煙社降臨節暦 第十二夜/久遠一家 恋を忘れ走り続けてきた。淡く濃やかな感情が自分にも芽生えうる可能性に目を向ける暇もなかった。それが不幸であるとは思わなかった。
今でも悔いてはいない。悔恨の情が生まれる出来事はいくつもあったし、そのたびに痛みも生まれた。だが、どれひとつ欠けても今現在には辿り着けなかった。楽を選ぶことができない人生だから、掴めた手もある。
久遠はクルマに積み込むための荷物を整理しながら手を止めた。アルバムの入った段ボール箱は一つではなかった。自分が関わった選手たちのデータに比べれば少ない数だが、それでも久遠はことがるごとに娘の写真を撮り、アルバムに収め続けてきた。FFIで監督を務める少し前、冬花を撮った写真がある。どんな感情を出すことも拒むような頑なな表情。反抗期らしい反抗期もない娘だったが、自らその奇妙さに気づいている節があった。彼女は久遠以上に聡く、人間らしい感情の機微を備えていた。カメラの前で笑顔を作らないのは、父である自分への信頼と彼女なりの甘えだと久遠は分かっていた。笑顔でない写真は事務的に言えば使いやすい写真でもあり、それはFFIにおいてマネージャーとしての登録、また渡航の際に必要な証明写真としても使われた。
手に取った写真をアルバムに挟み直すことができなかった。今でも久遠にとって特別な娘の写真だった。冬花ひとりの写真だが、これは同時に親子の写真だった。この冬花は自分に似ていると人は言う。実の親子ではないと言うと不思議がられるほどに。瞳が、表情が似ている、と。
「君は変わった」
久遠は写真の中の少女に話しかけた。君は悲しい過去も取り戻した。辛い目にも遭った。だがこの後、どんどん笑うようになった。穏やかな微笑だけではなく声を上げて笑い、冗談を言う隣の男の肩をげんこつで叩いたり、雑にもたれあったりするようになった。様々な人間に出会った。自ら進む道を決めた。ともに手を繋ぎ歩く伴侶を決めた。
恋を忘れ、夫婦というものにならなかった自分の娘が、結婚し、夫婦となった。サッカーの教え子が、今もサッカーを続け、自分の息子となった。家族も増えるのだろう、そのうち。自分には必要ないものと振り払った景色をふたりが見せてくれる。
マンションを引き払うまではまだ間がある。スペインの住居は今、ふたりが探している最中だ。自分も引っ越すのは、こちらでの協会の仕事に区切りをつけて、早くても来年だろう。それでも準備はしなければならない。娘とふたりきりの暮らしは今日明日では片付かないほど、いつの間にか大きなものになっていた。
着信音。ビデオ通話だ。画面が明るくなる。
「お父さん!」
ずぶ濡れの冬花の顔が画面いっぱいに映る。隣には明王がいて、濡れた上着を彼女の手から取り上げている。
「……どうした」
「深刻な顔しないで、トラブルじゃないのよ」
「道也、起きてっか」
「……まだそれほどの時間ではない」
「見て、聴いて」
明王がフォンを取り上げたらしい。冬花の全身が映る。ずぶ濡れのワンピース。しかし彼女は笑って、街を手で指し示す。どしゃぶりの街角。激しく光り輝く空。雷鳴。
「オーケストラみたいな雨でしょう」
「…ティンパニうるさすぎだよな」
明王が顔をのぞかせて笑った。
ああ、と道也は笑みを作る。未来の俺が暮らす街は、娘と息子が笑っていてオーケストラみたいな雨が降る。