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    オメガバこもすなのその後を個人で妄想した まあ三次創作に近い

    タイトル未定角名が幸せならそれでいい、そう願っていたつもりだった。ついに代表候補にも選ばれたあいつがΩだなんてやっぱり信じられない。ツムの話はあいつが寝ぼけて聞き間違えただけなんちゃうかって、そんな気持ちにさえなった。でも、少なくともひとつ確実に言えること。
    いま、あいつの努力と活躍を支えているのは俺ではないということ。
    俺がお前を支える。ほんの数年前は純粋にそう信じていた。でもその役目は俺のものではなかった。素知らぬ顔をして告白をする勇気はなく、そんなことをしてあいつの人生を乱すつもりなど毛頭なく――でも俺の中では確実にバースに対する嫌悪が膨らんでいた。
    透明だったはずの雨はいつの間にかすっかり濁って俺の心をどす黒く染めていった。
    気づけば角名をどうやって手に入れるか、そんな妄想にズブズブに沈んでいる時がある。それに気づいてもうダメだと思った。
    角名とちゃんと話さないと、俺がおかしなる。

    BJとの試合会場への出店はすっかり定着した。店も軌道に乗っているから、ここ最近、会場の方はアルバイトに任せて店に専念することも増えている。今シーズン2回目のBJとEJPの試合は日曜日。土曜の今日はEJPが第一試合で、BJは第二試合だ。メイン業務はアルバイトに任せることにしていたけれど、俺も会場に出向いた。

    午前の終わり、設営をしているとEJPのメンバーがやってきた。その中に角名もいた。相変わらず少し猫背で覇気のなさそうな雰囲気を醸し出している。でもそれは最初だけ。ひとたびエンジンがかかれば羽が生えたみたいに軽くてしなやかな動きになる。そんなことを俺は知っている。ずっと、見ているから。アップをとりながら時々話しているのは、あいつ、ルーキーやな。猿杙凪斗。代表でも一緒のやつ。俺、角名の表情だけやなくてEJPのメンツにもやたら詳しなっとるな。猿杙が何やら耳打ちすると角名は少し顔をしかめ、猿杙にデコピンした。でも本気で怒ったんではなさそうで、痛そうに顔を歪めた猿杙の顔を覗き込んで少し笑っている。あいつと仲ええんや。
    ちらり、角名から目線を別のところに向けた。見たくないと思っていても勝手に目が追ってしまうのだ。EJPでもっとも代表経験が長いそいつは角名たちとは離れた場所で対人パスを続けていた。試合の時に見せる明るさとは少し違う落ち着いた雰囲気。その瞬間にベストを尽くせるよう、静かに爪を研いでいるように見える。
    アップが終わり、選手はそれぞれメインアリーナを後にしようとしていた。そこに近づいて話しかけた。
    「角名」
    「あっ、おさむ。久しぶりじゃん。今日はこっちきたんだ」
    あ、俺が最近会場に来ていないことを知ってんのか。知らんやつが見てもわからんやろうけどこの表情、こいつ笑ってる。うれしそうな顔の部類やこれ。俺にそんな顔してくれんのか。緩みそうになる頬を引き締めて平静を装った。
    「おん、久々に見たいし、試合。……なあ、ちょっと話できへん?」
    「あ、うん大丈夫だよ」
    軽く頷いた角名がちらりと視線を投げた。その先にいた相手もまたちらりと角名を見ただけ。自然すぎるアイコンタクト。角名があいつと過ごし育んできた空気。たった一瞬でそんなものがすべて伝わってきて、緩みかけていた心が一気に冷えていく。
    「そんならちょっと、むこうで話そか」
    低く掠れた声が出て、慌てて咳払いをして誤魔化した。

    控室とは逆方向の廊下に出て、奥に進む。こちら側を今日は使う予定がないらしい。人気のない廊下はシンと冷えていた。
    「どしたの?なんか大事な話?わざわざこんなとこまできちゃって」
    角名は無垢な表情を俺を向ける。俺が持つこんなどす黒い気持ちなど知る由もない。だから自分の吐き出した言葉は、この無垢な白い花に泥をかける行為のように感じられた。
    「おまえ、Ωなんか」
    いきなり投げつけられた泥水のような言葉に角名の表情が凍る。目を見開いて固まった。
    「……え?」
    「古森くんと番になったんやて?」
    きっと角名は、俺がその事実を知っているなどと露ほども思わなかったのだろう。そしてそれを俺に知られたくなかったのは火を見るよりも明らかだった。やがて絞り出された声は少し震えていた。
    「なんで、知ってんの」
    「あー、前に、ツムがな。遠征中にな、古森くんとお前が電話してるの、立ち聞きしてもーたみたい」
    はくはくと唇が開いて、閉じる。リアクションに困っているとかそんな生易しいものではなくて、衝撃のあまり言葉が出なくなった、そんな風に見えた。ショックを受けた人間は本当にこんな表情をするのだと俺ははじめて知った。Ωだということを、古森と番であることを、そしてその事実がどこまで広がっているのかを――角名が受けたショックはどれだったのか、もしかしたらそのすべてだったかもしれない。いきなり最初のボタンをかけ間違った、そう思った。角名を追い詰めたくてこんな話をしたかったんじゃない。ただ話がしたかっただけなのだ。
    「誰にも言うてへん。ツムかて、多分誰にも言うてへんわ。そやなかったらあいつが俺んとこ来るわけないやろ」
    「ああ、うん」
    漏れ出た言葉にはなんの意味もなかった。
    「いつからなん」
    「え?」
    「いつから古森くんと番なん」
    ただ話がしたかっただけだった。なのになぜ俺の口から出てくるのはどれもこれも角名の心を土足で踏み荒らすような言葉なのだろう。今度ははっきりと躊躇いが見て取れた。正直に言うべきなのか、それともしらばっくれるべきなのか、きっとそんなところ。でもその葛藤は短く、どこかあいつらしい諦めたような表情が浮かぶ。視線が逸らされた。
    「あー、いつだろ、2年目に入る春、だったかな。でもたまたまお互いの利害関係の一致って感じで」
    ああ、嘘やな。瞬間的にそれがわかった。だって、そうやろ。本当にそう思ってるならお前は目を逸らしたりせんやろ。そんな嘘に俺が騙されると思ってんのか?
    「ふーん?でもお前、昔は俺のこと好きやなかった?」
    「……え?」
    「俺が今、お前のこと好きやっていうたら、どーする?お前、古森と別れて俺と番うか?」
    角名は下手くそな笑みを浮かべようとしたけれど、残念ながら全然成功していなかった。
    「なに、いってんの?そんなことできるわけ、ないじゃん」
    「そうか?今お互い割り切っとる言うたん、お前やんけ」
    「あれはそんな意味じゃ……!あいつは俺のために、番に」
    自分の言葉を否定して、古森を庇って。そんな姿に黒い感情がどんどん溢れ出してくる。
    「なおのことええやん。お前かて心苦しかってんやろ?今までありがとう言うたら古森かて喜ぶんちゃうん」
    角名の顔からはもはやすっかり血の気が失せていた。
    「なに、いってんの、冗談キッツイ。無理」
    「なんで?お前なんやかんや言うてるけどホンマはあいつのこと好きなんか?」


    目は口ほどに物を言う、ってな。


    さっきまでの葛藤はどこにいったのか。呆れるほど澄んだ瞳はまるで真実しか映さない泉のように、事実をつまびらかにする。
    ポーカーフェイスが得意なはずのお前の顔にはただ俺への気持ちは過去で、いま見ているのは俺じゃないと、書いてあった。
    それを見て――心に湧き出て侵食していたどす黒い塊が間欠泉のように勢いよく吹き出す。その勢いに任せて角名の肩を掴んだ。
    「そんな、古森がええんか」
    「ちょ、っと、おさむ、はなして」
    角名の瞳が揺れる。揺れる水面に俺の顔は映らない。その表情に煽られた。なんで俺にそんな顔すんねん。俺ら仲良かったやん。いっつも一緒やったやん。肩を掴んだ手に力が勝手に入った。
    「なんでなん、角名。なんで、俺じゃあかんかったん。なんで古森なん」
    角名が俺に手を伸ばす。それは決して俺を受け入れるための手ではない。俺を振りほどこうとしたその手は弱々しく震えていた。さらにその腕を見て、感情が爆発する。
    ジャージからのぞいた角名の腕には鳥肌が立っていた。
    その手首を掴んで壁に押し付けた。角名に顔を近づけると、角名はまるで蛇に睨まれた蛙のような顔をしていた。そこにあるのはもはや隠しようもない恐怖。こんなにお前が近くにいるのに。なんで。
    「なあ角名。なんでこんな鳥肌なん」
    「おさむ、やめ、て」
    切れ切れに紡がれる声は消え入りそうでほとんど耳に入らない。耳に入ってくる言葉も、理解できない。
    「俺が触るのもいやなんか。お前、俺のこと好きやったんやろ。そんなに違うんか、番って」
    「おさ、む、」
    こんな声で俺の名を呼んでほしいわけじゃなかったのに。



    控室にいるメンバー数名の様子が落ち着かなくなった。きょろきょろとあたりを見回す人もいる。βのなかでも、特に勘のいい人たち。そして彼らをざわつかせている気配は急速に濃く立ち込めていった。
    それでもβならまだざわつくくらいで済むだろう。問題は、さっきから姿が見えない人だ。だから、いつも一緒にいる人にその行方を尋ねた。
    「古森さん。角名さんは」
    「ああ、あいつ、外で高校の時の友達と話してんじゃないか」
    なに猿杙、あいつ探してんの?って、まるで危機感のない回答。外。すげえ嫌な予感がする。大体こういう予感というのは当たるものだ。
    「古森さん、気づいてます?これ」
    「ん?ああ、このゾワッってするやつ?んだこれ」
    古森さんは少し眉根を寄せた。やっぱり普通はそんな風にしか感じないのか。しかも一般的に触れることなどほとんどない類の気配だ。
    「これがいわゆるαの攻撃性ってやつです」
    「え?」
    「むしろ支配性ですかね。昔習ったでしょ。むやみやたらに感情をぶつけちゃいけませんって」
    「いや、だから悪かったって」
    古森さんは決まり悪そうな表情をした。でも今言いたいのはこの人がかつて番への独占欲をむき出しにして俺を威嚇してたことじゃない。
    「これ、やばいです。――こんなの、αが一番やっちゃいけないやつです。Ωが食らったらたまったもんじゃない」
    古森さんの表情が凍りついた。そう、そうなんだよ。
    「角名さん、大丈夫かなって」

    控室の外に出て、廊下を走る。空気が濃くなりすぎて気配を追えない。会場全体にこんな空気が広がるなんて。正直尋常じゃない。嫌な予感しかない。
    「古森さん、二手に分かれましょう」
    「おう、猿杙、頼むな」
    頷いて、古森さんと逆方向に走る。でも俺だって今日びこの国でこんなフェロモンの出し方するやつになんて会いたくない。こんなの下手すりゃ犯罪だ。そしてこんな風にαの攻撃性と支配性をぶつけられている人がいる可能性。それが、今ここにいないその人である可能性。
    「なんでやねんなんで俺やったらあかんかってん!」
    叫ぶような声が聞こえて一瞬足が止まった。うそだろ。αの俺が、ビビって足が竦んだ?
    「俺が触るのもいやなんか。おまえ俺のこと好きやったんやろ。そんなに違うんか、番って」
    ダメだ、これは完全にダメなやつだ。嫌な予感はこの時点で確信に変わっていた。この角を曲がれ、曲がるんだ猿杙凪斗。自らの頬を叩いて、踏み込んだ。
    ――壁ドンをしている男。この男。同じ顔の人を俺はよく知ってる。そして男に右肩と左腕を掴まれ壁に押し付けられている角名さん。頭に血が上った。
    「ちょっとあんたうちのエースに何してんだよ」
    男はチラリと俺を見た。その攻撃性が俺に向けられる。
    「うっさい今大事な話しとんねん」
    完全に激情に流されている。一刻も放ってはおけなかった。男の腕を掴んで無理やり角名さんとの間に割って入る。
    「あ?!なんやねんお前」
    男が睨みつけてきて、一層空気が凍った。ふざけんな。俺だってαなんだよ。でもってこのひとの後輩なんだよ。
    「今あんた、何しでかしてるかわかってんの?あんたが巻き散らしてる攻撃力マシマシのフェロモンのせいで会場中パニックだよ。今日ここでまともな試合なんてもうできねえよ」
    「……は?」
    少しだけ表情が揺れた。ここで止めないといけない。
    「しかもこんな間近でΩにαの攻撃性ぶつけるとか、何考えてんだよ。番がいるとか関係ねえんだよ。廃人になんぞ」
    「……攻撃性?廃人?」
    急速にその刺々しい気配が消えていく。それと同時に角名さんは俺の背後でズルズルと廊下に崩れ落ちた。男に背を向け、しゃがみこむ。無事を確かめたかった。
    「角名さん、大丈夫ですか、俺、わかりますか?」
    肩に触れようとするとビクリと角名さんは身体を震わせた。
    「あ……」
    目一杯見開かれた瞳。せめて涙くらい流してくれたらいいのに、意識がちゃんとあるのかもわからない。そして背後からはすっかり殺気が抜けた男の声が聞こえた。
    「……すな?俺、おまえのこと」
    その声にまた角名さんは震える。
    「あ…、やめ、やめて、おさむ」
    後ずさろうとしても背後が壁で、それでも角名さんは必死に逃げようとした。焦りと動揺で男の、侑さんと同じ顔をしたひとの声が揺れる。
    「どないしてん、角名?なぁ、俺、おまえのこと好きなだけ、やねんて」
    「あ、あっ」
    「角名!」
    古森さんの叫ぶ声が聞こえた――そう思った瞬間、ものすごい勢いの足音と同時に俺の前に影が落ちた。
    古森さんは座り込んでいる角名さんを掻き抱いた。角名さんは逃げなかった。でも抱きしめ返したりもしない。ただ、番の袖を弱く握っただけだった。
    「――宮。頼むから。いなくなって」
    古森さんが激情を抑えているのがわかる。感情に流されないように。必死になっている。
    「ここにおまえがいたら、騒ぎになる。できたら会場から離れた方がいい。角名のことは俺らに任せて」
    「いや、でも」
    宮と呼ばれた男が表情を揺らして迷いを見せた瞬間、古森さんは静かに、怒りを押し殺した声でそれを断ち切った。
    「いいから…!俺が殴る前に消えてくれよ。俺までそんなフェロモン出したら角名が耐えられない。頼むから、これ以上角名を傷つけないでくれ。角名のこと、思うんなら」
    それを聞いた男は本当に傷ついた顔をした。顔を歪めて目をぎゅっとつぶって、俺たちに少し頭を下げると一気に走り去る。姿が見えなくなると古森さんは静かに言った。
    「猿杙、すぐスタッフ呼んで、あと救急車」
    「はい」
    「――ありがとな」
    なにが、ありがとうだよ。俺、何もできてねえよ。
    3人が3人とも、三者三様に、打ちのめされているように俺には見えた。
    角名さんと、侑さんの双子。最強ツインズ。高校の同期。あんな風に気持ちをぶつけてしまうほどに好きだったのか。なのに角名さんが縋ったのが、自分ではなく古森さんだったとか。
    そして古森さんは、きっと気づいたんだろう。角名さんもあの人のことを好きだったことがあるって。
    『まあ一応番ってはいるんだけどさ。古森も俺もお互いのことなんて別になんとも思ってねーんだよ』
    角名さん。あの日、あんたそんな風に嘯いてたよな。幸せそうな顔しながらよく言うよ、って思ってたけど案外本人は本気だったのかもしれない。今はじめて、気づいたのかもしれない。
    自分の心も、身体さえもあの男を全く受け付けなかったことに。自分が本当に求めたのは古森さんだったことにも。

    残酷すぎんだろ。



    スタメンが発表されたときのざわつきとため息がやけに耳に残った。

    そりゃあそうだ。EJPの看板選手が2人も出ない。しかもベンチにすら、いないのだから。
    そしてまだこの会場にうっすらと残るαの攻撃性。
    俺たちだけじゃなく相手チームの様子も落ち着かないのは、間違いなくこの空気のせいだった。
    『やめっ、やめて、たすけて!』
    到着した救急隊員が触れようとすると角名さんは錯乱した。
    廊下に座り込んだまま、見開いた目から涙を零して。やがて、はくはくと何度か開いて閉じた唇から溢れ出したのは、番を呼ぶ声だった。
    『……こもり、古森!』
    普段はほとんど表情を変えない人が。多少痛くても苦しくても、何事もなかったように振る舞っている人が。あれが本能で番を呼ぶ声なのか。あんな声で呼ばれたのがもし俺だったら。番じゃなくても、抱きしめたと、思う。もちろん角名さんが呼んだのは番だった。本能に呼ばれただそれに本能で反応しただけだとしても。そこにはただそれしかなかったとしても。古森さんは再び駆け寄って、角名さんを抱きしめた。ただ、ひたすら。そして角名さんはうわごとのように番を呼び続けていた。
    古森さんは角名さんを抱きしめたまま、集まっていたメンバーに頭を下げた。
    『俺、行きます。……すみません』
    ただ、バレーボールをやるために番になったと。それ以上のものはないんだと、そう言っていた。少し困ったように笑いながら、本能と欲に支配された関係だからなーなんて肩をすくめて。でも口ではそう言いながら周りにはお互いのことだけを考えているのが丸わかりだった。その2人がバレーボールができなくなる。そんな理不尽があっていいのか。
    でも、この状況で不謹慎すぎるかもしれないけれど。俺が思っていたのは別のことだった。


    これ以上に純粋な愛なんて、あるんだろうか。


    大荒れの試合は結局3-2で雷神の勝利に終わったが、勝った感じなんてひとつもしない。皆が疲労困憊の表情をしている。
    「切り替えるぞ」
    監督の言葉がまるで負けた後のようだった。
    廊下ですれ違う第二試合のBJメンバーも一様に厳しい顔をしていた。
    「鷲尾、どーなってんだ?」
    木兎さんの顔が笑っていない。いつもの能天気な明るさなど消し飛んでいる。
    「なんでもない」
    鷲尾さんはその一言で木兎さんから離れる。はっきりとした拒絶。木兎さんもそれ以上何も言わなかった。
    「ナギ」
    めちゃくちゃ青い顔をした侑さんが俺に駆け寄ってくる。その顔、さっき見たよ。本当に、あんたの顔だけは今見たくない。
    でもあんたなら、双子のあんたになら、わかるのかもしんないな。何が起きたか。
    「なんやねんこの空気。何があってん。なあ、角名と元也くんどうしてん」
    「なんもないです」
    その答えが俺があの2人に、そして侑さんの片割れのためにできる精一杯だったと思う。



    角名の身体から少しずつ力が抜けていく。荒れていた呼吸が静かになり俺の背中を痛いくらい掴んでいたその指が離れた。鎮静剤が効いてきたのだ。くたりとしたその身体を病室の白いベッドに横たえ、まだ少し眉根を寄せたままの眉間をそっとほぐして、長いまつげと頬に残っていた涙をぬぐうと病室を出た。コーチと一緒に医師の話を聞く必要があった。
    「極度の興奮状態でしたので強めの鎮静剤を打っています。ですが鎮静剤には筋弛緩の効果もありますから明日の試合はもう」
    「わかりました」
    コーチが頷いた。
    「このまま朝まで鎮静状態にして、状態次第で明日そのまま退院するか、地元に転院するかをご相談しましょう」
    「お願いします。明日も私が朝お伺いします。明日退院できるようならバスで来ていますし、ピックアップして帰ります」
    「念のために伺いますが」
    医者は眉を顰めた。
    「――本当に通報しなくて大丈夫ですか?こんな状態になるほどαの攻撃的なフェロモンを浴びせられるなんて」
    「我々も、本人の話を聞けていませんので」
    コーチは目線を落として、唇を噛み締めた。
    αの支配性や攻撃性は国や組織の独裁につながる。意図的な使用は少なくともこの国では認められていない。だから、αは自ら厳しく自分をコントロールすることが求められる。バースがわかった頃から学び、安定しないなら抑制剤でコントロールしなければならない。この国では誰もが知っていること。そしてαだからできること。でも実際にはその力でαがΩを支配することによる犯罪も後を絶たないのが現実だ。医師の懸念は当然だった。
    病院を出たときにはすでに試合は終わっていた。
    「あとで監督に報告と相談に行くから、お前も来い」
    コーチの言葉に頷いた。
    「俺は、明日は大丈夫なんで」
    「そういうことを言ってんじゃないよ、古森」
    コーチは俺をまっすぐ見た。厳しい目だった。
    「被害届を出すかどうかって話だ。俺はあいつをこんな目に遭わせた奴を絶対許さないからな。お前はどうなんだよ」
    「俺は、」
    あのとき。必死に逃げようとする角名と、立ち尽くす宮治を見たとき。俺の身体を駆け巡ったのは紛れもなく殺意だった。でも、見事なまでに本能にプログラミングされていた行動は、番に危害を加える相手を殺すことではなくて、敵の盾になって番を守ることだった。だから激情を抑えることができた。俺の本能はあくまでも番優先だった。
    万が一の可能性を医師から告げられていた。今回のようなケースでΩが精神に多大なダメージを受けた結果、社会復帰の道を絶たれたり、自殺した事例があること。なんとか回復したものの、フラッシュバックが続いたり、長いリハビリを余儀なくされるケースがあること。そして角名にもその可能性があるということ。
    「……あいつの意思を尊重したいです」
    目が覚めた時、あいつがあいつではなくなっている可能性から目を逸らして、大丈夫だと信じたかっただけかもしれない。お前はそういうだろうと思ったけど、そうコーチは小さく息をついた。
    宿舎のホテルに戻って監督やコーチともう一度話をした。監督は、本人の意向を聞きたいという俺の意見に耳を傾けてくれた。番である俺の意思も優先されたのだろう。最終的には、意識が回復していたとしても少なくとも一旦は地元に帰り、落ち着いた頃合いで本人に状況を確認する。そのうえで本人の意思を尊重しながら被害届を出すかどうかを決める、そういう結論になった。監督は最後に付け加えた。
    「ただし、これは角名の意思が確認できる場合だ。万が一そうじゃないときは――わかってるな」
    日曜日のMJ戦は第二試合。俺たちの会場入りは14時過ぎの予定だ。お前も午前中は病院に行った方がいいんじゃないか、監督にはそう言われたが、もし角名だったら試合に影響がでることを嫌がるだろうと思った。だからコーチに何かあったらすぐに連絡してほしいと頼んで、明日は試合に専念することにした。
    翌朝、朝食のあとすぐにコーチは病院に向かった。それからほんの30分ほどで俺のスマホが振動する。コーチだ。ちょうどチェックアウトでロビーにメンバーが集まりはじめていた。皆が緊張したのがわかった。
    「もしもし、古森です」
    『古森?』
    「……すな」
    昨日とは全く違う、いつも通りの低い温度感で俺の番が俺の名を呼ぶ。
    『昨日、ごめんな。もう、大丈夫だから』
    「うん……よかった」
    『みんなにも、ごめんって。今日そっち行けないけど頼むよ』
    「まかせとけ、絶対勝つから。お前がいないから負けたとか、言わせねえから」
    俺がいないから負けたんだったら言い訳になるじゃん、とか嘯く声がいつも通りで、やっぱり行けばよかった、なんて思って。
    電話を切ると、猿杙が話しかけてきた。
    「早く迎えにいかないと。今日はストレートですね」
    「たりめーだ。全部拾ってやるからお前全部決めろよ」
    そっすね、そのつもりでいきます。猿杙は笑った。



    「――元也」
    「聖臣」
    試合が近づき、選手が集まった廊下でちょっと、と声をかけてきたのは従兄弟だった。昨日の試合後は、BJや他のチームのやつらに何を聞かれても全員が知らぬ存ぜぬで通したと聞いている。おそらくその話であることは明らかだった。一つ違うとするなら、こいつは角名がΩで俺と番であることを知っているけれど。
    廊下の隅まで二人で歩く。おもむろに従兄弟は口を開いた。
    「昨日、何があったかは聞かないけど」
    「なんだ聞かねえのかよ。答えるもつもりもなかったけど」
    少し気負っていたから拍子抜けして思わず息をつく。しかし俺のあからさまな物言いにも聖臣は表情を変えなかった。
    「角名は今日も出ないんだな」
    「だからなんだよ」
    「あいつにはお前しかいねえんだから、しっかりしとけよ、って、それだけ」
    「――わかってるよ。今日は悪いけど早く終わらせるから」
    「そりゃこっちのセリフなんだよ」
    不敵に笑う聖臣がいつも通りで、今日はいい試合ができそうで、やっぱり角名と一緒に出たかったなって思った。

    ストレート勝ちを狙って結局3-1。全セットデュースにつぐデュース。勝つには勝ったけど時間はかかった。バスが病院の近くに一時停止するころには周囲は夜の闇に包まれていた。
    バスのドアが開き、コーチに続いて角名が乗り込んでくる。開口一番、角名は声を張った。
    「二日間、ご迷惑をおかけして、試合も苦戦させてしまってすみませんでした!」
    深々と頭を下げると、バスの中にどっと笑いが起きた。
    「自分で言うかよ!」
    「いやでもマジでお前がいたらストレートだったわ!」
    「おかげで気合入ったけどな!さ、帰るべ帰るべ!」
    ――本当にいいチームだ。スタッフも、チームメイトも。角名は前方に座っている猿杙にも声をかけた。
    「昨日、ありがとな」
    「いえ、あの、大丈夫ですか」
    猿杙の表情は見えなかったが、多分あいつらしくない顔をしていたのだろうと思う。角名は笑った。
    「そんなやわな鍛え方してねえよ、って言えないのが残念だけど、大丈夫」
    そして列の中央まで歩みを進めると、角名は俺の隣にとすん、と腰を下ろした。
    「窮屈かもしんないけど、ここでいい?」
    「ん?ああ、もちろん」
    ――変だった。何人かは気づいたかもしれない。角名は普段、バスでは一人で座ることがほとんどなのに、だから通路を挟んで隣は空けていたのに。

    静岡までバスで休憩をはさんで3時間弱。ミーティングは30分ほどで終了し、俺たちが家路についたのは、21時を少し回るころだった。バスで角名は昏々と眠っていたが、ミーティングは真面目に聞いていたし、メンバーとも話をしていた。しかし今はすっかり黙り込んでいる。足取りはしっかりしているけれど、やはり様子がおかしいように感じた。
    「角名、大丈夫?」
    「うん」
    うつろな返事だった。
    マンションに帰り着くと、角名は自分の部屋ではなくまっすぐリビングに向かった。照明をつけただけでぼんやりと立ち尽くすその姿にやはり不安が募った。
    「角名、おまえ、やっぱ具合悪いんじゃ」
    角名は俺の問いは無視して独り言のようにつぶやいた。
    「……おれ、ふろはいってくるわ」
    「は?風呂?」
    「昨日、入れなかったし、気持ち悪い」
    「じゃあ沸かせよ。寒いだろ。湯船でちゃんとあったまったほうがよくない?」
    「や、シャワーでいい。すぐ入りたい」
    意思を持った声だったから、少し安心した。
    「じゃ俺荷物かたづけてっから。風呂から上がったらなんか軽く食お」
    「うん」
    角名が浴室に消えると荷物の片付けなんて放り出してソファにダイブした。急に疲れが襲ってくる。この二日間、やはり相当気を張っていたのだろう。ソファの柔らかさに身を任せると眠気に誘われた。それでなくてもこのソファは寝心地がいいのだ。去年のオフ、角名と2人で買いに行ったやつ。横になれる長さが欲しいとかクッションは大事だとか俺がいろいろと駄々をこねて、ソファって寝るもんじゃないだろ座るもんだろとか言ってた角名も結局は店内のソファというソファで寝転がっていて、最終的に一番寝心地がいいなって二人の意見が一致したやつ。座り心地もわるかねーんだけどやっぱ寝心地が最高だよな、って後日深々とクッションに沈みながら角名が言うからやっぱそうだったろ、って笑った。
    なんだかんだいいながら2人で過ごしてきた。互いに機嫌が悪い日もあればケンカをすることもある。角名が大事に分けていたアソートパックのアイスのアーモンド味を俺がまとめて全部食ったとか、俺の変顔コレクションを9分割コラージュにしてSNSに晒されたとか、まあまあレベルの低い争いから、試合後にはあのフォローはまずかったとか、あのブロックの入り方ねえだろ、なんていうガチの言い争いまで。多少の波風はあってもこれからもずっとこうやって過ごしていくんだろうなってぼんやりと思っていた。
    いつの間にか眠っていたらしい。再び意識が覚醒したのは身体に重みがのしかかってきたからだ。目を開けると至近距離に番の顔があった。
    「……角名?」
    冷たい身体と濡れたままの髪。到底湯上がりとは思えないほど白い顔色。角名は、吐息のような声を漏らした。
    「こもり、……して」
    そのまま俺の首筋に顔を埋める。思わず抱きしめると、角名は小さい声で、あったか、とつぶやいた。
    「なんでおまえ、こんな冷えてるんだよ」
    「どんだけシャワーしてもさ、あったかくなんなかった。おまえのあったかいのは、わかるから、して」
    言っていることが支離滅裂だ。それにまだシーズン中なのに、そんなことをしたら。
    「いや、したら、ヒートきちゃうだろ。そしたら来週」
    「いい、いいから!……おねがい、忘れさせて」
    廃人になっても、発狂してもおかしくない。遠回しにその可能性を告げた医師の言葉が蘇る。強がりで天邪鬼で、本音をなかなか言わない俺の番。並みの精神力ではないかもしれないが、ダメージを受けていないわけがなかった。メンバーに心配をかけないように、虚勢を張っていたに違いない。
    『あいつにはお前しかいねえんだから』
    続いて思い出されたのはあのときの従兄弟の顔だった。そうだな、俺は番だから。角名には俺しかいないんだ。
    ――もう俺しか、いなくなってしまった。
    「角名、大丈夫だよ。俺がいるから。俺には全部ぶつけていいから」
    抱きしめたまま耳元で囁くと、肩口が温かく湿っていくのが感じられた。泣いている。声を上げずに、角名が泣く。
    「俺、楽しかったんだよ、あの頃」
    「うん」
    「もう、思い出せないよ。……なんで、なんで、こんなことになんだよ」
    それは、魂の慟哭だった。
    「おまえは、悪くない。おまえは、おまえでいいんだよ。角名、こっち向いて」
    少し体を起こした角名の、涙で濡れた瞳が俺を覗き込んだ。
    「俺は、絶対におまえを離したりしない」
    どちらからともなく唇を重ねると、途端に身体が反応しはじめる。フェロモンの匂いなんてまだ全然しないのにおかしいよな。忽ち脳が痺れて、おまえのことしか考えられなくなっていく。でも今夜はできるだけ意識を飛ばしたくない。

    なあ、角名。今日くらいはおまえのこと、大切だって思って、抱いていいだろ。



    多分俺は夢を見ている。
    熱に浮かされた、ヒートの感覚。あれ、いつヒートきたんだっけ。この前終わったばっかりのはずなのに、やっぱ夢だな。でも俺を抱いているのは、間違いなく俺の番。俺のαだ。
    夢の中でまでヒートだから頭がさっぱり回らないし、お前とはなんだかんだで馴れ合っちゃってるし、だからただこの熱に身を任せているだけなんだけど。
    ――なんか、おかしいな。やっぱりおかしい。
    なんだろう、この妙な安心感。てかすごく、幸せな気がする。お前の手が優しくて、お前が落としてくるキスが甘くて。お前でよかった、なんて思ってる。
    ああもう、本当にこのバースという性は厄介だな。いくら夢でも、いくらヒートにしてもお前でよかったなんて、思うはずないのに。そんなこと思ったら、俺が好きなままでいたかった、大事にしまっていた宝物が、ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん。
    なのに、そう思ってるのに、この夢やっぱり変だ。お前だって俺のことを好きじゃないのに。おかしいんだよ。
    「角名、……すき」
    「あっ、あ、こもり、もっと、いって、」
    「すき」
    ――ほら、おかしいだろ。お前が俺に好きって言ってるし、俺はお前にもっと言えって強請ってる。でもさ、聞きたいんだ。お前が俺のこと好きだって言うたびに、なんだか落ち着くんだ。ばっかじゃねえの、どんな夢だよ。
    ああ、そうか。全部夢だからだよ。
    だってそうじゃなきゃ、夢じゃなきゃ、あいつが俺がΩだって、古森と番だって知ってるわけねえもん。しかもさ、あんなこと言うわけねえもん。びっくりしすぎて、アタマ真っ白になった。しかも俺、すげえひどいことしたんだよ。あいつに。
    あんなに大切にしてたはずなのに。大事に大事に、宝箱にしまっていたのに。お前との日々を、思い出を汚さないように、大切にしていたのに。
    なのに、あいつを俺は思い切り拒絶して、あいつが、怖くて。絶対夢だよ。あいつがあんな怖いわけ、ねえもん。
    あんな、
    あんな風に心が、
    あんな風に身体が、
    治を、大好きだったあいつを、拒絶するなんて、
    「あ、あ、や、め」
    「角名?」
    「あ、っ、いやだ、たすけ、て」
    そんな目で俺のこと、見るなよ、じゃあ俺はどうすればよかったんだよ。俺は大事にしたかっただけ、なのに、なんで、こんなことになるんだよ。怖くて、動けなかった。言葉さえ出なかった。そんな恐怖から救ってほしいって心底願ったのが古森だったなんて。――お前じゃなかったなんて。治。
    「あ、……や、」
    「角名!」
    思い切り抱きしめられて、意識が覚醒した。え、俺、いま。
    「……こもり」
    あれ、俺。やっぱり、ヒートなのか。こもりと、つながってる?熱っぽい身体に快感と切なさがごちゃまぜになって腹の中に渦巻いている。すっかり慣れた肌と、熱。耳元をくすぐる優しい囁き。
    「大丈夫だよ、俺、一緒にいるから」
    「ゆめ、みてた」
    「ゆめ?」
    「ん、」
    唇を重ねるとまた熱と悦に塗りつぶされて意識が遠のいていく。
    「大丈夫。夢でもどこでも、俺が守ってやる」
    どうやって夢まで助けにくるんだよ、そう思ったけどあんまり真剣な顔で言うからそうなんだって納得してしまった。
    「ん、じゃ、だいじょぶだな」
    目を閉じたあと聞こえた声は、きっともう夢の中のものだったよな。
    「――すきだよ、角名」

    きっと俺は夢を見ている。
    怖い夢と、変な夢を交互に。
    今回のヒート、結構ひどいな。こんな夢見るなんて。でも目が覚めたら、俺とお前の家にいるんだろ。
    お前に好きとか言われるとやっぱり変な感じだよ。早く目が覚めて、メシ食って、ソファでゴロゴロしながらテレビでも見て、お前とゆっくり話したいな。



    翌週もベンチ入りはしたものの、角名の調子は上がらなかった。練習はしっかりこなせているけれど、試合になるとあいつらしいキレは鳴りを潜め、精彩がない。先週までは好調だったから、その落差は誰の目にも明らかだった。結局、2試合ともに1セットのみの出場にとどまっている。監督に家での様子を尋ねられたが、あの晩以来取り乱すことはなく、俺とも普段通りの会話ができている。メンバーとも普通に話をして笑っている。
    でも、気になることがあった。あれ以来、角名は自分の部屋で寝ることがほとんどなくなっていた。このソファ寝心地いいからこっちのほうが落ち着くんだよ、なんてあいつは平静を装うけれど、明らかに嘘だった。そうじゃなきゃ照明をつけたままリビングで朝を迎えるなんてやはりおかしいのだ。
    その晩、一度は自分の部屋に戻ったものの深夜を過ぎてリビングに行くとやはり明かりはついたままだった。テレビをぼんやり眺めていた角名ははっとしたように振り向いた。
    「あ、うるさかった?起こしたね、ごめん」
    「すな。……一緒に寝よ」
    「え?」
    角名が目を見開く。躊躇うように視線が宙を彷徨った。
    「ほら、こっち来いよ」
    「あ、いや、ちょっと、何言ってんの」
    慌てたような角名の手を取って立ち上がらせた。戸惑ったように所在なく立ち尽くしたその身体を抱きしめる。
    「いいから、無理すんなって」
    部屋まで手を引くと角名は大人しくついてきた。ベッドに入って抱き合って、髪をなで、背中をぽん、ぽんと優しく叩いてやる。しばらくすると角名が小さなあくびをした。
    「ホント、なんなんだよ…、ちゃんと、寝れそう」
    すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきたのは、そのすぐ後だった。その寝息に呼吸を合わせて俺も眠りについた。

    翌朝、目が覚めると今度は俺が角名に抱きしめられていた。
    「……おはよ、こもり」
    「ん、おはよ」
    こんなに穏やかな朝はいつぶりだろう。二人でヒートでもないのに一緒に眠るなんてこと、徹夜のゲームでソファで寝落ちて以来だよな。あの時も、妙に平和だなって思ったけど。しかし口を開いた角名はそんな俺の穏やかな気持ちを吹き飛ばすことを宣言した。
    「俺、決めた。……あいつにもう一回会って、ちゃんとケリつけるよ」
    「な、おまえ、そんなの」
    慌てる俺の唇に角名は触れるだけのキスをした。
    ――ホントに、ヒートでもないのに。おまえからキスをしてくるなんて、はじめて、じゃないか?
    「大丈夫。だけど、近くには、いてほしい」



    閉店後の店に双子の片割れが顔を出したのはファイナルラウンドの直前だった。無言でカウンター越し、俺の前に立つ。目が据わっている。殺気すら感じさせる視線だった。
    「変な言い訳はいらん。一言で答えろ。お前、角名に何した」
    そこにあるのは純粋な怒りだった。そうやな、双子やもん。お前は気づいている。あの日あの会場をめちゃくちゃにしたのが俺のフェロモンだってこと。そして、あの日以来角名がほとんど試合に出ていないのが、俺のフェロモンのせいであること。
    「好きやって、告白しただけや」
    「……このアホが!あいつには番がおる言うたやろ!」
    「だから古森となんか別れて俺と番になったらええねん。俺が責任取ったるやん」
    子供じみたセリフにツムは顔を真っ赤にして怒鳴った。
    「あいつがどんな必死でバレーやってるかわからんのかボケ!もしこれでバレー続けられへんくなったら責任なんか取れるわけないやろ!」
    カウンターがなければ殴られていただろう。いや、ツムは本当にカウンターを飛び越えて殴りかかってくる勢いだった。そうだ、そのくらいのことをしたのだ、俺は。
    「……わかっとる」
    わかってる。そんなの、わかってる。俺はめちゃくちゃにしようとした。代表に選ばれるほどのあいつの努力を。人生の半分以上を捧げてきたバレーボールを奪おうとした。
    ツムが唇を噛んだ。なんでお前が泣きそうな顔するねん。
    「ちゃうねん、サムがこんなことなったん、俺のせいや。俺、お前が角名にそんなこと思てるなんて、全然気づいてへんかった。俺がアホやった」
    「ちゃうってツム。お前ちゃうねん。俺や」
    なんであんなことしたんや。俺は角名が幸せでいるならよかったんちゃうんか。自分の感情に任せて。ぶつけて。
    そんな俺の後悔を切り裂くような言葉をツムは吐いた。
    「……角名から連絡あってん」
    「は?」
    角名が、ツムに?
    「今度のファイナルラウンドのEJPとの試合のときに、お前と話したいって。俺は言うたからな。――ちゃんと来いや」



    ファイナルラウンドの初日。第一試合がBJとEJPの試合だ。まだ設営する出店者も少ない午前中。じきにBJもEJPもこのアリーナにやって来るだろう。緊張が高まった。来いと言われてノコノコやっては来たものの、どの面下げて会えばええんや。アルバイトのてきばきとした動きと自分の動きが対照的だった。アルバイトが荷物を取ってきますと設営場所から離れ、少し背すじを伸ばしたときだった。
    「治」
    艶のあるテノール。高校のとき、俺の隣にいた、おまえ。隣で一緒に跳んでいた、お前の声。
    「……すな」
    振り返るとEJPのベンチコートに身を包んだ角名がいた。少し顔色が悪い。額にうっすら汗をかいている。脂汗。それが示すものは――恐怖。そら怖いよな、俺、お前に怖い思い、させたよな。緊張した面持ちの角名は少しためらうように唇を何度か動かして、言った。
    「治、俺のこと、好きになってくれて、ありがと」
    「……あ」
    「俺も、好きだった。――好きだったよ」
    過去形。そう、俺とお前は、隣同士ではあったけど、道が交わることはなかった。これからも交わることはない。
    角名は、静かな、でもはっきりとした意思の秘めた目で、俺を見つめたまま続けた。
    「でも、俺は、いま、後悔してない」
    そうやろな、お前の顔見てたらわかるわ。お前がそんな顔して、俺のこと怖いと思っててもちゃんとはっきり自分の気持ちを伝えられるのは、お前が選んだ道をお前自身が肯定しているからや。
    「……おん」
    「俺はバレーと、あいつを選んだ」
    バレーボールが好きなこと、あいつと一緒にこれからの人生を歩んでいくって決めたこと。そして多分、あいつに対する気持ち。お前はそれを肯定したんやな。
    「――そんなん、お前がバレー好きなことなんか、俺かって知ってるわ」
    「や、そんな好きとか、そういわれるとちょっとあれなんだけど」
    目を逸らして、もごもご言って。ホンマ天邪鬼やな。好きなもんは、好きって言わな。今回のでわかったやろうに。自然に言葉が零れた。
    「この前は悪かった」
    「ううん。俺も、ごめんな」
    「俺は、ずっと、お前を一番、誰よりも応援しとるから」
    ふっ、っと角名が笑った。
    「なんだよ一番は侑じゃねーの?」
    「なんであいつやねん」
    「ま、いいや、ありがと」
    角名が近づいてきて、俺を抱きしめた。無理をさせているのではないかと不安になる。
    「……俺のこと、こわない?」
    ぎゅっと、力が込められた。
    「うん、大丈夫だよ。大丈夫。治、ホント、ありがとね」
    「角名」
    これからもずっと友達でいられますように。お前がバレーボールを最後まで悔いなくできますように。
    ――俺が好きだったこの男が、これからもずっと、ずっと幸せであるように。
    これほど切実に何かを願ったのはきっと、はじめてだった。



    角名が見届けてほしいと言ったのは、決していざというときを見越してのことではなかったけれど、それでも何かあったらすぐ対応できるように俺は出入口の影から角名を見つめていた。
    ハグは……まあ、いいや、あれは友情だ。何事も起きなかったことに安堵して壁に背中を預けると隣で猿杙がぼそりとつぶやいた。
    「普通に尊敬しますね、あのひと」
    「うん」
    「ああでなきゃ、Ωでこんなとこまで来れないのかもしれないですけど」
    「……そうだな」
    角名はやっぱりすごいやつなのだ。いつでも落ち着いていて、どんな劣勢でも焦らない。いつだって、その瞳は前を向いている。そんなすごいやつの番であることに恥じない人間でいたい。純粋にそう思った。
    「あれ、一緒だったの」
    戻ってきた角名が笑う。
    「いや角名さん、マジでかっこよかったす」
    「あ、そ?惚れた?」
    冗談めかした角名の言葉に、猿杙がニコニコと返した言葉は、――少なくとも俺には爆弾だった。
    「いやいや、マジで。俺までうっかり惚れそうになりました」
    「へ?」
    「んな?!」
    角名が目を丸くする。でもきっとそれ以上に俺の目は丸くなっていたに違いない。猿杙は食えない表情で俺を見た。
    「やだな、心配しなくていいですよ。7割くらい冗談です」
    おまえね、引っ掻き回すのマジでやめろよ。呆れて肩をすくめた角名が猿杙にデコピンをして、派手な音と「いてっ!」という猿杙の悲鳴が廊下に響いた。
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