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    ベルジャン

    ラッキードッグの秘密の恋人ラッキードッグの秘密の恋人







    『ラッキードッグ・ジャンカルロには秘密の恋人がいる』

    その噂がデイバンの片隅でうまれ、街中を駆け巡ったのは、彼の三十歳の誕生日から幾日も経たない、肌寒い季節のことだ。
    イタリア系の移民を中心として発展してきたデイバンは、古くから彼らを庇護してきた非合法組織が実権を握っている。コーサ・ノストラ、CR:5――その頂点に立つ男、それがジャンカルロだった。
    彼は見事な統率力で街を治め、この寒風吹き荒ぶ不況の嵐の中でもデイバンの経済を持ちこたえさせた。しかも彼は、ヤクザ者の粗暴さなど微塵も見せない、鮮やかな金髪と端正な秀貌を持つ、人当たりの良い青年だった。
    その男が、三十歳のまさに男盛りを迎える。
    目の前にぶら下がる宝石を、掴みたいと願わぬものがいるはずも無い。デイバンの未婚の若い娘たち、そしてその父兄たちにとって、ジャンは理想に限りなく近い結婚相手を体現していた。結果として社交界の花々が、次々と彼のもとへ送り出され、けれどいずれも玉砕して帰ってきた。一向に靡こうとしないジャンに、もしや彼は女に興味が無いのではないかなどという下世話な推測さえ出回り始めた頃。
    センセーショナルな噂話は瞬く間に、デイバン中に広まった。

    事情があり表には出てこられない、深窓の令嬢。大変に魅力的な美しい人。
    ジャンカルロはすっかり彼女に心を奪われている。彼が舞い込む幾多の縁談を悉く蹴っているのは、その恋人に生涯をささげているからなのだ、――……と。

    筆頭幹部であるベルナルド・オルトラーニと共に、人払いをした執務室に篭ったジャンは、紙の束を捲りながら、久々に見合いの予定も、見合いを断る予定も無い一日に上機嫌な笑みを見せていた。
    けれど対照的に、並んで座るベルナルドの表情は固い。彼は部下に纏めさせた、例の噂に関する報告書に真剣に目を通し、やがてお手上げだとばかりにぱっとその紙を放り投げた。鳩目が綴じられていなかった書類たちは思い思いの方向へと舞う。大振りな紙ふぶきの下で、ベルナルドは天を仰いだ。

    「まさかこんなことになってしまうとは」

    ひらり舞い散った紙片を一枚、ジャンは空中で捕まえる。

    「浮かねえ顔すんじゃねえよベルナルド。コトが広まっちまったもんは仕方がねえだろ。腹決めて掛かるしかねえさ」

    浮かない顔のベルナルドとは対照的に――ジャンは面白がるような、吹っ切れた表情をしている。ベルナルドが投げ捨てた紙片。そこに書かれていた文字をざっと読み、ジャンは楽しげに、唇を綻ばせた。

    「それにコレ、あながち間違った噂って訳でもねえだろ? ナァ、ベルナルド?」








     ‡ ◇ ‡ ◇ ‡ ◇ ‡


    ――遡ること、数日。

    それは役員の一人が主催した、カポ・ジャンカルロの誕生日を祝うパーティでのことだった。
    この数日間のジャンの仕事は、いくつも開かれるその祝宴に出席して、存分に祝われること。だが、自分の誕生日を祝ってくれるというのなら嬉しいものだが、いくらなんでも三十になったマフィアのボスの誕生日会が、みんなでハッピーバースデートゥーユーを歌ってお開きになるはずがない。商談、密談、陰謀、計略。さまざまな余興が繰り広げられる場で笑顔の仮面を貼り付け続けるのは、それなりに神経を使うことだった。
    しかし、今日のパーティで待っていたのは……それは見事な、美しい花々だった。
    ブロンドにブルネットに黒髪、瞳の色はもっと多彩だ。華やかなドレスに身を包んだ生きた花たちが、余所行きの微笑を纏ったジャンを取り囲んでいる。
    いやこの場合、本当の花は彼女たちではなくジャンの方だろうか。美しく装った彼女らは、たった一本の花の蜜を求めて競い合う蝶だろう。
    何故だか他人の縁談が大好きなご老体方が、この機に未だ独身であるカポの縁談をと画策するだろうというのは、事前に予測できたことだった。だというのに対策を練ることもできず、すべてが後手に回ってしまったことが悔やまれる。
    ある意味、自業自得といえば自業自得であるのだが――

    「カッツォ、ルキーノの野郎後で覚えてろよ……いや、覚えて無くていい。つか忘れてください。二年前のこともまとめて全部……!」

    二年前、はしゃぎすぎたジャンは、ルキーノの「おいでませ、三十路パーティ」を――些かばかり、盛大にやりすぎたのだ。二年越しの恨みを晴らすべく張り切ってジャンの生誕祭を企画する赤毛のライオンに振り回されて、ジャンは役員たちの動向を把握しておく暇も無かった。しかもこのパーティがお開きになった後には、ルキーノの仕切りでCR:5上層部だけの身内のパーティが待っているというのだから余計に、ジャンの疲労度はいや増していく。
    本来であれば顔だけ出して義理は果たしたのだからと、さっさとこの場を去ってしまいたい。だが、それもできない理由がある。
    スレンダーな体系の金髪碧眼の少女は、中央に太いパイプを持つ州議員の孫。女優のような美貌のブルネットは、お仕事でも良くお世話になっているDSPのメインバンクの頭取の愛娘。黒髪に肉厚な唇のセクシーなラテン系の美女は、ボンドーネ財閥には及ばないまでも莫大な資産を持つ資産家の末っ子だ。うら若き女の身とはいえ、皆侮れない出自をもつものばかり。
    彼女たちを相手にすればむしろ、不釣合いなのはジャンのほうなのだ。
    闇の世界の太陽であるジャンも、表向きは本部を偽装した映画会社をはじめとした、いくつかの会社を経営する実業家でしかない。CR:5を、掌中の珠の娘や孫を差し出してまで手を組む価値のある組織だと判じてくれたことはありがたいが、断りがたい縁談ばかりを押し付けられれば気分はよくない。
    視線を動かすと、壁際のテーブルを取り囲んだ老人たちの一団がいた。今日の主催者である老役員の姿もある。彼らは役員会の中でも特にジャンに好意的な、それこそ彼がカポになる以前、カヴァッリ顧問の鞄持ちをしていた頃から可愛がってくれた顔触れだった。彼らはCR:5の利権のために、ジャンに意に染まぬ結婚を押し付けるようなことはないだろうが――、如何せん、早く孫が見たい祖父の心境になってしまっている。純粋な好意故のお節介だからこそ、気苦労は絶えない。
    そんな彼らと共に、ベルナルドの姿もあった。ここからでは話している内容は聞こえないが、早く嫁の顔を見せいと急かす老役員たちを巧く宥めてくれているのだろう。
    さっさと面倒ごとを終わらせて帰りたいとばかり考えていたジャンは、ちらちらと彼らの姿を眼で追ってばかりいて、女性たちの一人が不安げに自分を覗き込んでいることに気付かなかった。

    「……シニョーレ・デルモンテ。先ほどからお顔の色が優れませんが、お加減でも悪いのでしょうか? それとも……」
    「――失礼、申し訳ありません。少々考え事をしておりまして」

    私たちとのお話し合いは、退屈でしょうか?
    悲しげな瞳で問い掛けてくる女性に、ジャンは慌てて頭を振った。

    「そう、ですか……? なら、よかった……」

    不安げに揺れていたサファイアの瞳が、安堵に綻ぶ。それだけで花が咲くような愛らしさだ。妻も恋人も、ある意味事足りている身とはいえ、ジャンも男だ。可憐な笑みは十分に眼に楽しい。これも一種の役得だと割り切ることにして微笑んだジャンに、その他の女たちも次々に表情を和らげる。。
    横並びにならんでほころんだ美しい花たちを眺めたジャンは、彼女たちの表情に、ふと既視感を覚えて戸惑った。
    どこかで見たことがある表情だ。それも、とても身近に。
    記憶を探り、……気付く。
    それは自分の顔――鏡に映った、不安でいっぱいの、幸運だけに頼るしかないのを悔しがる自分の姿だった。
    もう三十にもなったって言うのに、未だに自分の中から消えない、いつまでたってもベルナルドに支えられてばっかりの情けない自分。彼に愛されるだけの価値があるのかなんて自信はいつだって、たとえ一瞬掴めた気がしたってすぐに、紙のように簡単に吹き飛ばされてしまう。両頬を叩いて気合を入れて、いいから笑えと喝を入れたときの自分の顔。
    何故彼女たちがそんな顔をするのかと驚いたジャンは、自分が彼女たちを、端から恋愛対象としてみてはいなかったことに気がつく。
    だから気付けなかった。どんな男も選り取り見取りの魅力に溢れる女性たちが、ジャンカルロという一人の男の視線を競い合う理由を。一番単純で、一番強い理由。どんな金持ちの家に生まれようが関係ない。振り向いてくれないかも知れないと不安がり、些細な言葉ひとつに気持ちを揺さぶられる。
    ――彼女たちもまた、ジャンに恋しているのだと言うことに。

    「シニョーレ・デルモンテ? どうかいたしましたか?」

    柔らかな女性の声。ベルナルドが聞き出すよりも先に悟ってしまった真相にうろたえる。狼狽して周囲に視線を散らすと、あの老役員たちがにんまりと上機嫌にこちらを見守っているのに気がついた。
    俺にはもったいないくらいの、とびっきりのシニョーラたちだ。魅力と生命力に溢れ、けれどいじらしい。それもそのはず、流石は彼らの人選ということか。
    そう思いながら、――ジャンは苦笑する。
    それでも微塵も揺らぐことなく、ジャンの胸の中にいるのはベルナルドだったから。視線を馳せると、役員たちに捕まったまま、ベルナルドがもどかしげにこちらを見つめていた。ああ、お前も気付いたのか。やっぱり俺よりよっぽど鋭い。彼女たちの想いに気付いているからこそ、いつも打算でジャンの周囲に群がる女たちには見せない焦燥を宿した緑の瞳。
    切なげな顔をして黙ってしまったジャンに、そんな反応を返されたことの無い花たちは戸惑う。
    そこへ、ベルナルドを連れた老人たちが近付いてきた。

    「ご機嫌麗しゅう、シニョーレ・デル・モンテ。楽しんでおられますかな?」
    「ああ、勿論。こんなに可愛らしいお嬢さん方に囲まれて、目尻を下げない野郎はいないさ」
    「それは御尤も。華やぎというものは、人生には欠かせん大切なものですからな!」
    「いかにもいかにも。会長のようにお忙しい日常をおくられている方には特に言えることです。花の一輪もない、殺風景な部屋に暮らしていては、日々の疲れも癒されますまい」
    「けだし至言でありますな。いや、わしも若い頃はそんなものがなんの役に立つのだと馬鹿にしていた口ですが、この歳になって気付くのですよ。私の帰りを待つ妻が活ける花の美しさに、その心遣いにどれだけ救われてきたのかということにね」
    「――なるほど。先人の言には重みがあられる」

    老人たちは言外に、ジャンに結婚の良さを伝えてくる。そのあからさま過ぎるような様子に害は無い。妻帯することの良さよりも先に、自分は彼らに愛されてしまっているのだということが伝わってくる。それはベルナルドにも伝わっているのだろう、だから何か言いたげな顔をしながらも、彼らの言葉を遮れない。
    俺って奴は、つくづく幸運な野郎だ。
    最高の恋人ができた。その最高の恋人と、同じ道を並んで歩ける最高の人生が転がり込んだ。
    それだけだって十分すぎるほどに幸運の女神様の依怙贔屓を受けているってのに、その上にこんなにも、俺を愛してくれるやつらがいる。

    「シニョーレ?」
    「失礼、花の美しさについて考え込んでおりました」

    乱入してきた老人たちの言は、彼女らにとっては羞恥を煽るものだったのだろう。顔を赤くしながら、様子を窺うように声を掛けてきた。そんな彼女の顔を、覗き込むようにして見つめながら微笑むと、たちどころに頬が赤みを増す。
    ――愛されすぎて、困っちまうくらいだ。
    彼女たちも、役員会のじい様方も、純粋にジャンへの好意で行動している。
    例えこの場を切り抜けても、老役員たちは何度となく同じような場を設けようとするだろう。良かれと思ってしているのだから。
    そして頬を赤く染めてジャンを見つめる女性たちは、その想いがけして彼には届かないと知るたびにその瞳を痛ましげに翳らせるのだろうか。そのくらいならいっそ、誰か手近な女性を見繕って結婚でもしちまったほうが楽かもしれない。愛の変わりに、別のもので繋がった結婚なんてそこらじゅうに転がっている。左手の薬指に指輪を嵌めるだけで、罪も無いお嬢さん方を傷つけないで済むようになるのなら――……
    人間としちゃ最悪かも知れないが、ただでさえ疲れてるところにややこしい問題抱え込んでいるのだ。このくらい考えたって許されるのではないか。
    そんなことを考えかけたジャンだったが――、
    ……やっぱ無理だわ、ファンクーロ。
    あっさりと両手を挙げて、名案に思えた作戦を放棄する。
    仕方がない。ベルナルドの眼を見てしまった。その瞬間にもう全部、くだらない妄想は吹っ飛んで宵闇の彼方だ。
    病めるときもすこやかなるときも――、ジャンがその言葉を偽ったとき、この男はどんな顔をするのか。考えたくもない。だけどそれでも――ジャンが好きな青林檎色の甘そうな瞳が、虫に喰われて病み果ててしまったように暗く翳ることだけは、考えなくても簡単にわかった。
    簡単に折れちまいそうな細い首も、ゆるやかにくびれた柳のような腰もない。背は見上げるくらいに高いし、ひょろ長いくせに筋肉のついた身体は腹筋が割れている。所構わずエロいことばっかり考えてるし、考えるだけじゃ飽き足らずに実際エロいことしてくるし、罵りゃ悦ぶし殴れば新しい世界に目覚めやがる。最悪だ。可愛くもないポルノ野郎。
    だけど――そんなベルナルドが虚ろに笑いながらフラワーシャワーを撒く姿を見るくらいなら、罪もない、自分に想いを寄せてくれてる純粋なお嬢さん方を何度だって泣かせるほうがずっとマシだ。
    非道なヤクザらしいのか、それともコーサノストラの男として失格なのか。わからないけれど、少なくとも自分に結婚は無理なようだとジャンは知る。
    だと、したら――……

    「シニョーラ方、どうです、少しばかり夜風にあたりに行きませんか?」
    「もちろん! 喜んでおともいたしますわ!」
    「それはよかった、では。――ああ、ベルナルド、その前にちょっと……」
    「え、あ、ああ…………ジャン、お前どうする……」
    「戻ってきたら、すぐに抜け出すぞ。車、準備しといてくれ」
    「そ、れはいいが……おい、ジャン?」

    ジャンはベルナルドの胸倉を掴んで、間近に引き寄せた耳に向かって囁いた。

    「覚悟、決めていくしかねえだろう?」

    状況をつかめてないベルナルドはあたふたしている。割と情けねえ奴だってのは嫌ってほど知っているが、こうして全身ぴっしりと正装でキメた姿で慌てているのは中々拝める光景じゃない。
    つい噴き出しちまって――それで本当に、ハラが決まった。


    (――――勝負!)


    両手に花の、世の野郎どもが揃いも揃って羨むような恰好で、お嬢さん方をエスコートしながら俺は――とある勝負のテーブルに、眼鏡を掛けた男前の顔が描かれた、とっておきのコインを賭けようとしていた。

    「美しいシニョーラ方、貴女たちに告白があるのです。実は私には……いや、俺には――……」










     ‡ ◇ ‡ ◇ ‡ ◇ ‡




    ――それから、一時間もしていない。

    ジャンのいる場所は、華やかなパーティ会場から薔薇の生垣で隔てられた中庭――ではなくて、豪華な客室のような、広々とした装甲リムジンの後部座席だった。
    さっきのお嬢さん方を、五人纏めて乗っけても十分すぎるほどの大きなシートに、ベルナルドと二人並んで座っている。
    夜道は静かだった。街の小さな日常の明かりが、彗星のように流れては消えていく窓をぼぅっと眺める。
    そしてベルナルドが、そんな彼を見ていた。

    「――ジャン」

    本当は窓の外の光などではなくて、硝子に映ったベルナルドの顔を見ていたジャンは、ようやく呼びかけてきたベルナルドの声が、何度もためらうように開いては閉じた唇から零れたものだと知っていた。

    「おう」
    「……さっき、どうだった?」
    「んー、まあまあ?」
    「それは、どういうことなんだろうね。期待していいのかな、それとも……」
    「はは、さぁな」

    硝子越しに強く俺の眼を見据えてきた視線は、振り向いて、直に覗き込むと急にうろたえる。
    おいおい、俺が三十歳になったってことは、あんたなんてもう三十六歳だろう? 四捨五入したら四十に手が届いちまうおっさんの癖して、なんだよそれは。

    「――ベルナルド」
    「っ! あ、ああ……」

    さっきとは逆に俺のほうから名前を呼ぶと、ベルナルドは何故か背筋を正した。

    「ぷ、っはは! なんだそりゃ」
    「いや……すまん、なんとなくね」

    けたけたと笑う俺の声と、恥ずかしそうに鼻を掻くベルナルドを閉じ込めた鉄の箱が走る。

    「ルキーノの用意した会場……白雪姫だったっけか? あーくそ、行きたくねえなぁ。絶対散々弄られまくるんだぜ? 準備してるときのルキーノの顔見たか? ……俺、金髪でおっぱいのでっかいねーちゃん両腕にぶら下げてるときだってあんなに生き生きとしたルキーノの表情見たことねぇよ」
    「……はは、自業自得だ。お前だって、二年前は俺よりはしゃいでいた癖に」
    「だって俺、カポだし? かーわいい部下のお誕生日だぜ? 気合い入れてお祝いしてやらなきゃダメでしょダーリン。ああ、心配しないでいいからな。ダーリンの四十歳のお誕生日には、そりゃあもう盛大にCR:5あげてのお祝いを……」
    「……ジャン、お前段々とアレッサンドロ顧問に似てきたぞ」
    「ワオ、ダーリンたら繊細なお年頃のオトコノコの心を、豪快に抉って行ってくれるじゃねえか。一番嫌なコト、ピンポイントで言いやがって」

    豪勢な、だけどアメリカのでっかさから見たら蟻よりもちっぽけな小さい箱の中で二人きり。この中にいれば、なにも考えることなくふざけあっていちゃついて、くだらない言い合いばかりを重ねていられる。それは紛れも無く幸せな空間だ。だけど、ずっとこの狭い場所に閉じこもっているわけにはいかない。
    言葉が途切れてできた沈黙は妙にやさしかった。お互いの呼吸音が聞こえてくるような静けさの中、ジャンはぽつりと零す。

    「面倒、臭ぇんだよなぁ……、いつまでも結婚しねえでいるとホモじゃねえのかだ噂立てられるし、うちの娘と結婚しろだの迫ってくる押しの強いおっさんいっぱいいるし」
    「……ああ」
    「断ったら、うちの娘の何が気に食わねえんだとか妙な因縁つけてくるような親馬鹿も多いし」
    「うん」
    「そんなやつらは返り討ちにしてやりゃ済むことだけど、今回みたいに完璧善意百パーセントでハナシ持って来る奴もいるしよぉ。余計厄介なんだっつの!」
    「そうだね」
    「それだけじゃねえし。ホント、すげえ面倒臭ぇ。そのために駈けずり廻ってる自分がたまにアホに思えてくるくらい」
    「酷いなぁ」
    「……でも。お前じゃないと駄目なんだよなぁ」


    馬鹿みたいな苦労を背負い込んで、バレたらそこで人生が強制バッドエンドなリスクを抱えて、そんなどでかい爆弾と天秤が釣り合ってしまうくらいには、ベルナルドに惚れてる自分を知っていた。
    二人の間にあるもの全部、日陰に置きたくないなんて。
    俺たちの関係は誰にも言えないもんだけど、そんな惚れちまったんだから仕方が無い、何が悪いんだかわからねえこと以外には何も憚るものを作りたくないなんて――……
    もう三十歳の、いい年をした野郎がそんなティーンのガキみたいなことを、大真面目に思っちまうくらいには、俺はこいつのことが好きだった。
    初めてベルナルドに会ったのは十五、六のとき。つまりは人生の半分くらいをこいつと一緒に過ごしてきたことになる。
    最初は、新入りのガキんちょだった自分を馬鹿にしようとしない、ちょっと変わった奴ってだけだった。それがいつの間にか酒を酌み交わすようになって、一緒にいて居心地がいいようになって――……
    そしてすべてが音を立てて走り出したあの脱獄の日から、気付けばもう五年も経った。
    少しずつ少しずつ、ジャンの中で大きくなっていったベルナルドの存在は、今では心臓に喰いこんで離れない。

    「――だから。仕方がねえよな」

    ベルナルドは答えないまま、ジャンを抱きしめてキスをした。
    運転手に見られちまうだろ。腕の中で焦るが、余裕ぶって笑うベルナルドはいつの間にか運転席との間にある小窓のカーテンを引いていた。こういう時だけしっかりしやがって。頭を殴ってやると、ベルナルドはふははと笑ってからもう一度、もっと深いキスを仕掛ける。
    殴られたらなんかキタ、とか、新しい発見だ、とか言い出したらその鼻に噛み付いてやろうと思ったけれど、それは言わなかったから。
    ジャンはもどかしく求めてくるベルナルドの舌に、応えてやることにしたのだった








     ‡ ◇ ‡ ◇ ‡ ◇ ‡





    「ラッキードッグ・ジャンカルロには恋人がいる。極秘裏に密会を重ね、愛を育んだ秘密の恋人は、とある深窓の令嬢だと噂されている――」
    「……ジャン、別に声に出して読む必要は無いだろう」
    「声に出して読んじゃいけないって理由もねえだろ?」
    「それはそうだけどね……」

    不満そうに黙り込んだベルナルドは、ジャンの手にある報告書を睨みつける。報告書といっても、デイバンの街で近日出回っている三流の大衆ゴシップ誌を切り貼りしただけのものだ。ベルナルドの様子は、不機嫌というよりはどことなく子供が拗ねて不貞腐れているような趣があった。
    六つ年上のこの男は、どちらかといえばいつも大人ぶってジャンを甘やかそうとしてくる。こんな風に唇を引き結んで口を閉ざす様を見ることはなかなか無くて、その理由を知っているジャンはますます楽しくなってしまう。

    あのパーティの日――花盛りの女性たちを伴って中庭に赴いたジャンは、彼女らにそっと、恋人の存在を打ち明けたのだ。
    概ねは、今デイバンを駆け巡っている噂の内容と大差ない。
    秘密の恋人の存在、表沙汰には出来ない身の上、けれどその人以外には考えられないと心に定めている自分の心情。
    彼に恋をする少女たちに向かってそんな告白をしたのは、ジャンにある読みがあったからだった。そして、結果としてその目論見は成功する。
    恋に恋するお年頃――ジャンという人間というよりも、どんな美女の誘惑にも乗らない、紳士的で甘い秀貌の実業家というビジョンに恋をしていた少女たちは、ひっそりと打ち明けられたロマンチックな恋の話にその胸をときめかせた。愛し合う恋人たち。けれど運命は彼らが結ばれることを許さず、二人は密やかな逢瀬を重ねる。まるでロミオとジュリエットのような純愛物語が、瞬く間に彼女らを夢中にした。
    噂話を浸透させるのに、女性のサロンより適した場所は無い。彼女らの語るジャンの恋物語はあっという間にデイバン中の女性に、そしてその父親や夫にも伝わる。
    更に駄目押しとして、ベルナルドは事情を知りたがるあの老役員たちに、噂を裏打ちするような情報を匂わせる。その恋人はある程度の経済力を持っており、ジャンの将来に不利益になるものではないのだとも。それを聞いた役員たちは、妻子から聞いた話とも照らし合わせ、半信半疑だったジャンの恋人の実在を信じるようになっていった。
    こうして、一先ずのところ彼に舞い込む縁組の嵐は収束を見る。
    ジャンは久々の解放感を享受していた。この静けさもしばらくのことで、しばらくすれば今度はその秘密の恋人の正体を知ろうとする人々の追及が始まるだろう。それはそれで鬱陶しいかもしれないが――楽しめる理由を、ジャンは持っているから問題は無い。

    「しかし、俺の恋人は随分と美人らしいな。なになに? ……デルモンテ氏と親しいある情報筋の話に拠ると……情報筋って誰だろうな……その噂のシニョーラは、すらりとした長身で、聡明で知的な美女で?」

    長い手足をソファに預けていたベルナルドは、理知的な性格を感じさせる眼鏡のフレームを正し、ジャンの言いたいことなどなんでもわかっているのだというように眉根を寄せる。

    「箱入り娘のその美女は、どうやら身体が弱いんだそうだ。抜けるように白い肌をした、たおやかで繊細な深窓のご令嬢なんだってよ」
    「……ジャン、あのね」

    こめかみを掻いたベルナルドのスーツの袖から、CR:5の刺青と一緒に、連日の缶詰デスクワーク生活のせいで日焼けを知らない白い腕が覗いていた。
    温厚な笑みを形作ってはいるが、その唇の端が引き攣っていた。その震えは、ジャンにも伝染する。ただしこちらは、まったく違う理由からだが。

    「だけど、常に俺の傍らに控えてその公私を支え続ける、健気なシニョーラらしいな。どっかの誰かのコメント載ってるぜ。煌々と輝く太陽のようなデル・モンテ氏と寄り添いあう姿はまるで一幅の絵画のようだった――って! やべえ……なんかすげえ、噂が一人歩きしてやがる……!」

    爆笑したいのを堪えて読み進めたジャンだが、ついに我慢できなくなる。声を震わせながら、腹を抱えて笑い出した。
    右腕として常に傍らにいて、ジャンのことなら何でもわかっている筆頭幹部は、何か言いたげに開いた唇からただ溜息だけを零してがっくりと肩を落とした。悩ましげに頭を抱えたその姿は、悄然とした雰囲気に持ち前の男前も三割り増しで実に絵になっている。

    「――うら若きレディたちの想像力のたくましさを、少しばかり見くびっていたよ、ダーリン……」

    架空の恋人を語るにあたって容姿について語った覚えはない。けれど観察眼の鋭い女性たちは、ジャンの言動の端々から得た情報を組み立てていった。そうして出来上がった人物像が、ベルナルドと絶妙なマッチングをしているのだ。
    しかも、噂話の常として尾ひれがつき胸びれがつき、気付けばその恋人は絶世の美女だと評判だ。これで笑わずにいられる筈がない。

    「は、っははは! あーもう、俺この噂話聞くたびに、白いレースのワンピースを着たあんたが天蓋付きのお姫様みてぇなベッドで詩集めくってるような光景が頭に浮かんじまってさ。駄目だ気持ち悪すぎる!」
    「やめてくれ、ジャン。想像しちまう」

    深々と嘆息するベルナルドの姿も、すべてが笑いのツボに入ってしまう。無理を言うなよ。ジャンは涙さえ滲ませながら、息が出来ないとひぃひぃ喘いで笑い転げる。
    ちょっとやそっとの煩わしさなど、どうでもよくなってしまうくらいに。そして、ちょっとやそっとじゃ済まない、二人でこのまま生きていくために必要な山ほどの厄介ごとも、なんと言うことはないと思えてしまうくらいに、高らかに笑い飛ばした。
    やがてベルナルドも観念したように笑い始め、二人は寄り添いあった肩を、いつまでも震わせる。


    「しかしまあ、いつまでも姿の見えない謎の恋人に夢見てくれるほど甘くねえだろうからな。いつかはその恋人を披露してくださいとか、言われるようになるぜ?」
    「仕方が無い。そうしたら、俺が渾身の女装をお眼にかけようか」
    「ワオ、素敵だわハニー。惚れ直させてくれるって?」
    「ああ、勿論。楽しみにしておいてくれよ、ダーリン」





    厄介ごとを山ほど抱えた大変な道を歩いてきた。面倒臭いことが山盛りで、いつだって危険と背中合わせで。そしてそれはこれからも一緒。
    だけど、それでもその道は、二人が共に歩きたいと思ってきた道だった。だから、何が起こっても、彼らはこうやってくだらないことで笑いあいながら、肩を並べて乗り越えていく。
    年をとってよぼよぼの老人になっても、死ぬときまできっとずっと。共に歩いてきた道を、後悔しないで生き続けるのだ。

    ――秘密の恋人と、一生、ふたりで。












    2011/06/14 
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