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    かんの

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    かんの

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    万年寝不足鬼狩り勤労学生あがつま
    手羽さんのイラストに付けさせてもらったお話

    #炭善
    TanZen
    #万年寝不足鬼狩り勤労学生あがつま

    月に雷鳴『――こちら鬼殺隊第三本部。鳴柱・我妻善逸、応答せよ』
     耳元のワイヤレスイヤホンからやや無感情な声がして、彼は揺蕩っていた意識ごと急激に現実へと引き戻された。はっと瞼を開ければ世界は既に暗く、カーテンの向こうにはしっとりとした夜が静かに佇んでいる。さっきまでは辛うじて日は落ちきっていなかった筈なのにいつの間に沈んでしまったのだろうか。まだぼんやりと霞のかかったような思考を無理矢理動かして、善逸は掠れた声で答える。
    「こちら鳴柱。第三本部、どうしました? どうぞ」
     今は何時だ? まだそう遅い時間ではないと思いたい。身を預けていたソファから起き上がりスマートフォンのディスプレイを確認すれば、画面上に表示されている時計は間もなく二十時になろうとしていた。日没から一時間と少し、そろそろ奴らが活動を始める時刻だ。
    『こちら第三本部。鳴柱、新宿にて新たな鬼の活動痕跡を発見したとの情報が入った。周辺地区の巡回及び捜索に向かわれたし。どうぞ』
    「鳴柱、御意。ターゲットの詳細は後ほどでお願いします。以上」
     イヤホンのボタンから指を離して通信を終えた彼は眉を顰めて忌々しそうに溜め息を吐いた。まったく、ただでさえ忙しい身だというのに連日容赦なく仕事が舞い込んでくるとは一体どういうことなのか。特にここ二、三週間はいつにも増して任務が立て込んでいて、一晩の間に何度も指令が入ることも珍しくない。少し前までは比較的平和だったのに最近は仮眠がとれればいい方だ。明らかに寝不足の頭を軽く振って、彼はこきりと首を鳴らした。
     暖かくなってくると変質者が増えると言うが、増えるのはなにも変な人間だけではない。春という季節は人ならざるものにとっても浮き立つもののようで、特に年度が変わってすぐのこの時季は魑魅魍魎が増えるのだという。それは彼らの狩るターゲット――即ち鬼に関しても言えることだった。
     夜な夜な現れては人を襲い喰う鬼は現代においても健在で、しかしその手口は昔よりずっと人間社会に馴染んでいる。人による犯罪や事件事故に見えるよう巧妙にカムフラージュされた活動痕跡を鬼のそれと見抜けるのは、今や特別な訓練を受けた鬼殺隊士や彼らの使役するものたちだけだ。だがそれにしても、今年は例年に比べて発見される活動痕跡が多い。それだけ鬼が増えているのか、あるいは。
     その辺に放りっぱなしだった『滅』の字入りのパーカーを引っ付かみ、リビングから廊下に出て、善逸は玄関に立てかけてあった日輪刀を手に取る。夜の帳が降りてまだ間もないというのに、家を出れば彼を迎えるのはやけにがらんとした住宅街だ。自慢の脚力でもってして軽い身のこなしで建物の屋根に上がり、善逸はその上を往く。目指すは夜の街、新宿歌舞伎町である。


    ***


     新宿駅から歩いて十分と少し、大通りから一本外れた筋にその店はあった。各地の農家から直接卸した粉や産地にこだわった材料の揃う、知る人ぞ知る卸問屋。やや近寄りがたい雰囲気の漂う店だが、その実この辺りの関係者にはすこぶる評判が良い。その店の扉がギイッと鳴き、カランカランとドアベルの音が転がる。ありがとうございました、の声に律義に会釈を返して店から出てきたのは、まだ僅かに幼さの残るひとりの男子高校生だった。
     軽い足取りで路地を行く。腕に抱える紙袋に入っている蜂蜜の瓶はそれなりに重量があるが、これで新作のパンを試作するのだと思えばさして気にならない。実家のベーカリーに置いてあるものとは異なる珍しい品種を購入したから、どんな風味のパンが出来上がるか楽しみだ。さて、何を作ろうか。パネトーネにブリオッシュ、食パンの生地に練り込んでもいい。何種類か作ってみて上手くいったものを本格的に商品化しよう。そうだ、季節ものなら桜あんパンにも使えるな。あとは紅茶やハーブティーの茶葉と一緒に混ぜたりだとか、デニッシュ生地に使うなら苺に八朔、アメリカンチェリー、それから……。無限に湧き出てくる案に胸を躍らせながら、彼――炭治郎は駅の方へと向かっていた。
     炭治郎の実家は街でも人気のパン屋、竈門ベーカリーである。竈門家の長男である彼は、高校生の身でありながら体の弱い父に代わって日々家業に勤しんでいた。勿論まだ学生なので学校や勉強を疎かにはしないようにしているが、手伝いと称して製パン作業に精を出したり材料選びや新作の考案に携わったりと、大人顔負けの働きぶりを見せているのもまた事実である。今日も新作に使う材料を見繕いに贔屓の卸問屋を回っていたところだ。なかなかピンとくるものがなくて今日は駄目かと諦めかけていたけれど、最後に訪れたこの店で良いものに巡り会えて良かった。この蜂蜜を勧めてくれた店主にも感謝しなければ。新作が上手くできたらお礼も兼ねて持っていこう、きっと喜んでくれるに違いない。先程まで熱心に炭治郎の相手をしてくれていた店主の美味しそうにパンを食べる顔を想像して、彼は嬉しそうに口角を上げた。
     ふんふんと下手くそな鼻歌を歌いながら大通りに出る。駅へと向かう道は仕事終わりのサラリーマンや遊びに出てきた若者なんかでごった返していた。昼の顔から夜の顔へと表情を変えた新宿の街は煌びやかなネオンと賑やかなざわめきで溢れていて、いち高校生が長居するには些か不向きな雰囲気だ。明日も朝から店の手伝いがあるし、早く帰って新作の案を纏めよう。雑踏の中、帰る足を速めようとしたそのとき、炭治郎の視界の中で一人の男がぬるりと動いた。何だろうか。何かが気になる。瓶から漂う蜂蜜の香りに滲んでしまっているが、不審な匂いも微かに嗅ぎ取れる。どうやら何かタイミングを窺っているようだ。人の波に紛れて何をしようとしているんだ? 前方の男をじいっと見詰める。その更に向こう側で信号機が点滅する。周囲の人々が急ぎ足になるのに合わせて、男もすいと足を速める。前を歩いていた女性を追い抜かす際に肩と肩とがぶつかって――――「すみません」よろめいた女性にそう声をかけた男の手が、彼女のショルダーバッグの中から何かを抜き取った。
    「ちょっと」
     気が付いたときには、炭治郎は男の腕を掴んでいた。
    「今、この女の人の鞄から何か取りましたよね?」
     振り返った男の表情が歪む。炭治郎の言葉に女性は慌ててバッグの中を覗き込み、「財布、」と呟いた。ほとんど同時に男が炭治郎の手を振り払い、脱兎の如く走り出す。
    「すみません、これお願いします!」
     咄嗟に紙袋を女性に押し付け、彼は弾かれたように逃げ出した男を追いかけた。


    ***


     ザザッ、とイヤホンが無機質な音を拾う。耳の良い彼にとってこのノイズは心地の良いものでは決してない。不快な音にほんの少しだけ眉根を寄せて、街中を走る足はそのままに、善逸は耳元へと意識を向けた。
    『こちら第三本部。鳴柱、応答せよ』
     焦りを孕んだ声が己を呼ぶ。またか、舌打ちしたくなるのを堪えてイヤホンの通信ボタンを押した彼は、できるだけ落ち着いた声で呼びかけに応じた。
    「こちら鳴柱。本部、今度はどこですか? どうぞ」
    『こちら第三本部。鳴柱、西新宿にターゲットを確認。公園通りを南に移動中とのこと。至急――……』
    「は⁉ 公園通り⁉」
     けれど装った冷静さは通信機の向こうから聞こえてきた台詞に簡単に崩される。大久保の街を走っていた足を止め、思わず荒げてしまった声に刺さる周囲の視線を気にもせず、善逸は今度こそ大きく舌打ちをした。無理もない、彼が今いるのは大久保の中でも最も北の方で、ターゲットのいたという公園通りはここから三キロは離れている。いくら鳴柱である善逸と言えども移動に数分はかかる距離だ。ぎり、と奥歯を噛み締めて、苛立ちの滲む眼差しを頭上に投げる。今宵は月が明るい。上を行くにはリスクが高いが、そうも言っていられないか。姿隠しの紙もあるし、地上を行くより余程早い。くるりと踵を返して人気のない裏道に入り、誰の目もないのを確認して、彼は上へと跳び上がった。
     最初の目撃情報は歌舞伎町だった。次は西新宿駅周辺、そして先程の連絡で大久保までやって来たというのに、今度は都庁方面か。建物の屋上から屋上へと飛び移りながらイヤホンから流れてくる音声に耳を傾ける。
    『こちら第三本部。鳴柱、他の隊士の差遣は必要か。どうぞ』
     ノイズ混じりの『鎹鴉』の声に善逸は素早く思考を巡らせた。索敵能力の高い『獣柱』や『花柱』はここから離れた地区の担当だし、同じ雷の呼吸の使い手の『神柱』である獪岳も現在Sランクの鬼を追って関西方面に行ってしまっている。そうでなくとも今回のターゲットのランクはBだ、本来任務にあたる隊士の階級は庚からせいぜい戊までのはずである。自分より適した人材がその階級にいるとは思えない。
    「こちら鳴柱。大丈夫です、すでに向かっていますので。どうぞ」
    『第三本部、了解。以上』
     通信を終えた善逸は前を見据えて静かに息を吸う。ターゲットの出現場所は新宿付近に留まっているというのに未だに正確な足取りが掴めないでいるのは、相手が異様にすばしっこいからか、それとも何か厄介な血鬼術でも使っているのか。何にせよ被害が出る前に斬らないと。
     建物の屋根を軽く蹴る。雷の呼吸特有の轟音が響かないよう細心の注意を払いながら、彼は人々の遥か頭上を行く。地上を歩く彼らは、満月を背負って夜を駆ける善逸の存在に気が付くことはなさそうだ。


    ***


     大通りから細い脇道に入る。右に曲がり、左に曲がり、また左に曲がって更に細い路地を行く。走る足は緩めずに前を逃げる男を追えば、そこは流石に現役高校生と一般人だ、距離は徐々に詰まっていくし体力の差も目に見えてくる。息の乱れた男がゴミ箱を蹴飛ばす。炭治郎はそれを軽々と飛び越える。
    「くそっ……!」
    「待て!」
    「誰が――――うわっ⁉」
     男が何かにつまずいて体勢を崩した隙に彼はラストスパートとばかりに加速して腕を伸ばした。男のシャツに手がかかる。それさえも振り払おうとする逃走犯を力任せにぐいっと引き寄せる。
    「捕まえた!」
    「離せ!」
     ぐらりと揺らいだ男の体を羽交い絞めにしてみればその体躯は想像していたよりも随分と痩せこけていた。けれどその体のどこにそんな力があるのか、男はなおも暴れ回るのをやめようとはしない。往生際悪く身を捻る男に炭治郎は腕の力を強め、ぎりぎりと締め上げる。
    「大人しくしろっ……!」
    「こンの……クソガキが!」
     と、男の足が炭治郎の足を払った。一瞬緩んだ腕の中で男が体を捩るのが分かる。こいつ、まだ逃げる気か! するりと拘束から抜け出した男の肩を反射的に引っ掴んだ炭治郎は、振り向いた相手の額目がけて思い切り頭突きを繰り出した。
    「がっ……⁉」
     炭治郎は頭が固い。思考回路的にでもあるが、物理的にもなかなかの硬度があると自負している。その固い頭による頭突きの威力は人を気絶させるには充分で、それは勿論この男に対しても例外ではない。気を失って崩れ落ちる男を前に、炭治郎はふう、と息を吐いた。
     さて、スリの犯人も捕まえたし、被害者の財布も取り返した。ようやく鬼ごっこも終わったことだし早く元いた場所に戻らねば。炭治郎は意識のない男を肩に担ぎ、今いる路地を見渡した。狭い路地は薄暗く、表通りのネオンも届かない。月明かりだけがビルの隙間から覗いている。ここは新宿のどの辺りなのだろうか。がむしゃらに男を追ってきたから、自分の現在地も、方向感覚も見失ってしまった。とりあえず大通りに出れば何とかなると思うのだが、その大通りにはどちらに行けば出られるのだろうか。生憎入り組んだ道に入り込んでしまったようで人の匂いを辿ろうにも風向きすら嗅ぎ取れないのだ。困った。しかしじっとしていてもどうにもならない。一先ず真っ直ぐ進んでみて――――そう考えて一歩足を踏み出そうとした炭治郎の背後で、カツン、と硬い足音がした。
    「君、今すごい音が聞こえてきたけれど大丈夫か?」
     声のした方を振り向けば、青い制服を着た警官がひとりこちらに向かってきているのが目に入る。良かった、助かった。警官ならこの辺りの地理にも詳しいだろうし、スリの犯人もどうにかしてくれるだろう。ほっと一つ息を吐いて彼は警官の方に向き直った。
    「ちょうど良かった、お巡りさん。この人さっきスリをはたらいていたんです。追いかけて捕まえたは良いんですけど、ここがどこだか分からなくて」
    「そうだったのか。ではその男はこちらで引き取ろう。それから大通りはあっちだ」
     警官が炭治郎の担いでいる男へと手を伸ばす。気絶したままの男を引き渡そうとして、彼はふとその手を止めた。――――この警官、本物か? 身元確認も署への同行も求めてくる気配がないし、何がとは分からないがなんとなく違和感がある。何だ? 服装か? それとも言動か? それにさっきから漂っているこの肉のすえたような嫌な匂いは何だ?
    「ん? どうかしたかい?」
     こういう直感というのは不幸にもよく当たるものだ。本能の鳴らす警告音に、炭治郎は咄嗟に担いでいた男を警官の手から遠ざける。引いた後ろ足が地面と擦れてざり、と音を立て、彼はじとりと警官をねめつけた。
    「……失礼ですが、本当に警察ですか?」
     警官の動きがぴたりと止まる。表情を窺おうにも制帽の影になってしまって口許しか見えないが、その唇が僅かに歪んだような気がして炭治郎は思わず声を低くする。
    「すみませんが警察手帳を見せてもらってもいいですか」
    「……なかなか察しが良い小僧だな。ところで――」
     警戒心を露わにする彼に、警官はにい、と口角を上げた。
    「その耳飾り、さてはお前『ヒノカミ』の人間だな?」


    ***


     はあ、大きな溜息を吐いてしゃがみ込む。落ち着け、苛立つな、冷静になれ。不安定な精神状態で闇雲に走り回ったところで、あの逃げ足の速いターゲットを見つけられるわけがない。呼吸だって浅くなってしまう。しっかり息を吸って、細胞に酸素を巡らせて、今は鬼を斬ることだけを考えろ。そう自分に言い聞かせるが腹の中でぐらつく感情はなかなか静まってはくれないようだ。善逸は険しい顔つきのまま、新宿の街を見下ろした。
     建ち並ぶ高層ビルに窓から漏れる煌々とした灯り。疎らになってきた人の群れと、暗闇でもその存在感を発揮するLOVEのオブジェ。都庁の屋上から見える風景はいつもの西新宿だというのに、それがどうしてこんなにも癇に障るのか。答えなんて分かり切っている、十中八九寝不足のせいだ。
    「弱いくせに隠れるのだけやたら上手くて嫌になるわ……こちとら明日も服装チェック立たなきゃならんのに」
     吐き出された呟きは誰の耳にも届かない。夜に紛れて、終わり。それだけだ。だが零さずにはいられないのが人の性である。これで己を苛む頭痛が少しでも和らぐなら幾らでも吐くのだが、そうではないのがまた煩わしい。
     ――――ようやく見つけたと思ったのに。
     苛立ちに煽られて体を揺らしながら善逸は先程の光景を思い出す。視界の端にちらりと映ったターゲットは人と変わらない姿かたちをしていて、けれどすぐに暗闇に同化して見えなくなってしまった。あれは恐らく目くらましの類の血鬼術だ。おおかた影のあるところに入ると姿を視認できなくなるか、あるいは影の中を自由自在に動き回れるか、そんなところだろう。見つけた瞬間に斬ることもできなくはないが、もしターゲットと間違えて人間を斬ってしまったらと思うとそれも難しい。先刻だってそうだった。迷いが生じたその一瞬で逃げられてしまった。普段なら鬼と人間の区別なんてもっと早くに付けられるのだが、如何せん寝不足が祟って頭が回らないのである。連日の疲れも溜まってきていて判断力も落ちていれば情緒も乱れがちだ。良いことなんて何もない。
     眼下に広がるオフィス街を睨みつけながら、彼はもうひとつ息を吐いた。奴さんの絡繰りはなんとなく見当がついたものの、どうやって捕まえるかが問題なのは依然として変わらない。さっきは断ってしまったが、やはり増援を頼むべきだろうか。いや、これは大勢で追っても捕まえられないタイプの鬼だ、増援を頼むだけ無駄だろう。他の隊士だって決してさぼってなんかいないし、ただでさえ人員不足なのだ、鳴柱としても他人の手を煩わせるわけにはいかないのである。そもそも今の鬼殺隊には善逸より速い隊士なんていないのだ。
     目を閉じて静かに息を吸う。神経を研ぎ澄まして意識を聴覚に集中させれば、この街の音ひとつひとつが鮮明に耳に入ってくる。残業中のサラリーマンのタイピング音、仕事終わりのOLのお喋り、地下鉄丸ノ内線を走る電車の音、居酒屋のキャッチの呼び声、それから――――雑踏に紛れる鬼の音。
    「いた」
     どの辺だ? ここから東へ一.五キロほど、だいたい三丁目の辺りだろうか。禍々しい鬼の音が狭いところで反響している。路地裏か? 随分と入り組んだところを移動しているようだ。だがそのルートは目的地も規則性もない。どういうことだ? まさか、誰かを追っているのか?
     更に耳をそばだてる。鬼の音に重なってもうひとつ音が聞こえてくる。鼓膜の上で軽く転がる、カランカランという聞き覚えのある音。
     これは、この音は、もしかして。
    「おいおいおい……まじかよ」
     ぎり、と歯噛みした善逸の琥珀色の双眸に、焦りの色が浮かんだ。


    ***


     薄暗い路地を無我夢中で駆け抜ける。こんなに全速力で走るなんて、体育の授業でも滅多にない。笑う膝に鞭打って、ああ、足が攣りそうだ。それでも足を止めることはできない。止めたらそこに待っているのは真っ暗な死だ。本能がそう言っているのだから間違いないだろう。背後ににじり寄る圧倒的な殺気を、ずりずりと猛スピードで這いずるような足音を、襲い来る死への恐怖を、その背中に受けながら炭治郎は人気のない路地裏を懸命にひた走る。はやく、もっとはやく逃げなければ。さっきまで警官の姿をしていた『それ』の手がすぐそこまで伸びてきているのが分かる。ぬるりと迫りくる影はもはや人の形をしているのかすら疑わしい。何だあれは、何だあれは、何だあれは⁉ 幾ら疑問に思おうと答えてくれる人は誰もいない。ここには炭治郎と異形の化け物しかいないのだから。
    「運が良いぜ! こんなところで『ヒノカミ』の人間に出会えるなんてな!」
     高らかな笑い声が路地にこだまする。ヒノカミ? 何のことだ? 俺のピアスに気が付いた途端標的をスリの男から俺に変えてきたけれど、このピアスが『ヒノカミ』とやらと何か関係あるのか? 分からないことだらけの中で、捕まったら殺されるのだろうということだけは確かだ。どうする、どうすればいい? 大通りに出れば助かるのか? いや、人のいるところに出たところでこの化け物を止められる人物がいるとは限らない。むしろ周りの人を巻き込んでしまうかも知れないと思うと迂闊に路地から出られなかった。だけどこんな化け物、俺ひとりでどうにかできるわけがない! どうする、どうする、どうすれば。誰に助けを求めればいい? それとも死ぬと分かっていてでも迎え撃つしかないのか? 考えても考えても頭の中に浮かんでくるのは絶望的な未来ばかりで、だってもう自分がどうやって走っているのかすら分からない。駄目だ、諦めるな、走れ、考えろ考えろ考えろ! 右へ左へ路地を逃げ回りながら炭治郎は必死に思考回路を回す。しかし。
    「行き止まり……⁉」
     曲がろうとした先が壁に囲まれているのに気が付いて反射的に反対側へと足を向ける。が、飛び込んだ道もまた先がなく、嘘だろ、そんな、ここまでなのか。背後の気配に振り返る。テナントビルの間を縫って細い月明りが一筋落ちている。その中に照らし出された追っ手の姿は、炭治郎の脳の回転を止めるのに充分なおぞましさをしていた。
     ひゅ、と喉が鳴る。呼吸が上手くできなくて、思い浮かぶのは家族や友人の顔で、足が震えて立っているのもやっとなくらいだ。化け物が下卑た声で笑う。長い爪がこちらに向けられる。唇の間から覗く舌が赤い。
    「ヒノカミの血を啜れば何よりも強大な力を得ることができる……嘘か本当か知らないが、鬼の天敵と言われた一族の末裔だ、きっとお前を喰えば――――」
    「お前みたいなB級にそんな簡単に喰わせねえよ」
     ああ、もう終わりだ。炭治郎が死を覚悟したそのとき、化け物の頭上から声がした。どこかで聞いたことのある、けれど記憶の中よりもずっと低い、静かな憤りを孕んだ声。
     化け物が声のした方を見上げる。その表情が引き攣るのと、次の台詞が聞こえてくるのはほとんど同時だった。
    「雷の呼吸・壱ノ型」
     ばちばちと閃光が爆ぜる。月から降り注ぐ仄灯りを背負った金色が煌めく。
    「――――霹靂一閃」
     それは一瞬の出来事だった。落雷にも似た轟音が響き渡り、鋭い一撃が閃く。眩い光と鮮やかな血しぶきが視界いっぱいに広がって炭治郎は思わず目を細めた。断末魔すら上げる暇もなく化け物の首――――そう、首が飛ぶ。炭治郎の目の前に着地した彼の後ろで、化け物の体がゆっくりと倒れ込んだ。
    「まったく、護衛の奴は何してんだか……」
    「あ……我妻先輩⁉」
     窮地に追い込まれた彼の前に降り立ったのは炭治郎の知った顔だった。風紀委員でありながらいつも校則違反である彼のピアスを見逃してくれる、中学の頃からの顔見知り。ずっと気になっていたが学年の違いからなかなか接点を持てないでいた人物だ。毎朝校門に立って服装チェックをしているときの気だるげな雰囲気はどこへやら、凛とした佇まいで金髪を揺らす彼はひとつ長い溜息を吐いて今しがた斬った化け物の方に視線を投げる。フードに『滅』の字の入ったパーカーに黒いグローブ、そして腰に携えられた日本刀。普段の彼とは別人だ。それでも見慣れた先輩の登場と、その彼が化け物から自分を救ってくれたのだという安堵で、炭治郎はその場にへたり込んだ。己を襲った化け物はさらさらと塵になって消えてゆく。ああ、助かったのだ。全身から力が抜けて、情けない話ではあるが立ち上がることすらままならない。そんな炭治郎には目もくれず、金色の彼は耳元に手を当てて口を開いた。
    「こちら鳴柱。第三本部、応答願います」
    『……――こちら第三本部。鳴柱、いかがされたか。どうぞ』
     微かなノイズに乗って機械的な声が聞こえてくる。
    「こちら鳴柱。本部、ターゲットの滅殺が完了しました。『隠』の差遣をお願いします。どうぞ」
     耳慣れない単語の飛び交うさまに炭治郎は目を瞬かせる。鳴柱? 隠? なんだそれは。ターゲットって、さっきの化け物のことか? まるでそうするのが当然であるかのように彼は化け物を倒したけれど、先輩はいつもこんなことをしているのか?
    『こちら第三本部。鳴柱、了解。次の指令を待たれたし。以上』
     ぷつりと通信の途切れる音がして、ようやくこちらを一瞥した彼と視線がかち合った。琥珀色の瞳は炭治郎の知っているものより幾分か冷たい色をしているものの、その根底にあるまろい温度は変わらない。未だ震えの止まらない唇で、炭治郎は恐る恐る問いかける。
    「先輩、今のは一体……」
     と、すうっと月の眼が細められた。何かかなしいものを見るような、それでいてどこか達観したような、そんな目だ。彼の零れ落ちそうなふたつの満月が炭治郎の赫灼を射止める。現実感のない美しさに、彼は息を呑んだ。
    「いいか、これは夢だ。今見たことは全部、明日になれば記憶から消える。だから――――」
     優しい声だ。彼の匂いも、強くて優しくて芳しい。俺はこの香りを知っている。もっと近くで嗅いだことがある。だがそれがいつのことなのか分からない。こんなに懐かしいと感じるのに、どうして。
     依然座り込んだままぼんやりと彼を見つめる炭治郎の方に、金色が歩み寄ってくる。いつの間にか手にしていた護符のようなものを炭治郎の剥き出しの額にぺたりと貼って、彼は小さく囁いた。
    「それまでお休み、炭治郎」

     は、と目が覚める。視界に入ってきたのは自室の天井だ。急激に引き戻された意識に少しの戸惑いを覚えながら、炭治郎は二度三度瞬きをした。何だ、今のは。何か夢でも見ていたようだが、目覚めた瞬間にどんな夢だったのか分からなくなってしまった。ゆっくりと起き上がった彼は先程まで脳内を占めていたはずの夢の内容を懸命に思い出そうとする。どんな夢をみていたんだっけ。何か大切なことを忘れてしまったかのような感覚に肋骨の辺りがひしりと軋む。窓から差し込む早朝の日差しはいつもと同じで柔らかい。その窓ガラスに薄らと映った己の顔の横で花札を模したピアスがからんと揺れた。
     夢? いや、きっとあれは夢なんかじゃない。あれは、あの人は――――


    ***


     おはようございまぁす、と気の抜けたような挨拶がそこかしこから聞こえてくる。まだ僅かに肌寒い空気に手許をセーターの袖で隠しながら、善逸はふあ、とひとつ大きな欠伸をした。目尻に滲む涙をそのままに彼は校門の中に吸い込まれていく生徒の服装をちらちらと見遣る。ボタンは一番上まで留まっているか、ネクタイはきっちり締められているか、インナーが派手すぎて透けていないか、シャツが出ていないか、スラックスやスカートの丈は適切か、化粧をしていないか、髪は染められていないか、靴下の色は華美なものではないか、ローファーの踵を潰して履いていないか、アクセサリーを着けてきていないか。見る項目はたくさんあるが、風紀委員の服装チェックなんて実際ほとんどポーズだけだ。あまりにも目に余る違反者にだけ声をかけて、学年とクラスと氏名を聞いて、明日から気を付けるよう一言注意して、その程度である。冨岡先生のいるときはそういうわけにはいかないがそれでも彼のいる曜日や時間は決まっているし、生徒も馬鹿ではない、冨岡の目があるときに制服を着崩したまま登校してくる奴なんていやしないのだ。
     春の風は意外と冷たい。かじかみかけた指先がこれ以上冷えないようセーターの袖を更に引っ張って、善逸は手に持ったボードの端をボールペンでこつこつと叩く。手を動かしていないと立ったまま寝てしまいそうだ。昨日も遅くまで任務に駆り出されていたせいで結局数時間も眠れていない。またひとつ欠伸が出そうになったのを噛み殺し、彼は登校してくる生徒を眺めながら昨夜の出来事を思い返した。
     昨日斬った鬼の中でもっとも厄介だったのは、やはり『彼』を襲っていたあの鬼だ。あいつをもっと早く斬れていたら『彼』が襲われることも、任務に当たっているところを『彼』に見られることもなかったし、睡眠時間だってもう少し確保できていただろう。というか本来なら昨夜みたいなケースは有り得ないのだ。『ヒノカミ』の家に代々受け継がれているあの花札のようなピアス、あれが目印となって鬼に狙われるから普段なら必ず『彼』には護衛を付けているというのに、どうして昨日に限って誰も『彼』の護衛に当たっていなかったのか。手違いだったという話だがこんな失態二度とあってはならない。とりあえず次の柱合会議で議題に挙げて、何かしら対策を考えよう。それとも校則違反なのもあるしピアスを外してもらった方が早いだろうか。いや、それが通じるのは校内だけだし――……
     そのとき、善逸の耳がからんからんと軽快な音を拾った。服装チェックから遠ざかっていた思考を現実に引き戻し、彼はふっと顔を上げる、雑踏や生徒の声に混じって近付いてくるその音は、聞き間違えるはずもない、件のピアスの揺れる音だ。
    「我妻先輩!」
     善逸の予想した通り、その人物はすぐに彼の前に姿を現した。名前を呼んでくるなんて珍しいが何かあったのだろうか。そう疑問に思いつつも特段気することもなく、善逸はいつも通りの台詞を口にする。
    「はいはいピアスは校則違反だから外せよな」
    「すみませんできません! それより!」
     だが善逸の思惑に反して彼は物凄い勢いでずいっと詰め寄ってきた。
    「昨日のあれ、何ですか」
     赤みがかった視線が善逸の琥珀を貫く。確信を持って放たれた言葉に彼は内心動揺する。それは僅かな変化だったが、けれど善逸が一瞬固まったのを彼は見逃してはくれなかった。
    「やっぱり、夢じゃないんですね」
    「な、何で覚えて……」
     瞳の中で燃える熱情に思わず呟きが漏れる。どうして。どうして覚えているんだ? 記憶を消す術が効いていないのか? そんな事例聞いたことがない。彼が『ヒノカミ』の家系だからか? それとも。
     狼狽える善逸の様子にはっとした彼が慌てて言い繕う。
    「いや! 何があったのかは全然覚えてないんですけど」
     彼の手がすい、と伸びてくる。
    「この金髪が月の光でキラキラしていたのは覚えてるんで」
     その手がさらりと稲穂に触れて、どこか愛おしそうな色が彼のまなじりに浮かんだ。
    「なっ……⁉」
     ぶわ、と顔に熱が集まるのが分かる。彼の眼に滲むのは遠い記憶と寸分違わないそれだ。赫い双眸の緩やかに細められるさまに善逸の心臓が大きく揺れ、いや、駄目だ、だってこいつは彼とは別の人間だ。しかし幾ら自分に言い聞かせようとも血と管の擦れる音は静まらない。火照る頬を誤魔化すように善逸は早口で捲し立てた。
    「おっ……前! そういうのは好きな奴口説くときに言うことだろ! 何俺なんかに言っちゃってんの⁉ 俺男ですけど⁉」
    「いえ、俺が好きなのは先輩なので問題ないです!」
     だというのに、目の前の後輩はその温度を緩めたりはしてくれない。
    「は、」
    「我妻先輩」
     彼が、炭治郎が、己を呼ぶ。あの声で、あの音で、あの色で善逸に熱を向ける。それがどういうことなのか、知っているとは思えないけれど。それでも彼は肺に宿ったささやかな期待を捨てることができないのだ。
    「全部、教えてください」
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