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    ベルジャン

    君と見ない空君と見ない空











    「――――エクセレンテ」
     思わず零れた感歎が、風に流されて真っ赤な空へと吸い込まれる。
     デイバン駅に着いた長距離特急列車を降りた瞬間。ずらりと居並んだ迎えの部下たちの顔より先に、眼を灼いたのは初めて見るような、めちゃくちゃ鮮やかな夕焼け空だった。
     デイバンの空なんて見慣れている。生まれてからずっと――どっかの刑務所でのんびり檻の中暮らしを楽しんでいた時以外は、毎日のように見上げていた。晴れ渡った青空も、そのまま落ちてきそうな重苦しい曇天も、星が瞬く夜空も。朝焼けも夕焼けも、数え切れないほど見てきた。でも今日の空は、その何十年分の記憶を探してもちょっとないくらいの、とびっきりに透き通った綺麗な茜空だった。
     綺麗だ、とか考えるよりも先に、鮮烈な色彩が脳裏に焼きつく。
     問答無用で心を震わせる。
     たかが景色なんてものに、横っ面ひっぱたかれたみたいに錯覚するほどの“力”があるって事を俺は知った。
     ふと記憶から蘇るのは、《マラガの夕陽》。
     ベルナルドが手に入れ――かけて、エロイことに気をとられてる間にスパニッシュどもに台無しにされた。吹っ飛ばされた経緯を思い出すとまあ、情けねえ気持ちになるのは否めないが、ほんの僅か唇を触れさせただけで、お花畑にトリップしちまうほど極上の、幻の酒。マラガに落ちる夕陽なんざ見たことはねえが、あの酒に冠されるほどの見事な夕焼けだってんなら、それは今日のこの夕陽みたいな空なのかもしれない。
    「すっげぇ、絶景だな」
     しみじみとした声が零れる。
     そして、するりと。
    「――なぁ、ベルナルド?」
     まるで一連の慣用句みたいに、よどみなくすらすらと、その名前が口を付いた。
     ――いや待て。いや待ていや待てここの俺!
     瞬間的に、顔に熱がのぼる。左右どちらの隣を振り返ってみても、ベルナルドのあの余裕ぶったイイオトコ顔は見えやしない。当たり前だ、あいつは今も、本部でいつも通りお仕事中。俺の机でみょーなコトでもしていなけりゃ、真面目に筆頭幹部として働いているはずだ。
     デイバンを離れた俺と、留守を預かるあいつと。ここんとこ二週間ほど、ずっと別行動だった。一人ぼっちの出張だったが、ようやく半人前を脱出できそうって感じのボスとしてちゃんとお仕事してきたはず。あいつがいねえってことなんざ、わかりきってたはずだった。
     ――なのに。
     デイバンに……俺達のホームに、戻ってきたせいなのかもしれない。どこか離れた出張先でなら、あいつがいねえのも仕方ない。でもデイバンでなら、あいつは――俺の隣に、いるのが当然っつーか。
     気が早すぎるっての。恥ずかしい奴だ……俺が、なのが悲しい。
     さらに救えないことには、こんだけ小っ恥ずかしい思いをしておきながら、俺の頭は一度思い出しちまったベルナルドの気配を探すことをやめないってこと。
     マラガの夕陽を唇に塗った指の感触。気をつけて行ってこいと背を叩いてくれた次の瞬間、尻を撫でやがった残念なエロスオヤジのにやけ面。途中経過を報告するために、電話越しに聞いた声。
     あいつの顔が、声が、スイッチが入ったまま壊れちまった再生機みたいに次から次へと浮かびあがる。
     もしもいま、隣にあいつがいたら――このすっげえ綺麗な空を、俺達は共有できたんだと思うと少し勿体無い気がした。
     そんな自分の、どこの恋するお嬢さんですか、ってな思考にますます頬が熱くなって俺は、ちょっとばかり矛盾してるが今の空がこの鮮やかな夕陽だったことをよかったと思う。ありがちな理由じゃあるが、血がのぼって真っ赤になった情けない顔を、隠すことができるから。
     吹く風は肌寒いのに妙に熱いのは着込んだスーツの罪に、耳まで赤く染めているのは夕陽の所為にして、俺は緩みそうになる表情だけは必死に抑えて、ホームに靴の音を響かせた。



      ■  

     たった今、戻ってきたばかりの出張の行き先はシカゴ。
     先日、あちらの小組織との間にちょっとした揉め事があり――連中の親のまた親に当たる、シカゴの元締めのカポネが俺たちの調停に入った。今回の出張は、その手打ち式だ。
     ――まあ、表向きは。
     あちらさんはホント、弱小もイイトコの零細組織。
     正直、ウチがマジになれば三日で消えてなくなる程度の赤ん坊レベル。
     そんな連中との手打ち式に、わざわざこちらが――しかもカポの俺自らがはるばるシカゴまで出向いてやる必要なんて無い。
     そこを押してのこの出張。本当の目的は、手打ちの相手の弱小組織じゃなく、調停に入ったシカゴの元締めカポネの方だった。
     前々から、ベルナルドが秘密裏に進めていたでっけえ商談。デカすぎて部下レベルの話し合いや秘密の電話相談じゃどうにもならなくなっちまったその商談を、下手に嗅ぎつけられずに話を付けに行く為の絶好の機会。ぐちゃぐちゃに絡まりかけた儲け話を、綺麗にほどいてまとめなおしてくるのが俺の本当のオシゴトだったというわけだ。

     ――首尾はどうだったのか?
     決まってんだろ、んなもん。失敗してたら呑気にお空を見上げて 「ワォ、綺麗なお空ネ!」 なんて感動してる余裕あるはずないじゃねえか。

    「カポ・デルモンテ。お車の準備が整いました」
    「――おっ、来たか」
     いつの間にやら妙に気に入られていたらしいシカゴのカポネからの、別れ際の握手の痛いほどの熱烈さを思い出していた俺は、掛けられた声に意識を戻して悠然と応えた。
     恭しく一礼して俺を呼んだのは、元々ベルナルドの部下だった男。今回の出張の間、秘書的な役割を果たしてくれていた。俺がカポになったばかりの頃に、ヒラ構成員上がりのせいで部下っつーのを持ってなかった俺にあいつが貸してくれて――上司譲りの有能さに随分と助けられて頼ってる内に、気付けば正式に俺の直属になっていた奴。
     怜悧で有能な筆頭幹部ドン・オルトラーニの部下と聞いて想像するまんまの真面目でストイックで人並みはずれて有能な男で――、ひと皮剥けばでろっでろなエロダメ親父なベルナルドの部下とは思えないくらい、裏も表も無く生真面目で忠誠心に厚い男だ。
     俺たちの前に、滑り込むような運転で迎えのリンカーンがするりと停まる。
     前後には、護衛の車。
     ふと後ろを見れば、護衛としてシカゴにも同行した掃除屋・ラグトリフがあの胡散臭い笑顔のまま後続車に乗り込むところだった。何気なく手を振ってみれば、ラグトリフもまたひらひらと手を振り返す。……や、マフィアのボスとその護衛がにこやかな笑顔で手を振り合っていても気持ち悪いだけなんですケド。
     自分から仕掛けておいてなんだが、そのまま返されると思っていなかった俺は軽く動揺。
     そんな俺に小さな微笑を向けながら、脇に控えていた元・ベルナルドの部下が後部座席のドアを開ける。
     教科書のお手本みたいに完璧な角度でお辞儀をし、
    「お待たせして、申し訳ございませんでした。参りましょう」
     大統領の側近だって務まりそうな恭しい態度で、俺を促した。
    「ようやっと、愛する我が家に帰れるワケね」
     でけえ仕事だった分だけ、肩に乗っかっていた重石も重い。デイバンに――CR:5のホームに戻ってきて確かに俺はほっとしていたが、それでも全部脱ぎ捨てていいわけじゃない。ピッカピカのリンカーンの後部座席で、CR:5のカポが大口開けてお昼寝してたりしちゃ都合が悪い。つか、見られたら恰好がつかねえ。
     ただいまを言ってこの堅苦しいスーツを全部脱ぎ捨てられるのは、俺たちの本拠地――本部のビルに戻ってから……それからだ。
     二つの執務机がある部屋の、今はひとつしか埋められていない椅子に座っているだろう男の顔を思い浮かべて、ざわ、と胸の内側に――心臓に、直に触れられたみたいな感じがする。さっき、一気に湧き上がったくそ恥ずかしい赤面の原因になった感情。ようやく落ち着いたばっかりだったってのに、俺はどこまで馬鹿なのかまた思い出しちまって再燃を始めた。
     どっかの誰かさんがエロいことしてる時にたまに言いやがる台詞を認めるのは悔しいが、まあこの身体は脳みそよりは遥かに正直だ。車の中でそわそわと尻を浮かせたってなんにもならねえとはわかっているのに、早くエンジンの音がしねえかと待ち遠しがる自分に、苦笑した。
     後部座席に座った俺を確認してから、慎ましやかに控えていた部下が助手席に乗り込む。
     バタンとドアが閉まる音を合図にして、俺たちを乗せたリンカーンは威風堂々、夕映えの道を走り出した。

     りんごみたいに真っ赤に染まった太陽は、まるで引力に引き寄せられるかのようにどんどんと落ちていく。
     深みを増していく空を見上げながら、俺は走り始めたリンカーンのシートに身をゆだねた。
     あいつのところに帰り着いたとき――、空にこの鮮やかな紅はまだ残っているだろうか。そんなことを考えて、細めた瞳を窓に向ける。茜色に染まった街並みの中に、ぽつりと置かれた公衆電話が眼に止まった。
     あの電話のベルは、鳴らないのかね。
     デイバン中の公衆電話を網羅しているベルナルドなんだから、俺がこの辺通りかかることを想定して、電話くらい掛けてきやがってもいいじゃねえか。
     馬鹿野郎、と口の中で呟いた。とんだ言いがかりだ――馬鹿なのは俺のほう。しかも多分、脳みそがピンク色な感じの馬鹿だ。救えないことに。

     鮮やかな夕焼けを、ベルナルドと見られたらいいのにと思った。
     でも、それ以上に。
     単純に、声が聞きてえ。話したい、早く会いたい。

     ほんの数週間会わなかっただけで、こんなにもあいつが恋しいと訴える自分には呆れるしかない。運転手に急げよとせかしそうになって――でも、せかす理由なんて絶対に言えないから、俺は黙って膝の上で指先を躍らせる。
     助手席で、俺のスケジュールが書き込まれた手帳を開いてにらめっこをしていた部下は、不意に運転手を振り返ると 「急げ」と急かした。
    「予定が押している」
     そんな話は聞いてないと、驚いたのは俺と運転手と同時。
    「失礼いたしました」
     運転手は何の疑問も抱くことなく指示に従ってアクセルを踏み込み、
    「――そーだったっけ?」
     俺が投げかけた疑問は、生真面目な男の、少し困ったような曖昧な笑みで返された。上司の質問に、こいつがはっきりと答えないなんて初めてのこと。でも、言葉で返されるよりも明確な答えがすぐに見つかる。覗き見えた手帳は、びっしりと黒い文字で埋められていたけど、今日の夜だけはぽっかりと、綺麗に白いままで残っていた。
     ――誰かさんに似て、有能だこと。
     気の逸る俺の気配を察したらしい気遣い。
     部下にまでバレバレじゃねえか――ったく。
     こんな気遣いしてもらってんだから、あと少しぐらい我慢しやがれ。俺は、高鳴りを止めない自分の心臓に悪態をつく。

     ――見る間に沈んでいく真っ赤な太陽に、お前ももうちょっと粘りやがれと、理不尽な要求を呟きながら。






       ■

    「――おかえり、マイスィート。一人きりの夜が長くて泣いちまいそうだったよ」
    「ただいまって言う前に罵らせるんじゃねえよ、ダーリン。寂しくて泣いちゃいました、が可愛い歳でもねえ癖に。はは、――ただいま、ベルナルド。俺もかどうかはご想像にお任せするぜ」

     帰るなりの抱擁。
     お前に会いたくて会いたくて、帰り道中ずっと落ち着かなかったんだぞどうしてくれやがる――とは、勿論言わない。つか、言えねえ。
     背後にでけえ窓を構えた執務室は、俺が帰りついたときには既に明々と電気が灯されて、窓の外の橙なんてすっかり消えうせちまっていた。
     まあ、仕方がねえことだ。
     すっぽりと抱き込まれた腕の中に納まるのは気持ちが良くて、細かいことはどうでも良くなる。顔をあわせて、声を聞いて、そんで抱き締めあって体温を感じたらもういつも通りだ。
     夕陽のことを残念だと嘆く小さな声を耳の奥へ追いやりながら、俺はさっそくのように襲い掛かってきたエロオヤジの唇を、手のひらで塞いで防御する。
    「おかえりなさいのキスだよハニー?」
    「あら失礼。ほっぺたじゃなくて唇に落ちてきた気がしたもんで、ついね」
     両方の頬にちゅーで、済むんだったらいいけど?
     挑発する様に見上げると、ベルナルドは苦笑めいた――でも、確かに楽しそうな色を孕んだ笑みを浮かべて肩を竦める。その眼を見りゃ、ライトな挨拶で済むはずがないなんて一目瞭然だ。ったく、このエロオヤジめ。呆れて見せる俺の前で、ベルナルドの緑の眼に、じわりと熱がこもる。そして何をするのかと思えばベルナルドはにやりと口の端を上げて笑い、
    「――っ!」
     口を覆う俺の手のひらを、熱い舌で舐めあげる。
    「なっ、なにしやがる、このエロオヤジ!」
    「うん? はは、……久しぶりの、ジャンの味をね。ああ、美味しいよすごく」
     ……こ、んの、エロオヤジ――ッ!
     帰ってこいつと再会してからのこの短時間で、俺はいったい何回エロオヤジと言っただろうか。
     数えられねえ、と呆然としながらその舌先から手のひらを避難させる。
     いくらなんでも、あの台詞はありえねえレベルじゃありませんでしたこと?
     会えなかった期間の分、溜まってたんだろうエロ成分が、溢れて零れて大洪水だ。あてられて混乱した頭が上手く台詞を紡げずに、馬鹿、とかてめえ、とか、短い単語をいくつもこぼす俺。もうひとつありえねえのは、あのしょーもねえ台詞とやらしい舌遣いで、ぞく、と震えた自分の背筋だ。こいつみてえに仕事できるようになりてえ、と思ったことはあっても、こいつみたいな変態になりてえなんて考えたことすらなかったはずなのに。
     ここで流されたら、長旅の汚れを落とす暇も無くこのまま机で一ラウンド。始まっちまうだろうって事は、今までの経験からよく知ってる。
    「なっ……に、帰るなりセクハラしてやがるっ!」
     ぱこんと――の様に軽い音じゃなく。もっとえぐい音を立てて、ベルナルドの腹に拳が炸裂。
    「――っ、く。酷いな」
     俺の腕力なんて大したことないが、それでもベルナルドは腹を押さえてふらふらとよろめいた。
     緩んだ腕の檻を抜け出して、もう一度呟く。
    「酷くなんかねえよ、このエロオヤジ。自業自得だっつーの」
    「悪かったって。お前に会いたくて会いたくて仕方なかったんだ。今日なんて、一日ずっとお前が帰ってきたらどんなことしてやろうかって、そればっかり考えてた。その所為で、ちょっとね」
    「もしもし、ベルナルドさん? ソレ、まるっきり言い訳になってないってわかってます?」
     むしろ変態宣言してるようなもんだけど――いや、まあお前が変態なのなんて今日に始まったことじゃねえけどさ。
     呆れるのを通り越して笑っちまうしかない台詞。
    「お前、ほんと馬鹿だなダーリン。――後半に妙なこと繋げんじゃねえよ。前半部分は俺も同じだったのに、言い出しにくいじゃねえかよぅ」
    「――っ、ジャン……!」
     ベルナルドの眼が喜色に、――直後にやりとやらしい色に、染まるのを見てちょっと後悔。
    「同じなのは! 前半だけだからな!」
     そりゃあ、やりたくねえとか思ってたわけじゃないけど。お前みたいに無駄にいろんなことやりてえとか全然思ってねえから。いやそれマジで。言っとかねえとどうなるかわかんねえから、今ここではっきりと宣言させていただきます。
    「――ッハハ、まあ、そういうことにしておくよ」
    「いやだからそーいうことなんだよ……」
     まったくしょうがねえエロオヤジ。楽しそうな顔は、口でいくら言っても小揺るぎもしなさそうだった。そのにやにやした幸せそうな面がムカついたから――ぐい、とネクタイを引き寄せて、緩んだ唇に歯を立ててやった。
     小さく痛みが走る程度、皮膚を裂かない強さで下唇を食んでやると、瞬間眼を見開いたベルナルドは、すぐに楽しそうに眼を細めた。
     裏側の薄い皮膚を歯列でくすぐられると、ぞくぞくとしたナニかが背筋を這い上がる。俺が知ってるその感覚を、ベルナルドも今味わっている。そう思うと、なんかこう、また別の感覚が――だな。
    「エロいことばっかり、考えてたわけでもないんだよ」
     いつの間にかまた背中に回っていた腕に力を込めながら、ベルナルドが触れ合った唇でささやく。
     この状況で言われても――と思わないでもない。この状況ってのは、尻をなでる誰かのでかい手のひらの感触のことだ。説得力が皆無にも程がある。
    「――ほんとかよ?」
    「当たり前だろ? エロいことも、したいけどね――こうやって。でも、お前としたいのはそれだけじゃないんだ」
     至近距離から睨み上げると、ベルナルドは「すまんな」と吐息をふるわせた笑みで答える。
     言ってることはまともなのに――すげえ、嬉しいのに。マジで言ってるってわかってるのに、こんなに胡散臭いなんてすごいんじゃねえだろうか。
    「たとえば……どんなだ?」
    「うん? ――ああ、そうだな。ジャンは、今日の夕陽を見たかい?」
    「――っ、な、夕陽?」
     勿論、見た。
     そんで、すっげえ綺麗だったから、お前と一緒に見れたらなとか思って、急いで帰って――
    「多分、お前の乗った列車がデイバンに着く頃だったと思うんだが。ここで仕事をしていたら、気が付いたら窓の外が一面真っ赤でね。見たことも無いような綺麗な夕陽で――はは、ついうっかり、お前の机振り返っちまった。綺麗だな、ジャン――なんて話しかけてからお前がいないのを思い出してな」
    「……んな、そ、そうかよ……」
     どっかで、同じ様なことしたやつ、知ってるんですけど。
    「あの景色を、お前と見たかった」
    「…………」
    「な、エロくないだろう? ああ――それだけじゃないな。お前とやりたいことなんて、そんなの全部だ。仕事じゃそうも言ってられないのはわかってるけどね。本当は……お前と、ひと時だって離れたく無いよ」
    「……っ、この……、れも……っつの……!」
    「ジャン?」
     お前、それはナシだろ――つうか。
     ただでさえ、長いこと会ってなくてすげえ会いたかった再会の直後でやべえんだよとか。あとは抱き込まれた胸の体温とか、耳元でささやかれるとくらくらするような声とか、唇から離れて頬に落ちてきたキスとか。
     反則だろ――と叫びたくなるもんを山ほど抱えたベルナルドの、両頬に触れて顔を引き寄せようとした両手を捕まえる。手首をぎゅっと掴んだ手に力を込めて、ああもうどうにでもなりやがれと叫んだ。
    「俺もだっての!」
     顔が熱い。さっき以上に血が上って、絶対酷いことになっていやがる。
     そしてもう、あの夕陽は沈んじまった。
     一緒に見れなかったって後悔と一緒に、俺の顔が赤いのを隠してくれる太陽は地面の下だ。
    「――ジャン……!」
     ベルナルドの顔が、これ以上ないってくらい蕩けていた。幸せ満開な――ああ、くそ恥ずかしい!
     これ以上は無理、と逃げようとした俺の手を、今度はベルナルドが掴んで捕らえる。俺がしたみたいに手首を掴むんじゃなくて、手のひらを包むみたいに重ねられた。指先が俺の指と絡み、強く握りこまれる。深く組み合わせた手と手へと、ベルナルドは愛しげにキスを落とした。指の甲に触れるくすぐったい唇の感触が、照れくさすぎて死にそうなくらいの幸せを運んでくる。
    「顔、赤いぞ」
    「うるせえ」
     涼しい顔して、恥ずかしいこと言いやがるお前が悪い。二人して、同じこと考えてるとか。しかもそれがお互いの事だとか、なんだそりゃ。顔くらい、赤くなるに決まってんだろうが。ベルナルドの眼鏡にうつった自分の顔が、叫びだしたいほど真っ赤に染まっていた。
     きつく睨んだ俺の眼を、見たベルナルドはますますにやける。
    「よかったんだな」
    「……は、なに?」
     唐突な言葉に、首をかしげる。
     しみじみと納得したような声音だが、意味が解らない。
    「今日の夕陽は、お前と一緒に見れなくてそれでよかったんだな、と思ったんだよ」
    「なんだそりゃ……なんで、だよ?」
    「今のお前の顔。――あの夕陽なんて眼じゃないくらい真っ赤だ」
     可愛いな――、と。
     ささやいた唇が、その真っ赤に染まった頬にキスを。
     ああ、くそ。自分の顔が、一層真っ赤になりやがったって事が、手に取るようにわかる。
    「空は、いつでも見れるからね。さっきの夕陽は確かにとびきりだったが、これからもずっと一緒にいればいつか同じような――いや、もっと鮮やかで綺麗な夕焼けも見れるはずだ。それよりは、お前のその真っ赤に染まった可愛い顔を、存分に楽しむほうがいいな、俺は」
     俺が赤く染まるたびに上機嫌になっていくベルナルド。
     ああもう、くそ――くそ!
     可愛いとかそういう空言は置いといてもだ、あいつの言うこと全体的に、異論がねえのが悔しすぎる!
    「さて、とりあえずは――」
     ベルナルドは名残惜しそうにキスの雨を降らせるのをやめて、額をあわせて眼を覗き込んだ。
     飴玉みたいな色の眼が、眼鏡の奥で甘く誘う。

    「――明日の朝陽を、一緒に見るとしようか」

     爽やかに笑いながら寝かせないからと宣言をして、繋いだままの手を引いて歩き出したベルナルド。
     俺は、素直に。
     ――引かれた手に、導かれるまま。ベルナルドの腕に、身を任せた。












    2010/10/7
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