15. クロードの氏族名が書かれた身分証明書の効果は絶大でパルミラの王都を出発し二週間ほどでローレンツはスレンへ到着することができた。港の結氷は終わったことになっているがやはり定期的にアグネアの矢で溶かしたり砕いたりする必要があると聞いた。スレンの者からすれば暖かな春はもう始まっているのかもしれないがパルミラから北上してきた身には寒さが堪える。パルミラの王都では奇異な目で見られた襟巻きと分厚い外套が役に立っていた。息が白くなることなどフォドラでは珍しくなかったのにやたら注目してしまう。
スレンの税関ではもうクロードの威光は意味を成さなかった。餞別にもらった腕輪を差し出せば待たずに済んだかもしれないがそれでいい。入国を待つ人々の列に混ざりフォドラ商人がすぐに見つかるよう祈った。彼らならフォドラ大使館の場所を知っている。次、と言う声がしたので身分証明書と王都のスレン大使館で発行された査証を差し出した。この手続きが終わればローレンツは数年ぶりにローレンツ=ヘルマン=グロスタールに戻ることができる。
査証に割印が押された。
あのような目にあったと言うのにたった数年で出国できた自分は幸福なのだろう。ローレンツは手巾で目頭を押さえた。今時分は心配いらないらしいが真冬のスレンではまつ毛が凍るのだという。
税関を越え街中に一歩踏み出してみればそこには入港した船の船員や旅客相手の客引きがひしめきあっていた。皆、パルミラ語をはじめとする複数の言語で宿や食事処の呼び込みを熱心にしている。だが残念ながらスレンの者しか見当たらない。ローレンツは宿屋の名と料金を書いた板を掲げフォドラ語でも一泊いくら、とがなりたてていた客引きに小銭を渡した。
「君、すまないが毛皮市場の場所を知らないか?パルミラから着いたばかりでね、どこに何があるのか全く分からないのだ」
フォドラ商人はスレンに毛皮を買いにくることが多い。外套や帽子として仕立てられたものも買うし毛皮そのものを買ってフォドラの仕立て屋に売ることもある。
「あんたパルミラから来たのか?それならフォドラ大使館の連中があんたのこと探してたぜ」
意外だったので説明を求めると結氷が終わる頃フォドラ大使館の者がここらを縄張りとする客引きたちに人相書きを配り人探しに協力して欲しいと頼んできたのだという。パルミラからの船に乗ってきた白い肌、鼻が高い、唇が薄い、紫の瞳に紫の髪、長身の男性が毛皮市場の場所を聞いたら礼金を払うのでフォドラ大使館に連れてくるように、と書いてあったらしい。
客引きの男は港近くにあるフォドラ大使館へローレンツを連れていってくれた。パルミラのスレン大使館はスレンで商売をしようという者たちの列が敷地の外にはみ出ていたがこちらはそこまで人がいない。客引きはすぐに受付の者から礼金を受け取ることが出来た。
「ローレンツ様はこちらに」
応接間の扉が興奮を隠しきれない大使館員たちの視線からローレンツを遮断する。三年近く行方不明だった同業者が生還すれば好奇心が抑えられないのも当たり前で応接間に案内し紅茶を出してくれた職員も退室する際には涙ぐんでいた。ここはまだスレンだが硝子ではなく陶器で出来た茶器に注がれた紅茶を供されただけでもうフォドラに戻ったような気がする。濃く煮出した紅茶を飲みやすい濃さになるようお湯で薄めたファーガス式の紅茶だった。応接間の扉を叩いて知らせる必要もないほど大きな足音が廊下から聞こえてくる。ローレンツは赤毛の友人を迎えるため立ち上がった。
「ローレンツ!」
港の客引きたちを使ってローレンツを待ち構えていたシルヴァンが抱きついてくる。シルヴァンはローレンツの体調が万全なのか確かめるように手のひらで脇腹を叩いた。
「シルヴァン、忙しいだろうにすまなかったな」
「何言ってんだよ俺とお前の仲だろ?」
クロードが身分証明書の人相書き欄に記入させようとしたローレンツの右脇腹にある大きな傷はシルヴァンが破裂の槍で抉って出来たものだ。メルセデスやフレンがあの場にいなければ生きていられなかっただろう。
「旅券も査証も紛失してしまったので再発行をお願い出来るだろうか?」
「いいぜ、お前の身分は俺が保証してやるよ」
シルヴァンが大使館員を呼びローレンツの旅券と査証を発行するように命じた。パルミラで発行された身分証明書と違いローレンツの本名が記されている。ローレンツが駆け込んできたシルヴァンの目が潤んでいたことに気づかないふりをしたようにシルヴァンも自分の本名が記された新しい旅券と査証を持った手の震えに気づかないふりをしてくれた。
「父には知らせてくれたのだろう?」
「ああ、港が凍る前にな」
ローレンツは真っ先にフェルディアへ赴き任務の失敗について王に詫びねばならないしパルミラで見聞きしたものについて報告し協議する必要がある。
「では帰宅はもう少し後回しでいいな」
「よし!今晩は呑むぞ!ローレンツがいなかった間のことも全部教えてやるし向こうで何があったか全部聞かせてもらうからな!当然親父さんに言えない話も含めて、だぞ」
ローレンツはその晩ずっと良き朋友がいる喜びに身を浸したが後宮に残してきたクロードのことも頭から離れなかった。
ローレンツが魔道学院へ行く前からグロスタール家はフェルディアに屋敷を構えている。その屋敷は大乱を経て王都フェルディアにおけるグロスタール家の上屋敷となっていた。
「ローレンツ、エドギアではなく王都へ直行したお前の判断は正しい」
シルヴァンから知らせを受けた父エルヴィンはすぐにエドギアからフェルディアに向かい上屋敷に滞在してローレンツの帰還をずっと待っていたらしい。勿論そのついでに王都で何某かの用事を済ませていたに決まっているが。ローレンツは心労のせいか少し痩せた父に抱きしめられながら心配させたことと長期間の不在を詫びた。
「パルミラの王宮でティアナ=フォン=リーガンと接触しました。カリードという息子がいて今年十六になります」
「王宮へは私も同行しよう」
王の側近たちと今は宙に浮いているリーガン領をどうするのか話し合うにはまだ二十代のローレンツより父エルヴィンの方が相応しい。ローレンツは謁見の間でディミトリに膝をつき任務の失敗について詫びた。出発前にはひとつきりだった玉座がふたつに増え隣にはメルセデスが座っている。その事実はローレンツに三年弱という時の流れを感じさせた。
「おめおめと生きて戻りましたのはパルミラで見聞きしたことの仔細を直接陛下にご報告し裁きを待とうと愚考したからです」
「ローレンツが生還して俺も皆も喜んでいる。ご苦労だった。すこし自領で休むがいい」
「寛大なお言葉をたまわり恐縮です。しかしパルミラでやり残した仕事を完遂する機会をすぐにでも与えていただきたく存じます」
ディミトリの無事な方の目が大きく見開かれた。彼もローレンツと同じく本来居るべきではない場所に堕ちていたことがある。
「必要なものはすぐに用意させるがエドギアを経由することを命じる。その首と引き換えにしてまで守ろうとした家門と領地をこれ以上放置するのはよろしくない」
ディミトリはミルディン大橋でローレンツがシルヴァンに脇腹を抉られた後、意識を取り戻して最初に発した言葉をまぜっ返していた。その言葉をディミトリに伝えたメルセデスが笑いを堪えている。謁見の間には相応しい線引きと言葉遣いと内容がありディミトリはそのぎりぎりの線を攻めていたからだ。
エルヴィンは顔には出していないものの息子の提案を良しとしていない。謁見の間から下がって以来ずっと黙ってローレンツを見つめていた。
「父上、今度は絶対に失敗しません」
「ようやく親子の時間を取り戻したと言うのにもう行ってしまうのか」
「エドギアで母上にたっぷりと叱られてから出立しますのでどうかお許しください」
ローレンツの父エルヴィンも含め渋る者たちも多かったがローレンツがティアナ=フォン=リーガンの息子がリーガンの紋章を宿している、と述べると皆折れてくれた。フェイルノートはレスター諸侯同盟の宝だがフォドラの宝でもある。
王位継承者を確保し王位争いの影響を完全に王宮内にとどめるため全てが極端に合理化された後宮でたった一人その機構の歪さに憤っていたクロードのことが忘れられない。彼の怒りは弓に番られた矢のようだった。周囲に向けて放たれても彼自身に向けて放たれても悲劇を生むだろう。
「俺はお前に嘘をつかせたくない」
後宮を出ていく日の朝のことだった。褐色の指が身体が怠く息を整えるのに精一杯なローレンツの汗を拭い真っ直ぐな紫の髪を整えていく。
「このまま手放さなかったら故郷に戻らなくてよかった、と言わせる日が来るぞ」
分かるな?と言わんばかりにクロードはローレンツに覆い被さって眉を顰めた。確かにそう思い込まなければやっていられない日は来るだろう。自分で自分に嘘をつく日が。
「クロード……」
「お前は清廉で誠実だ。ばあさんがお前を与えるまで俺の周りにはそんな奴いなかった」
クロードは両親を不誠実とみなしていた時期があるのだろう。異物扱いされると分かっていてこの世にクロードを送り出したことがまだどこかで許せていない。幼い子供は棘のような周囲の評価を自分の心の内に取り込んでしまう。その棘のせいで内側から心に開いた穴は両親がどんなに補おうとしても塞ぐのは難しい。両親のせいではないと頭ではわかっていても自分を唯一受け入れてくれる彼らを恨みその事実が己を嫌悪させる。
「俺はこれ以上自分を嫌いになりたくないんだよ、でも……」
ローレンツは左手でクロードの口を塞ぐと顎を上げて真っ白な喉を晒した。
「カリード王子は継承位が低い厄介者だ。だから本気で匿う者も本気で交渉する者もいないと見做されている」
右手で褐色の手を喉元に導いていく。クロードと違いローレンツは選択を強いている。だがどちらを選ぼうと受け入れようと思った。
「だが"クロード"……君は違うな?」
脱走した王子は前線の懲罰部隊に送られるというしきたりになっているが皆未遂に終わり処される段階まで到達した者はこれまで存在しないらしい。彼が失敗した時のためホルスト卿にパルミラの国境警備隊を挑発してもらう必要がある。
王命によりエドギアに戻る前ローレンツはデアドラに寄った。リーガン家はブレーダッド家の遠縁であるため直轄領ということになっているがやはり馴染みは薄く隣接するグロスタール家が実務を担っている。リーガン家の家臣たちは敵対していたグロスタール家には非協力的だった。全てが終わってからグロスタール家にとってこの上なく都合が良いリーガン家の後継者が見つかるなど納得がいかないという気持ちはローレンツにも分かる。
もし八年前にゴドフロアが亡くなっていなかったら、リーガン家の密偵がティアナとの接触に成功していたら、そしてクロードがローレンツやディミトリと年が近しかったらアドラステア帝国の宣戦布告にもっと別の対応が出来ただろう。レスター諸侯同盟は解散しなかった可能性すらある。
「では諸君の中にフェイルノートを使える者がいるのか?触れる者はいるのか?」
家臣たちを黙らせたローレンツはフェイルノートの梱包を彼らの目前で自ら行った。不正を疑われても厄介だしこういう小芝居が効く時もある。グロスタールの紋章に感謝するしかない。
エドギアに残っていたローレンツの母は長男の帰郷に合わせて彼の乳母を呼び寄せていたのでローレンツは左右から攻め立てられることになった。怒鳴られるより啜り泣きや嘆き節の方が耐えがたい。弟妹たちも幼い頃世話になった乳母が相手では助け船が出せず叱られる兄を気まずそうな顔で眺めるだけだった。父エルヴィンはまだフェルディアでリーガン領をどうすべきかの協議に参加している。
フォドラの首飾りからエドギアに向けて伝書フクロウを放っていると同窓生のヒルダがローレンツに声をかけてきた。この辺りは風が強いのでヒルダは薄紅色の髪を頭の上でまとめている。ローレンツはパルミラの後宮に売られる時に髪を切られて以来髪の毛を切っていなかったので風に真っ直ぐな紫の髪が煽られてしまう。伝書フクロウの行く先を目視するため白い手で紫の髪を整え耳の後ろにかけた。
「あはは、ローレンツ君ったらガルグ=マクにいた頃の私みたいじゃない?ご両親あて?」
「僕のことが心配で仕方ないのだ」
学生時代のヒルダはか弱い私の代わりにローレンツくんが前線で戦ってよ、とよく言っていたが彼女はゴネリルの紋章を持っている。その手にはフライクーゲルが握られていた。すわ、侵攻かと思わせるだけで良いのだが本気を出さなければ相手も騙されてくれない。
「ねえねえ、そのティアナさまの息子さんってどんな子?」
ローレンツは耳の下あたりを人差し指で指した。
「伸びていなければ背丈はこれくらいだ。ヒルダさんと比べれば随分高い」
「でも兄さんやローレンツくんよりは背が低いのね」
ゴネリル公もティアナの息子、と聞いて思うところがあったらしくヒルダをホルストの補佐として首飾りに派遣している。ローレンツと出会った時にはすでに開き直っていたが幼い頃のクロードはフォドラの血を嫌いティアナにも何故ティアナはフォドラ人なのか、パルミラ人ではないのか、と問うていたはずだ。だが母の血がこれほど多くの人を突き動かすのだ、と知ったら当時の彼はどんな顔をするのだろう。
「そうだ。目を閉じてしまえばパルミラ人の少年だよ」
「ツィリルくんみたいな?」
「そうだ。だが瞳が美しい緑色なのだ」
クロードの緑の瞳は脱走するという希望が潰えたローレンツに新たに与えられた天啓だった。
「読み書きは改めて訓練が必要だろうがこちらの言葉も達者だ。きっとヒルダさんと良い友人になれる」
「ティアナさまの息子ってことで向こうの王宮では随分いじめられてたんだよね?」
ヒルダの眉間に皺が寄り眉尻が下がる。彼女は認めたがらないが公明正大な兄ホルストの薫陶を受けて育ちツィリルとも仲が良いので単純化された図式に思い入れているだけの者とは少し態度が違う。
「そうだ。僕はパルミラで人間の不思議さを思い知ったよ。選んで生まれてきたわけではないと分かっているのに止められないのだ」
生活と切り離して問えばパルミラの者たちも赤ん坊が親を選んで生まれてくるはずがない、と答えられるのだ。だが少しでも関係があると冷静さは失われ気に食わない事実は捩じ伏せられる。
真っ青な空には雲ひとつないのでパルミラ軍の斥候からはローレンツが放った伝書フクロウがよく見えたことだろう。彼らがいくら矢を放とうと西側に飛ばしたので届きはしない。
「早く確認してね、ローレンツくん」
「ヒルダさんの言うとおり確認できなかったら話が進まない」
弓箭隊の者たちが矢筒にいっぱいに矢を入れて塀のてっぺんに繋がる階段を登り始めた。攻め込んでくるパルミラ兵が塀を登ってこないように牽制するためだ。先駆けを担当する部隊は生存率が低い。
本隊が前進するには矢の連射を中断させる必要がある。先駆けを担当する懲罰部隊は敵の矢を消費させ矢筒に新たな矢を仕込むその瞬間を作り出すために突撃させられ横に捌けていくことはあるが基本的には後退はしない。仮に後退してしまったら味方から矢の雨が降ってくる。
国によって違いはあるがパルミラの懲罰部隊は基本、軍規を守らなかった者や捕虜で構成されていた。死体の埋葬や肉の壁など不愉快であったり死亡率が極めて高い役割を果たす。近頃、単騎で砦の塀の際まで近寄って弓箭隊を挑発するパルミラ兵の飛竜乗りが評判になっていた。飛竜の色が白かったら矢を当てるな、とホルストに依頼してあるがローレンツはその飛竜乗りの顔を検めねばならない。
迅速に手続きを済ませ移動してきたつもりだがフェイルノートの持ち出しに思ったより時間がかかってしまいローレンツは気が気ではなかった。弓箭隊に混ざってヒルダと共に塀の上に登り前方の土煙を見つめる。
「来ました!」
「申し訳ないが可能な限り引きつけて欲しい」
弓箭隊の隊長に命令し祈るような気持ちでローレンツは前を見つめた。土埃の中から白い飛竜が飛び出してくる。今日は雲ひとつない快晴で真っ白な飛竜は空にも赤茶けた地面にも紛れ込みようがなかった。ローレンツは髪がだいぶ伸びたので遠目から見た時に分かりやすくなったかもしれないし髪型が違うということで別人と判断されるかもしれない。
フォドラ側は挑発と受け取りパルミラ側はクロードの度胸の良さの表れと受け取っているがきっとクロードはローレンツを探しているのだ。白い飛竜は空中で何度も身体を捻ったかと思うとこちらに直進し始めた。塀にぶつかるような勢いだったが寸前になって塀の上に誰がいるのか主人に確かめさせるため角度を急激に変えたせいで一瞬速度が緩み三つの小さな白い塊と編隊を組んでいることが分かった。もう確認するまでもない。ラフマとサタアとタハミールは無事に孵化したのだ。
「確認した!本人で間違いない!」
ローレンツが右手を掲げアグネアの矢の呪文を唱えると人より遥かに耳が良いアブヤドがクロードを乗せたままローレンツに向かって突っ込んでくる。踏み潰されないように倒れ込んだせいでローレンツの魔法はクロードたちの後ろに控えていた本隊に向かって放たれることとなった。アブヤドから放り出されたクロードの呻き声が耳を叩く。痛え、という声ですら彼をなんとか首飾りのこちら側へ引きずり込むことに成功した証なのだと思うとローレンツの胸は喜びでいっぱいになった。
ここから先は小芝居が重要だ。再会の喜びは全てが終わった後で爆発させれば良い。ヒルダが大袈裟な動きでクロードにフライクーゲルを突きつける。兄のホルストと並んでパルミラ兵たちから恐れられている彼女に捕まったことを見せつけた。クロードが討ち取られていれば後続部隊は報復と称して雪崩れ込むだけで良かったがクロードは人質に取られている。弓箭隊の者たちがアブヤドと子竜たちを繋いで塀から砦の内側に降下させたがアブヤドがローレンツの声を覚えているせいですんなり行き過ぎてしまい小芝居の質が下がってしまった。
罰として懲罰部隊に入れられたとはいえクロードが尊き王の血を引く者であることに変わりはない。囚われた王子を奪還するにはフォドラの首飾りを陥落させねばならないが当然彼らにはそんな兵力はない。一度退却し王都からの指示を仰ぐ筈だ。近々、捕虜交換の申し出があるだろう。出来るだけ長く引き伸ばしクロードに選択肢を沢山用意してやりたい。
階段を下りるとそこにはちょっとした広場があり予定通りホルストが待ち構えていた。ローレンツが用意させた台の上に置いてあるフェイルノートに触れようとする者は一人もいない。
「クロード、矢は君のもので構わない」
先程はこの斧ぶよぶよしてて怖いでしょ、などと気軽にクロードに話しかけてきたヒルダもアブヤドの鼻先を撫でていたローレンツも先ほどとは打って変わって真顔で自分の一挙手一投足を監視していることに気づいたクロードは痛む身体に鞭打ってフェイルノートを掴んだ。ローレンツが無言で指さす的に向かってフェイルノートを引き絞り矢を放つ。その背には三日月が浮かんでいた。
「ホルスト卿、ご確認いただけましたか?」
「確認した。彼はリーガンの紋章の持ち主だ。フェルディアとガルグ=マクとデアドラに知らせを出さねばな、ヒルダ」
ローレンツが深々と頭を下げたのでクロードもぎこちなくホルストに頭を下げた。
「ホルスト卿、クロードの手当てをしたいのですが」
「ああ、そうだな。後のことは私に任せて二人はしばらく休むといい」
「兄さん、一緒にきて文面を確認してよ。それじゃ、ローレンツくん、クロードくんまた後でね」
クロードの脇腹はきっと酷く腫れていることだろう。ローレンツがこちらへ、と言って腕を引くとそれだけでまたクロードは呻き声をあげた。充てがわれた部屋に入り寝台の縁にクロードを座らせる。外套と襯衣を脱がせてから床に膝をつき痛々しく腫れ上がる脇腹に白い手を添えつつ回復呪文を唱えた。
「ローレンツ、顔をよく見せてくれ」
白い顎の下に褐色の親指が差し込まれる。顔を持ち上げられたというのに涙が白い頬を伝っていく。喜びと良心の呵責そのどちらが理由なのかローレンツには分からない。
「君はとんだ親不孝者だ……」
「何言ってんだよ、この世で俺の両親だけは俺のこと叱る資格がないんだぜ?」
そう言い返したクロードが顔をくしゃくしゃにして笑ったので彼の頬にも涙が伝っていった。