Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    かんの

    @tRUEfy_

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 8

    かんの

    ☆quiet follow

    大学生バレンタイン喫煙炭善

    #炭善
    TanZen

    スイート・スイート・マイ・ハニー ボックスから取り出して口に咥える。左手で風を遮りながらライターを点け、先端に近付ける。二度三度短く強く吸って火を点けたらたっぷり五秒かけて口腔内を煙で満たす。
     素朴で深みのある香ばしさと柔らかな甘み、ひんやりとしたメンソールの風味が舌の上に広がって、唇からそれを離した彼は深呼吸をするようにその煙を肺に入れた。
     人差し指と中指の間で薄らと白煙が立ち上る。肺の中の煙をゆっくりと吐く。
     アメリカン・スピリット特有の匂いが風に乗って流れていくのを、炭治郎はぼうっと眺めている。

     彼の通う大学の、三階建ての講義棟の最上階の更に上。滅多に人の立ち入らないこの屋上は彼のお気に入りの場所だった。
     構内には他にも喫煙所はあるが、どこも副流煙が充満していて鼻の利く炭治郎が長居するには少々きつい。やや寂れてはいるがこれくらい風通しの良い方が落ち着いて一服できるものだ。
     それに、この場所を好んで使うのは恐らく炭治郎と彼くらいしかいない。
     もう一度煙草を口に咥える。
     そろそろ彼がやってくる頃だろうか。
     寒々しい色をした空を見上げてぼんやりとそんなことを考えながらゆっくりと煙を吸っていると、案の定とでもいうべきか、きい、と背後で扉の開く音がした。
    「お、やっぱ来てたか」
    「善逸」
     振り向けばこの場所を彼に教えてくれた人物がドアの影から澄み渡る冬の西日の中へと出てきたところだった。
     綺麗に色の抜けた髪、僅かに幼さの残る大きな蜂蜜色の瞳、男にしては白くて滑らかな肌。愛しい人の姿に炭治郎は強張っていた口許をふっと緩める。
    「なあ聞いてくれよ、今日俺まだ一個もチョコ貰えてないの。バレンタインなのに嘘すぎじゃない?」
    「その台詞、去年も聞いた気がするんだけど」
    「うっせーな、どうせお前は沢山貰ってんだろ? あーやだやだこれだからモテる奴は……」
     うっかり心の声を漏らしてしまった炭治郎に悪態をつきながらも、善逸は真っ直ぐ彼の傍までやって来た。
     金髪が陽の光に透け、同時に仄かに香る甘い匂いが炭治郎の鼻腔を擽る。いつも彼から漂っているものよりも濃厚で、深いコクがあって、少しだけ苦みの感じられる甘ったるい香り。それは炭治郎の実家のベーカリーでもよく使われている材料の匂いで、今日に限ってはそこかしこから香ってきている匂いでもあった。
    「貰ってはないぞ。全部断った」
    「炭治郎お前そういうところだからな」
     煙草の煙を吐きながら炭治郎が平然と言えば、彼は眉を顰めて冷ややかな目を向けてくる。
     けれどその表情に反して善逸の甘い匂いは薄まることを知らず、ふわりとほろ苦いカカオの芳醇な香りに炭治郎は赫灼の双眸をほんの少しだけ細めた。
     冬の空気に感化されて冷え切った胸の奥が僅かに溶ける。ひとり小さくこころを揺らす炭治郎のすぐ隣で善逸が鈍色のフェンスに凭れかかる。ところどころ塗装の禿げた鉄が小さく音を立てて軋むが、彼は気にも留めず流れるような手つきでダッフルコートのポケットからそれを取り出した。
    「善逸、煙草変えたのか?」
    「え? ああこれ? 違う違う」
     ちらりと見えたその箱に炭治郎があれ、と小さく声を上げれば、善逸はぱちりとひとつ目を瞬かせ、手許を一瞥してすぐに緩く首を振った。
     まだフィルムすら剥がされていない新品のパッケージは、彼がいつも吸っているものとは違う、見たことのない銘柄のものである。
     グレーのパッケージに丸く赤いロゴマーク、そして喫煙者でもあまり馴染みのない銘柄名。鈍く光を反射する金色の文字を、炭治郎はまじまじと見つめて呟いた。
    「アーク・ローヤル……? 珍しいな」
     彼の言葉通り、善逸の手にしている煙草は個性的なラインナップで有名な海外メーカーのものだった。しかも度々目にすることのあるトリコロールカラーのソフトパックではなく、一年だか二年だか前に販売開始された比較的新しいフレーバーだ。噂には聞いたことがあったが炭治郎も実物を見るのは初めてである。
     なかなかお目にかかれない品に興味を示す彼の前で、善逸はぺりぺりとフィルムを剥がしながら口角を上げてみせた。
    「そ。駅前のタバコ屋で売ってるの見かけちゃってさ。いつもの奴ちょうど切らしたとこだったし」
     彼の白い手が透明なフィルムをくしゃりと丸める。
     善逸がボックスを開封した途端、彼の纏っているものと同じ香りが強くなった。深くて濃くて微かに苦みのある、甘ったるいチョコレートの香り。
     それが先程から漂っている匂いの正体だとようやく気が付いて炭治郎は小さく肩を落とす。なんだ、用意してくれていたわけではないのか。
     けれどよくよく考えなくても善逸だって男なのだ、本来なら渡す側ではなく受け取る側である。彼にばかりその役割を期待していた己を反省しつつ、炭治郎は取り繕うように手の中の煙草に口をつけた。
     視界の端で善逸の指先がパッケージの中の銀紙を剥いでいく。それを眺めながら肺に落とし込んだ深い芳しさがメンソールの爽快感とともにすうっと鼻から抜けていく。

     煙草は好きだ。
     以前はこんなものを好む人がいるだなんて信じられないとすら思っていたし、今でも副流煙の匂いは臭くて苦手だが、一度美味い煙草の味というものを知ってしまってからは手放せなくなってしまった。
     炭治郎が特に気に入っているアメスピのメンソール・ライトは吸い応えのわりに不快な臭いが少なく、煙草の深みとミントの軽やかさが絶妙なバランスで入り混じっていて、吸っていて何となく落ち着くのだ。
     もしかしたらその感覚もニコチンによる一過性の作用かもしれないが、一日に十本も二十本も吸っているわけではないので少しくらい許されても良いだろう。
     それに人様の迷惑にならないよう、彼は喫煙するときは人一倍周囲に気を配っていた。
     だからと言っては何だが、炭治郎が喫煙者であることを知る人は少ない。彼と親しい間柄である村田ですら最近まで知らなかったくらいである。
     昔はあんなに煙草の匂いを嫌っていたのになあ。人とはこうも変わるものなのか、などと感慨に耽りつつ、炭治郎は静かに煙を吐いた。
    「お、見ろよ炭治郎。真っ黒」
     取り出した煙草を軽く叩きながらうぃひひ、と笑う善逸は至極楽しそうだ。
     まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のような無邪気な表情の彼は、しかし躊躇いもなく安物のライターで黒い煙草に火を点ける。
     もともと童顔なのも相俟ってちぐはぐさの際立つ顔と仕草は見ていると少しだけ肺の辺りがざわついた。
     この感覚に付けられる名前があるとすれば一体どんなものなのだろうか。脳裏を掠めたそんな疑問も、傍らで煙を肺に入れる善逸の横顔の艶めかしさの前ではすぐに燻って掻き消えてしまう。
     僅かに伏せられた金色の睫毛が突き刺すような陽の光を反射しては煌めいて、そうやって炭治郎を魅了してやまないのだ。
     善逸の吸った煙がゆっくりと吐き出される。甘くて香ばしいチョコレートの匂いが緩い風に乗って流されていく。
    「あっま、」
     彼の小さな呟きもまた、二月の夕暮れに溶けていくだけだ。

    「これさあ、買うとき店のばあちゃんに未成年だと疑われてさ。免許証見せても信じてもらえねーの。大変だったんだぜ」
     フェンスの手摺りに寄り掛かって空を仰ぐ。隣の彼が口を尖らせて愚痴るのを聞きながら煙草を口許に運ぶ。深く吸って吐き出せば、白煙は橙色の空気にあっという間に消えていく。
    「ああ、あそこのおばあさんには俺も言われたことがあるなあ。子供が悪ぶるな、って」
    「もう二十三だってーの」
     苦く笑えば善逸は大袈裟に溜息を吐いてみせた。恐らく炭治郎と似たようなことを言われたのだろう、その顔には解せぬという文字がありありと浮かんでいる。
     確かに彼は実年齢より幼く見られがちだが流石に子供と称されるほどではない。それは自分もまた然りだ。
     あれくらいの年代の人は若い世代を皆孫か何かだと思っている節があるから、あの気難しそうな老婦人もきっと親切だとか心配だとかで言ってくれているのだろうけど。
     ぼんやりとそんなことを考えながら炭治郎は遠く向こうの街並みに目を細める。
     僅かに霞む都会の高層ビルはこの距離からだと簡単に折れてしまいそうに見えて、あと一か月半もすれば自分もあの中にいるのかと思うと何とも言えない息苦しさを感じた。
    「そうだな……俺ももうじき社会人だしな」
    「俺はまだしばらく大学に残ることになりそうだけどな。誰かさんのせいで」
     ふうっと長く煙を吐いて彼は言う。その唇が動くたびにチョコレートを模した匂いが鼻を掠めていく。
     なんだか妙に落ち着かない気分になるのは彼の纏うそれがいつものもっと軽いバニラの香りではないからか。
     似たような匂いなら朝からずっと辺り一帯に漂っているが、至近距離で嗅ぐカカオの香りはあまりにも甘くて炭治郎の脳をくらくらと揺らした。
     誤魔化すように手の中の煙草に口をつける。フィルター越しの酸素を煙とともに肺に入れる。白い二酸化炭素を吐いて、灰皿に灰を落とす。
     炭治郎の隣で善逸の持つ煙草の煙が揺蕩っては消えてゆく。

    「まあ、宇髄さんも故意に研究室爆発させたわけじゃないし」
    「でも今までの実験データ全部飛んで論文間に合わないの確定とか最悪にもほどがあるだろ」
    「それに関しては不運だとしか言えないなあ」
     煙を吸って吐く。吸って、吐く。
     甘い煙を吐き出しながらぼやく善逸の声は乾いてこそいるもののほとんど諦めの色で構成されていて、そこに怒りや恨みなどといった感情は含まれていない。見せびらかす不満は形ばかりで、その実ポーズの下に透けている態度は余裕そのものだ。
     それが少しだけ面白くなくて炭治郎はまた白煙を吸い込んだ。
    「でももともと博士に進むつもりだったんだろう? 一年分の学費も出してもらえるって話だし」
    「そうだけどさあ……」
     煙と一緒に飲み込んだ本音の代わりに彼を宥める言葉を口にする。舌先で紡いだ音は自分で思った以上に流暢で、上滑りすることもなく意外としっかりと耳に馴染んだ。
     こんな風に気持ちを押し込めるのが上手になってしまったのも、善逸を真似て煙草を吸うようになってからだ。
     大人になるって、こういうことを言うんだったっけ。以前は嘘のひとつすらまともに吐くことができなかったのに、いつの間にこんな術を覚えてしまったのだろう。
     けれどだからと言って胸の内に抱える漠然とした不安を隣の男にぶつけられるほど彼は子供にはなれなかった。
     感傷に浸りかけた肺で息をするには些か痛い夜の前触れが甘い香りとともに炭治郎の頬を柔らかく刺す。
     これが普段の善逸と同じ匂いだったらきっとここまで呑まれてしまうこともなかったはずだ。何故かやけに遠く感じてしまう恋人の横顔に焦りにも似た感情を覚えるのは、音もなく近付いてくる変化が怖いからに他ならない。
     だってもうすぐ卒業なのだ。
     卒業して、社会に出て、身を置く環境が変わってしまって、一緒に過ごす時間も減って、そうやって姿の見えないものに緩やかに彼を奪われてしまうことが炭治郎は嫌で嫌で仕方がなかった。
     だというのにそう思っているのは自分だけのような気がして、それが時折無性に彼の肺をつついてくる。
     ちょうど今がそうであるように。
     せめて今日の日に何か特別なものがあれば、この僅かな苦しさも和らいだのだろうか。
     チョコレートの形をしていなくても、この感情が一方通行ではないという確かな実感があれば未来を思い煩うこころも癒えたのだろうか。
     そんなもので測らなくても彼の気持ちは何ひとつ揺らいでなんかいないことくらい頭ではちゃんと分かっているのに、簡単に溶けてなくなる菓子ひとつにこんなに振り回されるなんて。馬鹿馬鹿しいと思っていても求めてしまう浅はかさが疎ましい。
     寂しさばかりが目立つ肺をもう一度白煙で満たす。手の中の煙草はいつの間にか随分と短くなってしまっていて、それに気が付いた炭治郎は傍らのスモーキングスタンドに吸い殻を押し付けて火を消した。

     屋上から見る黄昏は徐々に闇に染まっていく。冷たい風がピアスを揺らして耳元がぴりぴりと痛い。
     それでもまだ室内に戻る気にはなれなくて、彼は新しい煙草を取り出そうとボックスの蓋を開けた。
    「あ、」
     だが炭治郎の思惑とは裏腹にケースの中身は空だった。どうやら今揉み消したものが最後の一本だったらしい。
     彼は軽い音すらしなくなった紙箱を潰すように上着のポケットに捩じ込んで、善逸の方に向き直る。
    「ごめん善逸、一本くれないか」
    「いいよ、ほら」
     煙を吐き出していた彼は炭治郎の声に二つ返事でグレーのパッケージを差し出してきた。
     黒い煙草を一本抜き取ればむせ返るような甘ったるい匂いが彼の鼻腔を擽って、炭治郎は襲い来る小さな眩暈に思わず目を細める。嫌なきつさではないものの、これはなかなか重厚だ。
     それでも己から頼んだ手前やっぱりいいだなんて言えなくて、彼はライターを探してポケットをまさぐる。
    「炭治郎」
     けれどその手が目的のものに辿り着く前に愛しい人の声が鼓膜の上を転がった。
     視線を上げると善逸が口に咥えた煙草をこちらに突き出すようにして向けているのが目に入ってくる。
    「ん」
     それはいつもの合図だった。
     火の点いている方が名前を呼んで、煙草の先を相手に向ける。頂戴、なんて強請らなくても、人の感情の機微に敏感な彼ら同士ならこの仕草だけで分かり合える。誰に向けるでもない小さな優越感に足先を浸けるような、そんな密やかなやり取りだ。
     促されるまま煙草を咥える。先端を近付けて文字通り呼吸を合わせる。彼の吸うタイミングで自分も強く短く吸えば、煙草の間で共有した熱がじりりと移って赤くなる。
     ゆっくりと吸って吐いた煙は、濃くて深くて少しだけ苦い、甘い甘い恋の味がした。
     フィルターを通して二月の空気を肺に入れる。舌の上でカカオの滑らかな風味が広がってゆく。吐き出した息が白いのは、燻る熱の成れの果てだからだろうか。すぐに溶けてしまうのは固体でも気体でも同じことだ。
     その重い甘さが綻んでゆくさまを眺めながら炭治郎はもう一度煙を吸って、溜息とともにゆっくりと吐きだした。
    「ふふ、ひひひ」
    「……何がそんなに面白いんだ」
     と、特徴的な笑い声が隣から聞こえてきた。
     殺しきれない声でおかしそうにくすくすと笑う善逸をじとりと睨みつける。まったく、誰のせいでこんなに感傷的になっていると思っているのか。炭治郎はほとんど八つ当たりに等しい腹立たしさを露わにする。
    「いーや、何も」
     そんな彼に対し善逸は否定の言葉を返すが、しかし緩んだ口許を戻すつもりは毛頭なさそうだ。むっとして唇を尖らせる炭治郎の顔を見てはうぃひひと笑みを零している。
     けれど、だって、仕方ないじゃないか。
     数日前から皆そわそわと浮ついた匂いをさせているというのに、自分だけが這い寄る不安に息を詰まらせていて、周りとのギャップが鳩尾の辺りでぐるぐると渦巻いてどうにも消化できないでいるのだ。
     煙と一緒になら吐き出せるかと思ったのにそれさえも上手くいかないし、口の中に広がるのは苦さを孕んだ甘ったるさばかりで焦りを掻き消してはくれないし、そうこうしているうちに今日の終わりは静かに迫ってきているし。流されるように消費してしまった一日分のもどかしさも、腹の中に堆積していく一方だ。
     不用意にぶつけるわけにはいかない胸の内を持て余して抱え込んで無理矢理飲み下すしかなくて、こんなにやるせないのが大人になるということなら、美味い煙草の味なんて覚えない方が良かったのかもしれない。
     視線を下方に逸らす。それを見た善逸は何を思ったのか炭治郎の髪をぐしゃぐしゃと撫で回してきた。歳は一つしか違わないのにこういうときばかり年上ぶった態度を取る彼が小憎らしい。
     だがその手を振り払うのもなんだか子供じみた抵抗に思えて、炭治郎はされるがまま彼の手の温度を感じていた。

     ひとしきり撫でられて、善逸も満足した頃だろうか。見計らったかのように善逸のスマートフォンが鳴り出した。
     着信を告げるメロディーに彼は途端に苦々しい顔になる。
    「宇髄さん、もう気が付いたのかよ……」
     そう零して善逸は取り出したスマートフォンの画面にすいと指を滑らせた。
     まだ長い二本目の煙草を錆びたフェンスに押し当てつつ二言三言言葉を交わして彼はすぐに電話を切る。
     短い通話を終えた善逸は忌々しそうにディスプレイを睨み、わざとらしく大きな溜め息を吐いて、ひしゃげた吸い殻を灰皿に入れた。
    「じゃあ俺もう戻るわ」
    「そうか」
     名残惜しそうに、けれどきっぱりとした足取りで彼はくるりと背を向ける。善逸の動きに合わせてチョコレートの匂いが揺れ、炭治郎の鼻先を擽ってゆく。
     俺もそろそろ戻ろうか。温度の下がった風に体もすっかり冷え切ってしまったし、陽の沈みゆく空にはじきに夜の帳が降りてくるだろう。
     まだ残っている煙草に、これが終わったら中に入ろうと考えながら炭治郎は煙を吐いた。
    「あ、そうだ炭治郎」
    「ん?」
     ふいに名前を呼ばれて顔を上げる。ぱっと振り向いた瞬間、時が止まった。
     視界をけぶるくがねの色が覆う。唇に柔らかいものが触れる。ちゅ、なんて可愛らしい音が零距離で鳴って、たった一秒で離れていく。手に持っていた煙草がぽろりと落下して足許に転がった。
    「そんな顔せんでも俺はちゃんと炭治郎が好きだよ」
     だからまたあとで、な?
     そう言い残して善逸は固まっている炭治郎を置いて屋上から去っていく。今、彼は俺に何をした? 唇の上の甘さばかりが際立って、現実味がまるでない。
     屋内へと続く扉が音を立ててしまってからようやく脳が動き出して、顔が、耳が、首筋が、先程まで寒さに痺れていたすべての場所が、火照る血液にあてられてゆく。ああ、もう、まったくお前という奴は! 好きだよと言った彼の照れ臭そうな、だけど愛おしそうな表情は、炭治郎の網膜に焼き付いて消えそうになかった。
    「……あとで覚えておけよ」
     熱に塗れた炭治郎の声を、善逸はまだ知らないでいる。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works