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    かんの

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    かんの

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    バーテンパロ/モブ子視点炭善

    #炭善
    TanZen

    恍惚と微熱 視界に煩いネオンの間をすり抜ける。
     遠い雑踏の中に七センチヒールの足音が響いては吸収されて消えていく。
     歓楽街の喧騒からひとつ筋を外れた道はしっとりと色気を孕んだ空気を纏っていて、歩いているだけで艶っぽい雰囲気に惑わされそうだ。
     それとも既に夜の色に呑まれ始めているのか、踵から鳴る音も自然とゆったりとした重みを含んでいる。こつ、こつ、こつん。
     安っぽい光の渦に背を向けて、二人は人気のない方へと進んでいく。
     あざとさの滲み出るファッションに身を包んだ彼女は、隣を歩く金髪の青年の腕に自分の腕を絡ませて甘ったるい声を出した。
    「ねぇ我妻くん、私まだちょっと飲み足りないなあ」
     我妻くん、と呼ばれた青年はまだ若い女のまろい目尻を見て仕方なさそうに微笑む。
     傍から見れば二人の関係はデートの終盤で思わせぶりな態度をとる女と狙い通りに事が運んでにやける男のそれだったが、実のところそうではない。
     というのも、彼の腕に三つ四つ掲げられた紙袋はそのどれもがレディースファッションブランドやデパートコスメティックブランドのロゴの描かれたものだったが、しかし彼はただの荷物持ちではなかったからだ。
     これが女の購入品を男が持ってやっているという構図なら二人の間には熱っぽい感情があったのかもしれない。
     けれどこのショッパーの中身、すべて支払いは青年持ちだったのだ。更に言えば先程まで彼らのいたイタリアンレストランも彼の奢りだった。
     完全に女の方が『上』である。
    「マジかあ……ううん、そしたらどうしようかなあ」
     青年は桜の花びらの形を模した眉を下げて思案する。
     鼈甲飴にも似た大きな琥珀の瞳がやや困ったように揺れるが、それを見た女は彼の腕に自らの胸を押し付けた。
     むに、と柔らかく沈む肉の感触に青年が一瞬目を見開く。
     次いで視線を逸らし誤魔化すように前髪に手を伸ばした彼の狼狽えた表情を、女の瞳は見逃さなかった。
     ちょろい。デート中にも感じたことだが、どうやらこの男、ただでさえ貢ぎ癖があるというか随分と他人本位な性格であるのに、その上女性に頗る弱いようである。
     彼女はカラーコンタクトで縁取った眼を三日月の形に歪ませた。
     青年は必死に頬の内側を噛んで口許が緩みそうになるのを堪えているようで、女の唇が弧を描いているのには気が付いていない。
     雌猫の眼をした女の今日のターゲットは、この金髪の青年、我妻善逸だった。
     ターゲットといっても先程述べたとおり意中の相手であるとか夜のお相手だとかの類ではない。どういう訳だが金回りの良いこの男を暫く利用してやろうと彼女は思っていた。
     今日だって、ちょっと上目遣いで体をくっつけてやれば何でもほいほいと買ってくれたのだ。こんな都合の良い奴はそうそういやしない。
     可愛い服、煌びやかな化粧品、某有名ブランドのバッグ、美味しいご飯に写真映えする店。上手く使ってやれば幾らでも欲しいものは手に入りそうだ。
     そんな小悪魔どころか悪魔のような彼女の思惑を知ってか知らずか、善逸は「そうだ、」と表情を明るくした。
    「知人がこの辺でいい感じのバーやってんだよね。そこで飲み直そうか」



     彼が女を連れてやってきたのはレンガ色をしたやや味気ないテナントビルだった。
     地下へ続く階段の脇にはブラックボードの看板がひとつ置かれていて、白いチョークで『Bar C.KILN』とだけ書かれている。
     人通りの少ない通りに目立たない外観。隠れ家的というには些か隠れすぎているような気がしなくもない。
     SNS映えする店を想像していた彼女はシンプルすぎる外装に内心がっかりしたが、まあどうせ奢りだし、と先を行く善逸の後を追って狭い階段を降りることにした。
     こつ、こつ、こつん。ヒールの音が冷えた空気を震わせる。
     階段を降りてすぐのところにある扉を青年の白い手が引き、女は誘われるがままに中を覗いた。
     頭上でドアベルがからんからんと小気味良く鳴く。
     見た目よりも軽い音を立てて開いた扉の向こう側には橙色の空間が広がっていて、彼女は人工毛の睫毛を羽ばたかせた。
     アンティークなペンダントライトがほんのりと照らすだけの薄暗い店内。ゆったりと流れるまろやかな低音が耳に心地良いジャズ。年季の入った、しかし高級そうな調度品。
     木製のカウンターの内側でグラスを磨いていたバーテンダーが顔を上げる。
    「いらっしゃいま――なんだ、善逸か」
    「よお、炭治郎」
     彼は手を止めて眦を柔らかく緩めた。僅かに赤みがかった黒髪と柘榴石のような瞳が印象的な、精悍さの中に人懐こさの滲む顔立ちの青年だ。上品な生地の黒いカマーベストと袖を折った白いシャツがよく似合っている。
     炭治郎、と呼ばれていたが、彼がこの店のマスターだろうか。なかなか良い男だ。少なくとも、さらけ出された額の痣や大きな花札風のピアスが気にならないくらいには。
     女は心の中でほくそ笑んだ。こんな色男と知り合いだなんてやっぱり我妻くんは利用する価値がある。彼自身はまあ、そんなでもないけれど。
     どうぞ、と促されてバーテンダーの正面の椅子に男と女は並んで座る。
     カウンターの真ん中、ステンドグラス風のライトの下で二人分の影が輪郭を溶かしている。
     他に客はいないから、このとろりとした温度は実質彼らだけのものだ。
    「何にいたしますか、お嬢さん」
    「んん、どうしようかな。我妻くんは?」
     バーテンダーに色目を使いながら女は金髪の青年をちらと見遣った。気を遣う素振りだけの薄っぺらい言葉だが、彼にはこれで十分だ。
    「俺はデザートみたいな甘い奴」
    「じゃあ私はさっぱりしたのがいいな」
    「かしこまりました」
     手にしていたロックグラスを所定の位置に戻し、バーテンダーは代わりにコリンズグラスとカクテルグラスをひとつずつ取り出した。リキュールやシロップ、炭酸水の瓶を用意して手際よくドリンクを作っていく。
     捲った袖から伸びる腕の筋が、バーテンダーの動きに合わせて沈んだり浮き上がったりしていた。
     その手元を眺めながら女は肘を突いて目を細める。決めた。今日の本命はこのバーテンダーだ。
     そうと決まればと早速彼女は頬杖をして少しだけ首を傾けた。己の最も可愛らしく見える角度なんて知り尽くしている。鏡の前で何度も研究したのはこういうときの為なのだ。
    「マスターと我妻くんは友達なの?」
    「そんなところですかね」
    「そんなところって何よ、ひでー奴だなあ」
     媚びた声に応えるように、こと、と彼女の前に細長いグラスが置かれた。
     淡い色の液体の中でしゅわしゅわと気泡が弾けて美しい。
     最早癖のようにすかさずスマートフォンのカメラアプリを起動する女の隣で、金髪の青年はわざとらしくむくれてみせている。
    「じゃあ他に何て言えば良いんだ?」
    「うっ……」
    「ふふ、仲良いんだね」
     逆円錐のグラスにリキュールを注ぎながらバーテンダーは金髪に問い返す。
     窘めるようなバーテンダーの台詞を受けて言葉を詰まらせる青年を後目に、女は目の前の赫灼に微笑みかけた。
     彼女の視線に気が付いたバーテンダーの穏やかな瞳が妖しく揺れたような気がして、からん、グラスの氷の鳴らす音が女の鼓膜の上で反響する。うん、やっぱりいい男だ。
     さて、どうやって彼の気を引こうか。女は隣の金髪にドリンクが出されるのを待たずに自分のカクテルに口をつける。
     話題になりそうなものがないか脳内で検索をかければ、ひとつ、丁度良さそうなワードが引っかかった。バーテンダー、お酒、カクテル――カクテル言葉。
     それは先日彼女が参加した合コンでやたらとちゃらちゃらした男が自慢げに教えてくれたもので、聞き流していた知識が思いもよらないところで役に立つことに女は小さく唇を舐める。
    「そうだ、カクテル言葉って知ってる?」
    「カクテル言葉?」
     さもゆくりなく思い出した風を装って彼女はそれを口にした。
     敢えてバーテンダーにではなく金髪の青年に投げかければ、彼は初めて聞く言葉にぱちぱちと目を瞬かせる。
    「花には花言葉があるように、カクテルにもカクテル言葉がついてるの。すべてのカクテルにカクテル言葉があるわけじゃないみたいだけど」
    「よくご存知ですね」
     へえ、と感嘆した声を上げる青年とは対照的に、バーテンダーは柔らかい声で相槌を打った。
     女は心の中で小さくガッツポーズを取る。きた。食いついてきそうな話題を選びはしたが、こんなに簡単に乗ってくるとはありがたい。
    「そうかな? でも私、カクテル言葉とかその由来ってあんまり知らないんですよね。どんなのがあるんですか?」
     彼女は鼻にかかったような声で訊ねる。教えてほしいとねだるのは男を落とすための基本の技だ。穏やかそうなこのバーテンダーにだって承認欲求と呼ばれる類のものはある筈だし、それを少し刺激してやればきっと彼だって落ちるに違いない。
    「そうですね……たとえば、ギムレット。カクテル言葉は『遠い人を想う』ですが、これはレイモンド・チャンドラーの小説『長いお別れ』の『ギムレットには早すぎる』という台詞が元となっています。あとはマルガリータ、これは作者のジョン・デュレッサーの亡くなった恋人の名前がつけられているカクテルなんですけど、カクテル言葉は『無言の愛』なんですよね。どちらも比較的有名なエピソードを持つカクテル言葉です」
    「凄い、流石バーテンダーですね」
    「炭治郎、お前よくそんなことまで知ってんなあ」
     案の定バーテンダーはつらつらと己の持つ知識を並べてくれた。思った通りに事が進んで女はますます口角を上げる。
     隣の金髪はバーテンダーの博識さに感心半分、呆れ半分といった顔だ。
     と、彼の作っていたカクテルが出来上がった。バーテンダーの少しざらついた指先がカウンターの上にグラスを滑らせる。
     赤、緑、白の三層に分かれたカクテルは、女もそうだったが青年も初めてお目にかかった代物だったようで、二人は揃って息を呑んだ。
    「えっ、何これ凄い! 綺麗!」
    「ちょっと待って、お前いつの間にこんなの作れるようになったの⁉」
     カウンターの上に出しっぱなしだったスマートフォンを慌てて手に取り、女はかしゃりとシャッターを切った。フィルターで加工してSNSに投稿すれば瞬く間にインターネットの海から反応が返ってくる。
     金髪もカクテルグラスとバーテンダーの顔を交互に眺めては言葉にならない声を上げていた。
    「ビジューっていうんだ。かなり練習したんだぞ」
     当の本人はむん、と得意気な表情だ。
     彼のかなり練習した、という言葉は恐らく本当なのだろう。素人目から見ても、美しい層を織り成すこのカクテルを作るのは相当難しいであろうということは容易に判断できる。
    「善逸、飲んでみてくれ」
     バーテンダーに促されて青年はカクテルグラスに口をつけた。
     層が揺れて静かに歪み、薄い唇の隙間に吸い込まれていく。
     口に含んだ一口分を舌の上で転がしてから彼はゆっくりと喉仏を上下させ、その様子を見つめるバーテンダーの赤い眼がすうっと細まった。
    「……甘い」
     ぽつ、と零れた言葉に柘榴石の瞳の彼は満足そうな色を浮かべる。
     バーテンダーの眼差しの先では青年の蜂蜜の瞳がとろりと溶けている。
     顔を綻ばせた金髪の、滑らかな曲線を描く頬に落ちる睫毛の影が、オレンジ色の灯りに照らされててらりと光る僅かに濡れた薄い唇が、グラスの足を持つ長い指と中性的な手の甲に浮き上がる筋が、どこか蠱惑的で女は青年の横顔から目が離せなくなった。
    「ちょっと飲んでみる?」
     視線に気が付いた金髪がふいと彼女の方に顔を向けて、グラスをすっと差し出してくる。
     傾けられたカクテルグラスの中で色の境界がふわりと混じり合って滲んでいく。
     勿体ないと思ったのは何に対してだろうか。
     ただ、熱を孕んだこの空間で、向けられたグラスを受け取ったときに触れた青年の指の冷たさだけがやけにはっきりとしていたのは確かだ。
     手渡されたグラスの縁にそっと口をつける。
     透き通った器に流行色のリップカラーが付着するのが酷く忌まわしくて、彼女はできるだけ小さく唇を寄せた。
    「美味しい……」
    「でしょ」
     青年にグラスを返す際にまた三色の水面が曖昧になって、その向こう側で蕩ける琥珀が零れ落ちるような錯覚を見る。
     鼓動が揺らいで、女は頬が火照るのを感じた。見てはいけないものを見ているような、そんな背徳感。
     先程までそんな色香は纏っていなかった筈なのに、金髪の青年は今や血液の温度を上げる幻惑を揺蕩わせている。
    「このカクテルは」
     乾いたワイングラスをひとつ取り出してバーテンダーがささめいた。
    「リキュールの比重を利用して層を作っているんだ。こういうのをプースカフェカクテルって言って、ビジューはベルモットの赤をルビー、シャルトリューズの緑をエメラルド、ジンの白をダイヤモンドに見立てていてな、世界一豪華なカクテルとも呼ばれている」
     グラスを乾いた布で磨き上げつつ、彼は落ち着いた声で滑らかに空気を震わせる。
     きゅ、きゅ、とガラスとクロスが摩擦する音を聞きながら金髪は一口、また一口と、宝石に淡い口付けをする。
     僅か六◯ミリリットルの甘い輝きはすぐに彼の舌の上からその奥へと転がり落ちていく。
     女の手の中では炭酸がそろそろと逃げ始めていたが、彼女にそれを気にする余裕はない。
    「それから、ビジューはステア――層を作るんじゃなくて混ぜてグラスに注げば、それはそれは綺麗な琥珀色の『アンバードリーム』ってカクテルになるんだ」
     伏せられていたバーテンダーの黒々とした睫毛がすいと上がって柘榴石が琥珀に向けられた。どろりとした濃く赤い雫が溢れそうだ。
     その眼差しの先、光と影の中で深みの変わる黄金の中にも、今にも滴りそうな熱感が透けている。
     この色に触れてはいけない。女の脳内で鳴り出した警告音は、しかし手を伸ばしたくなる衝動を駆り立てた。この赫と金に触れたら己はどうなってしまうのか。
     触れた先を思い描こうとする彼女の目の前で、青年が最後の一口を口に含み、こくりと小さな音を立てて嚥下する。
    「ところでお嬢さん、このカクテルには一体どんなカクテル言葉があると思いますか?」
     触れようか触れまいか揺らぎながら指一本動かせないでいる女に、おもむろにバーテンダーが問うた。
     弾かれるように顔を上げると赤みを帯びた瞳と視線が絡む。
     ばちりと音を立ててぶつかり合ったそれは一瞬で押し負けて、彼女はじりじりとひりつくような温度に呑み込まれた。
     こつん、と革靴の踵が鳴る音が意識の向こう側で聞こえる。
     バーテンダーが女を見つめたまま緩慢な動きでカウンターから出てくる。
     整った顔立ちの中で目許だけが仄かに歪んでいて、そこから目を逸らすことができない。
     筋の目立つ腕が女の方に向かって伸びてくる――捕食される、そう思うのと、甘やかな声が彼女の鼓膜を低く舐めるのはほとんど同時だった。
    「ビジューのカクテル言葉は――」
     背筋がぞわ、と粟立つ。恐怖か、期待か、それともその両方か。
     けれど彼女の予想を裏切って、バーテンダーの手が触れたのは女ではなくその隣の青年の頬だった。
    「た、んっ……」
     音もなくくちびるとくちびるが重なり、金髪の青年の上擦った声が途切れて鼻から抜ける。その光景の孕む色欲の、なんと艶美なことか。
     バーテンダーは女に見せつけるように青年の柔らかく湿った口のふちを食んで、唾液に濡れた舌で粘膜の境界を割っていく。
     わざとらしく立てられた水音が微かに耳を犯す。
     口内を嬲られる度にひくりと跳ねる青年の体が、みるみるうちに朱に染まっていく白い肌が、しがみついているのか抵抗しているのか最早判断のつかない震える指先が、まるで自分がそれをされているかのような熱を生んで女の脳髄をふつりと茹らせていく。
     ふあ、と青年の口から蕩けた嬌声が漏れてリビドーに塗れた唇が離れた。
     二人を繋げる粘度の高い水の糸がぷつりと切れて、永遠に続くかと思った睦事が女の目と鼻の先で終りを迎える。
     あ、と思わず上がりそうになった声をすんでのところで堪えれば、それに気が付いたバーテンダーの手が青年の輪郭からするりと滑り落ちてその腰に回り、これ見よがしに彼の体を抱き寄せた。
     金髪の下の白いうなじから続くなだらかな肩に顎を乗せて、赫灼の男が肉食動物にも似た瞳のままで彼女を射抜く。きろり。
    「――視線を感じて」
     バーテンダーの低く囁く声の余韻が店内に薄く流れるBGMに乗って女のがんがんと揺れる脳に浸み込んでいくようだ。
     彼の台詞がビジューのカクテル言葉であると気が付いたのは、バーテンダーが唇の上に残っていたどちらのものかも分からない唾液を親指で拭ってからだった。
     赤い舌が、ぺろ、とそれを舐め上げる。
     ぶわ、と全身の毛が逆立った。背筋を這い上がる電流がぞろりとした感覚を呼ぶ。頭も体もどうにかなってしまいそうだ。早く、ここから逃げなければ。
    「あ、わ……」
    「ん?」
    「っ私! 今日はもう帰りますね、ご馳走様!」
     がたがたとみっともなくつんのめりながらカウンターチェアから降り、言うことを聞かない体で必死に後退って彼女はその場から距離を取った。
     ここにいてはいけないと脳の奥底に僅かに残った理性が訴えかけている。
     縺れる足に履いたヒールがもどかしい。
     心臓がどくどくと脈打つ音が耳元まで響いて煩いくらいだ。
     生まれたての小鹿のような足取りでバーの出入り口に向かい、女はドアの取っ手を引いた。
    「ありがとうございました」
     からんからん、とドアベルの鳴る音とともに床を這って追いかけてきたバーテンダーの声は、どこか楽しそうに笑っているようだった。



    「……ちょっと炭治郎、何してくれんのさ」
     階段を上る覚束ない足音の遠ざかるさまを聞きながら、善逸は炭治郎に抗議の声を上げる。
     未だ小さく奏でられるドアベルの乾いた音が店内のジャズと溶け合っていく。
     女の出ていった扉をちらと横目で見て、炭治郎は薄く笑った。
    「いや、な?」
    「な? じゃねえよ、折角かわいい女の子とお近づきになれるチャンスだったのに」
     ひたりとくっついたままだった炭治郎の体を引き剥がして口を尖らせる善逸だったが、赤らんだその頬は満更でもなさそうに緩みかけている。きっとにやけて変な顔になりそうなのを堪えているのだろう。
     炭治郎は彼のその薄い唇に親指を引っ掛けてふにふにと弄びながら眉尻を下げた。
    「あの子は善逸のことを財布としか見てなかったみたいだぞ?」
    「分かりきったこと言わないでくれる⁉ それに俺だってあの子の炭治郎を見る目、めちゃくちゃ気にくわなかったんですけど」
    「そうか、ごめんな」
     ちゅ、と善逸の唇の端に小さなキスを落としながらいたずらに彼の耳の後ろをかりりと引っ掻く。
     僅かに肩を跳ねさせた善逸の白い手が炭治郎の服をきゅっと握って、蕩けた琥珀は何かを請うているようだ。
     それに誘われるように炭治郎はもう一度深くくちづけた。
     差し入れた舌がざらざらとした感触を捕らえる度に甘く重いアルコールの味を拾っていく。
     上顎の浅いところを擦り、柔らかくぬめる舌の裏筋を舐め上げて、熱い唾液を流し込む。
     控え目に突き出された舌先に歯を立てれば、んう、と善逸が微かに啼いた。
     されるがままの善逸の首筋をなぞって、鎖骨の凹凸に指を這わせ、シャツのボタンに手をかけようとして――炭治郎はふと我に返る。いけない、幾らまもなく閉店時間であるとはいえどもまだ一応仕事中だ。
     とろとろにふやけた善逸の唇を吸い上げてから離れると、彼は名残惜しそうに目を細めていた。
    「ところでお客様、ビジューはお口に合いましたか?」
     もっと、とせがまれる前に炭治郎はおどけた口調で訊く。これ以上を求められる前に物理的な距離を置かないと。
     すいと身体から離れていく指先に一瞬不満げな顔になる善逸だったが、すぐに炭治郎の言動の意味を理解したのだろう、金髪を揺らして彼の問いに少し考え込むような素振りをしてみせる。
    「そうだなあ、美味しかったけど結構甘かったから……次はカジノにしようかな」
    「カジノ?」
     善逸の口から出てきた意外な台詞に炭治郎は目を瞬かせた。
     カジノはすっきりとした味わいが特徴的なカクテルで、彼が普段好んで飲むものよりも随分と辛口だ。
     というか、自分でそうさせておいて何だが、彼がこんなにすんなりと甘やかな空気を手放すこと自体が想定外である。いつもならもっと駄々を捏ねてくるのに。
    「珍しいな、善逸は甘口のカクテルしか飲まないのかと思っ――」
     そう思いながらも炭治郎は彼のリクエストに応えるためカウンターの向こう側に戻ろうとする。
     が、言葉と裏腹に伸びてきた善逸の腕が首の後ろに回されて、そのまま引き寄せられ、おもむろに唇を奪われた。
    「それかカジノよりもっといいものちょうだいよ、炭治郎」
     触れるだけの軽いキス。けれどその瞳の中でどろりと溶けた熱は彼を捕らえて離さない。
     燻る劣情の奥底からふっと浮き上がってきたカジノのカクテル言葉が炭治郎の脳裏によぎる。
    「……まったく、お前って奴は」
     そういうことか。炭治郎が大きく溜息を吐けば善逸はうぃひひ、と口角を上げた。濡れた唇が弧を描き、暖色系の光を受けていやらしくてかる。
     ああ、この男はきっと最初からそのつもりだったのだ。少し煽られただけで情動を抑えられなくなる己に呆れながらも、彼はかろうじて作っていたバーテンダーの顔を無造作に投げ捨てた。
     熱い吐息が重なる。
     薄暗い店内でなまめかしいけものが二匹、ゆるゆると蠢いていた。
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