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    鶴田樹

    @ayanenonoca

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    鶴田樹

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    ツイッターで流れてきた『絵描きさんが絵とセリフを1つ描いたものに、文字書きが小説をつける遊び』を爽紫さん(@soushi_s_s)とさせていただきました!😆✨✨✨そしてなんとも光栄なことに、タイトルも爽紫さんにつけてもらっております🥺💕爽紫さんが描いてくださった豊前くんがほんっっっとうに最高なので爽紫さんの絵を楽しみつつ、小説の方も読んでもらえたら嬉しいです。

    【凍解(いてどけ)】「桑名〜!これ見ろちゃ!馬みてぇなニンジン!!」

    向こうの畑から朗らかに笑う豊前。

    一見なんの問題もなく健やかそうに見えるけれど、その実、豊前の背中には大きな火傷の痕がある。

    それは、僕がつけた痕。

    豊前の身体に一生残る、大きな傷跡。

    どうしてか手入れをしても消えない



    僕の後悔の傷跡。





    あの出陣の日は朝から大地がザワザワしてた。不吉なことが起こりそうだって、そんな予兆がそこかしこに散らばってた。

    天候も出陣には不向きで、大粒の雨が何度も雹や霰に変わって。冷たい雨が止んだと思ったら今度は突風が吹いて。でもそんな日だからって僕らは出陣を止められない。悪条件でも戦わなきゃいけないなんてのは僕らには当たり前すぎるほど当たり前。だってそうしないと歴史が変わっちゃうから。だからいつもどおり最新の注意を払って当然装備も万全にして。主がくれた青色のお守りだってちゃんとジャケットの首の後ろのところに縫い付けて。


    でもその日は本当に悪い条件が重なっていた。

    決定打となったのは真っ暗だった戦場に突如響き渡った天を裂くほどの大きな雷(いかづち)。

    そのあまりの眩さに、夜戦に目を慣らしていた僕達は一瞬視界を白に奪われて、その白の中で、豊前の真っ黒な影が低くぐもった呻き声と共に崩れ落ちるのがスローモーションで見えた。

    たった一瞬。本当にたった一瞬の出来事だった。

    倒れた豊前に躍りかかる様に肉薄する遡行軍を仲間のひと振りが最速の一閃で仕留め、頽れた豊前の身体を抱き起こす。その仲間が短刀の誰かとしかわからないくらい雨がひどくて視界が悪かった。ゴーグルを着けている僕でさえそうなのだから、泥まみれで戦う他のみんなはもっと苦心したに違いない。

    それでもとにかく豊前の盾になれるように豊前の元へ駆け寄る。容赦なく斬りかかってくる敵の剣戟を弾くと火花が散った。闇雲に振り回せば本体が折れかねないとわかっているのに力任せに刃を振り払ってしまう。自分の本体を渾身の力で敵の心臓目掛けてぶっ刺して、相手の胴を蹴り飛ばしながら刀身を引き抜く。

    1秒も早く豊前の元へ。

    そのことで頭がいっぱいだった。足場は悪くて泥濘(ぬかるみ)と霰が踏みしめる度に噛み合っては僕の重心を弄び、そんな中でも敵は容赦なく襲い掛かってくる。体躯の大きな大太刀はその身体と同様に僕らより遥かに足が大きくて、霰なんかに足を取られたりしない。僕らの方が明らかに不利な状況。それでも日頃の鍛錬を覚えている身体が敵を薙いで、突き刺して、真っ二つにして僕はなんとか豊前の元へと辿り着く。

    「豊前!大丈夫?!」

    そしたら豊前が言ったんだ。

    「桑名、これ、ちっとやべぇかも」って。

    桑名、これ、ちっとやべえかも

    これっていうのは受けた傷ってこと

    それがやばいってことは………

    この本丸では自分の傷の具合を明確に仲間に報せることを一番重要視していて、昔は僕達江に痛みや辛さを悟られないように隠していた豊前も何度も主や僕達に𠮟られたことで、ちゃんと重症度の報連相ができるようになっていた。それでもたまに判断がガバガバだったりして、またこっぴどく叱られて、なんてこともあったんだけど。

    こんなにはっきりと豊前が危険だって自己申告したのは今回が初めてだった。

    「豊前が重傷!僕は豊前を守るからみんなはプラン7-4で動いて!」

    プランセブンはグッドラック、つまり撤退の合図だ。4は予め決めておいた集合地点を指す。比較的市街地寄りの、廃屋に見せかけた拠点の一つだ。

    「豊前、持ちこたえてね」

    「おう、折れやしねえよ」

    声色は気丈だけど明らかに指先に力が入っていない。無情に体温を奪う雨から豊前を庇うため、パーカーを脱いで豊前にかける。暗闇の中だからはっきりとはわからないけど、唇が青褪めているように見えた。たった一撃で豊前をここまで戦闘不能に陥れるなんて、内臓が損傷してる…?でも出血量はそこまででもない。だとしたら、毒?それなら、早く処置しないとどんどん豊前が弱ってしまう。


    「みんな!聞いて!豊前が毒を受けてる!相手の攻撃に気をつけて!それから退路を守ってほしい!任せたよ!」

    両手が塞がらないように豊前を俵のように肩に担ぎ上げると敵前へと姿を晒した。その場の空気の密度がぐっと煮詰まったのがわかる。敵が手負いの豊前を担いだ僕という標的を見定めたこと、そうして殺気が目に見えて増した敵を一体たりとも逃すことなく切り伏せることに作戦を切り替えた仲間の覚悟。それらが手に取るようにわかった。

    極寒の戦場の体感温度が上がる程の殺気の応酬。ビリビリと張り詰める空気に小枝がバリっと悲鳴を上げて折れる。その小枝が地に落ちたのと同時に僕は走り出した。

    すべての敵の視線が僕を捉えたのを確認して、僕は力の限り敵の間を駆け抜けた。どこに敵が潜んでいるかわからない木々の間を抜けるより、こっちの方が勝算がある。それに豊前を担いでいるから、不意の敵の攻撃に豊前が晒されるのはなんとしても避けたかった。

    このルートなら仲間が僕らを守ってくれる。敵を一体残さず刈り取ってくれる。だから、だから

    ぼくは豊前の疾さをこの足に宿してくださいって祈りながら、町への道をひたすらに走り続けたんだ。



    仲間が敵を囲い込んでくれたおかげで、僕は時間遡行軍に急襲されることなく街道まで辿り着けた。

    昼は往来の盛んな街道とはいえ、こんな霰まじりの雨降る深夜に出歩く者など居はしない。

    この戦闘装束も、一般人から見るとその時代、その土地にあった衣類を着ているように見える特別な技術が施されている。

    つまり、ここからは人目を気にする必要はないってことだ。

    それでも追手に拠点に気づかれるリスクを回避するためにいくつかの場所に立ち寄る。尾行されていることが確認できるようにわざと朽ちた板を置きっぱなしにしている道や、普段誰も入らないような小さな裏道だ。

    裏道を抜けても立てかけてあった竹筒を誰かがうっかり倒してしまったような音はしない。

    つまり尾行はされてないってことだ。

    これでやっと安心して拠点に向かえる。焦れったいけれどちゃんと手順を踏んで、僕と豊前はようやく外観が廃屋風の拠点に辿り着いた。

    集合地点の廃屋には入り口に花が落ちていた。これは刻の政府の協力者が置いたもの。中は安全ですのしるし。

    そのしるしをそのままに、僕は廃屋の扉をからりと開けた。

    こんなふうに一見ボロボロに見える拠点だけど、機能の面はちゃんと使い勝手がいいように整えられている。これも協力者のおかげ。

    感謝の気持ちを胸に抱きつつ、埃ひとつ落ちていない板張りの床に豊前の身体を横たえた。

    どうしよう、呼吸浅くなってる。体温も見るからに低そうだ。

    グローブと手甲を外して手首の脈を取るけれど、屋根や壁に当たる雨音でうまく聞き取れない。

    とりあえず患部を確認して…

    豊前の背面に周り込んだ僕は、はっと息を飲んだ。

    豊前の背骨の少し横、肩甲骨との隙間に棒のようなものが深々と刺さっている。

    おそらくは毒矢を受けたのだろう。仲間が豊前に駆け寄った際に軸の部分の篦(の)をへし折ったようだ。竹でできた棒が豊前の背から3寸ほど突き出た状態になっている。

    処置をするのに邪魔で、戦闘服は申し訳ないけど切り刻ませてもらう。患部のあたりはおよそ人体とは思えないような紫色に黒ずんでいて、深々と刺さった矢尻はよく見えない。

    優先順位。こういう時まず何をしたらいい?脳内をフル回転させて、でも判断は迅速に。

    豊前の体温がこれ以上下がるのは絶対によくない。火を熾そう。幸い囲炉裏が切ってあるから、豊前を横に転がしたままで体温を上げながら処置できる。

    早く火を大きくしたくてさっき切り刻んだ豊前の戦闘服を種火に翳すけれど、この戦闘服は耐火性にも優れているようで燃えてはくれない。もどかしい気持ちを押し殺しながら、襟元に縫い付けたお守りを豊前に握らせる。

    「豊前、僕がわかる?これ持っていられる?」

    豊前の肩に手を添えると、ん、と小さく頷いた。僕はもう泣きそうだった。こんなに弱ってる豊前見たことがない。それでも一生懸命お守りを握ろうと指先に力を入れる姿に、僕がなんとかするんだと己を叱咤する。

    ぱっと小さくも眩しい赤が弾けて、ぽう、と部屋全体が明るく照らされる。火がようやく回り始めたんだ。少しほっとした僕は火を囲むように薪を立てて火力が増すように手助けする。

    そうしながら、棚から応急処置用の薬や布巾や道具を豊前の横に並べていく。つい畑に関する書物ばかり読んでしまうけれど、今度から医学に関わるものも読んでおこう。必要最低限の処置はできるつもりだけど、いつまたこんな状況になるかわからない。

    治療の道具に消毒用にと酒をかけ、大きくなってきた火で表面を炙る。麻酔の類はないようなので、ごめんね、痛いけど我慢してねと声をかけ、小刀を豊前の背にあてた。ぎゅ、と眉根を寄せる豊前。だけど声はふぅ、という微かなものだった。

    「頑張って、すぐに矢じりを抜くからね。」

    できるだけ小さな傷跡で済むようにと慎重に小刀で変色した皮膚を切り除いていく。時折微かな声が漏れるけれど、身体はほとんど暴れない。いつもあんなに元気で快活な豊前が痛みに声を上げることもできないなんて…でも。

    「ごめん。ここからは深いところに触るから痛いと思う。舌噛まないようにこれ咥えてて」

    僕はぐったりしてる豊前の口を開かせて、僕のパーカーの袖を咥えさせる。そして患部がよく見えるように更に囲炉裏の近くへとその身体を寄せて傷口に目を凝らす。

    「!!!」

    予想していたより事態はずっとずっと深刻だった。

    豊前の身体を貫く鏃(やじり)には銛のような返しがついていたんだ。

    もし豊前がこの矢の毒に耐えたとしても、鏃を抜く時に豊前の身体を更に痛めつけるように、彼の健やかな筋肉を、内臓を滅茶苦茶に破壊するように意図して設計されたその形。

    戦場での合理性を突き詰めたその機能に、僕は戦いの醜さを思い知らされる。

    戦は醜い。そんなのわかりきったこと。だけどその戦の道理に恋刀が晒されて、僕は冷静じゃいられなくなっていた。ううん、そんな生ぬるい気持ちじゃない。僕は焦りと哀しみと胸の痛みで発狂しそうだった。

    それと同じくらい自分の無力さに打ちのめされていた。

    豊前が僕の手を握るまでは。

    冷たいなにかが僕の手に触れて、ぎゅっと握った。それはさっきまで拷問のような痛みに晒されても震えることしかできなかった豊前の手。

    満足に動かすことのできないはずの手、それを豊前は。


    「くあな…やれ。おれはお前をしんじてる」

    その指先の冷たさとほとんど呂律の回ってない言葉が、僕を奮い立たせた。

    「痛いし、苦しいと思うけど我慢して。絶対に僕が豊前を本丸に連れて帰るから。」

    覚悟を決めた僕は冷えきった豊前の手を包み込む。暖めるより祈る形に近かった。だってそれは僕の誓いだったから。

    豊前の手をお守りに添えた手に重ねて、僕は豊前の傷口に向き直る。

    豊前との誓いを果たすために。

    一緒に本丸に帰るために。

    僕は念の為、もう一度豊前の口に袖を宛てがう。それから返しを抜くために肌を小刀で切開していく。返しは全部で3本。その内2本は筋肉に刺さっているだけ。問題は最も内臓に近い部分。下手したら大きい血管を傷つけてしまうかもしれない。そうなってしまったら?

    僕はそんな事態が起こらないことを祈りながら、僕の本体を鞘から抜き出し、囲炉裏の炎に差し入れる。

    慢心しない、期待しない、楽観視しない。

    最悪の事態はずっと起こり続けてるんだから。

    パチパチと木炭が爆ぜる音がする。

    刀身が熱せられる毎に心臓が焦げ付きそうなくらい熱くなって、次第にその熱は肺を蒸して肌さえ舐めるほどに僕を苛み始める。

    大坂城で焼けた刀たちはこんな思いをしたんだろうか。刀の姿を得て百年の後に自我を得た僕には初めて経験する熱さ。そして僕はこの真っ赤に熱した刀身を豊前に、僕の恋刀に押し当てようとしている。

    でもやらなきゃ駄目なんだ。そうしないと豊前が失われてしまうから。

    そうならなければいい。案外簡単に返しが抜けて、切開した筋繊維と傷口を縫合するだけで済めばそれが一番いい。

    そう願いながら心のどこかでわかっていた。今日はとことん運に見放されてる日だって。

    最悪の事態が起きるべくして起きる日だって。

    ぐらぐらと煮え滾る熱さに意識を持って行かれそうになりながら、僕は大きく深呼吸をした。

    豊前の命を預かる。

    僕も君と同じ苦しみを味わうから。

    だから

    生きて。

    小刀が豊前の肉を傷つけて、新たにできた傷口から血がこぽりと湧く。それを布巾で押さえて拭き取って、力を込めて鏃を抜いた。

    ブシュッと高く飛沫が上がる。

    豊前の温かな血が僕の顔を真っ赤に染め上げる。

    ほら、運命は僕らを何があっても引き裂きたいんだ。

    でもそんなこと絶対にさせない。

    縫合針で鏃が傷つけていた血管を縫合して筋組織も縫っていく。どんどん湧いてくる血を布巾で押さえながら一心不乱に、でも的確に、繊細な手つきで縫合針を操る。だけどどうしてか傷口が閉じていってくれない。毒に侵されて切除した皮膚の範囲が広すぎたからだ。

    もういやだ。嫌な予感ばっかり当たる。

    だけどその予感は僕が予想していたもの。ちゃんと対処を講じていたもの、だから。

    僕は真っ赤な光を放つ自分の本体を掴んで、その熱く煮え上がった刀身を

    愛する豊前の身体に




    目を覚ましたらそこは本丸の手入れ部屋だった。手入れ部屋の扉は主の執務室に繋がっていて、そこ以外から出入りすることはできない。

    しずしずと引き戸を開けると、そこには二振り分の新しいお守りの準備をする主の姿があった。

    「無理をさせて申し訳なかったね、桑名江。あなたの働きに感謝しているよ。」

    胃を逆流するように苦い思いが喉元まで込み上げる。主は優しく声をかけてくれたけれど、僕は、僕は。

    結果として豊前をこの手で折って、僕も同時に折れた。

    傷口を焼いて出血を止めるための処置は豊前の身体には負担が大きすぎて、そしてその処置のために刀身を熱した僕は本体が熱に耐えきれず、豊前の膚を焼いた後にぽっきりと折れてしまった。

    拠点に仲間が帰ってきた時の僕らは折り重なって倒れていたそうだ。

    幸い主が持たせてくれていたお守りが発動して復活はできたけれど、今に至るまで僕らが目を覚ますことはなく、仲間を随分と心配させたらしい。

    「主、ごめん。僕、豊前と僕のお守り駄目にしちゃった。判断も間違った。本当に、ごめんなさい。」

    床に膝をつき、深々と頭を下げる。僕はこの思いをどうすればいいのかわからなくて、できることならずっとこのまま頭を下げ続けていたいと思っていた。そうしてさえいれば無力感と罪悪感が薄らいでくれるんじゃないかって心のどこかで期待する気持ちがあった。でも僕の主はそんな甘えたを許してくれるような人ではない。

    「謝らないで、顔を上げて、桑名江。」

    「お守りは、駄目になった訳じゃない。桑名が豊前に処置を施さなかったら、豊前はお守りの力を使って一度は長らえたとしても毒がまわって帰路で折れていたかもしれない。わたしは桑名の判断は正しかったと思っているよ。本当に条件の悪い行軍をよく差配してくれたね、ありがとう。それから、気に病まないでほしいことがあるのだけど」

    主はそう前置きをして、豊前江の背に消えない痕が残ったことを教えてくれた。

    お守りの効果で復活するタイミングで、元来豊前江が刀としてこの世に生を受けた時に近い高熱を浴びたことで、その火傷は豊前の製造過程で発生したものだとシステムが誤認したのではないかという政府の見立て。

    そしてそういった経緯を加味すれば、豊前のやけどの痕は豊前のデフォルトの仕様として、今後手入れしたとしても消えることはないだろうという結論が下されたこと。

    僕は、恋刀の豊前をこの手で折って、その上終生背負っていかなきゃいけないやけどの痕を負わせて。

    あの美しい背中は僕のせいで戻ってこない。

    ごめんなさい豊前。

    ごめんなさい主。

    ごめんなさい江のみんな、そして本丸のみんな。

    その日から僕は夜が怖くなった。

    夜だけじゃない。豊前の背中だって顔だってまともに見れなくなった。

    僕のせいで失われそうになった尊い命。その命の暖かさを、眩さを、愛しさを僕らはずっと二人で味わってきたから。

    そのなにより愛しい存在を失ったら自分の一部がなくなるより辛いって知ってしまったから。

    僕は豊前という命に触れることが怖くて怖くて怖くて。

    でもそういう時に、分厚くて高い壁を飛び越えて来てくれる、

    それが僕の好きになった豊前江という刀なんだ。

    夕餉を終えて足早に自分の部屋に戻ろうとする僕の前に立ち塞がって、豊前は僕を真っ直ぐな目で射抜く。

    「なぁ、桑名。今夜抱いてくれ。お前にすげー甘やかされてぇんだよ。」

    以前の僕だったら、そんな目で言うこと?って抱き締めてキスをして、こそばゆい気持ちを胸に抱いたまま豊前の手を引いて僕の部屋までいざなっていたはずだ。でも今の僕にはそんなことできるはずもなくて。

    「ごめん、まだ気持ちの整理がついてないんだ。豊前の背中の傷を見たらまた豊前を折った時のこと思い出しちゃう。あの日から夜の暗さが怖いんだ。真っ暗になるとどうしても思い出す。目の前で血の気を失っていく豊前の白い顔を、力が抜けてぐったりした身体を…僕は…!僕は………!!!」

    紡ぎだすように吐いた言葉は途中から堰を切ったように溢れて止まらなくなった。震える手はあの日の豊前みたいに血色を失って、その温度が僕をあの日に連れ戻して恐怖が僕の肺を軋ませる。凍てつく霰の礫の中を走って逃げた夜を蘇らせる。

    「そっか、わかった。」

    僕を何かから守るようにふわりと風のように抱きしめられた。

    豊前の声が僕の耳を掠めると温かな息が僕の髪を優しく撫でる。

    「じゃあさ、明日遠乗りにいかね?」

    桑名は前を走ってくれたらいいからさ。それなら俺の背中、見えねーだろ?

    「約束。」

    ちゅ、と耳元にリップ音とやわい唇の感触を残しながら、同時にそれとは全く正反対の強さでバシバシと僕の背中を叩いて、豊前は自分の部屋へと戻っていった。



    翌日、僕らは非番の馬を借りて遠乗りに出た。小春日和と呼べるような気温の中、たっぷりのお日様を浴びながら僕らは軽快に馬を走らせる。鞍や鐙ごしに伝わる馬の体温は温かくてほっとする。風はひんやりしているけど、運動しているからか寒さは感じない。後ろを振り向くと同じく鞍の上で揺られている豊前がいて、僕と視線が合うと手を振ってくれた。

    「豊前、早駆けしてきたいんじゃない?行っておいでよ。僕このあたりで草食ませておくからさ。」

    こんなお散歩程度の速さじゃ豊前は満足していない。そう思って声をかけたけど、豊前は「こんくらいのペースでいいんだよ」と上手に手綱を扱って僕の横に並ぶ。

    「今日は桑名と一緒にいることが目的だから、って言わせんなよな」

    ニカッと歯を見せて笑う豊前に、そういえばこういうの久しぶりだなって懐かしくなる。

    僕たちこうやって遠乗りとか、お出かけとか自然にできてたんだ。今はこんなにもぎこちなくなってしまったけど。

    しんみりした気配を感じてか、豊前はちょいちょい、と手招きをした。

    「なぁに?」

    「ほら、俺の手、握ってみて」

    片手に手綱を持ち替えておずおずと手を差し出すと、豊前は僕の手は握らずに揃えた指先で僕の指を撫でた。

    「こちょばいか?」
    「うん、少し」
    「じゃあこれは?」

    今度は手の甲の上を滑るようにさわさわと。

    「ふふっ、くすぐったい」
    「ははっ!わりぃわりぃ」

    悪いって言うくせに豊前はなかなか触るのをやめなくて、寂しかった時間を取り戻そうとしてるみたいに思えた。そうさせてしまったのは僕。ごめんねの気持ちが涙となって零れそうになったその時、

    ふに!と豊前の唇が僕の唇に重なった。

    「はっはー!桑名といられるのすげー久しぶりな気がしてさ、つい我慢できなくなっちまった!」

    急に動いたからか、豊前が大きい声を出したからか、馬がびっくりしてたたらを踏むのをどうどうと宥める。とっとっ、と歩き出した2頭の馬をそれぞれうまく操りながら、落ち着かせると、視線を上げた先に豊前の背中が見えた。

    心臓を冷たい手で握られたような悪寒が背筋を走る。

    豊前は僕の不自然さに気づきながら、その背中を僕の視線から隠そうとはしなかった。

    「なぁ、桑名。聞いてくれっか」

    大丈夫、豊前の声、ちゃんと僕の耳に届いてる。心臓はまだ冷えきってるけど、でもちゃんと聞こえてるよ。

    その気持ちを込めて僕はこくりと頷く。

    「嬉しかったんだよ、俺は。桑名が俺を生かしてくれて、一生懸命俺を思ってくれた痕跡がこうして身体に残ってるってのがさ。だってほら、俺には自分がいた証みたいなのがねーから。でもここには残ってる。俺には見えねーけど、確かにある。桑名が俺の背中見て切なそうにしてんの見る度に、あぁ、確かにここにあんだなって思ってんよ、でも。」

    豊前は僕に背を向けたまま、顔だけこちらに振り向いた。

    「もう終わりにしようぜ。この傷は俺が死にかけた痕じゃない。」

    「俺にとってこの傷は、桑名が俺を生かしてくれたことの証明で、桑名が思ってるようなことは俺は何一つ思っちゃいねーし、うーん…なんて言えばいいのかな。これはお前の誉傷と同じ生きて戦った証なんだよ。まぁ俺は愛の証だって…思ってっけど……」

    「ちゃんと伝わってっかな」

    豊前は僕に背中を向けたままだったから、僕には豊前のうなじがまっかっかになってるのがよく見えた。それから耳も。

    豊前が照れていて、そしてちゃんと生きて血を巡らせていて、体温を宿らせているのが全部伝わってきて、その温度が凍てついていた僕の心臓を融かして、やっと僕の身体にも体温が戻ってきた心地がした。

    二度と思い出したくもないと思っていたあの日の出来事をやっと飲み下すことができた。

    「でも俺が桑名の立場だったら、」

    「もう大丈夫。」

    やっぱり俺も、同じように苦しんだと思うから。

    豊前はそう言おうとしてくれたんだよね。でもそれは言わないで。

    豊前の優しさはよくわかってる。だからこそ、僕だって君のこと傷つけたくない。もしも、もしもだけど、豊前が『それ』を口にしてしまったら、言霊となっていつか豊前を苦しめるかもしれない。

    豊前は僕をあの夜から救い出してくれた。だから僕も豊前を守りたいんだ。力不足でも、できることを精一杯。

    「もう大丈夫だよ、豊前。」

    僕は馬を豊前の横に寄せて、豊前の手に手を重ねる。そのままきゅっと握って、今度は唇と唇を重ね合わせた。

    「もう怖くない。僕は “これからも” 君を守るよ。」

    「おう!頼りにしてんよ!それじゃあ景気付けに向こうの峰まで競争な!」

    くるりと手綱を操って、あっという間に豊前の背中が遠ざかっていく。

    だけどその背中を見てもさっきみたいにはならなかった。

    僕は、今の僕は僕が守った豊前の身体にあたたかな血が巡っていることを知っている。豊前の身体が、命の炎が燦然と輝いていることをわかっている。

    だから、もう、大丈夫。

    豊前が僕の中から引き出してくれた大丈夫を何度も噛み締めながら、僕は真っ赤に染まった恋刀のうなじを追いかけた。
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