Day3お題『キス』 最近、気がつくと赤井の顔がすぐ近くにあるような気がする。
部下の作成した資料を確認しながら、降谷はここ一、二週間で起きた出来事を反芻していた。
赤井の車で自宅まで送ってもらったとき。シートベルトを外して顔を上げたところで、すぐ目の前まで赤井の顔が近づいていた。降谷が、「シートベルトくらい自分で外せますよ」と言うと、「……そうだな」と赤井は笑った。
会議室で赤井と二人きりで打ち合わせをしていたとき。床にボールペンを落としてしまい、机の下に潜って遠くまで転がっていったボールペンを拾い上げようとしたところで、赤井も机の下に入ってきた。自分を手伝ってくれようとしたのだと思い、「これくらい、自分で取りますから大丈夫ですよ」と降谷は微笑んだ。
資料室で赤井と二人きりで作戦会議をしていたとき。資料を読んでいる降谷に赤井が顔を近づけてきたので、「あなたの分も印刷してあげますね」と、降谷は自分が読んでいる資料のコピーを赤井に渡した。「読んだら破棄してくださいね」と大事な一言も添えて。
もしかして自分の顔に気になるところでもあるのかと思い、「僕の顔に、何かついてます?」と問いかけたこともある。しかし赤井は、「いや……俺の気のせいだったようだ」と言い、すぐに自分から離れていった。その後も、赤井のこの行動は続いたため、何か別の理由でもあるのかと降谷は考えた。
思い当たることがあるとすれば、約一ヶ月ほど前、自分たちが恋人同士という関係に変わったことだろうか。
テレビドラマで、恋人同士が顔を近づけ合って相手の顔を覗き込むようなシーンを見たことがある。赤井にも恋人の顔を間近で見たいというような願望があったりするのだろうか。もしそうであれば叶えてやりたいとは思うが、至近距離で赤井に顔を見られるなど、耐えられる気がしない。照れくさいし、恥ずかしい。
折衷案はないものかと、降谷は頭を悩ませる。そうしているうちに、喫茶ポアロへ向かわなければならない時間になったので、降谷は一旦この件は保留にすることにした。
ポアロに着くと、驚いたことに、カウンター席に沖矢がいた。今日は午後からポアロへ行くと赤井に話をしていたので、逢いに来てくれたのかもしれない。そう思うと気恥ずかしかったが、梓やポアロにいる客に自分たちの関係を知られるわけにはいかないので、降谷は平静を装った。
しかし沖矢は、待っていましたとばかりに、自分の姿を見つけるやいなや、「珈琲のおかわりをお願いできますか」と言った。沖矢の手元にあるカップは空で、底は乾いており、中身がなくなってから随分と時間が経っていることがわかる。自分がここに来るまで待っていたのかと思うと、赤井の行動は可愛くいじらしいものに思えた。
おかわりの珈琲を運んでやると、「ありがとうございます、安室さん」と沖矢が微笑む。この変装マスクの下に赤井がいるかと思うと、今更ながらおもしろいなと降谷は思った。
ポアロは、ランチを終えて帰っていく人と、お茶をするために来店する人とで、人の動きが激しい時間を迎えていた。テーブル席には女子高生たちの姿もある。いつもならばまだ授業中のはずだが、ちょうどテスト期間を迎えていて下校が早まっているのかもしれない。
あまりのんびりしている時間もないので、降谷は仕事に励むことにした。
一人客も多く周りが静かなせいか、厨房と客席を忙しなく行ったり来たりしている間、奥のテーブル席に座っている女子高生三人組の会話が自然と耳に入って来る。
「私、木村君にフラれるかもしれない……」
「えっ! 何 何かあったの」
「この前、木村君と一緒に遊園地に遊びに行ったんだけど、その帰り道にね……キスされそうになっちゃったの」
「「キス」」
ひどく大きな声だったので、彼女たちはポアロにいた客全員の視線を集めてしまう。それに気づいた彼女たちは「しーっ」と言い合い、声を潜めて会話を再開させた。かろうじて聞き取れる声量だったので、降谷はなんとなくそのまま耳を傾け続けた。
「でもね、できなかったの!」
「どういうこと?」
「ぼんやり歩いてたら木村君の顔がすぐ目の前にあって、私、びっくりして仰け反っちゃって……」
「あー」
「あとになって、木村君は私にキスしようとしてたんだって気づいて……。これって、私が拒んだように見えるよね? フラれちゃったらどうしよう!」
ガッシャーン! と、ひどく派手な音が店中に響き渡る。
見れば、手で持っていたはずのカトラリー専用の箱が床に落ちていた。そのせいで、中に入っていたスプーンやフォークも床に散らばってしまう。
「安室さん」
梓が慌てて駆け寄ってきて、床から拾うのを手伝ってくれる。
「すみません、梓さん」
「いえいえ。それより、安室さんがこんなミスをするなんて……具合でも悪いんですか?」
「……いえ、そんなことはありませんよ」
「それならいいんですけど……」
床から拾い集めたそれらを洗うために、降谷はシンクへと向かう。その途中で、沖矢の席の前を通りかかった。沖矢は小さな声で、しかも赤井の口調で問いかけてくる。
「大丈夫か?」
「……ええ」
小さな声で返事をすると、沖矢はわずかに碧色の瞳を覗かせて、「あとで話がある」と言った。降谷は頷くことしかできなかった。
シンクでカトラリーを洗いながら、降谷は大きな溜息を吐く。
どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。最近、赤井がやけに顔を近づけてくるなと思っていたが、女子高生たちの会話を参考にするならば、赤井はこれまで何度も自分にキスをしようとしていたことになる。自分のこれまでの行動は、やはり赤井のキスを拒んだことになるのだろうか。赤井はどう受けとめているのだろう。
“フラれちゃったらどうしよう!” 女子高生の一人が上げた声が耳に蘇る。降谷はこの女子高生とまったく同じ気持ちになっていた。
赤井は「あとで話がある」と言っていたが、もしかして別れ話だったりするのだろうか。一気に不安が押し寄せてきて、今すぐにでも沖矢の胸倉を掴み、「僕と別れたりしませんよね」と訊いてしまいたくなる。もちろんそんなことはできないので、今は真面目に仕事をこなすしかない。
ティータイムを過ぎる頃には、あの女子高生たちも帰り、空席が目立つようになった。沖矢もFBIのメンバーからの呼び出しがあり、「あとでまた来る」と言い残して帰って行った。夕方から用事が入っている梓は、事前に知らされていた通り、午後五時に退勤した。
ポアロに残されたのは、自分と、数人の客のみ。ディナーの時間を迎えるとそこそこ賑わうが、特段忙しいわけでもなく、今日はほどよい来客具合だった。
夜が更けていくにつれて、客も減っていき、ラストオーダーの時間を迎える頃には、店の中には自分しかいない状態になっていた。閉店の準備をはじめ、外から見える文字を『CLOSED』に変える。簡単に店の入口付近を掃除していると、店の灯りが目の前に大きな影を作り出した。
「……赤井」
視線を上げると、赤井の姿があった。沖矢の変装はしていない。降谷は赤井を店の中へと招いた。念のためドアの鍵もかけておく。
「今日はこれでしまいか?」
「ええ。ちょうどいいタイミングでしたね。珈琲でも飲みますか?」
「ああ。いただくよ」
二人分の珈琲を淹れて、赤井の座っているテーブル席へと運ぶ。向かい合うように座るが、緊張のあまり赤井の顔を見ることができない。赤井が珈琲を口にするのを眺めながら、降谷は覚悟を決めて口を開いた。
「……あとで話があるって言ってましたけど、いったい何の話ですか?」
「……ああ、それなんだがな、こ――」
「あ、やっぱり、ちょっと待ってください!」
自分から問いかけておきながら、本当に別れ話だったらどうしようという不安が再び押し寄せてくる。大きく深呼吸をして心を落ち着かせようとしていると、赤井が優しい声で問いかけてきた。
「何か気になることでもあったかな?」
これ以上、話を引き延ばすわけにはいかない。降谷はもう一度、覚悟を決める。
「……そ、その話って、別れ話じゃないですよね」
思い切って問いかけると、これまで聞いたことのないくらい低い声が返ってきた。
「……なぜ、別れ話になるんだ?」
「あなたにもう嫌われてしまったかな、と思って……」
「俺が君を嫌う? ありえない話だな。誰かに何か言われたのか?」
「……そうじゃなくて、最近、あなたが僕に……しようとしてくれているのに、ずっと気づけなかったから……」
「……ん?」
「あ、あなたがキスしようとしてくれているのに、僕は気づけなかったんです!」
「……」
「だから、あなたの気持ちを無視するような行動をしてしまって……。僕がキスを拒んだって赤井が思っているんじゃないかと思って……。キスを拒む相手と交際を続けたいって普通は思わないでしょう?」
赤井が席を立つ。怒ってこのまま出て行くのかと思ったが、赤井は自分の隣に腰を下ろした。赤井と急に距離が縮まり、胸が大きく音を立てはじめる。
「君は今日、奥のテーブルに座っていた女子高生たちの会話を聞いて随分と動揺していたようだったが……もしかしてそれまでずっと気づいていなかったのかな?」
「……はい」
「……なるほど」
赤井が頷く。そして、「もっとわかりやすくすべきだったな」と赤井は呟いた。何を? と問いかけようとしたところで、突然、赤井の手に顎を掴まれてしまう。そのまま赤井が顔を近づけてきたので、降谷は慌てた。さすがにこの状況では、赤井が自分に何をしようとしているのかはっきりとわかる。まったく心の準備ができていなかったので、降谷は声を上げた。
「もしかして、キスするつもりですか」
「もちろん、そのつもりだが」
「ちょっとだけ待ってください! まだ心のじゅ――」
言い終えぬうちに、チュッと音を立てて、赤井の唇が自分のそれに触れ、離れてゆく。赤井が笑みを浮かべて言った。
「これまで散々待たされたからな。これくらい許してくれ」
そう言って、赤井は自身の親指で降谷の唇をなぞった。その手つきは色気を帯びていて、降谷はぞくぞくと身体が震えるのを感じる。親指が離れると、今度は深く、互いの唇が合わさった。普段の赤井からは想像もできないほど、赤井のキスは情熱的だった。降谷が息苦しさを覚えて赤井の胸にもたれかかるまで、赤井は降谷の唇を離そうとしなかった。
「それで、話って結局何だったんですか?」
ようやく呼吸が落ち着いたところで、降谷は赤井に問いかけた。今までで一番近い場所で、赤井が微笑む気配がする。ここはキスの余韻に浸るべきだっただろうかと、降谷は心の中で反省した。赤井は降谷の髪を撫でながら、ゆっくりと口を開く。
「今度の週末、君の家に行ってもいいだろうか」
週末に会う約束だったのかと降谷は安堵する。
「いいですよ。……あ、お酒飲みます? おつまみでも作りましょうか?」
「ああ、そうしてくれるとありがたい。……それから、君さえ良ければ、俺を泊めてくれないか?」
「……えっ」
「もちろん、無理にとは言わない」
家に泊まる、ということは、つまりそういうことなのだろう。赤井はどちらにせよ、今度の週末に自分たちの関係を進展させようとしていたのだ。
降谷は赤くなった顔を赤井の胸に埋める。これからいったいどんな顔をして赤井と向き合えば良いのだろう。
「か……考えておきます」
今はそう答えるので精一杯だった。