家出息子たちの帰還.29───ダスカーであれスレンであれ、巫者の語る言葉や伝統は本人の心が及ぶ範囲において真実であり、事実だ。おそらくセイロス教の聖典も同じ性質を持っている。その言葉の正誤の判定することは容易い。だがその場で苦し紛れに生成されたかのように見える伝統や真実はその巫者のこれまでの経験なしには発生しない。彼らは社会の写し鏡なのだ。理不尽でひどく残忍な主張をする巫者が増えた場合、統治者は恥じるべきである───
エドマンド港を母港とする商船がスレンで何かを見聞きしている可能性は高い、と言うことでローレンツはエドマンド領を訪問している。
学生時代からの友人であるマリアンヌは物静かな美しい人で、とてもではないが帆を操っているところが全く想像できない。エドマンド辺境伯もローレンツが陸地で見かける時は常に洒脱な格好をしている。
政庁ではなく、エドマンド家の本宅でマリアンヌが淹れてくれたラヴァンドラティーを飲んでいると毛糸で編んだ靴下を履いていたスレンでの日々が遠い夢のように感じる。
「先ほどお尋ねいただいた件ですが、お役に立てるかどうか……スレンの方たちはかなり閉鎖的なのです」
「浜辺に品物を置いていく、と言う話だったね。残念ながらシルヴァンも僕もその現場に立ち会う機会がなかった」
スレンは寒冷地帯で薬草の安定供給も望めず、現地で普及している回復魔法も古臭い。疫病を極端に恐れる彼らは海の向こうからやってくる船と交易する際、決まった浜辺に毛皮や干した魚を置いて遠くから見張っている。船から降りた余所者は浜辺の品を回収し、代わりにスレンでは作れないものを等価になる量だけ置いていく。エドマンド港からスレンに行く船は酒や鍋を置いてくることが多いという。
「私どもも茶葉の袋を置いていくことはあります。ですが私の知る限り、ローレンツさんのご報告にあったような茶葉は扱っておりません」
「心当たりはあるだろうか?」
マリアンヌは茶器を受け皿に戻した。学生時代は伏目がちだったが今はローレンツの顔を直視している。
「……パルミラの商船です」
書簡で問い合わせてもフェルディアで顔を合わせた時に問うてもこの答えはもらえない。スレン全域を国土である、と主張する王国の目と鼻の先で国交がない大国の商船とすれ違った、と報告するだけでも面倒なことになる。これまでの中央教会は他国との交易に否定的であったし、風向きが変わるまで面倒ごとを避けるため見なかったことにするのも選択肢のひとつだ。
「話を進めても……構わないだろうか?」
紙を折ればたった一回でも折り目がつく。出会ってしまったら出会う前の状態には戻れない。互いの存在が刻まれ、影響を与えあう。
「はい……問題無く対応できると思いますので……」
口調は静かだが返答は自信に満ち溢れている。エドマンド家は更なる飛躍を遂げるだろう。
パルミラ王国は建国以来、領土を拡張し続けている。だが実際は世界を圧縮しているのだ。パルミラ王国が武力によって経済圏に組み込んだ国や地域は商人たちによって正確に測量され、距離や方角が明らかになる。勿論、広大な土地はあるのだ。だが無限に広がる平原や森林はそこに存在しない。
セイロス教が遠眼鏡や活版印刷を禁じた真の理由はそこなのではないか、とクロードは考えている。だがフォドラはファーガス神聖王国によって統一され、セイロス教も態度を軟化させつつある。
千載一遇の機会が訪れたのではないか、と考えたクロード、いや、カリード王子は父王に外事局の設立を求めた。血気盛んなものたちはすぐ戦いで決着をつけようとする。だが、世界を圧縮したいなら財と情報だけでも充分だ。
出自故に痛くもない腹を探られはしたが意図を理解した父の一存で外事局は設立され───カリード王子は王宮の外廷に執務室を構えて国庫から密偵たちに経費と給金を支払っている。内乱に苦しんだファーガスは旧同盟領と違って社会のそこかしこに隙間が空いており、特に密偵を送り出しやすい。今日はダスカーから戻ったものに話を聞いている。
「近頃はどこの集落に行っても巫者だらけです」
ディミトリの施策は今のところ穏健だし、セイロス教の大司教となったベレト個人には異教を嫌う理由がない。
「寺院の建立は流行っているのか?」
彼らに資金力はあるのか、何某かの抵抗勢力になりうるのか、というカリード王子の問いを察した密偵は首を横に振った。
「首なしの殿様、という精霊を拝むことは流行っていますが……」
ダスカーではどの家庭でも首なしで黄色い毛糸の塊を脇に抱えた木彫りの人形を、祖先を偲ぶ人形と並べて祭壇に祀るようになったらしい。クロードは久しぶりに言葉にし難い衝撃を受けた。どう聞いてもランベール王だとしか思えない。彼らはディミトリに寄り添うと決めたのだ。ドゥドゥーの影響だろうか。
「いや上手くやったもんだな……」
「殿下?」
「いや、何でもない。こちらの話だ。引き続き情報収集に当たってくれ」
これではダスカーは利用できない。フォドラに軽く介入するならスレンを利用した方が良いだろう。スレンは茶と酒の欠かせない寒冷地で、彼の地で流通している茶葉の殆どはパルミラ産の塊茶だ。
ローレンツとシルヴァンはフェルディアの王宮に赴き、スレンに現れるパルミラの商船について正式にディミトリに報告した。
「パルミラの商船は効率を優先するはずです」
シルヴァンの言う通り、浜辺で物々交換するような小規模取引よりファーガスの港を使った大規模取引の方が利益は大きい。省りみられなくなったスレンの人々はファーガスの港を経由した品に頼らざるを得ない。
「ゴネリル領の出来事と思っていたがまさかファーガスにも手が及んでいたとはな」
「俺も驚きました。ですが、パルミラからの物資が手に入らなくなれば反対派の氏族も折れるはずです」
和平に反対する氏族はスレンがファーガスに依存することに抗っているのだ。彼らの主張は正しい。だが、この世界で他者の干渉なしに存在することなど不可能だ。
「ローレンツのスレンに関する報告書を読めなくなるのは残念だが仕方ないな」
そう言ってディミトリが書類に署名したのでローレンツはパルミラへ派遣されることになった。
シルヴァンの願いが叶う現場にいられないことは残念だが王命とあっては仕方がない。ローレンツはどこまでも森の続くスレンからアミッド大河を東に進み、まずゴネリル領に向かった。気候の違いに改めてフォドラの広さを実感する。ゴネリル領ではホルストとヒルダの兄妹がローレンツを歓待してくれた。大きな卓いっぱいにフォドラ料理が並んでいる。国境を越えてしまうとしばらくは口にする機会がない。
実務家気質のホルストはローレンツが依頼した通り、捕虜交換式について進めてくれていた。
「ここまでしか手伝えないのが残念だ」
「協力した甲斐があった、と言っていただけるよう努力します。いただいた資料は読み込んだつもりですが、他に何か僕が頭に入れておくべきことはありますか?」
「慣例通りなら前線の司令官だけで済む案件なのに王都から介入があったそうだ。先方の担当者が戸惑っている」
「内輪揉めでもしてるのかなあ……。ローレンツくん、巻き込まれないように気をつけてね」
ヒルダの表情が暗いのは辛い実例をここ五年で何度も見聞きしたからだろう。ゴネリル家も第一子に紋章がなく、第二子は紋章を宿して生まれた。ゴネリル家も外敵の脅威にさらされている。だが家庭内は円満なので余計に恐ろしいのかもしれない。
西の国境にある砦から王都に捕虜交換の許可を求める使いがやってきた。フォドラの中でもレスターはパルミラの密偵網の空白地帯になっている。皮肉なことにクロードとして努力した結果だ。過去の自分に通せんぼをされてもこうして密偵を送り込む機会が巡ってくる。めげてはいられない。
使いが持ってきた書類をめくった瞬間、懐かしい名前がカリード王子、いや、クロードの目に飛び込んできた。そんなわけで国境の砦はフォドラから戻ってきた捕虜たちとフォドラに戻っていく捕虜たち、そして王都からやってきた外事局の局長を迎えている。
今回の捕虜交換式はホルストとこちらの砦長の名において行われるのではなく、ローレンツとクロード、いや、ローレンツとカリード王子の名で行われることになったからだ。フォドラ側はこの捕虜交換式をきっかけとして国交樹立を狙っている。王子が出てくるなら継承位が高かろうと低かろうと縁を結んでおきたい、と言うわけだ。そのためローレンツは交換式が終わった後も少数の部下と共にパルミラに残ることになっている。今日という日を迎えても、クロードの心は揺れ動いていてどんな申し開きをするべきか、が全く定まっていない。
互いの書類に署名する際、はっきりとクロードを認識しているのに優雅さを失わないローレンツの気の強さは健在だった。互いの生還を祝う宴の場でも兵たちの手を取り、帰還後の暮らしについて丁寧に説明している。
「少し良いだろうか?」
クロードはローレンツの隣に腰を下ろした。彼から親切にされる資格はとうの昔に失ったがなんだか悔しい。
「殿下はフォドラ語がお上手ですね」
優雅な態度の奥に隠された激情はきっと雷に似ている。打たれたら大火傷は必至だがクロードはそっとローレンツの耳に口を寄せた。まっすぐな紫の髪を鼻先でかき分けたいし、他にもやりたいことは沢山ある。とにかく膝に手を置かない自分を褒めてやりたい。
「ここだけの話だが、母がデアドラ出身でね」
流石に思うところがあったのか、ローレンツは手にしていた杯を一気に空けた。この期に及んでまだ互いの体面を保とうとするのは見事ですらある。
「……どうやら飲み過ぎたようだ……。今晩の僕の務めは終わりましたので、先に失礼します」
顔の赤さを酒に押し付けてローレンツは与えられた部屋に戻ってしまった。
祝賀気分の砦は緊張感に欠けているが今晩ばかりは都合が良い。ローレンツは与えられた客室に戻って扉は閉めたが施錠はしなかった。彼はこの砦にいる誰よりも身分が高い。合鍵を出せと言われたら誰も断らないだろう。それなら彼にそんな命令を出させないほうがましだった。こんな私的なことを把握されたくない。
スレンに何度も赴いた今だからこそ、ローレンツにもリーガン家がクロードの出自を秘匿した理由がよく分かる。彼らは峻別を求めるフォドラの社会に対応したに過ぎない。ありのままの彼を受け入れられなかったことがローレンツにはひどく悲しかった。
取り乱す前に戻ってきた客室には壁と枕元に灯りがある。ローレンツはファイアーの呪文を唱え、どちらも点してから戦時中のように自分で礼服を脱いで掛けた。壁の灯りはその途中で消えてしまったが、なんとなくもう一度点す気になれない。枕元の灯りだけで持参した寝巻きに着替えていると扉を叩く音と扉が開く音、続けて鍵の閉まる音がした。
「返事が待てないのか?」
だが一度で良いから会いたい、と思っていたのが自分だけではなかったことが嬉しい。無言で背中からきつく抱きしめられて、どれだけ自分の身体が冷えていたのかローレンツは悟った。求めていたものは与えられたが、腹立たしいことに変わりはない。
両肘を水平に広げ、後ろから回された腕を払う。左足を一歩前に踏み出し、そのまま左足を軸にしてローレンツは身体の向きを変えた。その勢いを借りて右肘で鳩尾を狙ったが、クロードに交わされてしまったのは物音を立てないように遠慮したからだろう。静かな攻防の結果、ローレンツはクロードに両手首を掴まれ、寝台に背をつけることになった。
「あぁ……お前って本当に、本当に俺にだけは遠慮がないよな」
語りかけてくる声が身体に染み込んでいく。揺らぐ微かな灯りに照らされたクロードは目を細めていて、長いまつ毛で出来た影すら愛おしい。
「君ほど僕を怒らせることが上手いものはこの世に存在しない」
身体の重みや酒と汗と香の混ざった匂いを感じながらローレンツは言い返した。スレンで常に前向きでいられたのはクロードのおかげかもしれない。
「光栄だ」
真顔で告げられ、どう言い返してやろうか考えているうちに少し厚めの唇がローレンツの唇を塞いだので───口は他のことに使われることになった。