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    かんの

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    かんの

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    医パロ炭善

    #炭善
    TanZen

    デブリを照らして ふあ、と大きく口を開けて欠伸をする青年を見遣る。目元には隈、顔色も良いとは決して言えず、おまけに地毛とはいえ日本人離れした金髪だ。およそ医師とは思えない彼の雰囲気に、炭治郎はなんとなく不安を感じていた。
     鬼滅大学医学部附属病院の耳鼻咽喉科・頭頚部外科のカンファレンスルームは狭い。そもそもカンファレンスルームというのも名ばかりで、普段使われていない外来の第二診察室をカンファレンスの際に使っているだけだ。
     その第二診察室、もといカンファレンスルームに白衣姿の男が五人。うち一人の体格がやたらめったら良いのもあって、僅か六畳ほどの白い部屋はぎゅうぎゅうだった。
    「――では今朝のカンファレンスを始める。今日の予定は入院が一人、オペが二人、退院が一人だ。オペは副鼻腔炎の内視鏡下副鼻腔手術と声帯ポリープの咽頭顕微鏡下摘出手術。それから――……」
     耳鼻咽喉科・頭頚部外科部長の桑島が厳格な声でスケジュールを読み上げ始めた。もう随分な年齢である筈なのに彼の声も姿勢もしゃんと伸びていて、この大学病院きってのマイナー外科の名医として申し分ない威厳を醸し出している。
     その右隣、咽頭の手術と聞いてひゅうっと口笛を吹いたガタイの良い男が咽頭手術の得意な宇髄だ。次期部長とも噂されているこの男、手術の腕は勿論その整った顔立ちも相俟って最近ではメディアに引っ張りだこらしい。
     桑島の反対隣りでは、彼の養子である獪岳が不機嫌そうな顔をして炭治郎と己の間に立つ金髪を睨んでいる。まだ若いながらも的確な診療をすると院内では評価されている彼であるが、なにぶん愛想が悪く特に子供には怖がられることが多いようだ。余談だが獪岳の苗字も桑島なのでこの科に出入りする人は皆彼を名前で呼んでいた。
    「次、当直からの申し送りを――」
    「おいカスいつまでも欠伸なんかしてんじゃねえ!」
    「いっだあ」
     何度目か分からない欠伸をした金髪の若い医師の腰辺りを狙って獪岳が思い切り蹴りを入れる。勢いよく足蹴にされた彼――我妻は鼓膜を穿つような大声を上げてその場に崩れ落ちた。相当痛かったのだろう、腰の後ろをさすりさすり獪岳の方に顔を向け、やはり大きな声で抗議する。
    「ちょっと! 注意するにしてももっと優しくしてくんない」
    「何言ってんだカス! ぼーっとしているてめえが悪いんだろうが!」
    「そんなこと言ったって俺オペからの当直明けなんだから仕方ないじゃん!」
     ぎゃあぎゃあと喚き始めた二人を横目に桑島が盛大な溜息を吐く。またかとでも言いたげな表情は、実際彼らのやり取りが日常茶飯事であることを物語っていた。炭治郎は初めて見たのだが、実はこの二人、顔を合わせる度にこういったやり取りを繰り返しているのである。
    「こら止めんか! 実習生に恥ずかしいところを見せるんじゃない!」
     呆れの混じった叱責を飛ばす桑島に獪岳が姿勢を正した。一方我妻はというとまだ恨めしそうな顔で黒髪の先輩医師の方を睨んでいる。なんとも大人げない姿だ、彼には医師としてのプライドだとかそういうものはないのだろうか。炭治郎は思わず顔を顰めたくなるのを懸命に堪えた。
     クリクラ、と聞いてクリニカルクラークシップのことだと分かる人間はさほど多くはない。医療チームの一員として実際に患者の診療に携わって行うそれは参加型臨床実習とも呼ばれ、見学型臨床実習――通称ポリクリに代わって医療系の大学で近年導入されるようになってきたものだ。鬼滅大学医学部五年生の炭治郎も今週頭から四週間、附属病院耳鼻咽喉科・頭頚部外科で実習を行う運びとなっていた。
     炭治郎がクリクラ先に耳鼻咽喉科を選んだのは、弟妹の多い彼が最も馴染み深く感じていたのがこの診療科だったからである。地元が随分と田舎だったのもあって、竈門家の徒歩圏内に小児科はなかった。家から一番近かったのは鱗滝耳鼻咽喉科という小さな診療所で、幼い弟妹がやれ風邪をひいただとかやれ中耳炎になっただとかいう度に、彼は親の代わりに弟妹を鱗滝のところへ連れて行っていたのだ。己の鼻が他人よりずっとよく利くのも耳鼻咽喉科に興味を持った切っ掛けのひとつではあるが、この診療科に対する思い入れが強いのはやはり昔世話になった鱗滝の存在が大きいのだろう。
     そういうわけで、炭治郎は耳鼻咽喉科の医師に対してある種の憧れのようなものを抱いていた。大学に通うために田舎から上京してきたのもあって尚更だ。だからこそというべきか、目の前で稚拙な態度を晒す我妻のことが信じられなかった。前日に手術を執刀したのち当直をこなしていたとしても、医師らしからぬ彼の姿は炭治郎にとって衝撃以外の何物でもなかったのだ。
     そもそも疲れているのは我妻だけではない。炭治郎だって昨日は実習後遅くまで居酒屋のバイトをしていて、一人暮らしをしているアパートに帰ったのは日付もとうに変わってからだった。寝不足なのは彼も同じだ。欠伸が出そうになるのを我慢してこの場に立っているのである。
    「まったく、お前たちはもう少し仲良くできないのか……」
    「喧嘩するならもっと派手にすればいいのに」
    「滅多なことを言うんじゃない!」
     ぼやく桑島に飄々とした様子で宇髄が笑えば、彼は小柄な老人とは思えないほどの鋭さでぴしゃりと撥ねつけた。だが宇髄も宇髄で桑島の諫言など気にも留めていないようだ。それにまた獪岳が舌打ちをして、更に善逸が今だとばかりに突っかかって、カンファレンスルームはなんともまあ無秩序な騒々しさに包まれる。どうやらこれもよくある風景のようだったが、まだクリクラに来て四日目の炭治郎にとっては初めて遭遇する光景だ、彼は突如として始まった蝸牛角上の争いにおろおろするしかないのだった。
    「いい加減にせんか! カンファが進まんだろ!」
     ついに桑島の怒号が飛び、さんざめいていた狭いカンファレンスルームはようやく落ち着きを取り戻した。獪岳と我妻はしぶしぶといった様子で掴み合っていた手を離し、宇髄は折角のお祭り騒ぎが終わったことに面白くなさそうな顔をしている。
     これが、鬼滅大学医学部附属大学耳鼻咽喉科・頭頚部外科の日常だと言うのか。どんな顔をしていればいいのか分からないで戸惑うばかりの炭治郎を横目に、桑島はひとつ溜息を吐いてカンファレンスを再開する。
    「はぁ……ほら当直、申し送りはまだか」
    「ええっと……夜間に耳痛と眩暈を訴える三十代男性が救急搬送されてきました。診断は急性中耳炎、そこまで酷くなかったのでアセトアミノフェンを処方して帰しました。あとは……三〇二号室の木村さん、早朝にメニエールの発作が出たのでメリスロン投与してあります。午前中に様子見に行くようお願いします。それから…………うーん、いや、これくらいかな。以上です」
     後頭部の髪をぐしゃぐしゃと掻きあげながら我妻が手元のメモに視線を落として申し送りを始めた。目を細めて眉を寄せ、猫のように背中を丸めているからか、心なしか羽織っている白衣すらくたびれて見える。はっきりしない口調もあってなんだか頼りない印象だ。
    「……他に何か気になることは」
     と、桑島が申し送りを終えた筈の我妻に声をかける。彼の言い澱んでいたことを促すような口調だ。何かを見透かしている桑島の言葉に我妻はきまり悪そうにまごついて、少し視線を泳がせてから口を開く。
    「…………三〇九号室の尾仁川さん、駄目かもです。音が、歪んだままで、」
     ぽつりと呟いた彼の声が床に落ちて、カンファレンスルームが静寂に包まれた。黙り込んだ医師たちの表情は暗く、我妻の言う「駄目」の指すところが何なのか、炭治郎でも分かってしまう。
    「三〇九号室っていうと、例の上顎洞癌のか」
    「まだ分からない、です、けど……」
    「今までお前の予言が外れたことなんかないだろ」
     宇髄の言葉に我妻は己の見立てが間違っている可能性を指摘するが、その語調は弱々しい。それをばっさりと否定する宇髄の顔も悔しさに塗れている。
     ああ、どうして、彼らはそんなに簡単に人のいのちを諦めてしまうのか。たとえ散りゆくいのちだとしても何かできることがある筈だ。そうは思うものの、まだ学生の分際で彼ら医師に投げられる言葉など炭治郎にはないのだ。
    「気落ちするでない。わしらが人である以上できることには限界がある。その中でどれだけのことをできるかが大切なんだ」
     静まり返った白い部屋に桑島のしっとりと揺るぎない声が響く。その言葉を聞いて、思い詰めたように手許を見ていた我妻が顔を上げた。酷い隈のある双眸は僅かに揺蕩っていて、けれど何か覚悟を決めたようだった。
     我妻の表情を見た桑島が炭治郎の方に向き直る。
    「さて、今日の竈門くんのクリクラについてだが、午前は外来、午後は病棟に行ってもらう。善逸、指導頼んだぞ」
    「えっ俺 そんなの無理だよ教えらんないって!」
     告げられた今日の予定に炭治郎が返事をする前に、我妻が素っ頓狂な声を上げた。今しがたまで神妙な顔つきをしていたとは思えない形相だ。聞いていないとでも言いたいのだろうが、けれどクリクラ初日に渡された予定表に彼の名前が記載されていたのを、炭治郎はしっかりと覚えていた。
    「事前に言っておっただろう! つべこべ言わずに準備しろ!」
    「えええ無理無理! 獪岳代わってくれよぉ!」
    「誰が代わるかカス!」
     態度を一変させて泣きついてくる我妻を己から引き剥がそうと獪岳は声を荒げる。炭治郎は先日の獪岳の厳しくも的確な指導を思い出して、できることなら代わってもらえた方が自分としても安心なのだけれど、と内心思うのだった。



     我妻の指導は炭治郎が不安に思ったほど酷くはなかった。午前中の外来診療では問診や視診を行いながら患者の対応をしたり症例を実際に確認したりと、座学だけでは身に付かないものを教わった。我妻の指導は分かりやすく丁寧で、覚えておくと役に立つものばかりだった。
     炭治郎が我妻からひとりの患者のCT画像を渡されたのは、そろそろ午前の診察が終わった直後である。
    「はい、これ」
    「これは?」
    「何だと思う?」
     白黒の画像を前に怪訝な顔をする炭治郎の問いに、我妻は問いで返してくる。明らかに説明不足である彼の言葉に首を傾げれば、「それ、このあと入院してくる患者さんのCT。何の疾患だと思う?」と補足が入った。再び手元の紙に視線を落としてみる。
     三角形を歪ませたような形が特徴的なそれが内耳のCTであることは一目で分かった。しかし本来なら黒く写り込む筈の蜂の巣状の部分が全くない。ぽっかりと空いた空洞の周りに認められる灰色は軟部組織か。更には白く写る筈の小さな骨も見当たらなかった。
    「真珠腫……ですか?」
     乳突蜂巣の発育不良、灰色の軟部病変組織、破壊された耳小骨――それらの症状から思い当たる疾患を躊躇いがちに答えれば、我妻は「ご名答」と頷く。
     真珠腫は鼓膜の一部が内側に凹み、そこに角化物が堆積してできる炎症性の腫瘤である。骨を破壊しながら増殖していくため、進行すれば眩暈や難聴だけでなく味覚障害や顔面麻痺、髄膜炎などの合併症を引き起こす。治療の第一選択は手術療法、真珠腫の除去の他に鼓室の再建が必要な場合は複数回に分けて段階的に手術を行うケースが多い――それが炭治郎の知っている、教科書に載っていた真珠腫の知識だった。
    「じゃあ、分類とかステージとかは見て分かる?」
     続けて我妻から投げかけられたのは更に詳細な知識を求める質問だった。だが知識はあっても実際のCT画像を見ての判断はやはり難しい。
    「ええと……すみません、分かりません」
    「いや、謝ることは何もねえよ。分からんことを教えるのが俺の役目なんだからさ」
     己の勉強不足を苦い顔で恥じ入れば、我妻は眉尻を下げてひひ、と笑った。それから炭治郎の手にするCT画像を横から覗き込んで、病変部分を指差しながら解説を始める。
    「まずはここ、灰色の部分。この黒いところが鼓室なんだけど、鼓室の内側にあるだろ。外側じゃなくて内側に病変があるのは緊張部型……あ、緊張部型って分かる? 鼓膜の緊張部から真珠腫が侵入するやつな。で、これとそっちのCT見たら中・後鼓室から上鼓室、乳突蜂巣まで病変部分が広がってるのが分かるから、進展度区分はステージⅡ、範囲はTAMだ。それからここ、本当ならアブミ骨の上部が白く認められる筈なんだけど、アーチ構造が消失しているからS分類はS2。最後にこの辺とかこの辺にある筈の蜂の巣状の骨層も見られないから、乳突蜂巣の発育程度はMC0ってことになる。ここまでオッケー?」
     我妻の説明のお陰で炭治郎の頭の中の知識とCT画像上の情報が繋がっていく。分からなかったことが分かる感覚はただひたすらに気分がすっきりとするもので、炭治郎の表情はみるみるうちに明るくなった。なるほど、これがそうなのか。合点がいったことが嬉しくて彼はぱっと我妻の方に視線を向けようと顔を上げる。
    「はい、ありが――……」
     勢いよく上げた視線がばちりとかち合って、想定していたよりも至近距離にあった我妻の顔面に炭治郎は思わず息を呑んだ。自分の赤みがかったシルエットが彼の甘い黄金の瞳に生き物の生々しい熱を与えている。青白い顔にそれだけがやけに浮いていてアンバランスだ。うっかりその輪郭に触れたら最後、融けて消えてしまうような気がして、炭治郎は慌てて後退った。
    「――っすみません!」
     距離にして人ひとり分ほどの気まずさが二人の間にできる。逸らした顔が僅かに火照っているような気がするのは直前に炭治郎の鼻腔を擽った彼の匂いが思いの外芳しかったからだろうか。仄かな甘やかさを孕んだ香りはまろく優しく柔らかく、それでいて残り香すらすうっと爽やかに溶けていく。今しがた嗅いだばかりのそれが早くもリフレインして背筋をちりりと掠めていった。
     途端に肌が粟立つ。同時に熱が生まれる。この感覚は、何だ? 肋骨の内側で鼓動する心臓が痛いほどに強くなって、耳元に響く血管の脈動も煩わしいくらいに五月蠅い。ぶわりと沸いた血液があっという間に全身を巡り、急激な体温変化に眩暈がしそうだ。何だこれは? 俺はどうしてしまったんだ? 自分の中に生まれた熱に適切な名前をつけられなくて炭治郎は困惑する。こんな感覚、初めてだ。
     だが我妻は彼の顔を見てひとつふたつ目を瞬かせ、そして小さく噴き出したのだ。
    「なんつー顔してんだよ、今のそんなんなる要素あった?」
     面白そうにくすくすと笑う我妻の様子に炭治郎は急激に恥ずかしくなった。言い訳しようにも何も言葉にならなくて、焦れば焦るほどに脳が空回ってしまう。顔に集まってくる熱の相乗効果で逆上せそうなくらい熱い。
     情けなく口を開けたり閉じたりするばかりの炭治郎を揶揄うように、我妻は彼の頭を軽く叩いて言った。
    「ほら、昼飯行ってこいよ。午後イチはその患者さんの手術前説明だからな」

     真珠腫のCTの主は小学四年生の少女だった。小児後天性真珠腫、それが彼女に下された診断だ。学校の検診で聴力の低下を指摘されて受診し、手術が決まったという。
    「失礼します」
     耳鼻咽喉科・頭頚部外科に割り当てられている南病棟三階の階段横、面談室と札の掲げられている小さな部屋。炭治郎は先導する我妻に続いてその部屋に入る。そこにいたのは利発そうな女の子と気の弱そうな母親で、二人とも緊張した面持ちをしていた。特に少女の方は随分と気を張っているのか、少しひりついた匂いをさせている。少しだけ、今は親元を離れて暮らしているすぐ下の妹の幼い頃に似ていると思った。
     備え付けの丸椅子はクッションが少しへたってきていて長時間座っているのには向かなさそうだった。安物の椅子を引き、患者の母親と机を挟んで向かい側に着席した我妻は早速口を開く。
    「娘さんの調子はいかがでしょうか?」
    「特に変わりはないかと」
    「そうですか、ならよかった」
     母親は我妻の問いにそう返してきたが、患者本人である少女の表情を見る限り精神的な面では強いストレスがかかっているようだった。明日行われる手術を恐れているのだろう、強張った彼女の顔は血色がいいとは決して言えない。これ以上患者の精神的負担を増やさないようにしなければ。
    「実は今回、実習生も娘さんの治療に参加させたいと思っておりまして」
    「学生さん、ですか。構いませんが……」
    「ありがとうございます」
     我妻が炭治郎の方を振り向く。一歩近付いて、炭治郎は腰から直角に頭を下げた。
    「鬼滅大学医学部の竈門炭治郎です。よろしくお願いします」
     己の存在が不安要素にならないよう、顔を上げた彼はできるだけ篤実な姿勢で自己紹介をする。彼女たちからすれば医師も医学生も変わらない、ひとりの医療従事者だ。その事実に恥じない態度で患者と接することも重要なことである。
     さて、治療の参加の許可も無事に取れた。少女の手術は我妻が執刀することになっているが、これで晴れて炭治郎も彼女の手術に同席することができる。勿論炭治郎が実習として行うのは手術の見学だけではない。術式の説明や術後の回診も実習項目に組み込まれているのだ。
     炭治郎は我妻に促されて彼の隣の椅子に腰かけて、持っていた資料を机の上に並べる。
    「手術の説明ですが、僕の方からさせて頂きますね。真珠腫の手術は二段階に分かれまして、まず真珠腫を取り除き、それから鼓膜の内側にコルメラと呼ばれる部品を入れて耳の聴こえをよくします。今回は真珠腫を取り除く手術です。耳の後ろ、付け根のところを切開して内視鏡を使って切除します」
     炭治郎が提示した資料を覗き込んで、患者の女児とその母親は真剣な表情で彼の説明に耳を傾けた。少女の小さな手がスカートをぎゅっと握り締めていることに気が付いて、彼は胸の奥が痛くなる。まだ幼い彼女にとって手術はきっと痛くて怖くて冷たいものに思えるのだろう。それでも嫌だとは口に出さずに唇をきつく引き結ぶ姿が健気に思えて仕方がない。
     炭治郎と同じように彼女たちの不安を感じ取ったのか、隣で彼の様子を窺っていた我妻が女児に向かって微笑んだ。
    「大丈夫、耳の後ろをちょっと切って中を綺麗にするだけだよ」
     宥めるように言い聞かせる我妻の口調は穏やかで、しかし彼女の表情は硬いままだ。少女からは恐怖と緊張の綯い交ぜになった匂いが漂ってきていて、彼女の長い睫毛の下の黒々とした瞳には塩っぽい水分が表面張力で張り付いていた。
    「あの、それって安全な手術なんですか……?」
    「内耳には色んな神経が集まっていますのでそれを傷付ければ味覚障害や顔面麻痺に繋がりますが、真珠腫は放っておいても同様のリスクがあります。進行すれば手術の難易度も合併症の出る可能性も上がりますしね」
     揺れる水滴を孕んだ双眸に気付いているのかいないのか、我妻は炭治郎に代わって母親の問いに答える。
    「麻酔は点滴から入れて、手術時間はだいたい三時間くらいかな。二回目の手術の際に真珠腫が完全に除去できているかの確認と、コルメラの挿入を行う予定です。ここまでで何か分からないことや不安なことはありますか?」
    「ええと……大丈夫だと思います」
     母親の視線は相変わらず心配そうに彷徨っているが、それでも我妻の説明に納得はしたようだ。それよりも炭治郎が気になっているのは手術を受ける張本人の方である。先程から我妻の顔を穴が開くほどじいっと見詰めているのだ。
     そういえば、鬼滅大学病院では原則十歳以下の小児の手術は保護者の同意があれば執刀することができることになっているが、本人の意思はどうなのだろうか。
    「かよちゃんは何か聞きたいこととかありますか?」
     炭治郎に急に声をかけられて、少女はぱっと彼の方に顔を向けた。優しく話しかけたつもりだったのだが驚かせてしまったようだ。慌ててフォローをいれようとする炭治郎だったが、そうする前に女児はふるふると首を横に振る。
     それは本当に彼女の本心なのだろうか。少女の瞳はきっと気丈な色をしてはいるものの、その奥に揺蕩うのは濃くて深い恐怖心だ。けれど本人が否と答える以上、炭治郎にできることは何もない。かけられる言葉も思い当たらない。どうにかして彼女の不安を取り除いてあげたいのに、己ではどうにもできないのである。
     何が人のためになりたい、だ。何が人のいのちを救いたい、だ。今の自分には小さな女の子のこころひとつすら軽くできない。炭治郎は体から熱がすうっと引いていくのを感じた。心臓が冷たくて、痛い。
    「それでは、これで手術前の説明は終わりです。ですがもし何かあれば何でも言ってくださいね」
     我妻が椅子から立ち上がる。炭治郎も指導医に倣って腰を上げ、再び深くお辞儀をする。面談室を出ようと椅子から立ち上がった彼女たちの匂いに滲むのは、期待と不安と緊張だった。
    「では、明日はよろしくお願いします」
     扉の前で丁寧に頭を下げる母親の声に顔を上げて、炭治郎はふと自分たちに投げかけられている視線に気が付く。未だ彼らに恐怖を抱く眼差しは患者である少女のものだった。母親の上着の裾をしかと掴んでこちらをまっすぐ見つめてくる二つの眼は、月のない夜空のような黒さをしていた。



     その日、全ての実習が終わりレポートの提出も終わったあとも、炭治郎は真珠腫の患者の少女の真っ黒な瞳がどうしても忘れられなかった。深く暗い夜を連想させるような目の奥で震えていたものが彼女の本心だったような気がして、気が付いていたのに何もできなかったことが悔しくて堪らなかった。所詮一学生にできることなんて限られている。俺がもっと大人だったらどうにかできたのだろうか。医師免許を持っていたら何か役に立てたのだろうか。経験を積んだ医師だったら、ひとり真っ暗な闇の中にいる彼女に寄り添うことができたのだろうか。考えても考えても答えなど出る筈もなく、ただただ今は無力な自分が浮き彫りになるだけだ。
     更衣室で白衣から私服に着替える。他の診療科の実習生や医療従事者と挨拶を交わして部屋を出る。帰り際、同じ鬼滅大学医学部からクリクラに来ている伊之助に「元気がない」と心配されたが、下手くそな愛想笑いを返すことしかできなかった。
     バックヤードから待合スペースまで続く廊下は意外と長い。表よりもずっと人気の少ないそこは患者が間違って入ってこないように少々薄暗くなっていて、総合病院特有のひんやりとした空気が充満していた。その冷たい匂いがあの少女の双眸に揺蕩う黒を彷彿とさせて、炭治郎は己だけが光を目指すことに後ろめたいものを感じてしまう。そんなことを気にしていたら医者なんてやっていけないことなんて分かっている。それでも気になってしまうのは最早彼の性だった。
     スニーカーの底がリノリウムの床と擦れて鳴る音がやけに耳について、けれども彼の脳裏に浮かぶのはこの心地いい音すらもあの少女は聞くことができないのだろうという勝手な思念だ。実際にどう聞こえているのかなんて彼女にしか分からないというのに、勝手に憐れんで、勝手に助けたいと思って、勝手に限界を感じて、こんなの自己満足のために彼女を使っているだけじゃないか。分かっていても思考も行動も止められないのが、更に炭治郎の胸を締め付ける。
     待合スペースまであと数歩というところで炭治郎は足を止めた。不安に押し潰されそうになりながらも気丈に振舞おうとする彼女に妹の姿を重ねてしまったからだろうか、網膜に焼き付いて消えてくれない少女の顔を振り払うことができない。少し悩んだあと、覚悟を決めて彼は踵を返す。ちょっとだけ。ちょっと様子を見るだけだから。そう自分に言い訳をして、本来なら実習時間外は立ち入りを許されていない病棟へと向かった。
     面会時間の終わった病棟は見舞客のいない分どこか乾いた空気が漂っていた。階段を三階まで上り、看護師の目を掻い潜ってナースステーションの前を横切る。目指すは少女の入院している三〇八号室、奥から二番目の病室である。
     だが目的の部屋に近付くにつれて、消毒液の匂いに混じって嗅いだことのない匂いがしてくることに炭治郎は気が付いた。熟れすぎ傷んで駄目になった果物のような重い匂いは一番奥の個室、三〇九号室から漏れてきている。――――三〇九号室? 何かが彼の中で引っかかった。しかしその正体が何なのか、すぐには思い当たらない。三〇九号室には誰が入院していたんだっけ。実習生の身である炭治郎は三階に入院しているすべての患者を把握しているわけではない。けれど三〇九号室の患者を彼は恐らく知っている。
    「……――、それでは」
     誰かの声が三〇九号室の扉の向こうから聞こえてきて、炭治郎は咄嗟に廊下の角に身を隠した。スライドドアが開いて、病室から出てきたのは医療従事者に似つかわしくない金髪だ。彼も炭治郎の実習が終われば今日は上がりの筈なのに、どうしてまだ病棟で白衣を着ているのか。
     と、扉が開いたことで部屋から漏れていた匂いが強くなって、彼はやっと今朝のカンファレンスを思い出した。三〇九号室の尾仁川さん――我妻が駄目かもしれないと言っていた、上顎洞癌の患者だ。その患者の病室で、彼は一体何を。いや、考えずともそんなこと分かりきっている。患者の容態を見に来ていたに違いない。だがこの匂いは我妻の朝の発言の通り死期の近いもののそれだ。嗅いだことがなくても直感で分かる。医師として患者にできることなどもうほとんどない筈だ。そんな患者の病室に、彼は何をしに来ていたのか。
     陰からこっそりと彼の様子を窺う。三〇九号室を出た我妻は、続いて隣の三〇八号室の扉を叩いた。白いドアを引いて彼はするりと中に入っていく。
     廊下の陰から我妻の動向を見ていた炭治郎は、彼の姿が完全に部屋の中に消えていったのを見計らってその病室に近付いた。中には複数の人の気配。あまり大きく動いてはいないから、恐らく患者のものだろう。その中でひとつ、部屋の奥に向かっていく気配はきっと我妻のものだ。
    「……――ちゃん、ちょっと――……」
    「――、……――って、――……」
     三〇八号室に近付けば、中から微かに誰かの話す声が聞こえてくる。我妻と――――真珠腫の女の子か? 声が小さすぎてよく聞き取れない。
    「――! 私、――……、――から、」
    「そっかぁ、――、……――だもんねぇ」
     我妻の穏やかな声が言い終わらないうちに、微かにしゃくりあげるような音が聞こえてきた。泣いているのか? 誰が? ――あの気丈に振舞っていた少女が。決して涙など見せまいと、潤ませた黒い瞳が零れないよう必死に耐えていた彼女が、我妻の前では年相応の感情を露わにしていた。
    「うんうん、――……、――とか俺でも――……」
     つんと鼻奥を擽るような涙の匂いがする。それを包み込んでいるのはどこまでも強くて、それでいて優しい匂いだ。まろい声色がゆっくりと少女のこころを溶かしていって、彼女はついに声を上げて泣き出した。
    「こわい、せんせぇ、手術やだ、」
    「そうだよねぇ、怖いよねぇ。しなくていいならしたくないよね」
    「やだ、したくない……こわいよぉ」
     ぐすぐすとくぐもった泣き声は、それでも炭治郎のいるところまではっきりと届くくらいには大きい。それほどまでに彼女にとって手術は怖いものだったのだろう。やっぱり、と思う反面、炭治郎は自分のできなかったことをやすやすとやってのける我妻が急に遠い存在のように感じた。これが医師と学生の差か。なんだか無性に悔しくて炭治郎は唇をきゅっと噛む。睨みつけたクリーム色の床が、炭治郎の影をぼんやりと縁取っていた。
     しばらくの間、少女の嗚咽と我妻の柔らかい声は途切れることがなかった。だんだんとしゃくりあげる声が落ち着いてきたのはどれくらいの時間が経ってからだろうか。彼女は最後にすん、と鼻を啜って、まだ濡れた声でぽつぽつと言葉を紡ぎ出す。
    「……――でも、でもね、」
    「うん?」
    「手術、しない方が、もっとこわい……」
     少女の震える声が訴えた。ずっとその場から動けないでいた炭治郎は彼女の訴えに頭を強く殴られたような気がした。胸の奥で何かが詰まったように呼吸が上手くできなくて、彼は愕然とする。彼女は――あの少女は、彼が思っていたほど弱くはなかったのだ。
     救ってあげないと、だなんて、どうしてそんな烏滸がましいことを考えていたのだろう。彼女が真に怖がっていたのは手術そのものではない。覚悟が決まらないうちにどんどんと事を運んでいってしまう周りの人を、あの子は恐れていたのだ。炭治郎の奥歯がぎり、と軋む。悔しい、悔しい、悔しい。幼い女の子だと患者を侮って、救ってあげたいだなんて上から目線で考えて、あまつさえ自分のこころを満たすために藻掻いていた自分が情けない。
    「先生、手術、成功する?」
    「成功させるよ。必ず。約束だ」
    「うん……約束。私も頑張る」
     指切りげんまん、嘘吐いたら針千本飲ーます。指切った。二人の声が炭治郎の鼓膜を揺らして、頭の中に反響する。彼女に必要だったのは救いの手なんかじゃなかった。あの子は手を差し伸べて引っ張ってやったりしなくても、自分の足で歩むことができる。そしてそれを、我妻は見抜いていた、炭治郎と違って彼は分かっていた。分かった上で彼女の傍に寄り添う姿は正しく炭治郎の憧れた医師のそれである。頼りないだとか、医師らしくないだとか、そんなことは微塵もないのだ。
    「じゃあ明日、頑張ろうね。手術終わったら中庭のお花一緒に見に行こうねぇ」
    「うーん、それはいいや」
    「えっ酷い! この時期すっごく綺麗に咲いてるのに!」
     ぎゃんぎゃんと喧しい我妻の声に重なって、少女がけらけらと笑う声がする。どうやら彼女は光の方へ踏み出すことができたようだ。だが炭治郎は病室の前から一歩も動けない。どこをどう歩めば自分の目指すところに辿り着けるのか、少しの自信も持てなくなってしまったのだ。
    「それじゃ、失礼しました――――あれ?」
     スライドドアの滑る音がして、炭治郎の足元に一筋の光が差した。はっとして振り返ると西日を背にきらきらと金髪を煌めかせている人物がひとり。表情は逆光でよく見えないが淡く優しい匂いが己に向けられているのは分かる。小首を傾げたその人は、驚いたような声で彼の名前を呼んだ。
    「竈門くん、まだ帰ってなかったの?」



     がこん、と缶が落下する音が人気のない自動販売機コーナーに響き渡る。出てきた缶は黒地に白ででかでかとロゴの入っているブラックコーヒーだ。冷えた缶コーヒーを拾い上げれば、我妻が「あ、」と声を上げた。
    「ごめん、ブラックで良かった?」
    「大丈夫です。ありがとうございます」
     彼の問いにそう返せば我妻は小さな声で「そう、よかった」と零す。へらりと笑った彼の顔はその髪色も相俟って実年齢より幼く見えた。けれどその目許に色濃く刻まれた隈が、我妻がいつもどんな姿勢で仕事をしているのかを物語っている。
     炭治郎が手にしているブラックコーヒーと同じもののボタンを押し、彼はその場にしゃがみ込んで缶コーヒーが出てくるのを待つ。白衣を羽織ったまま丸まった背中は自分と同じか、それよりもやや小さいくらいだ。ほどなくして再びがこん、と缶コーヒーの落下してくる音がして、我妻は取り出し口に手を突っ込んだ。相当疲れが溜まっているのだろう、よっこらせ、なんて掛け声をかけて立ち上がる彼の動きは随分と鈍い。
     もう薄暗いロビーの端で彼らはコーヒーの缶を開ける。かしゅっ。
    「……いつも、ああいうことしてるんですか」
     缶コーヒーに口をつけかけて我妻はその手を止めた。手許の缶から視線を上げられないでいる炭治郎を見て、彼は苦笑いを浮かべる。
    「んー……まあ、ね」
     はは、と困ったように笑いながら我妻が口にしたのは曖昧な返事だった。だがそれは炭治郎の問いに対する肯定に他ならない。やはり彼は毎日のように担当の患者の許を訪れているのだろう。もしかしたら担当外でも気になる患者がいたら見て回っているのかもしれない。そして、彼の目許にある隈の原因もきっとそれだ。
    「どうして……」
     炭治郎の唇から漏れた呟きは近距離でも聞き取れるか怪しい程微かだった。どうして、のあとに続けたかった『そんなことできるんですか』は、彼の行動の理由を問うているのか、根拠を問うているのか、それとも。
     とろりと濃い琥珀の色をした瞳が彼を捉える。見詰められていることに気が付いて顔を上げれば炭治郎の赫灼を閉じ込めた双眸がゆらりと揺れた。僅かに細められたその眼がなんだかとても危うげで、炭治郎はそこから目が離せなくなる。まただ。またこの感覚だ。昼前のCT読影のときに感じたものと同じざわめきが、炭治郎の心臓を、肺を、血液を通して侵食していくのだ。
    「…………どうしてだと思う?」
     緩やかに弧を描いていた薄い唇が小さく開いて彼が囁いた。炭治郎の言葉は本人にもほとんど聞こえないくらい小さいものだったのに、我妻の耳はそれをしっかり拾い上げていたらしい。静かに問い返す彼の声はひどく穏やかだがどこか憂いを帯びていて、すとんと臓腑に落ちてきたその音は、けれど炭治郎の言葉を詰まらせるのだ。
     何か一言でもいいから声にしたいのに何も言葉にできなくなった炭治郎から視線を外して、我妻は缶コーヒーを煽る。
    「俺さ、昔から耳が異様に良くて。他の人には聞こえないような音も聞こえちゃうんだよね。筋肉の収縮する音とか、血液の流れる音だとか、そういうの。寝ているときも全部聞こえてるし。昔からなんでこんなに耳が良いんだろうって不思議に思ってて、まあそれもあって今の科にいるんだけど」
     金の睫毛が琥珀の双眸に影を落とす。ぽつぽつと話しながら缶の中身を少しずつ飲み込んでいく生白い喉の真ん中で、喉頭隆起が上へ下へと動いている。
    「で、健康な人の音とそうでない人の音って微妙に違っててさ。病院にいるとどうしても気になっちゃうんだよね。どこが悪いか、どれくらい悪いかも分かってしまう。そういう人の音は大概、ノイズ混じりだったり歪んでたりするんだ」
     まだ飲み終わらない缶コーヒーを手にしたまま彼は視線を床に投げた。我妻からは嘘を吐いているような匂いはしていなくて、辺りに漂うのはコーヒーのほろ苦い香りだけだ。安っぽさの否めないそれは炭治郎の鼻腔を抜けて脳髄に溶けていくようだった。
     自動販売機のディスプレイの光が我妻の輪郭を照らしている。反対側では濃く暗い影がその表情を隠してしまっている。薄暗い中で彼の唇が微かに蠢いて、炭治郎は知らず知らずのうちに止めていた息を小さく吸って、吐いた。
    「けど俺にできることなんてたかが知れてる。特に頭頚部外科領域はがん患者さんが多いから……竈門くんは三〇九号室の尾仁川さんにはもう会った?」
    「いえ、でも……」
     三〇九号室――あの独特の匂いの漏れていた病室か。ちらりとこちらを見た我妻に首を横に振って見せれば、彼は「そう、」と小さく呟く。
    「あの人、がんの再発が見つかったときにはもう相当進行してて。でも頭頸部がんの切除って見た目や機能を損なうから、手術できる範囲が限られてるじゃん? 尾仁川さんもギリギリまで切除したし、抗がん剤や放射線治療もしてるんだけど、多分……」
     我妻はそこで言葉を区切った。悔しそうに歯噛みする彼の言わんとしていることが分からないほど、炭治郎は愚かではない。愚かではないが、ちくりと刺さるような匂いをさせている彼にかける言葉を見つけられるほど器用でもない。
     彼よりもずっと大人で、医師免許を持っていて、経験を積んだ医師である我妻でも救えないいのちがある。個人であったり医療であったりの限界は必ずどこかに存在する。それは己が医師として働きだしたときにもきっとぶつかる壁なのだと、炭治郎は気が付いてしまったのだ。
    「結局、病気を聞き分けられても医師としてできることには限界があって。尾仁川さんだけじゃない。他の科に入院してる人、ICUに入ってる人、緩和ケアを受けている人。沢山いるけど、そのすべてを助けることは俺にはできないんだ。自分の科の自分の担当の患者さんさえ、全員救えるわけじゃない」
     冷たかったコーヒーが炭治郎の手のひらの温度を奪いながら少しずつ温くなっていく。彼は、この人は、どれくらいの人数の患者の音を聞いてきたのだろう。雑音ばかりが耳につくであろうこの環境で、どんな思いでその音を聞いてきたのだろう。たとえ病を聞き分けられてもすべての患者を救えるわけではないとを知りながら、指の隙間から零れ落ちていくいのちの音を、この人はきっと幾つも幾つも聞いてきたのだ。それにどれだけ彼は傷付いてきたのだろうか。この聡くて優しい人は、どれだけの悼みを抱えてきたのだろうか。
    「我妻先生、」
     水滴に濡れた手のひらと対照的にからからに乾いた喉が、ようやくそこに引っかかっていた彼の名前を呼ぶ。だが炭治郎が何か続ける前に我妻は最初にしたようにへらりと笑ってみせたのだ。
    「けど、けどな、この耳が拾えるのはそれだけじゃないんだぜ。心音や呼吸音とかから相手が何を考えているのか、なんとなくだけど分かるんだ。してほしいこと、かけてほしい言葉、そういう心の声もこの耳は聞き分けてくれる。じゃあどうするって、そんなの答えはひとつしかないだろ?」
     隈のある目許が細まって目尻に小さな皺ができる。そこに浮かぶ金色の光は、強くて優しくて少しだけ誇らしげだ。
     ああ、あなたはそうやって、ひとのために動くのか。医師としてではなく人として、彼らのためにたたかうのか。自分の身を削ってでも、いのちを、こころを、救いたいと願うのか。
     彼のふたつの琥珀の奥で何かがぱちぱちと小さく爆ぜた気がして、炭治郎は思わず目を細めた。
    「……疲れないんですか」
    「そりゃあ疲れるけど、そうしない方がしんどい」
    「でも!」
    「いいんだよ、俺が好きでやってるだけなんだから。竈門くんも真似する必要はないし」
     眉尻を下げて笑う我妻になんだか胸の奥がじりじりと焦げるような感覚を覚えて、炭治郎はコーヒーの缶を強く握る。きっと彼はこれからも、誰かに評価されることがなくても毎日病室を回るのだろう。患者のいのちだけでなく、そのこころにも手を伸ばして、彼らのために生きるのだ。
     そうだとすると、では誰が彼を支えるというのだろうか。この優しすぎる金色を、誰がたすけるというのだろうか。
    「この話はこんなもんでいい? 俺、腹減っちゃってさあ。そうだ、折角だから何か一緒に食べにいこうぜ」
     彼の奥底に生まれたものなど知りもしない我妻は空になった缶をごみ箱に無造作に突っ込んでひとつ大きく伸びをした。この辺何があったかな、なんて呟きながらポケットから取り出したスマートフォンの画面をすいすいとなぞっていく。
    「何か食べたいものある? つっても俺もあんまりこの辺の店知らないんだけど……ずっとコンビニ弁当ばっか食ってたから――」
    「じゃあ!」
     突然声を上げた炭治郎に、手元に視線を落としていた彼はびくりと肩を震わせた。思ったよりも大きな声が出たことに炭治郎自身も少し驚いたが、そんなことはどうでもいい。大きな目を瞬かせる我妻にずいと一歩歩み寄って、強い意志で以てして彼は琥珀を射抜く。
    「うち来ませんか! 俺が作りますんで!」
    「はぁ」
     それは提案というより最早宣言だった。彼からすれば、そうでもしないとこの男を掴まえることなどできない気がしたのだ。どうして掴まえておかないといけないと思ったのか、炭治郎にも分からない。けれどその琥珀の宿すいかづちにも似た光を守りたいと思ったのは本心だ。
     彼が己を犠牲にしてもひとを救うのだというのなら、俺が彼の救いになる。今はまだできることなんて限られているけれど、必ず彼の隣に並んで、彼の積み重ねたものは無駄ではないのだと言ってやる。だから、それまで。
    「いやいやそんなの悪いって!」
    「いえ! 俺がそうしたいんです!」
    「そういう問題じゃ、」
    「いいから!」
    「ぎゃああ近い近い近い!」
     何を言っているんだと言いたげな瞳を真っ直ぐ覗き込んで炭治郎は更に詰め寄る。我妻は後ずさりしようとするが残念なことに背後は壁だ。じりりと灼け付く眼に圧倒されて、彼はあっけなく逃げ道を奪われた。おまけにタイミングがいいのか悪いのか、我妻の腹がくぅ、と音を立てる。
    「ほら! お腹鳴ったじゃないですか!」
    「ええ……まじで言ってんの……」
     鼻先と鼻先が触れ合うほどの距離に流石に観念したのか、我妻は大きな溜息を吐いた。仕方ないとでも言いたそうな顔で「分かったよ……」と力なく呟く。勝ち取った同意に炭治郎は嬉しそうに顔を輝かせ、さて何を作ろうかと今日の献立を考え始めるのだった。
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