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    ベルジャン

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    「これからお前達には、家畜以下の環境で、生涯、主人の鞭に怯えながら強制労働をして生きてもらう」



     突然、そんな事を言われた人間はどのような反応をするか。
     まして、言い出したのはこの新大陸で唯一の頼りとしていた同胞の組織。逼迫した欧州の経済に悲鳴を上げて、一縷の望みをかけて新天地アメリカへと渡ってきた着の身着のままの家族を、にこやかに迎えて温かなスープを振舞ってくれたはずの男。
     脅しをかけるわけでも、凄むわけでもなくさらりと投げかけられた言葉を理解しきれず、幼い娘を膝の上に乗せていた父親は、匙ですくったスープを彼女の口元へと運ぶ途中でぽかんと動きを止める。
    「――い、いま、なんと言った? すまない、聞き間違いをしたようで……」
     狭い貨物船のコンテナに揺られて、彼らは今朝アメリカへ――この、デイバンという街へ上陸したばかりだ。一家のほぼ全財産と引替に、旅券と船を準備してくれた業者が言っていた通りに港にはCR:5というイタリアの同胞組織の人間が待っていた。
     これから、当面の住居と職を手配してもらえることになっている――はずだ。彼はそういう契約を交わした。いったい、自分はなんと言う聞き間違いをしたのだろうか。笑ってしまいそうになり――笑い飛ばせるようにと祈るような気持ちで、彼はおずおずと尋ね返した。
     膝の上で、腹をすかせた娘がはやくそのスープをくれとむずがって、揺れた匙から中身が零れる。塩気の薄いスープは父親の擦り切れたズボンを汚すが、そんなものを気にしている余裕は無かった。
     縋るように、彼は中折れ帽を被った迎えの男を見つめる。その近くでは彼の妻が、そして同じようにスープの椀を持った何組もの家族が、視線を集中させていた。
     ついさっきまで、ようこそ我が同胞よと長旅の疲れを労わってくれていた男は、まるで蛆虫の群れでも見るかのような眼差しで彼らを見返した。そして、

    「なんだ、鈍い奴らだな。そんなだから人間様から家畜に落ちちまうんだぞ? ――俺は親切だからな、もう一度言ってやるからよく聞け。お前達は今日これから俺達に売り飛ばされて南部の農園か西の方の鉱山かで死ぬまで働いてもらうことになる。勿論、愛し合う夫婦を引き離すような非道な真似はしないから安心しろ。お前らの女房の顔じゃ売り物にはならねえからな。まったく、今回の船はハズレばっかりだ、若い娘の一人もいやしねえなんて。ああそうそう、ガキが俺達が責任を持って引き取ってやるから安心しろ。赤んぼみてえなチビをガバガバに壊して喜ぶ変態どもは趣味が趣味な分金払いはいいからな。他にも、ガキのうちは使い回しが効くから、買い手は多く付くんだ。お前らが発情期の犬っころみたいにヒィヒィ盛って出来た薄汚いガキ共が、同胞である俺達の役に立つんだ。感謝して、せいぜい真面目に死ぬまで働けよ?」

     滔々と、言ってのけた。
     神よ――、と誰かの声がした。その声は神の名を呼びながらも、神など存在しないのだと現実を突きつけられた絶望に掠れていた。
     彼らは騙されたのだ。
     南欧からの移民を嫌うアメリカ政府は、イタリア移民を快くは思っていない。出来ることならば門戸を閉ざそうとする。これだけ広い大陸でありながら、アメリカの玄関は彼らにとってとても狭かった。その門をくぐるために、彼らは仲介業者に莫大な金を――彼らの収入から考えると莫大な金を――支払った。
     けれどそれは間違いだった。CR:5とかいうヤクザの組織は、彼らから全財産を奪った挙句に彼ら自身をも売り物として金銭に変えようとしている。彼らを、そして唯一残った宝である、この娘をも。

    「冗談じゃない!」

     男達が叫び、一斉に立ち上がる。娘を抱いていた父親もまた、幼い少女を妻に預けて憤然と腰を上げた。
     そうだ、冗談ではない。
     彼らは同時に拳を振り上げようとし――けれど、その拳が硬直するのもまた、同時だった。

    ――劈く銃声。

     埃を被った倉庫に、わんわんと反響する恐ろしい音。
     中折れ帽の男の手に、気付けば忽然と黒光りする鉄の塊があった。そして、移民の家族達をぐるりと取り囲んだ彼の配下の黒いスーツの男達の手にも。

    「こちらも、売り物に瑕をつけるのは馬鹿らしいと思っているんだ。ただまあ、お前達なんて、ひとつ減った所で大した違いはありはしないからな。床を撃っただけではわからない、という馬鹿は前に出てくるといい。くだらない労力をかけられるのは不愉快だが、仕方が無いから付き合ってやろう」

     声色すら変えない様子は、彼らがこうして人間を売り飛ばすことに慣れていることを物語っていた。
     異様で、異質な音。コンクリートを打ち抜いた銃弾の威力よりも、弾けた銃声の方が彼らの意気を殺ぐ効果が高い。反射的に身体を竦めてしまった移民達は、ずらりと自分達を取り囲んだ銃口に怖気づいてしまう。

     新たな人生を、求めてやってきたはずだった。
     狭い門をくぐり、ようやく辿りついた、けれど。

     踏み入る玄関を、間違えてしまったのだろう。ここは人食い鬼の住処だったのだ。同じイタリアの血を持つ同胞を、ただの商品としか見ないこんな者たちが人であるはずが無い。人間の皮を被っただけの食人鬼だ。
     父親は鬼への憤りに顔を赤くし、己の愚かさを悔い、そしてなによりも娘を想い胸が張り裂けそうだった。
     振り返れば、愛しい妻子の姿がある。不安に堪えきれず涙を浮かべる妻に、何が起きてるのかすら理解できない幼い娘。きょろきょろと辺りを見回しては首をかしげ、母親の涙を拭ういじらしい姿に眼の奥が熱くなる。
     彼らが住みなれた故郷を捨て、僅かなたくわえも投げ打ってまで新天地を目指したのは、すべてはこの娘のためだった。ささやかでもいいから、この子に少しでも幸福な未来を残してやりたいと考えたからだ。断じて、こんな男達の道具として地獄のような人生を送らせるためではないというのに。

     神よ、と誰かがまた、呟く。
     震えるその声が自分のものだと、少女の父親は数瞬後にようやく気付いた。不在を突きつけられたばかりの神の名前。それでも、最早縋るものはその名前しかないのだ。もし神はいなくとも、同じ血を持つ同胞がいると信じていた、その同胞に、裏切られたのだから。

    「神よ、この国は約束の地ではなかったのですか」

     叫びは、嘲笑されるだけ。

    「アメリカは約束の地だ。だが、必ずしもその約束が果たされるとは限らない――ということだな。神だとて、お前らのような貧乏人との約束などいちいち守っていられないということさ。――残念だったな」


     話は終わりだ。男は銃を突きつけるように、移民達を立ち上がらせ促す。
     黒スーツの男達が、彼らの手から幼い子供達を奪おうと手を伸ばす。抗えぬとわかっていても許せるはずも無いその手を避けるように子を抱いた女たちは身を捩る。
     悲鳴と罵声が入り混じり、たちまち混乱が巻き起こった。






     CR:5の男達は移民に、移民の者達はCR:5の男達に、それぞれ気をとられる。
     ――だから、彼に気付いたのはその娘一人だけだった。
     母の腕の中から外を見渡していた少女は、閉じていた倉庫の入り口がいつのまにか開いていたのを見つける。そして細く差し込む光の道を辿って、静かに歩み寄ってきていたとても背の高い青年。
     状況を理解していない少女が思ったのは、長身の青年の髪はふわふわと柔らかそうでまるで大好きな母親の髪のようだということだけだった。だから少女はその青年に、にこりと優しい笑みを浮かべる。初めて会った人には笑顔で挨拶をするのよ、と両親に教えられたとおりに。
     青年はそんな少女を見つけて少しばかり驚いたように眼を見開いたが、すぐに笑みを返してくれた。
     そして視線を少女から中折れ帽の男へと移し、表情も柔らかな笑みから屹然とした冷淡な表情に変えて、そして。

    「神様がどうだかはしらないが――」

     銃を、構え。

    「その約束を守ることが、俺達の――コーサ・ノストラの、義務なんだ」

     パン、と命が弾けた。







    「大変な不届き者を出してしまい、申し訳ありませんでした」

     あれから。
     突如現れた青年が中折れ帽の男を殺した。色めきたった中折れ帽の部下達だが、彼らが銃をその青年に向けるよりも早く、どこからか現れたさらに多くの男達が彼らを取り押さえたのだった。
     何が起きたか理解が追いつかずにぽかんと口を開いている移民達に、青年は自らの名をベルナルド・オルトラーニと名乗った。
     CR:5という組織の名とともに。
     瞬間、移民たちの間に緊張が走ったが、青年はゆっくりと首を振り敵意がない事を宣言する。
     彼の説明によれば、CR:5とは真実イタリア移民の庇護者となる組織であるらしい。ただし組織は一枚岩とは言えず、今回の件は一部の不心得者が独断で私服を肥やすために暴走した結果であるらしい。
     おそらくは自分達の前に、既に売られてしまった人々がいるだろう事を思えばそう簡単に許せる話ではないだろう。だがひとまずは、彼らは最悪の運命から逃れることが出来たというわけだ。

    「貴方がたの件については、本国の仲介業者より依頼を受けています。CR:5は本国よりの同胞を歓迎しましょう」

     まだ二十歳を超えたばかりではないだろうか。若いくせに、酷く大人びた口調だった。そして青年に促され、数人の男達が前へでた。困ったことがあれば彼らへ、と青年は男達を指し示す。
     年齢で言えばこの青年の方が随分と下だろうに、彼の態度は上位者のそれだった。確固とした態度の青年に移民達は安堵を覚える。
     先ほど、彼が発した言葉。
     約束の地を求める同胞を守る――その言葉を義務だと迷い無く言ってくれた青年のおかげで、少し前まで闇に包まれていた未来が一気に開けた気がした。

    「あなた……もう、大丈夫なのね?」
    「ああ……ああ、そのようだ。私も信じられない気持ちだよ。あの青年に感謝しなくては」

     少女の父親は、縋り付いて来た妻の身体を抱き締めて喜びを語る。
     同じような光景が、そこかしこで見られていた。
     青年の指示を受けた男達が、彼らを誘導し始める。男もまた妻子の手を取って、新たな道へと踏み出した。途中で恐ろしい思いもしたが、これから彼らのアメリカでの生活が始まるのだ。
     この時代、前途は明るいといえるのかまだわからない。CR:5という彼らが面倒を見てくれるのは初めだけだ。腰を落ち着けたなら、自ら職を見つけ金を稼いでやっていかなくてはならない。元手もほとんど無い状態で、どれだけの事ができるだろうか? けれど、彼はこの窮地を乗り越えることが出来たのだ。ならばきっと、これから先に待つものも乗り越えられるはず。そして何より、彼には家族がいる。愛しい妻、宝石よりも大事な娘。たとえ無からの出発でも、大切な家族がいる限り、戦い続けることができる。
     喜びを噛み締め、一家は歩き出す。
     父親も母親も、前途に思いを抱き、振り返ることなどしなかった。
     ただひとり娘だけが、細い首をくるりと回し、抱き上げている父親の肩越しに後ろを――ベルナルドの姿を振り返る。

     遠ざかる青年は、少女達の後姿を眼で追いかけていて、少女と眼が合うと、再び笑って手を振ってくれた。
     その表情は、先ほどまでの怜悧な面差しとはうって変わって優しくて、

    「……ねえ、パーパ、マンマ。あのお兄ちゃん、どこか痛いのかな?」

     けれど痛みを堪えて立ち尽くしているように、少女には見えた。

















     移民たちの一団が倉庫の扉の外へ消えて、ベルナルドは小さく息をついた。

     アレッサンドロに敵対的であった役員のひとりが、私兵を使って移民の人身売買を行っているという情報を得て、CR:5は騒然とした。その役員は、イタリア系も非イタリア系も問わず、過酷な環境の強制労働に移民たちを売り渡していたらしい。
     CR:5はデイバンの守護者、カタギの者達の庇護者でなくてはならないというのに――組織の根幹を揺るがしかねない行為にアレッサンドロ以下主だった幹部達が一斉に動いた。こうしてベルナルドが実働隊を抑えているのと時を同じくして、今頃はかつて血の粛清と恐れられた死神の鎌があの役員を襲っていることだろう。
     任された任務は無事に果たした。
     リーダー格であった中折れ帽の男を殺してしまったのは情報を引き出すという意味で些か惜しかったが、この場を一気に制圧するためには初撃が肝要だったのだ。
     アレッサンドロも、ベルナルドの判断を支持してくれるだろう。

     にしても、酷いものだった。
     あの男達――コーサ・ノストラの誇りも、意義も、何一つ覚えていない醜い者たち。只の敵ならば気にもとめないが、身内からあのような者達が出るなど言語道断だ。

     ベルナルドは唇を噛む。
     乾燥した皮膚がもう少しで割れそうな感触がした。
     埃臭い倉庫の中は、空気も酷く乾いている。
     空中を舞った塵を吸い込んでしまったのか、奥歯で砂を噛むような不快感があった。

     不快だ、――とても、不快だった。

     あの下衆な男が踏みにじった、オメルタという誓い。
     ベルナルドにはそれしかない。それ以外のなにも持っていない。CR:5の中で頭角を現し始めた地位も、多少の金銭も意味を持たないものだった。彼自身の矜持や、誇りは――自ら胸を張って示せるものは、かつて暗い檻の中で粉々に砕かれた。今のベルナルドは、砂粒のように粉々に砕けた欠片をオメルタという器の中に詰めこんで形を保っている砂の人形のようなものだ。オメルタがあるからこそ、ベルナルドはベルナルドでいられる。
     だからこそ、そのたったひとつのものを踏みにじったものたちへの怒りが滾々と込みあがってくる。
     
     ぷつり、と身体の内側を通る音がした。唇の皮膚を噛み破った音だ。舌先に滲む血の味が、彼はほんものの砂人形ではないとかろうじて教えてくれる。
     出所の日から――いや、檻の中の日々からずっと乾いた空虚を抱えていたベルナルドは、鉄錆の味がする血を舐め取りながら消えていった移民たちの姿を思い浮かべた。

     ベルナルドに笑いかけた少女と、その両親と思しき男女。
     彼らはベルナルドが持っているものを何も持っていないだろう。地位も、金も、住む場所も職すらも無い。未来の確証もなく、もしかすると一年後には路頭に迷っているかもしれない。
     けれど彼らはそんなものよりも、もっと大切なものを持っている。
     何も持たない両手だけれど、繋ぎ合わせる家族がいる。
     
     家族が、欲しいわけではないのだ。
     ただ、たった一つでいいからこの手に確かなものが欲しいとベルナルドは思う。
     彼が生きているという証。生を実感させてくれるもの。この手から生まれて、残っていく何か。
     それが何かはまだわからず、今はただ立ち尽くし、背を見送る。

     苦難の道が待っている家族の残影に対して浮かぶ感情は、――羨望であった。












    2010/06/02 「無からの出発」
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