クロロレワンドロワンライ第33回「菜の花」 素朴で小さな黄色い菜の花があたり一面に咲き始めればグロスタール領に春がやってくる。菜の花は咲きたてのまだ柔らかいうちに料理に使ったりすることもあるが基本的には農地を休ませるため油を取るために栽培されている。精製されたものは食用に使うが精製されていないものは光源として使う。煙や匂いが蝋燭よりも少ない菜種油はエドギアの絵画工房で好んで使われる。
そして菜の花が咲き誇る頃のグロスタール領は新年を迎える準備で忙しい。誰でも年内のうちに片付けるべきことを片付け爽やかな気持ちで新年を迎えたいからだ。その一環でローレンツは布を被り目を閉じて鋏の音に耳を澄ませていた。士官学校入学に備えて散髪をしている。魔力は髪に宿るので魔道学院にいる時は伸ばしていたが士官学校では体を動かすのできっと何度も汗を流す。それなら手入れが楽な方が良い。
「綺麗なお髪ですので心が痛みます」
「では卒業したらまた伸ばすとしよう」
「ですが頭の形の良さが引き立ちます」
「出来れば中身を褒められたいのだが……」
赤ん坊の頭は産道を通ってくる都合でかなり柔らかい。薄く柔らかい枕をぐずらないようにそっと当てて過ごさねば頭の形が歪になる。ほんの一瞬の気の緩みが頭の形を崩してしまうがグロスタール家の長子として生まれ大切に育てられていたローレンツの頭は完璧な丸さを今も保っていた。散髪が終わり渡された手鏡と理容師が持っている手鏡を合わせて後頭部の形を確認するとローレンツの注文通りの髪型になっていた。これで全てよし。ガルグ=マクでも信頼できる理容師はきっと見つかるだろう。
書斎に向かう道すがらに息子の新しい髪型を見た父は自分が命じたにも関わらず少し寂しそうな顔をした。
「支度はほぼ終わったようだな」
「はい、制服は明日仕上がるそうです」
こうしたやりとりは二度目だがそれでも胸に迫るものがある。今度こそ一年間通して授業を受けてみたい。
「学業以外のことを押し付けてしまって申し訳ないな。ローレンツ」
クロード=フォン=リーガンの内々のお披露目のようなもの、はもうあったのだ。遠くから彼がフェイルノートを扱う所を他の名家の者たちと共に見守るという形に文句を付けるかいち早く好奇心を満たすか皆迷ったらしい。蓋を開けてみればゴネリル家のホルスト卿まで顔を出していてそれはローレンツにとって嬉しい誤算だった。
「いいえ、僕が適任でしょう」
異性の方が油断するのではないかと言うわけで監視役を末娘にするか嫡子にするかエルヴィンは迷っていたらしい。だがローレンツと同じく末の妹はあまりに幼く才媛と知られるコーデリア家のご令嬢のようにはいかないと考えたようだ。
「あれの婿になるかもしれないと思うと更に厳しい目で彼を見てしまいそうだな?ローレンツよ」
「嫡子の僕がまだ婚約すらしていないのですから順番を守ってもらわねば困ります」
違いない、と言うとエルヴィンは高らかに笑って書斎に入っていった。末の妹は父も母もまだまだ手放せないだろう。
魔道学院への復学がなくなった代わりに認めさせた条件について父からのらりくらりと交わされることもローレンツは覚悟していた。しかし意外なことに小耳に挟んだ話を逐一ローレンツに教えてくれる。おかげでコーデリア家の嫡子だけでなくホルストの妹やエドマンド辺境伯の養女と同学年であることをローレンツはもう知っていた。フェルディアの情勢と同じく実際に進学するローレンツより入学する学生についてエルヴィンの方が詳しい。
自室に戻ったローレンツは会食のために着替えながら益体もないことを考えた。自分がどこの誰を見初めて選ぼうと全ては父の手のひらの上の出来事であり父が驚くような良縁は結べないのではないだろうか。そんな不安が浮かぶのはローレンツにとって生まれて初めてのことだった。