月下に聞く月下に聞く
冴え冴えと青白く光る望月と、その周囲に群がりながらも月を翳らすことは無い無数の雲。
まるで玉蘭のような美女と焦がれながらも手を出すことはできない腑抜け野郎共の群像劇のような空模様を、そのまま映し出せるくらいには広い湧水があった。
それは、大磐の城邑から二里程離れた森の中。
低地へと流れる川の水源になっているその場所は、生い茂る木枝が多少開けているのと、湖面に反射した月明かりのおかげでか真夜中でも周囲を見回すのに困らないくらいには明るい。
そして湧き水は透明に澄み渡り――爪先を少しばかり差し込んだだけでぶるりと肩を震わせる程、冷たかった。
俺はしばし躊躇い、――けれどそれを振り払うように着物をすべて脱ぎ捨て、ばしゃばしゃと湖面を波打たせて泉の中へ入っていく。泉は深く、普通に立っていても臍の上まで水が来た。秋の始めとはいえ、宵闇に冷やされた泉の中は笑ってしまうほど寒かったが、そのまましばらく身を浸しているうちにいくらか慣れる。
動くと、体温で少しだけ温まった周囲の水が掻き回されて、またひやりと冷たさを感じるが……別に俺は、水風呂を楽しみたくてここに来ているわけじゃない。寒さを気にしないようにと努めながら、足先で川底の石を探る。そして見つけた腰掛程の高さを持つ岩に、片足だけを乗せる。左手で岸辺の淵を掴んで身を支え、それから――
「……っ」
下肢へと伸ばした右手を、開いた脚の間へ――奥へ。寒さと、そして緊張……、の所為もある気がする。固く閉じようとしている蕾に触れ、びくりと震えた入り口を、無理やり抉じ開けた。
「っ、ううっ」
水が入ってくる。じくじくと疼くような熱を持っていた浅い場所の内壁が、突然の暴挙に驚いて閉じようとする。
俺は息を――吸って、吐いて。火傷しそうに熱いモノは知っていても、氷のように冷たい侵入者は知らなかったその場所が、落ち着くのを待つ。やがて冷たかった水は温められて、俺の内側と同じ温度になった。
頭の隅に、ほっと胸を撫で下ろしている自分がいる。これ以上は怖い。いつ境界線を踏み越えちまうか分からない。そいつはそう怯えていて、だから差し込まれたまま動かない指と、鋭利な冷たさをなくした水に安堵している。
俺はそいつの気持ちがよく分かっていたが――無視して、二本目の指をくぷりと差し込ませた。
「あ、ぅあ、これ、あっ、やば」
ほんの爪の先だけ入れた隙間から、我先にと冷たい水が押し寄せてくる。反射的に力を込めてしまうが、それは単に内側にあった温められた水を追い出し、代わりに冷たい水を迎え入れるだけの喞筒のような働きしかしなかった。
失敗したかもしれないと、俺は唇を噛む。
冷水に萎縮してしまった内壁はきつく閉じていて、そこを切り開いて奥に進むには、無理やり抉じ開けていくしかない。
ああ、くそ。だけど、他にどうしようもなかった。
こんな、人気も無い森の中とはいえ――いや、こんな森の中だからこそ。およそ人がいるはずも無い、静かに獣たちが眠る場所の真ん中で、地上で自分の尻に指突っ込んで掻き回している姿なんて想像しただけで死んじまいそうだ。冗談じゃない。でも水の中でなら、少しは姿を隠せる。誰の眼からでもなく、俺自身の羞恥心から逃げることができる。
だから。だから、……だけど。
指を、進める。侵入を阻もうとする内側は――固く閉じようとするくせに、その肉は酷く柔らかかった。
「ひっ、う」
新たな侵入者を追い返そうとする収縮。けれど奥のほうでは、それは銜え込んだ一本目の指をもっと味わい、深く迎え入れようとする蠕動でしかなかった。
理不尽だ。指は自分で意識しないと動かないのに、――こんな場所で脚を上げて、尻の奥を晒して、無理やり押し込んで追い出されそうになるのを越えてずぶずぶと突っ込んで掻き混ぜて。頭が焼けそうになるくらい恥ずかしいこと、全部自分の意思でやらなきゃならねえのに。なのにどうして、この場所だけは勝手に動くんだ。俺は、動かしたいなんて思ってない。こんなやらしい、きゅうきゅうと締め付けて押し出したいんだか引きずり込みたいんだかわからねえような、こんな風に動かしたいなんて思ってないのに、なんで。
そこだけ俺の身体じゃないみたいだ。だけど俺の意思とは無関係に動くくせに、そこで感じたものは俺の意識を、思考を占領しようとする。
苛立ちのような感情が浮かんできて、俺は突っ込んだ指を無理やり一番深い場所まで押し込んだ。
「あっ、ああっ!」
――パシャン、と水音。身体を支えていた手から力が抜けて、くらりと水中に崩れ落ちた音だった。かろうじて肩口で岸辺に凭れて、踏みとどまる。
八つ当たりみたいにして、無理やり突っ込んだ指。だけど突っ込んだ相手も俺なんだから、まあそりゃ、こうなる。
「くそ、なんか本当にもう、馬鹿みてえじゃね、え、か……っ」
俺は、意地になったように歯を喰いしばって――二本、深々と呑み込ませた指を中で、開く。水が入ってきても、冷たさに頭の芯が焼かれても、無理やり。奥まで開いて、ぐいと指先を曲げる、――すると。
「う、っく、」
――どろり、と。
奥から、零れだす。
水とは明らかに違う、粘性を持った液体が、指に開かれた道を伝って落ちてくる。ゆっくりと内壁を伝ってくる感触はもどかしく、そして爆発しそうな羞恥心が、同じようにじわりじわりと背筋を這い上がる。
名残のような温もりをもったままだったその液体。泉の水ですっかり冷えた浅い壁を伝わると、まるで注ぎ込まれたときに戻ったような熱を感じさせた。
淵から零れた残滓が、内股へと伝い落ちていく。その感触が腿へ、膝へと落ちていくのを想像しただけで、恥ずかしくて死にそうだった。俺はもどかしく腰を揺らし、やましいものを振り払おうとする。それは一面を見れば成功であいつの残滓を洗い流すことができたけれど、別の面を見れば失敗だった。腰をくねらせた所為で、ただ開くために内側に挿れていた指が一点をかすめる。そこは、触れればわかるわずかなしこりのような、そしてさっきまで散々嬲られ、突かれて熱を持ったように痺れたままの――
「アッ! ……んうっ、くっ」
触れないようにと、――触れてしまわないようにと、注意して避けていたはずの場所だった。
下肢から脳天まで瞬時に、身を引き締めるような冷たい水をものともせずに甘く、熱い衝動が駆け上る。
危ない。これ以上は、危ない。頭の中で、警鐘が鳴っていた。だが、ここで中途半端に終わるわけにも――行きはしない。
唇を噛み、きつく眼を閉じて俺は――全ての元凶となった男の顔を、胡散臭い眼鏡の奥で笑う緑を思い浮かべて、
「あいつの、所為だ。……あの、助平野郎が……っ!」
思いつく限りの罵詈雑言で、罵った。
変態、色魔、強姦魔。助平眼鏡。破廉恥野郎。全部が全部お前の所為だ。くそ、何が悲しくて真夜中の森の泉で、腹の中いっぱいに注がれた精を自分で掻き出さなくちゃならない。
閉じた瞼の映写幕に浮かんだあいつを睨みつけ、罵り、――駄目だ。あの馬鹿、絶対悦びやがる。
やに下がり、酷く嬉しそうで、だけど同時に興奮しきった獣の眼をした男の顔が浮かんできてしまい、俺はその面影を振り払うように、
「――ッ、はあ、あ、く、ぁ、あ……」
勢いを込め、中に残っていたすべてを一息に掻き出す。
そして最後の雫がつぅ、と淵を伝い水に溶けていく感触に身を震わせた後、俺は身体中の力が抜けて崩れるようにがくりと突っ伏した。
頬に石が当たる。それはひんやりと冷たく、いつの間にか火照っていた頬を心地よく冷やしてくれていた。
石と石の狭間に生した苔の、湿った匂いがする。遠くでホゥと、梟が啼いた。
静かだった。誰もいない。人里離れたこんな森の奥を、夜も更けきったこんな時間、うろついている馬鹿は俺くらいのものだろう。この森を抜けてもそこにあるのは枯れ薄が風に揺れるばかりの荒野ばかり。街や村もない。あるのは――こんな森の中に何故かぽつんと、いかにも妖しい店でございますという気配を存分に垂れ流しながら唐突に存在している、不審極まりない古道具屋だけ。誰もいない、誰にも見られない。
そう、思った時。
『――だから安心して、気持ちよくなっていいんだよ?』
そんな声が、聞こえた気がして。
「――ッ!?」
全身が強張った。だけど、周囲にはやはり人の気配は無い。あいつはいない。大丈夫、ただの幻聴――って、待て。そっちのほうが大丈夫じゃない。
跳ね上がった心臓を宥めようとしていた自分を、問題なのはそんな幻聴を聞いてしまうってことじゃねえか。しかも、何だ。気持ちよくなって、……とか。馬鹿じゃないのか。
胡堂。
それが、俺が聞いた幻聴の声の主の名。正確には、通称だ。俺と同じ、西域から渡ってきた胡人であるあの男の本名は、――ベルナルドと言う。
いったい何をどう間違えれば客が来るのかわからないような森の奥に居を構え、胡胡堂という怪しい古道具屋を営む、怪しい男。
波璃を磨いて作った眼鏡で巧妙に腹のうちの色を隠し、いったい何色の思惑を抱えているのか掴ませない。けれど、純白という色でだけはあるまいと言う事だけは教えてくる、怪しい、――妖しい、緑柱石の瞳をしていて、そしてその瞳を俺に向けるときには、奥にゆらりと揺らめく熱を孕ませてくる。そしてあいつ自身がその炎に焼かれているかのように熱を帯びた声で、ふざけた事を、いつも言う。ふざけた言葉を、俺の耳に注ぎ込む。そして……
「――く、そっ、ああもう……っ!」
火酒のようにはらわたを熱くする言葉とともに、ベルナルドは俺の中に――どろり、ぐちゅりと淫らがましい音を立てて零れ落ちた精をも、注ぎ込む。
蜘蛛のように張り巡らされた巣に捕らえられ、あの長い腕に中に閉じ込められ、組み敷かれた。
衣服を奪われ、あいつの目に裸体を晒し、けれどその羞恥すらも塗りつぶしてしまうくらい、途方も無く恥ずかしいことを沢山、された。
極限まで追い詰められて、気が狂いそうな絶頂から落ちることを許されないまま揺さぶられ続け、ようやく与えられた果てに俺は――腹の中いっぱいに放たれた熱さだけを感じながら、真っ白な闇の中に意識を飛ばしたのを思い出して……
「……ああっ、くそ! あいつ……あの、助平河童野郎……っ!」
これはただの後始末だ。眼を覚ましたとき、俺はまだベルナルドの腕の中にいて――まるで大事な、大切な宝でも抱くようにして回された腕の中にいるのに耐え切れずに逃げ出した。夜の森を抜けて、大磐の城邑に駆け戻ろうとした。けれど途中で、満足に歩くことも出来ない現状に気付き……このままじゃ帰れないからと、身を清めに来た。それだけだと、自分の指にさえベルナルドの面影を探そうとする馬鹿な身体に言い聞かせ続け、どうにか境界線を越えずにすんだと安堵していたのに。
「あいつの、所為だ。くそ、くそ……ッ」
下肢が疼く。熱が凝って、じんじんと脈打っている。水面下に隠れ、見えないでもわかる。俺の陽物は痛いほど勃起していた。指を食む後孔は、貪婪に快楽を求めるための器官になっていた。
抗い切れたと思っていた欲望に、堕ちてしまった。
――たった一言の、幻聴の所為で。
「なんで、こんな。あの馬鹿……あいつ、なんで、どこまで……」
うわ言のように、呟く。罵らずにはいられなかった。もしあいつが今ここにいたら、きっとそれはそれは嬉しそうな顔をして、熱を帯びた妖しい眼差しで、俺の罵声に笑うだろうとは分かっていても。
堪えられなかった。止められなかった。
ひくりひくりと震える場所が、ベルナルドに教え込まれた快楽をもっと欲しいとうねり、強請るのを止められないように。
「馬鹿、や、ろ……」
消え入りそうなその言葉は、あいつにか俺自身にか。もうそれすら分からない言葉を――泣き言を吐いた。淵を掴み身体を支えていた左の手を、おずおずと水中に沈めながら。
何であいつは、俺に触れる。
どこまで俺を変えていく。
どうして俺は――あいつに触れられると、変わっていっちまう。
答えの出ないままに混乱ばかりを掻きたてる疑問と、泣きたくなる様な欲望の渦に呑まれ、溺れ。
俺は歯を食いしばりながら――自分の身体を、嬲り始めた。
2010/11/15
公式ジャン誕R2ベルナルド編に滾りすぎて。