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    ベルジャン

    Omnia sol temperat 03音が聞こえる。
    チクタク、チクタク……一定の間隔を保っていつまでも。
    途絶えることはない。
    絶え間なく、まるで鼓動のように。


    夜のデイバンストリートを走る車の後部座席、ベルナルドは小さな音に耳を澄ませる。
    窓からのぞく月灯りに照らすように腕を持ち上げると、その手には腕時計。
    高価なわけでも無い。実用的で、所々に小さな傷も見える。長い間、誰かの腕で時を刻み続けてきたのだと判るありきたりの時計だ。
    けれどその時計を、ベルナルドはきらきらと輝く宝石のように、眩しげに、そしてとてもやわらかな表情で見上げる。
    常ならば鋭い緑の眼光を、穏やかに和らげて。そして、口元にも微かな笑み。
    ひどく安らいだ表情が表す通りに、その胸の内にもここしばらく馴染みのなかった満ち足りた平静が訪れていた。
    チクタク、チクタク、秒針が鳴る。
    そのリズムに重なるようにして、蘇る声があった。

    『あれ、なんだこの時計。どこも壊れてねーじゃん』

    不思議そうな。
    見たままをぽつりと口にしたのが丸わかりの、素直な声。
    蜂蜜色の、好奇心の強そうな眼をきょとんとさせて首を傾げていた。
    幼い、というには語弊があるだろう。けれど、まだ子供の時期を脱してはいない、ベルナルドの胸までの背丈しか無かった小柄な少年だった。
    小さなリューズを、巻くことを怖がって触れられなかった情けない自分に手を差し伸べた。
    衒い無く差し出された手のひら。本当なら見知らぬ子供に渡すなどありえない筈の大切な時計を、ひょいと預けてしまったのは、太陽を背に負って覗き込んだ金色の眩しさと、自信に満ちた鮮やかな笑顔のせいだ。夜の闇を厭うようになってから毎日、焦がれるように望んだ太陽の色と、そしてどうしても取り戻したい、己の誇りの在り処を疑わぬ強い心。あの少年はそれを持っていた。
    冷たくひえたベルナルドの指とは違う、暖かな指先で少年はキリキリとリューズを巻いた。
    躊躇い無く、ベルナルドが踏み出せなかった一線を越えた。
    そして、言ったのだ。

    壊れてないじゃないかと。
    動くじゃないか、どこもおかしくないじゃないか、なにも――壊れて、いないじゃないかと。
    壊れていなかった。
    時計は、リューズを巻くことで何事も無く再び動き出した。
    ならば、と。
    胸の内で、希望がその首を擡げる。この時計が壊れていないのならば、ベルナルドの中、罅割れた誇りもまた、壊れてはいないと。
    壊れていない。
    壊れていない。
    壊れていない。
    渦を巻く少年の声のリフレインに、思わず苦笑する。壊れていないと幾度も同じフレーズばかりを繰り返す脳は、逆に壊れたレコードのようだ。


    午前中、太陽の照る最中の景色はどんよりと濁って見えていたのに、月と星の儚い明かりに映し出される夜景は鮮やかに美しく映し出されている。
    この街は、美しい。
    現金なものだと、ベルナルドは車窓からデイバンの街並みを眺めて口角を上げる。
    帰ってきたと、初めて実感が湧いた。
    塀の外へと解放された時には、ただただあの忌まわしい場所を離れたいとしか思っていなかった。デイバンに戻ってからも、瞼の裏に蘇る陰鬱な記憶を振り払うことばかりを考えていた。がむしゃらに仕事に没頭して、ファミリーの上層部が眼を見張るほどの功績を短期間で上げ、投獄されていた間のブランクを埋めて見せたのもそのためだ。追われるように仕事を抱えていれば、余計な夢を見る心配も無い。
    思い返せば、過去を振り払うためといいながら過去に囚われていただけだった。
    だが今日、ベルナルドはようやくデイバンに戻ってきた。動き出した時計に、狭くて暗い場所に閉じ込められていた心が解き放たれた。
    あの少年がつけていた時計。彼が生きる時間の流れに、ベルナルドの時計を合わせてくれた。だからもう、ベルナルドがいる場所は過去の幻影が作り出した檻の中ではない。

    掲げていた手をゆっくりと下ろす。文字盤を覆うように上に手を被せ、心臓の上に置く。
    耳に馴染んだ時計の音が、ベルナルドの鼓動と重なり合った。

    「――時計、どうかされたんですか?」
    「――っ!」
    唐突に声をかけられて、ベルナルドは弾けるように顔を上げる。バックミラー越しに慌てた顔の部下が、すみませんと謝って寄越した。
    目を丸くし――すぐ傍にいる部下のことすら忘れていた自分に苦笑いを零す。
    「構わないさ。考え事をしていたんだ」
    車という密室の中で、後ろの上司が突然腕時計をうっとりと見つめてにやにやとし出したら、それは気持ちが悪いだろう。だが自分から気味が悪かっただろうと言い出すのも照れくさく、ベルナルドはそ知らぬ顔をして部下に応えた。
    年若い自分よりも、いくつか年上のはずだ。けれど年下の若造の下についても不貞腐れずに、忠実に務めを果たしてくれている。ベルナルドの手腕を信頼し、その指示を的確にこなしながら上司の意を汲んで動くことも忘れない。良い、部下だ。鏡越しに見える部下の穏やかな目元を見て、思った。そう思うのも初めてだった。出所後、何ヶ月も彼を率いてきたと言うのに、組織のコマである兵隊としてではなく、一個の人間としての彼を見出したのは初めてだった。
    随分と、自分の目は節穴だったようだ。この調子では、どれだけのものを見落としてきたことだろうか。
    気付かされ、顔から火が出るようだった。だが、気付くことができてよかった。心底、そう思った。

    「いつもは、つけていらっしゃらないですよね」
    ベルナルドの表情を伺って、苦笑気味な上司の姿に戸惑いを滲ませながら部下は尋ねる。ゆるりと笑い、ベルナルドは頷いた。顔が緩んでいるのは自覚していたが、鏡越しの部下が自分の笑みを見て思わず眼を見張ったのに気付き、いったいどんな顔をしているのだろうかとふと気になった。横を向き、硝子に写った顔を覗き込む。
    そこにいたのは、怜悧なマフィア、次期幹部候補と目される有能な男などではまるで無く――ベルナルド自身初めて見る、幸せそうな笑みを浮かべた青年だった。

    (――俺は、こんな顔もするのか)

    目の当たりにしたベルナルドの率直な感想は、「気持ちが悪いな」という身も蓋も無いものだった。けれど嫌な気はせず、物珍しさが勝った。自分がこんな顔をする原因は、まず間違いなくこの時計だ。だが、たかが時計一つに左右されるなどとそれほど浮かれた性格だっただろうか。首を傾げると瞼に浮かぶのは、さらりと揺れる金の髪。
    満面の笑みを浮かべたあの少年に、笑い返すのならばきっとこの顔で正しい。妙な理屈を思いつき、納得してしまうおかしな自分に苦笑して、運転席の部下に答える。
    「ああ。ようやく、直ったんだ」
    「壊れていたんですか?」
    「いいや。――壊れて、いなかったんだよ」
    「は?」
    首を傾げる部下に、もう一度「壊れていなかったんだ」とだけ告げる。勿論それだけでは何も判らなかっただろうが、彼はベルナルドの口元が弧を描いているのを見つけて、何事かを悟り口を閉ざした。
    会話の途切れた車内に、再びチクタクと時の進む音が響きだす。
    ゆったりとした静けさに身を任せながら、ベルナルドは流れるデイバンの街を愛しげに見つめた。


    スムーズな運転の車が、するりと道路脇に停車する。間近にエントランスが見える建物は、今夜の仕事場だ。
    郊外の開拓事業に関与するいくつかの組織の代表者が集まって、利権の配分をハイエナのように一欠片の肉片も残すまいと貪り合う。海千山千の交渉人がテーブルにつくこの会合は、本来ベルナルドのような若造に任される仕事ではない。だからこそ、完璧にこなして見せればその分、箔がつく。
    他の客人は既に到着しているようだ。あからさまに堅気でない男たちが囲む車がずらり並んだ様を見て、ベルナルドは牙を研ぎ澄ます。
    長い間さいなまれ続けた気鬱が晴れた事によって、実にすがすがしい気分だった。元来、大きな試金石として待ち構えていた仕事、今なら十全の成果が出せると言う確信があった。
    穏やかだった笑みの内側から、血の匂いが透けて滲む。悠然とした表情の余裕はそのままに、獰猛さを孕ませてベルナルドはドアを開けた。
    「私たちが最後のようですよ」
    「真打は最後に登場、というセオリー通りと言う訳だな」
    軽口を叩く余裕もある、大丈夫だ。
    資料の詰まったアタッシュケースをトランクから取り出している部下に目配せをする。即座に頷いた部下を引き連れ、ベルナルドは歩き出す。
    腕時計で時間を確認すれば、丁度良い頃合だった。それを見ていた部下が、ふと笑った。

    「時計、直ってよかったですね」

    良かった? ああそうだ、良かった。
    時計が直ってよかった。この大切な仕事の前に直って良かった。勿論、時計がない時から今日のための準備は入念に進めてきたし、無くとも負ける気なんて更々無かった。けれど、こうして時計が動いている今、昨日までの比ではないくらい、まるで負ける気がしなかった。失敗の未来を想像する度に、チクタクと鳴る時計の音がそうじゃないんだと未来図を修正をかける。
    輝かしいばかりの、黄金色の勝利へと。
    漲る気力と闘志に唇を緩ませて、ベルナルドは静かに頷く。
    自分は、敬虔な聖職者のように純粋に神を信じられるような人間ではない。けれど今日と言う日は、神に感謝を捧げたい気分だ。
    神と、そして――あの金髪の子供に。
    舌先に毒を塗った男たちの戦場へと向かいながら、脳内では策謀と、数字と、そしてあの金色が踊っている。

    ――そういえば、俺はあの子の名前も知らないのか。
    網膜に焼きついた笑みに呼びかける術を知らない事を、ベルナルドはほんの少し、寂しく思った。





    それから、しばらく。

    季節がいくつか過ぎ去った。
    あれからベルナルドは、街中ですれ違う金髪に眼を惹かれるようになったり、時計屋のショーウィンドウを見ると思わず覗き込んでみたりするようになった。だがあの日以来、少年には会えていない。
    会えないままに、ベルナルドはCR:5内での階段を駆け上った。その後もいくつもの功績を上げ、いまや非公式に囁かれる幹部候補という噂を否定できるものはいない。
    あの日の会合は見事なまでの成功に終わった。表向きにはCR:5を始めとするいくつかの組織が利権を分け合うことで決着を見た会議。しかし、餌の旨い部分にありついた組織はすべて、事前にベルナルドが秘密協定を結んでいる組織だった。独占して他の組織を刺激するような事態を避けながら、実質的にはすべての利益を手に入れた。その功績は大きく評価された。
    かつて、父が死んだ時の年齢よりも遥かに若いうちに、ベルナルドは父の地位を越えた地位を築き始めている。
    亡父の名を知らぬ人間も、ベルナルドの名は知っている。けれど父を越えた息子の腕では、父から受け継いだ時計が変わらず時を刻んでいた。

    そんな時だ。
    ラッキードッグ、と呼ばれる少年がいるらしいという噂を耳にした。
    若手の準構成員たち――と言ってもベルナルドと同年代なのだが、序列では大きな隔たりがある青年達を集めたカードゲームの席だった。
    とんとん拍子に昇進を決めているベルナルドだが、時にはこうして彼らに混じってゲームに興じることがある。それは純粋な遊び目的と言うよりは、下位の者たちから見た様々な情報を手に入れるための手段ではあったが。零れ出る上司への不満や、些細な噂話の中にも重要な情報の片鱗がある。酒と賭博で頭がいっぱいになるゲームの席では、彼らはそれを漏らしやすい。ベルナルドにとって、絶好の情報収集の場だった。
    裏稼業に勤しむ男達がテーブルを囲んで、お行儀良くババ抜きやセブンカードに興じる筈もないから、自然とカードの目に金銭が付随しはじめる。運気の良い者は懐を厚くし、巡り合わせの悪い者は頭を抱えて翌日の酒代を失い、くだを巻き出した。
    そして、明日の酒代どころか身ぐるみ全て失うほどの大負けをした一人の男が、財布ごとたたき付けるように差出しながら、煙草のヤニで染まった天井を見上げて言ったのだ。

    「畜生! ラッキードッグの強運がありゃあなぁ!」

    ラッキードッグ?
    賭け事の場ではどうしたって興味を煽るキイワードに、ふと気を惹かれた。首を傾げたベルナルド、その周囲で男達が口々に、知っている、と声をあげた。

    「最近CR:5に入ったガキだろ?」
    「先週のレースで万馬券当てやがったヤツか!」
    「道端でダイヤの指輪を踏んづけるって、意味わからねえよな。俺も一度は経験してみてえよ」
    「無理無理! てめえゲームで一度だって勝った事ねえじゃねーか。あのガキ、ギャンブルも結構強いらしいぜ? お前とは根本的に違うんだよ」
    酒も入っているせいか、噂話は女のように姦しい。次々に語られるラッキードッグの幸運話に半信半疑相槌を打つベルナルドの耳に、ある一言が飛び込んで来て、その声はまざまざとこびりついた。

    「時計屋のガキだろう、金髪の。薬中のイカレ野郎に両親殺されて、一人だけ生き残ったっていう」

    時計。
    金髪。
    たったひとり生き残った、子供。

    チクタクと音がする。
    時計の音。時を刻む秒針。ベルナルドのもうひとつの鼓動。
    そして今のベルナルドには、ばらばらに落ちていた歯車が組み上がる、噛みあうピースの音に聞こえた。

    『それ、俺が直してやろーか』
    『なんだこの時計、どこも壊れてねーじゃん』

    容易く、他愛なく、あれほど苦心しても動かせなかった時計の針を直した少年。
    止まった時計を、過去に囚われた――ベルナルドを、直した。
    誰も、直せないはずの時計。大切で、見知らぬ誰かに預けるなど思いもよらなかったというのに、あの少年が差し出した手を、払いのける事こそ脳裏に浮かびもしなかった。少年の手が、指が、動くのを凝視していた。耳を澄ませていた。
    再び、動き出すことを疑いもせずに。

    「そうか……お前は……」

    思わず漏らした言葉に、隣にいた男が首を傾げる。
    「あんたもラッキードッグを知っているのか?」
    問われ、ベルナルドは笑った。是とも否とも答えを返さず、曖昧な笑みで誤魔化して、周囲の会話に耳を澄ませる。
    ギッシリ金の入った財布を拾っていた、気難しいと有名な幹部の誰それに気に入られていた、逸話は次々と溢れてくる。
    ラッキードッグ、彼は随分と有名人のようだ。
    「あのガキ、名前はなんつったっけか?」
    誰かが言い出し、周囲の男たちは頭をひねる。ラッキードッグと言うインパクトの強い仇名ばかりが先行して、咄嗟にその名が出てくるものはいないらしい。

    見つけ出したパズルのピースが正しいとすれば、自分はあの子供の名を知っている。

    「ジャン」
    「え?」
    「ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテ、だ」
    「――なんだ、あんたも知ってたのか。やっぱり情報がはええよなぁ」

    感嘆の声を上げる男たちに、ベルナルドはそんなことはないさと手を振って答えた。
    実際、ラッキードッグと呼ばれる少年のことなど、何も知らなかった。あの日の少年の名も、勿論、知らなかった。
    だが、知っていたことが一つある。
    ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテ――その名前だけは、ベルナルドは良く知っていた。
    ずっと昔。


    ベルナルドがこの時計を初めて嵌めたその日から、ずっと。


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