恋とはどんなものかしら(黑限) 冗談を口にする性質ではないと熟知しているが、師である無限は稀に冗談ともつかぬ冗談を真顔で言う。今回も、その類と思った。
「日本で店を開くのに、なにがいい?」
「はい?」
「日本で店を開くだろ。どんな商売がしたい?」
「なに?」
「ん?」
何気ない口ぶりでの思いもかけない問いかけは、8年一緒に暮らしている広いマンションのリビングでの、夕食後の一服中だ。梅雨が明けて昼の気温は汗ばむほどに高くなったが、夜はルーフバルコニーの掃き出し窓を全開にすれば充分に涼しい。眼下には、天と地が逆しまになったような夜景。互いにTシャツとスウェットの軽装で、ビールグラス片手の無限が高い位置で一つに結った髪を揺らし、不思議そうに小首を傾げる。
月を映す水面の色と潤いの眸、巴旦杏の形の目、小造りな鼻と二片(ふたひら)の葩そのままの唇。宝玉を彫り上げたような繊細精妙な造形の、黄金律のその配置。優しい線を描く面輪の白磁の肌に映える、絹の艶やかさの長い藍い髪。
『あー、マジ師父クッソ美人』
師の言葉が足りないのは常のことであり、また始まったと思う意識の片隅で、見慣れた面差しの圧倒的な美貌に、今なお見慣れず賛嘆する。
「そうか、済まなかった。来るか来ないかはお前の好きていいんだ。ただ」
意識を引き戻されて、無限の継いだ話の途中で制止した。
「いやいや待って待って待って。なんの話してんの? 前提がわかんないんだけど」
「話してなかったか?」
「だからなにを?」
「日本に横浜って街があるだろう」
「うん。転送門があるとこね」
「その転送門の門番を務めることになった」
「……は?」
海を挟んだ隣国・日本の都市の一つである横浜に、大陸から渡った人間たちが集って暮らす街があるのは知っている。家や器物、あるいはヒトに付く妖精たちが人間と共に海を越えて、少なくない数がその街――世界最大規模と言われるチャイナタウン・横浜中華街に棲み着いているのだという。物理的な館こそ置いていないものの、土地の神々に話を通した上で、会館に相当する組織と転送門とが設置されている。ただし規模の小ささから経済活動は行なっておらず、執行人も居ない。街が開かれた当初の人間の住人に龍游近辺の出身者が多く、すなわち妖精も元は龍游の館に籍を置いていた者が多かった関係で資金や何かの折の援助は龍游から、門番を兼ねた執行人は大陸全土の執行人から1~2名を送る。
「転送門は小さなビルの2階にあるんだ。出入りが多くても怪しまれないように1階を店にするのが慣例らしい。今の門番は餐庁を開いてるんだが」
「それだけはやめてよ、絶対」
「言われなくてもわかってる」
話がまったく見えない中で、それでも咄嗟に口を挟み、眉間に浅く皺を寄せた無限がむっつりと答える。由来とはシチュエーションが違うが、西施の顰みもかくやの美(うるわ)しさだ。だが無限が美しかろうが美しくなかろうが、ともかく話が一つも見えない。
「えーとさ。ちょっと話整理しよ? ちゃんと順番通りに話してくんない?」
「つまりだな」
無限が語って、曰く。
現在の中華街の門番は齢263才、彼の地に出向して40年を数えている。変化を得意として、30代も半ばの姿から徐々に外見を老いさせ、現在では人間の年齢ならば70代半ばの容貌だ。偽装のために開いた餐庁は味の良さで老舗の有名店として繁盛しているが、そろそろ大陸へ帰りたいとの打診があった。その後釜としての門番の依頼が、無限に回ってきた。
「いやそれ、全然わかんないんだけど。なんで師父にそんな閑職が回ってくんの」
「閑職だからだろうな。お前、あと一年で卒業だろ」
「ん? うん。それがどうしたの」
10才から人間の友人たちと共に学校へ通って人間の学問や社会について学んできたが、1年後には高校を卒業する。学力は満たしているが、大学への進学までは今の時点では考えていない。
「卒業の前に執行人試験を受けるだろ?」
「うん」
「お前が執行人になったら私たちがここを引き払って、また私が捉まらなくなると思われているらしい」
「ああ~」
小黒が人間(じんかん)の学校へ通うと決まって、7年前にこのマンションを借りて居を構えた。無限は小黒の修行と教育を最優先として任務は制限をかけ、余程の事案でしか出動しないが、それでもたびたび所在不明となる首席執行人の居場所が判明しているだけで、会館にはメリットだったようだ。1年後に住まいを引き払うとも払わないとも決めていないが、保険をかけておきたいのだろう。門番の任務があれば、無限を1ヶ所に留めておける。かつ、門番自体は誰にでも務まる閑職であるがために、無限が必要となる事案が起きれば誰かしら代理を日本へ送り、無限は転送門で容易に大陸へ戻れる。
「でもそれさ。拒否れるんでしょ、師父」
「うん」
「拒否んないの?」
「日本は食事が美味いらしい」
「なにそれ、観光でいいじゃん」
これもまた冗談か本気か、いずれにせよあまりに無限らしい回答に思わず笑った。だが、無限が異国での任務を勝手に引き受けたことには納得がいかない。
「っていうかさ。なんで勝手に引き受けんの、外国の任務とか。それ、師父だけの任務なんでしょ? 俺は? 俺も行けんの? それとも置いてくつもりだったとか?」
「いや」
無限が目を泳がせて、ビールグラスを口へ運ぶ。その表情と、そもそもの会話の始まりになったあの言葉を思い返せば察しはついた。最初から、小黒が日本へ行かない選択肢を想定していなかったのだろう。緩みそうになる口元をそれでも精一杯に引き締め、渋面を作ってみせる。
「『いや』って? なに?」
「日本へ行くのは再来年なんだ。それまでにお前が執行人になれば、私の権限で一緒に連れて行く。受からなければただの弟子だ。そっちの方が手間がないが」
「ご冗談。師父のバディになって日本行くから」
泳いでいた無限の視線が小黒の貌上に定まり、ふと師の表情(かお)になった。
「励むんだな」
「まかせて。チビの時のリベンジするし」
「好(ハオ)」
花が咲き綻ぶように、無限が笑う。
おそらくは人間における血縁の家族よりも近しく懐かしく、けれど崇めるごとき無辺無窮の敬愛を捧げる、小黒にとってのただ一人。
どこまでも共に在ると、それは誓いではなく自明すぎる己の道だ。
「そんで、店だっけ?」
「うん。まあ、次の門番が見つかるまでの繋ぎだからな。そう長くやるわけじゃない」
「あ、そうなんだ?」
「横浜の門番は後任を探すのが大変なんだ。みな故地を離れたがらない」
「……そっか。だよね」
だが、その方が納得がいく。門番など、どう考えても首席執行人の役割ではない。
『それとも』
1ヶ月ほど前に無限と訪れた龍游の館での、潘靖との立ち話を思い出す。
長く立ち働いてこられたのだから、無限さまもたまには休暇を取られてもいいかもしれない。
確か、そう言っていた。
異国の地での、長閑な任務。
あるいは潘靖からの心遣いだろうか。
「それに、言葉の問題もある。日本で商売をするなら日本語ができないとな」
「うえっ」
思わず、咽喉の奥で呻いた。妖精としてこの世に出でて、よもや外国語を学ぶ羽目になるなど思いもよらない。
「えっ、師父は? 師父も日本語勉強すんの?」
「私は昔学んだ。語彙のブラッシュアップくらいでなんとかなるんじゃないか」
「は? え? そうなの なんで日本語なんかできんの」
「文化に興味があるし、学ぶ時間ならいくらでもある」
「ええ~、聞いてないし。ズルい」
そして何年一緒に過ごしても折に触れて見える知らない師の一面に、小さな靄のようなものが胸に蟠るのを感じる。
「もっと情操の時間を作ればよかったな。お前は喧嘩の筋がいいから、つい修行に熱が入ってしまう」
「喧嘩っていうのやめてよ。でもいっぱい連れてってくれたじゃん、美術館とか博物館とか」
テーブルの上でグラスを握っている無限の指先に、指で触れる。
「感謝しております、師父。日本でも行こ。教えてよ、色々」
「うん。日本も名品がたくさんある」
無限の碧い目が優しく細められ、自分がどれほどに愛されて育った子供かを小黒に教えてくれる。
「でも店とかさあ。師父、できんの?」
「どうだろうな。初めてだ」
「はは、頼りないの」
よもや「無限」に向かって、頼りないなどと口にする日が来るとは思わなかった。
「なにしよっか。一緒に考えよ」
「そうだな」
いつになく楽しげな無限につられ、小黒の唇も弧を描く。
幼い頃の旅暮らしから人間(じんかん)での定住を経て、異国で商いを営むなど思いも寄らなかった。人間(ひと)である無限に人間の情緒で育まれ、妖精としてはいささかの変わり者と自分が思われているのは知っているが、小黒にとってはむしろ誇らしい。今回も、他の執行人たちが敬遠する中を嬉々として日本へ行くと知られたら、また不思議がられるのだろうか。
『だって俺の故地(おうち)は師父だし』
師にして育ての親であり、無限の居る場所こそが小黒の居場所にして帰る場所だ。
「ちょっと楽しみだね」
「ああ」
師の唇に浮かんだ淡い笑みに、小黒もまた目を細める。無限がグラスを呷り、残り少なくなったビールを目で指す。
「おかわりいる?」
「うん」
緩んでくる口元を隠すために、立ち上がった。
重厚な樫のドアの上半分に嵌め込まれたガラス窓の、店名の金文字の間から外の様子をうかがう。
「今日も客来ないね~」
平日夕方の中華街の外れを通りかかるまばらな人影は、単なる通行人か二軒先の有名雲南料理店が目当てだ。ドアから離れようとして、ガラスに映る自身の姿が目に入った。ブラウンベースにグリーンの差し色が入ったガンクラブチェックのツイードのスリーピースは、無限の手縫いだ。
夏の一夜に無限とあの会話を交わしてから、2年半。年明けに横浜中華街の外れへビスポークテーラーを開いてから、3週間。今までにこの店へ足を踏み入れたのは妖精だけだ。当然ながら転送門を使いにきた者ばかりで、それも用があってのことではなく、噂に聞く首席執行人の無限とその愛弟子の顔を見る方が目的とみえる。
あくまでも門番の任務のための店であって売り上げを求められているわけでもないが、着道楽の無限と開く店ならビスポークのテーラーと決めて以来、この2年余りを2人で真面目に学んできた。採寸や縫製といった技術は、館で何百年と仕立てに携わってきた妖精たちの直伝だ。このテーラーで受けた仕立ての依頼は、彼らに縫ってもらう準備も全て調えてある。せっかくなら、客を迎えてみたい。
もっとも、海のものとも山のものとも知れぬテーラーで一着80万にもなるスーツを仕立てようなど、物好きの所業だろう。
こじんまりとしたフロアは、真ん中にグルーグレーの革のソファとマホガニーのテーブルのセット、その奥に革のシートを貼った作業台。向かって左手の壁に沿って設えた棚には妖精たちの手になるワイシャツやネクタイといった小物類、向かって右手の壁の棚には、生地の見本。作業台の上へ、テーラーではなく執行人の仕事の書類を広げている無限へ歩み寄りながら話を継いだ。
「80万で妖精の仕立てたスーツが手に入るなら、タダみたいなもんなのにね」
「だからって、看板にしてブラ下げるわけにいかないだろ。焦るな」
「そうなんだけどさ。あっ、ねえ、じゃあまた仕立てっこしようよ。何着あってもいいじゃん、スーツ。ワイシャツでもいいけど」
「日本語の勉強は?」
「それもう、大体完璧じゃない?」
「じゃあ普段の会話も全部日本語にするか?」
「いやえっと~、それはちょっと。ほら、故地(くに)の言葉忘れたら困るし」
いつもの他愛ない会話の途中で、店のドアがゆっくりと開いた音が耳へ届く。2人ながら、入り口へ視線を向けた。遠慮がちに細く開いたドアから、人間の若い男が顔を出している。
年齢は30才前後か、明るいワインレッドのショートダッフルにチャコールグレーのマフラーとボトム、ブーツと片がけにしたデイパックは黒。身長は無限と同じほどか、身に付けている衣服はよく手入れされて、ファッションへの関心の高さが見てとれる。
「いらっしゃいませ」
どこか心許なく店の中を覗きこむ青年へすかさず声をかけた。
「こんにちは。見せてもらっていいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
高級店と理解しているのだろう。慎重な足取りで入店するや、真っ直ぐにワイシャツと小物の並ぶ左手の棚へ向かった。
いわば、このテーラーの初めての客だ。
接客の経験はないが、商品の知識は頭に入ってもいれば、コミュニケーション能力には自信がある。小黒に対するほかはにこりともしない無限に接客スキルは期待しておらず、無限と一緒に作業台の上の書類を見ている振りで、声をかけるタイミングをさりげなく計る。
しかし、意外にも。
ふと顔を上げた無限がゆったりとした足取りで作業台を回り、ディスプレイのワイシャツを熱心に見ている客に声をかけた。
「どうぞ、お手に取ってください。生地から特注なんです」
「あ……えっ あっ、はいっ」
振り向いた客は飛び上がるのではないかと思うほどの驚きぶりで、バネ仕掛けの玩具の動きでシャツへ手を伸ばした。
『あー、はいはい。そうね、美人だもんね、うちの師父』
作業台の上に広げられたままの書類を整える振りをしながら、内心に呟く。
襟足より少し高い位置で一つに結った、艶やかに藍(あお)い長い髪。ネイビーのウールのスーツにダークグレーのオッドベスト、ネイビーのカラーシャツ、細いブラックタイ。声と体格で男と理解していながら、それでも一瞬性別の判断を惑わせる甘く端麗な顔立ち。小黒の縫ったスーツの下に隠されている身体は鍛え上げられた筋肉で構成されているが、シャツの襟元やカフスから見えている首元も手も華奢だ。生きている彫像と紛うこの容姿にこの間近で話しかけられて、平常心を保てる人間などは極めて少数だろう。
「あ」
しかし、シャツに手が触れると同時に青年の語調が変わった。
「いい生地でしょう」
「すごい、張りがあるのにしなやかですね。縫製もきれいだし、着心地良さそうだな」
最後は独り言だったのだろうが、無限がシャツを手に取った。
「よろしければ試着もどうぞ」
「えっ、いや、買える値段じゃないと思うんで」
「結構ですよ、仕立てを頼んでいる工房の腕の良さを知っていただきたいだけです」
無限の言葉で、得心がいった。
テーラーを開くにあたっては龍游の館の全面的なバックアップを得ているが、当然ながら服飾部との関わりが最も深い。日頃から無限と小黒の古装を仕立ててくれている関係での親交もあれば、過去に無限に救われてやってきた者もぽつぽつと居て、皆が喜んで手伝ってくれている。幾人(いくたり)かは、人間に化けた上でイギリスやイタリアのテーラーへビスポークを学びにまで行ってくれた。なにしろ人間では達することのできない域の職人たちだけに、修業先のテーラーで大いに引き留められたとも聞く。無限と小黒の今の技術は、彼らの直伝だ。「焦るな」とは言ったものの、無限も「お2人のお手伝いができる」と喜んでくれている彼らの気持ちに報いたいのだろう。この青年がワイシャツを購入するかはさておき、少しずつ品物を知る人間が増えてくれれば、店も動き出す。
「じゃあ、着るだけ」
サイズを選んだ青年を採寸室を兼ねた試着室に案内して、無限が作業台へ戻ってきた。
「ふーん。師父、接客できるんだ」
にこりともしていなかったが、接客には違いない。
「接客の仕事なのに接客できなきゃ仕方ないだろ」
「でも残念、ここもうちょっとこうしないと。日本はその方が感じいいらしいよ」
無限の口角に人差し指を添えて、唇が三日月の形になるように引き上げた。
「俺と2人だとよく笑うのにね」
自分たちの他に誰が聞いているわけでもないその言葉に、優越感が滲んでくるのは否めない。手首を無限に掴まれて、何気なく外される。
「お前だって愛想笑いなんかしないだろ」
「それは相手次第」
10才で執行人試験に失敗した反省から修練に修練を重ね、16才の時には「実力は充分なんだからさっさと執行人になれ」と言われていた小黒の古株武闘派妖精たちからの評価は「無限のふてぶてしい弟子」だ。一方で無限に好意的な妖精たちには、ごく当たりよく振る舞う。
じゃれている――とは自覚なしにじゃれている間に、試着室のドアが静かに開いた。
「すごい、やっぱり着ると違うな」
シャツを着た客が、フロアへ出てきた。無限が、作業台から離れてその隣へ行く。
「そうでしょう。だから着ていただきたかったんです」
「はい、生地もいいし、仕立てもいい。既成なのにフィット感もいいし、でもすごく動きやすい」
角度を変え、試着室の大きな鏡でシルエットを確かめている。
「あー、いいなあ。でも値段がな~。ワイシャツあんまり着ないし」
「それでしたら、カジュアルなシャツもありますよ。値段ももう少し」
言いかけて、なにかに気付いたように口を噤む。口元に浮かぶ、淡い笑み。客の唇が薄く開いて、目元が赤い。
『はあ』
作業台からさりげなく見ていたが、小黒も思わず色めき立った。
「押し売りはしないと言ったのに、これじゃ押し売りだな。失礼」
「あっ ふわっ、はい、いえっ、じゃあ、せっかくだし、見せてもらおうかなっ、見たいです!」
客の勢いに軽く目を瞠り、また無限が笑った。
「ええ、お出しします」
しゃがみこみ、陳列棚の引き出しから在庫を取り出す無限の笑みは消えないままだ。
『はあ~~~~~~~~~?????』
無限の微笑など、そう安売りされて然るべきものではない。
再び青年が試着室へ入り、無限は作業台へは戻らずに広げたカジュアルシャツを整理している。ほどなく試着室の扉が開いて、試着した青年が出てきた。
「いいですね、こっちも。これなら普通に着られるな~」
先ほどと同じく角度を変えて鏡に姿を写しながら、鏡越しの無限へちらりと目をやった。
「あの、良かったら見立ててもらえませんか。センス良くてカッコイイなって、さっきから思ってて」
「私ですか?」
「はい」
鷹揚な無限とどこか落ち着かない青年とでは、どちらが客で店員かわからないようなものだが、リクエストに応えてのシャツの見立てが始まった。手持ち無沙汰に掃除の振りをしながら、視界の端に2人の姿を何度も確認する。
笑顔の客と、すでにいつもながらのにこりともしない無限。
『師父が俺以外のヤツに服見立てるとか』
服飾を商う以上は当然理解していたものの、目の前で見るとどうにも心穏やかならない。だが自身の心理が、自身で不思議だ。
人間ならば、親を取られたような気分。そうなのだろうか。
相手は、単なる客に過ぎない。しかしそれだからこそ、仲間や友人でもない赤の他人とこうも長々と無限が話しているのを見るのは初めてだ。まして服を見立てるなど、それなりの親身さを伴う行為でもある。
『なにこれ、ガキくさ』
そう思うと同時に、学校へ通っていた頃の記憶がよみがえる。「小黒の爸爸がイケメン」だと皆が騒ぐたびに、自慢に思うよりもその軽々しさが気に入らなかった。
無意識に顔をしかめかけたところへ、シャツを選び終えた2人が会計のためにカウンターへ戻ってきた。手にしていた埃取りのハンディモップを置いて、3週間目にして初めて稼働するレジで無限がPOSを読み取る隣へ行く。1枚当たりの単価はワイシャツより低いとはいえ、客が選んだシャツは結局2枚。無限が会計する間に丁寧にたたんで薄葉紙に包み、漆黒のクラフト紙に店名を金で箔押ししたショッパーへ納めて無限へ渡す。
「ここ、ビスポークのテーラーですよね? いつかお願いできるようになりたいなあ。これ、大事に着ます」
会計を終えた客が、嬉しそうに無限からショッパーを受け取った。
「よろしければ、またどうぞ」
「次は夏のボーナスが入ってからかな。シャツだったらビスポークできるかも。また来ます」
「いつでもお寄りください。お待ちしております。ありがとうございました」
面輪を包むサイドの髪を揺らして頭を下げる無限の隣で、小黒も同じく頭を下げて客を送り出す。扉が完全に閉まってから顔を上げ、慇懃な態度を途端に崩した。棚に広げられたままのシャツを片付けるべく、2人で並んでたたみ始める。
「結局2枚買ってくれたんだ? 4万のワイシャツ1枚でも高いって言ってたのに2枚で6万じゃん」
「うん。いい客で良かったな。自分もアパレルだって言ってた」
「へえ~。プロに良い服だって言われたならよかったね」
「当たり前だ、妖精の仕立てた服だぞ」
「それ、さっき俺が言ったやつ」
「そうだったか」
皓く歯をこぼして、無限が笑う。小黒だけに見せる、小黒にしか見せない、その笑顔。ふっと、胸の奥から熱がこみ上げる。
「そう、だよ」
たたんでいたシャツを下ろし、無限の腰へ両腕を回す。気にもせずに自分はシャツをたたみ続けている師の身体を抱き込んで、絹の肌触りの髪へ頬を押しつけた。子供の頃からの親密なスキンシップは、小黒が無限の身長に追いつき、15センチも追い越した今も変わらない。
「初めて服が売れて良かったけどさ。無限大人が『ありがとうございました』なんて頭下げてるの見たら、みんなぶっ倒れちゃうんじゃね」
「私の頭なんかそんな大したものか」
「なに言ってんだか。大したもんでしょ」
「どこかの猫がよく乗ってる程度の頭だろ」
「でもそれ、どっかの猫だけの特権だし」
軽口を交わしながら、これが自分たちの関係を再認識するための行為と自覚している。
『やっぱガキくさ』
軽く眉を寄せて無限を離し、たたんで積まれたシャツを片付けるべく腕に抱えた。
「まあいいや、次は俺が接客するね。実践してみないとさ」
「次の客なんて、いつ来るか――」
無限の言葉の途中で再び開いたドアへ、2人揃って振り向いた。
ドアを開けて入ってきたのは、40代後半と思しい人間の女性だ。すっきりとした細身に明るいグレージュのカシミアのチェスターコートを羽織り、淡いパープルのグラデーションが美しいカシミアのストールを巻いている。本日2人目にして、開店して2人目の客。思わず無限と顔を見合わせたくなったが、「いらっしゃいませ」とシャツを抱えたままで笑顔を向けた。
「こんにちは。まだ大丈夫ですか?」
確認されたのは、店外に掲げてある営業時間が18時までとなっているからだろう。今の時刻は、17時48分。
「大丈夫ですよ、どうぞ」
「よかった。その、ショーウインドウのカフスボタンなんですけど。見せてもらっていいですか?」
「はい、ただいまお出しします」
宣言通りに自分が接客するべく、抱えているシャツを無限に渡す。広くはないフロアを長い脚で横切り、指定されたカフスボタンをショーウインドウから取り出した。
「どうぞ、こちらでごゆっくり」
扉の横に立ったままの女性を、作業台へと促す。入り口を背にした長辺に女性、角を挟んだ短辺に小黒が立ち、上品なミッドナイトブルーのベロアのケースを革張りの作業台へ置いた。
「お手に取っていただいて結構です。どうぞ」
「ありがとう」
指先に摘まみ上げ、女性がカフスボタンをためつすがめつする。これもまた、龍游の服飾部で装飾を担当している妖精たちの作り上げた一品だ。1.5センチ平方の漆黒の中に、吉祥の蝙蝠文が精巧な螺鈿で七色に煌めいている。
「うーん、やっぱりいいなあ。素敵」
小黒に聞かせるためではないのだろう賛嘆の呟きに、それでも腰を折って身を屈めた。女性の身長は日本人女性としては平均的な160センチ弱、小黒とでは身長差が30センチ近い。高い聴力で声を聞き漏らしはしないが、背筋を伸ばしたままでは威圧的だ。
「住まいが近くで、ここの前もよく通るんです。このカフス、ずっと気になってて。中国の螺鈿ですよね。すごい細工」
喋りながらプライスタグを確認し、一瞬きゅっと唇が引き結ばれた。ホワイトゴールドをベースにしたカフスボタンの価格は、一組で50万。
「あー、うん。このくらいするよね」
他の取り扱い商品も同様に、この店に並べている品を安売りする気はない。人間(じんかん)でリサーチして、相応の価格を付けてある。
「他にもありますが、ご覧になりますか? もう少しお手頃なカフスもご用意してます」
「いや、値段はいいんです。夫に、結婚の10年記念のプレゼントだから。でも」
長身を屈めているために、顔を上げた女性と真正面から目が合った。女性の唇が薄く開いて、数瞬の沈黙が落ちる。どうかしたかと声をかけようとして、早口に言葉が継がれた。
「そうね、他のカフスも見せてもらおうかなっ」
「はい、ぜひ。懇意にしている工房にオリジナルで作ってもらってるんです。どれもいい品物ですよ」
アクセサリー類は、無限が接客をしていたシャツのコーナーの横に卓上サイズのガラスケースを置いて展示している。ベロアのケースを手に女性を案内し、無限が書類に目を落としているカウンターの前を通った。
『ん?』
無言の圧を感じた気がして横目に無限をうかがうが、なにも変わった様子はない。
『気のせい?』
無限の気配を読み間違える気はしないが、ほんの一瞬のことだ。
すでに元の通りに整頓された陳列棚で、ガラスケースの開き戸を手前に引く。二段になったケースの中に納められているカフスボタンやタイピンは、伝統的な文様からシンプルでスタイリッシュなデザインまで、いずれも館で作られた螺鈿や景泰藍や彫金と種々様々だ。中には上質の宝石をあしらった物もある。
「は~……どれも綺麗。いいなあ、ピアスだったら私が欲しいかも」
暖色の照明の下で耀く精妙な細工の品々に、女性が賛嘆の呟きを漏らした。
「どれかお出ししますか?」
「どれも素敵で迷っちゃう」
ケースを覗く女性が、小黒の手元へ目を留めた。
「店員さんは? そのカフス、同じところの?」
「僕ですか? そうです、同じ工房の特注です」
カフスが見えるように、軽く曲げた腕を差し出した。乗り出すように身を屈めて覗き込む女性へ、よく見えるようにさらに腕を掲げる。目の下に、よく手入れをされた艶のある髪。鼻先を掠める、トワレの甘い香り。
『ん?』
また視線を感じた気がしてカウンターを流し見るが、無限は目線を手元へ落としたままだ。
「あら、可愛い」
明るい声に、注意を戻す。
小黒のカフスボタンは、無限がデザインした。
ホワイトゴールドの台に嵌め込まれた黒蝶貝の円形に沿って、しなやかに身を翻す黒猫が彫られている。横顔の目には、小さいながらもくっきりとシャトヤンシーの現れるグリーントルマリンが一顆。
「可愛いけど、すごい細工ね。こんな小さいところに、こんなに精巧に彫ってある」
「腕がいいでしょう」
「ほんと。あっ、この猫ちゃん」
カフスから顔が上げられて、正面から視線が出会う。女性の目元にふわりと血の色が匂い、再びそそくさと目が逸らされた。
「店員さんと同じなんですね、目の色。それで特注なんだ」
「ああ、目の色。僕、ミックスで」
「だから背も高くてスタイルいいのね」
「どうかな。でもありがとうございます」
聞き慣れている容姿への賞賛は、微笑で受け流す。髪も目も変化術で色を変えられるが、目は本来のままだ。夏の森の翠と、無限が自分の眸を好ましく思ってくれているのを知っている。
他の品物も幾つか見たものの、結局女性は最初の螺鈿のカフスボタンを購入してくれた。
カウンターへ戻り、クレジットカードでの会計を済ませて、女性から配偶者への贈り物であるカフスボタンをオリジナルの包装紙で包んでラッピングする。その間に、無限が一番小さいサイズのショッパーを準備しておいてくれた
「謝謝(ありがと)」
礼を言って、ラッピングした小箱をショッパーに納める。
「ありがとう」
礼を言って受け取った女性が、ショッパーを目の高さに掲げた。伝統的な格子柄を現代風のデザインへ落とし込んだ枠の中へ図案化した「猫」の文字をあしらったロゴ、その下に極細ゴシックでの漢字の店名、さらに一段下にひと回り小さな極細サンセリフのアルファベットでの英名が、金で箔押しされている。シンプルにスタイリッシュでありながら、華やかに目を惹かれる。
「ねこようふく……猫洋服さん? ……テーラーマオさん?」
「普通話だとmāo yáng fúですね。どれでもお好きな呼び方で呼んでください」
「あはは、最後のは無理かな。そっか、だから店員さんのカフスが猫ちゃんなのね」
むしろ小黒あってこその無限の決めた店名だが、そんな説明は無用だ。
嬉しげな女性を、店先まで見送った。
「ごめんなさい、閉店時間過ぎちゃって。でも寄ってみてよかった。良い物買えて」
「時間はお気になさらず。カフスのクリーニングやメンテナンスも承りますので、いつでもお寄りください」
「次は夫と来ます。ビスポークに興味あるみたいだし」
ドアを開けようとした女性に先んじて手を伸ばし、外へ向かって開く。1月末の夜の空気は身震いするほどに冷たく、暖房に暖められた店内の空気との境目すら見えそうだ。歩道へ出た女性が、白い息を吐きながら軽くショッパーを掲げる。
「ありがとう」
「ありがとうございました。またお待ちしております」
歩き出した背中を一呼吸見送り、真鍮の飾り取っ手に下げている看板を「Close」に返して店の中へ戻った。途端に、微笑を満面の笑みへ変える。
「やったー! 買ってもらえた!」
浮き足だって店の奥まで戻り、カウンターの内側へ入った。背後から無限を抱きしめ、艶やかな髪に頬を埋める。風の通る春の森に似て爽やかな、そして満開の花園の甘さを秘める無限の肌膚の馨りに鼻腔を満たされる。
「ねえねえねえねえねえ、師父! 俺、ちゃんと接客出来たでしょ 何点? 100点 150点 200点」
「なんで100点以上しかないんだ」
むっつりとしていた無限が、途端に表情を崩して笑い出した。
「だってさあ、日本語完璧、クレカ決済も完璧、ラッピングも完璧」
片腕で無限を抱き込んだまま、目の高さに手を差し出し、長い指を折って数えていく。
「初めてなのに全部ちゃんとできたの、すごくね? 俺って自慢の弟子じゃない?」
「それなら私だってちゃんと接客したろ。日本語完璧、クレカ決済も完璧、包装はお前がやってくれたが」
「あー、ダメ。師父は80点」
「なぜ」
「なんでって」
肩越しに無限の顔を覗きこみ、唇の端に指を添えて口角を引き上げた。
「笑顔安売りしてたから。師父は塩くらいでちょうどいいの」
「笑えって言ったのはお前だろ」
「言ってない」
「なんでそんな嘘を」
「ねえ、それよりさ。やっとお客来てくれたし2人とも買ってくれたし、お祝いに美味いもん食おうよ」
「美味いものは毎日食べてるだろ」
「まあそうなんだけど」
悪びれずに笑って見せる。日本は食事が美味いと無限が言っていた通り、住み始めてからは開拓を兼ねて毎晩外食だ。
「この間元町で見つけた創作和食と日本酒の店ってとこ。行ってみない?」
「ああ、あそこか。そうだな」
「じゃあ俺、コート取ってくる。店閉めちゃってて」
「ん」
100年前の巨大な地震も80年前の大きな戦争も越えて残った、煉瓦造りの小さな4階建てのビル。1階と2階、3階と4階がそれぞれ木造の螺旋階段で繋がったメゾネットタイプとなっていて、1階がこの店舗、2階に転送門、3階と4階が自分たちの住居だ。ワンフロアがそのまま一部屋の、コートは寝室である四階に置いてある。非常階段を兼ねたビル内階段への、フロア内からの出入り口は2階。するりと無限から離れて、慎ましいサイズの螺旋階段を上る。足下で、無限がレジを開ける音がした。
美味い食事で腹を満たし、少々のアルコールと充実感に包まれて、Tシャツとボクサーパンツだけで機嫌良くベッドへ飛びこんだ。コートを取りに来た時に暖房のスイッチを入れていったが、ベッドの中までは暖まっていない。
「うわ、布団冷たっ」
「ほら、もう少しそっち行け」
水のようにがぶがぶと日本酒を飲んでいた無限が、ほろ酔いとも見えずに長衫姿で隣へ入ってきた。
「寒いからくっついてよ、師父」
10年前に人間(じんかん)で暮らし始めた時から使っているキングサイズのベッドに2人で潜り、無限へ額を寄せる。
「日本って部屋寒いよね」
「建物も古いからな」
「ベッド買い直さなくてよかったね」
「うん」
血縁でも血縁でなくても人間ならば成人男性2人が同じベッドには寝ないのだろうが、なにしろ自分たちは人間の範疇から大きく逸脱した人間と人外だ。
「電気消すよ」
枕元のリモコンで照明を落とし、互いにもぞもぞと収まりのいい位置を探す。
「ね、今度の休みに龍游行って、売れたよってみんなに報告しよ。売れたのはアプリでわかっても、着心地褒めてたとかはわかんないしさ」
「そうだな」
「明日やっぱ採寸させてよ。練習。客来るってわかったし、ビスポークしたいって言われて採寸もたもたしたらカッコ悪いし」
「それなら私もだな。店も住まいも落ち着いたし、お前が言ってたみたいに春物でも仕立てるか」
「うん。生地は俺が見立てたげるね」
すぐに眠る気になれない昂揚した気分でなお言葉を交わし、掛け布団の下から出てきた無限の手が、小黒の頭へ添えられる。
「採点してなかったな。今日は150点だ」
「150点? 200点じゃないの?」
「まだ伸び代がある。それに今日のは……ご婦人にモテるからな、お前は」
「えっ、え? なにそれ、どゆ意味? それ言うなら師父だって」
女性ばかりか、男性までも強烈に惹きつける。今日の客の様子に気づいていなかったのかと言ってやりたいが、言ったところで気のせいか勘違いと返されそうな気もすれば、自覚されるのもそれはそれで気に入らない。
「私がなんだ?」
「あ……、えっと、80点だから、師父も。伸び代まだあるって話」
「それは良かった」
撫でてくれる手の温かさに、堪えきれずにごろごろと咽喉が鳴り出してしまう。だが同じベッドに寛ぎながら、接客する無限の姿を思い出した。あの時の些細な胸の靄と、たった今のちくちくとして不快な重さを孕んだ胸の疼き。微かに、眉を寄せる。
『なんだろ、これ』
ささくれのような、見知らぬ感情。
「いつまでも甘えん坊の猫だ」
小黒の心など知らず、笑う無限の声が甘く耳の奥を撫でた。
了.