王は軽く頭を下げてから、話を変えた。
「母親の君には先に告げておこう。魂を無事戻すことができたとしても、フォリオは君を母親だとは認識できない。家族の記憶はおそらくすべてなくなってしまった」
息が詰まるような静寂があって、冬清王は続けた。
「記憶はおそらく戻ることはない。対価として焼却されてしまったからね。つまり、君たちの知るフォリオとは言い難い。セッカや凪への伝言は君からお願いするよ」
「それでも──」
「うん?」
「それでもフォリオが、生きていてくれるなら、私は何だってします」
「頼もしいね。フォリオは、この小さな魂は生きることを望んでいるよ。帰りたい場所がある。続けたい物語があるんだ」
「そうです。まだ、ただいまという言葉を聞いていないんですから」
「私もこの魂に幾つもの学びを得た。当たり前過ぎて、忘れてしまったことを。だから魂が帰り着けたら、祝福を与えたいと思う」
「祝福、ですか」
「兄の記憶を失う代わりに、兄の名前を冠した術を」
*
「帰る。さらばじゃな藍暁。お主も幸せになるといいぞ」
霞公主がそう言って藍暁の腕にもたれ掛かり、お姫様だっこくらいサービスするんじゃ、と無垢なワガママを言ったあと、まるで突然眠りに落ちたかのように問いかけに答えなくなった。
藍暁の腕にかかるフォリオの身体の重さに黎明の記憶が呼び覚まされる。
差し込んでくる朝日が宵闇を払いながら、フォリオの命を旅立たせたあの朝の景色を。
「霞公主、おい」
揺さぶるが返事はなく、だらんとフォリオの腕が藍暁の腕の隙間から落ちた。
力なく垂れた手は握りしめても反応はなく、藍暁が、ルマが、夜光が経験した別れをフラッシュバックさせる。
「おい!」
奇しくも尋の草原、少し歩けば残酷な朝を迎えた丘が近かった。
「どうなってる。霞公主がいなくなったら、琳華の身体は…」
外套で身体が冷えないように包み、己の熱を身体に分けるように密着させる。打ちのめされる事が分かっていても、震える呼吸を呑み込んで、フォリオの唇に耳を寄せて呼吸を確認する。
まだ少しだけ暖かい。純粋で無垢な公主の気配があったが、呼吸は止まっていた。
ぎゅっと眉を寄せ、焼き千切れそうな意識に、ふと暖かさが触れた。
意識だけでなく、頬を擦ったのはフォリオの唇だった。
音にならず、唇だけが動き、その形が『自分』を呼んでいると藍暁は気づいた。
3回、ノックするように動く唇。
うっすらと開いた若草色の目からは、生理反応なのか涙が溜まり、目尻から落ちていく。
もう一度、唇が音を伴わずに『や』『こ』『う』と単語を作る。
「霞……公主?」
それだけで開いていた瞳もまた閉じてしまうが、浅い呼吸を感じ、体の熱は失われていく気配はなかった。霞公主は夜光と名を呼ぶことはない。
ならフォリオの唇を動かしたものは、たった一人しか考えられなかった。
「琳華……?」
藍暁はフォリオを抱き上げて草原を駆けた。あまりに急いだものだから、途中足を取られそうになる。
「りか……りか、りか、お願いだ、琳華」
君だと言ってくれ、君が帰ってきたのだと。
「琳華、あいしてる、君だけをずっと」
空はすみれ色に染まろうとしていた。
家々の灯火と共に、薬草の焦げるような香りを風が運んでくる。
尋の香りが闇に包まれようとしても、ふたりには及ばなかった。
宵闇の刻に、皓皓と冴える月のように二人は輝いていた。