フロイドが小エビの小指の爪を塗る話フロイドは意外とマメな男だ、と思う。細かい作業が得意だし、苦にならないタイプであるらしい。鮮やかなターコイズブルーに塗られた俺の両手の小指の爪には一ミリのはみ出しもなかった。俺の小指の爪は、土日だけ彼の好きな色に塗られる。彼と過ごす週末のルーティン。月曜日になる前に、このささやかな小指の先に乗った海は、彼の手によって丁寧に落とされる。俺としても「その小指何?」「どうしたの?」なんていう風に同級生から余計な詮索をされなくてすむし、厳格な先生から見咎められてマナーを注意されることもないので、彼のやりたいように任せている。学生の身分でなければ、小指一本分くらいを彼のために染め続けていても構わないのだけど。俺の小指が染まるのは、今のところは彼と過ごす週末限定となっている。
オンボロ寮の部屋に置いてあるフロイドの私物を入れておく箱に、マニキュアのかわいらしい小瓶がどんどん増えていく。飽きっぽい彼は、気に入った新色が出るたびに買い足していくからだ。塗られている間、手持ち無沙汰の俺は、その意匠を凝らした瓶を見つめて過ごす。おかげで俺までマニキュアの名前に詳しくなってしまった。春には春の、冬には冬の、それらしい色というのがあることを知った。俺自身は特にファッションにこだわりがないので、この色がいい、という希望もなく、彼の好きな色に自由に塗らせている。たまにメタリックカラーやネオンカラーのような派手な色を塗られることもあったが、一番選ばれることが多いのは彼の髪色に近いブルー系統の色だった。俺も目に馴染んだ彼の色を小指の爪に乗せておくのが、一番落ち着いた。彼のものだと、小さくてもはっきりと主張されているようで、嬉しかった。
いつからだろう。熱心に俺の爪の先を見つめる彼の瞳の切実さに気づいたのは。恋人といちゃいちゃと戯れているという空気ではない。まるで、マニキュアを重ねた分だけ、この世界での俺の存在が確かなものになると信じているみたいだった。
一度、爪を海色に塗るフロイドに聞いてみたことがある。なんでいつも俺の小指の爪を塗るんだ?と。彼はこっちを見もせずに、爪に視線を落としたまま答えた。
「んー、保険みたいなもん」
小エビちゃんが、いなくなったときのための。
その言葉を聞いた瞬間、俺はぴくんっと反応した。その拍子にフロイドが手にしていた小さい刷毛がずれて、俺の爪以外のところにも青が移る。そのまま、俺は彼に預けていた手をそっけなく、ぱっと離した。爪に乗せられた青が、乱暴に動かしたせいでよれて、醜く歪んだ。
「俺はお前を置いて帰ったりしない。そんな無責任な男じゃない」
小指ごと握り込んで拳をつくって、俺は歯をぎりっと噛み締めた。女の子にするみたいに、俺にこうするのは、番の印みたいなものだと思っていた。愛しい、いじましい、彼の俺に対する独占欲の表れだと思っていた。
それがなんだ。保険?俺が元の世界よりもフロイドの方を選んだことは、もう随分前にはっきりと彼に伝えている。戻れたとしても、戻らない。帰れる方法が見つかっても、帰らない。元の世界を捨てたに等しい覚悟で、今一緒に過ごしていると、この目の前のウツボの人魚はちっとも理解していなかったということか。もしくは、俺が一切信用されていないということだ。乾き切っていない青が掌に滲む。フロイドは怒っている俺に気がつかないはずはないのに、異様に冷静なまま口を開いた。
「責任感があることと、責任がとれることは別物でしょ」
こちらが逆に気圧されてしまうくらい、彼は真剣な目をしていた。
「小エビちゃんは、来たくてこの世界に来たわけじゃないんだからさ、帰りたくて帰るってわけでもないかもしんねーじゃん。小エビちゃんが帰るつもりはないのもちゃんと分かってるし。だから、これは保険なの。万が一のための」
彼は爪を塗ることが何故保険になるのかについては多くを語らなかったけれど、彼が俺の覚悟を軽くみているわけでも、理解していないわけでもないことはわかった。彼は恐れているのだ。何か不測の事態が起こって、彼と俺との間に遠い遠い距離ができてしまうことを。
「どんな理不尽にも、小エビちゃんのこと奪われたくないから」
そんな殺し文句を言われてしまえば、俺は握っていた拳を開いて、またそっと彼の掌の上に乗せることしかできなかった。彼がまた祈るように俺の小指の色を塗り直しはじめた。それきり俺はこの行為の意味を彼に問うことはしなかった。
マニキュアを塗るたびに恋人の小指に、オレの魔力を薄く薄く貼り付けた。触れるたびに何度も。マニキュアにはどれも、わずかな魔法がかかっている。色が落ちても、効果が持続する魔法。彼の爪に、根気よく何度も、オレの魔力の痕跡を重ねて塗り続けた。やすりで整えて、爪を磨いて、ベースに目印の魔法、重ね塗りのはじめの色には、追跡の魔法、次の色には守護の魔法、トップコートにはもう一度目印の魔法を。どこにいても、オレにだけは愛しい番の存在が見つけられるように。魔力をもたない監督生の身体に負担にならないように小指の表面にだけ、一〜二週間に一回ずつ。一度だけならば極小効果のそれも、重ねれば厚く厚く魔法がかかっていく。
ある人はそれをロマンチックな愛と呼び、ある人はそれをエゴイスティックな呪いだと呼ぶだろう。一生を縛りつけるそれを、オレは命綱だと呼んでいる。小指の先に巻いた、彼とオレの命綱。運命の赤い糸なんて頼れないから、オレは自分で綱を結ぶ。
いつか突然何かが起こるかもしれないのだ。いつかのあの日に急に君が現れたように。世界がいつ最悪の方向転換をしようとも、振り落とされないために、オレはこの綱をしっかり握っておく。
*
その年の年末の土日。オレは小エビちゃんと年越しを騒いで楽しく迎えた。来年も一緒に過ごそうって、言葉にしなくたって当たり前にそうするつもりだった。
月曜日。朝になると彼の姿は消えていた。
「小エビちゃん……?」
シーツに手を伸ばして、さぁっと青褪める。触れた布地は外気に触れたみたいに冷たい。ぎゅっと拳を握り締める。彼が普通に出ていったのなら、自分が気づかない筈がない。昨夜は彼を腕の中に閉じ込めて眠りについたのだから。冷たいシーツは、長い不在を示している。畳んである彼の服はそのままだし、下着だけで彼が外をうろつくはずもない。君がとなりに居ないまま、新しい年がはじまってしまった。フロイドは唸るような声を出す。
「ほらね。だから言ったじゃん。帰りたくて帰るわけじゃないかもしんないって」
それは、更新し忘れた契約が自然消滅するみたいに。監督生がこの世界に存在できる期間が終わってしまったみたいに。恋人である彼はごくごく唐突に、自然に消えてしまった。去年までの期間限定小エビ、だったなんて、納得できるはずがない。ホリデー中だったので、落としていなかった彼のマニキュアと同じ色の瓶を持つと、同室の兄弟と、同郷の寮長の名前を呼びながら、フロイドは足早にややこしい魔法にとりかかるべく、鏡の間に向かった。
*
監督生、と呼ばれていた男は慣れ親しんだ自室の自分のベッドで目を覚ました。気密性の高い建物の白い壁が視界にうつる。ここにはもう、隙間風も吹かないし、窓ガラスがガタガタ揺れることもない。日本の一般的な建築物の中の、標準的な部屋の中でむくりと起き上がった。昨日と地続きの今日であるはずだが、なんだか頭がはっきりしない。昨日の自分は何をしていたっけ。眠る前に、誰かと話していた気がするのだけど。カレンダーをみると今日はお正月らしいのだが、年を越した記憶がない。というか、結構長い間の記憶がない。クリスマスの記憶も年末の記憶もまるでない。違和感が胸にわだかまる。しかし、携帯のアラーム音が規定の時間に鳴り始めて、眠りからはっきりと目が覚めて動き出してしまえば、馴染んだ日常と見知った人間関係がそこにあった。周りもいつも通りだし、日々をこなしていくうちに、違和感があったことも気にならなくなっていった。違和感といえばひとつだけ。両手の小指の爪の先にだけ、ターコイズブルーのマニキュアが塗られている。不思議と落とす気になれなくてそのままにしておいた。男のくせに、なんだよそれ、と、どうでもいい奴らに揶揄われることもあった。言われた瞬間、むかむかと腹が立って、咄嗟に言い返した。
「大事な人に塗ってもらったんだから、このままでいいんだよ」
言ってから、はっとする。大事な人ってだれだったっけ。それから、なんとなく小指の先を見つめる時間が増えた。よくよく考えてみれば、俺の家にマニキュアはない。じゃあ、これは誰が、いつ、どうして、なんのために俺の指に?小指の先を見つめていると、どうしても誰かに会いたい気持ちになってくる。誰に会うべきかは、どうしても分からなかったけれど。
「小エビちゃん、みーつけた」
知らない声がして、俺の目の前に一人の長身の男が現れたのは、爪に塗られた色がちょうど半分くらいになるまで爪が伸びた時だった。
「な、に? だれ?」
俺は思わず後ずさる。
「なあに。忘れちゃったの? ウケる」
全然ウケてない顔で笑って、男は俺の手をとった。びくっと肩が震える。握られた手が振りほどけない。どうしてだろう、彼にはこうする権利がある、と思った。俺の手をとる権利が。
「まだつけててくれてよかった。コレ、ちゃんと残ってるね」
目にも鮮やかなターコイズブルー。俺の小指の爪とお揃いの髪の毛が揺れる。
「おかげで、ちゃあんと見つけられたよ。オレ、えらい?」
これを塗ったのは俺の大事な人。それだけは覚えていた。俺は彼を見上げる。
「あんたがコレを塗ったの?」
「……そう、だよ」
そう言って、少し寂しそうな瞳で覗き込んでくる長身の彼の影の中で、ああこの暗がりが、懐かしいなと思った。彼が俺の小指を愛おしげになぞる。愛されているのだ、と何にも知らない俺にも分かる触り方だった。
「保険、つけといてよかった」
保険。前にもこの言い回しを聞いたことがある。そうだ、俺は心配されていた。この人に。この爪を染めたのは、俺の大事な人。つまり目の前の彼こそが。彼が撫でた小指の爪が、きらきらと淡く光って、伸びた爪の分まで海の色に覆われる。まるで魔法だ。その連想に辿り着いた瞬間、頭の中の空白が埋まる。彼によってもたらされる、このあたたかい暗がりこそが自分の居場所であったことを、すべてを思い出した。彼は俺を迎えにきてくれた、愛しい、俺の。これはどんなときも、俺がどこにいるかわかるようにするための保険だったのだ。
「また、オレが何度でも綺麗に塗ってあげるよ。小エビちゃんが忘れちゃってても」
優しい声を出す彼の手を、今度は俺からぎゅうっと握る。そのまま、強引に引っ張ってバランスを崩した彼の顔を捕まえた。
「俺のこと、見つけてくれてありがとう。フロイド」
頭ごと抱えるように抱きしめて名前を呼んだら、彼はびっくりした顔をしたあとに、弾けるような笑い声をあげた。彼からお返しとばかりに絞められるのに近い力加減の抱擁を受ける。そのまま二人ではしゃいで、ふざけて、絡まりあうようにしながら、彼の世界に戻る道へと歩きだした。フロイドは俺の小指にじゃれつくように口づけながら、二人にだけ聴こえる声で囁いた。
「世界がアンタを落っことしても、オレが何度でも拾いに行くからね」