My Sweet Honey Bunny - 後朝 -【黒限】 気怠くも快い微睡から、ゆっくりと浮かび上がっていく。
カーテンの向こうの朝まだきの街から物音は一つも聞こえず、夜とのあわいの青い空気に染まって、部屋ごと水底に沈んでいるようだ。
眠りの中でも感じていた規則正しい鼓動と日向の匂い、自分自身のものと錯覚するほどに馴染んだ体温。心ゆくまで情を交わした後に、小黒に抱きこまれて眠った。長い腕の中で静かに体勢を変えて、健やかな寝息の恋人の顔を間近に見つめる。すっきりと細い輪郭の中に配されている唇も鼻も閉ざされている目も、彫り上げたように端正だ。
外見ばかりではない。
430歳も年上の無限を最も身近な存在として過ごしてきたせいか年齢の割に老成したところもあるが、一方で朗らかであり、物腰も柔らかく、心配りも細やかだ。5年前に移り住んだこの街で、妖精にも人間にも瞬く間に多くの知己を得た。
その意識はなく、口元が綻ぶ。
『……こんな爺(じじ)のどこがいいやら』
純粋な疑問であると同時に、小黒に師として選ばれたばかりでなく、伴侶として望まれたことは嬉しくも誇らしい。
頬のふっくらとした、実際の歳よりも幼く見える仔猫だった頃を、よく覚えている。純粋で真っ直ぐで、強情でありながら柔軟で、自分の目で見て耳で聞き、考え続けて思考を止めない。聡明にして有り余る才に溢れた小黒は自慢の弟子だが、なによりその健やかな気質が好ましい。400年以上の永い生を飽きず膿まず、理想などといえば仰々しいが、成し遂げたい未来へ向かって少々の義務とともに日々を楽しんで生きてきた。それでも、20年前のあの日を今もはっきりと思い出す。
龍游の館の桟橋で小黒に「師父」と呼ばれたあの瞬間、一陣の風に払われるように世界が鮮やかさを増した。くっきりと輪郭を持って、瑞々しい光を放ち始めた。思えば、小黒が反発ばかりしていたあの道のりから、既に世界の色は変わり始めていたのかもしれない。
目の前の唇が緩やかな弧を描いて小黒の瞼が持ち上がり、深い翠緑の眸を浮かべる目に笑いかけられた。
「早(おはよ)。俺がいい男だから見惚れてんの?」
「うん。ここに付いてたぷくぷく可愛い肉はどこに行ったのかと思ってた」
小黒のすっきりとした頬を両側から親指と人差し指で摘まんで、笑い返す。
「ああ。身長になった」
「なるほどな」
「ってさあ、俺がチビだった時のこと思い出してた?」
長い腕に抱え直され、小黒の鼻の先が無限の髪の中へ埋められる。
「楽しかったよね、2人であちこち旅して、いっぱい美味いもの食べて色んなもの見て、いつも一緒で」
「今だっていつも一緒だろ」
「それね。でもまさか仕立て屋になるとか」
喋る小黒の唇が地肌に触れて、くすぐったい。
「繁忙期終わったら誰かに留守番頼んで、1ヶ月くらいどっか行こ。あのスクーターでさ。まだ師父の霊域にしまってあるでしょ」
「うん」
「日本は2ケツできないからな~。どこがいいかな。大陸戻ってもいいけど」
思考も行動も速い小黒は旅のイメージを具体的に固め始めているようだが、嬉しげに継ぐ言葉の中に、無限にとっては聞き捨てならない単語が含まれていた。しかし、たった一度で指摘するのも大人げがない。
「行きたいとこ考えといてよ。で、起きる? 二度寝する?」
頭頂に唇が押し当てられ、小黒に尋ねられる。
「起きる。山下公園に行って少し気を集めて、どこかホテルでモーニングでも食べよう」
「気は俺の散々吸ったじゃん。まだ足んない?」
「馬鹿な」
「はは、嘘々。風呂にお湯張ってくる」
朗らかに笑った小黒がもう一度藍い髪の中へ唇を落とし、素裸の上に無限の長衫を羽織ってベッドを下りた。裸足のままで、風呂場のある階下へ下りていく。時刻は、午前5時を回ったところだ。一晩中抱き合った合間に軽く微睡んだだけだが、仙である無限も妖精である小黒も、寝るのは好きであれ寝なくとも障りはない。この時間に起きれば、11時の開店までのんびりと過ごせる。起き上がろうと思いつつ、小黒同様の素裸に柔らかなガーゼケットを巻き付けながら、ごろりと寝返りを打った。
「ふ」
小さく笑って、目を閉じる。
異国に小さな巣を作って、弟子であり家族であった最愛の存在と、恋人として日を送る。今さらのようで、得がたく穏やかなこのひとときに身を預け、ベッドへ懐く。ほどもなく、ぺたぺたと階段を上ってくる足音が耳へ届いた。
「師父? 二度寝しないって言ったじゃん。寝るの?」
足音につれて声が近づき、腰を下ろした小黒の体重を受けたベッドの端が、軋んで沈む。
「師父?」
横顔を覆っているサイドの髪を長い指に掬われて、耳にかけられた。190センチを超えている長身が、無限の隣へ寝転がる。広い掌が頬に触れ、天鵞絨の肌触りの猫の尾が肌掛けの上から無限の腰へと絡まり、睫毛を唇に挟まれる。さすがに堪えきれずに笑ってしまう。
「くすぐったい」
「寝んの?」
「寝ない。散歩に行くって言ったろ」
「じゃあ起きなよ。風呂入ろ」
「うん」
瞼を閉ざしたままで答え、言葉を継いだ。
「小黒」
「ん?」
静かに開いていく目に、蕩けそうな微笑を浮かべて無限を見つめている小黒が映る。自分の望みは我儘なのだろうかとも思うが、ごくささやかなようにも思う。その意識はなく唇で微かな弧を描き、昨夜と同じ問いを口にした。
「私はベッドの中でもお前の師か?」
「ぅ、え」
常に冷静で落ち着いた物腰の小黒が顔を引きつらせて、跳ね起きた。
「だから、夕べは特別って言ったじゃんっ」
「言ってない」
「言ってなかったっけ 言ってないかもっ、だけどっ」
慌てているようで如才なく誤魔化しと取り繕いを入れてくるところは、さすがと言うべきだろうか。
「いやだから、察して 夕べのあれはさ」
「わかった」
のんびりと答えながら起き上がり、動揺している小黒に笑ってみせた。
納得はしていないが、わかってはいる。
こんなにも親密でこんなにも気安く、触れ合えば体温も鼓動も吐く息吸う息もどちらのものかわからなくなるほど共に在って、それでも小黒は無限を敬慕してやまない。その心は常に無限に跪き、頭を垂れ、爪先に額を付けて拝している。身を焦がし、時には獣が喰い合うような激しい欲情と共に、小黒の中には矛盾なく存在している。
正座した膝の上で握りしめられている小黒の手を取り、開かせた指に口づける。
「じゃあ、また気が向いたら呼んでくれ。催促はしないし、名で呼べとは二度と言わない。約束する」
「……」
「なんだ?」
「うーん」
小黒が空いている手を顎に添え、考える顔つきでわずかに眉根を寄せた。
「催促っていうかさ、師父は俺に頼み事とかしないじゃん。いつだって、なにかお願いするのは俺ばっかでさ。だから師父に頼み事してほしいって思ってるし、してくれたら叶えたいって思ってる」
「でも嫌……なんじゃなくて畏れ多いし、呼ぶ気はないんだろ。なにをしおらしい振りを」
小黒の手を放りだして、両方の頬を指で抓った。
「いひゃいって! でもそれ」
頬を抓られたままで、小黒が破顔した。長い腕が無限を包んで、広い胸の内へ閉じ込められる。
「我儘言う師父、最っ高に可愛い! だからいつでも言ってよ、『名前で呼べ』って」
「は」
頭頂に頬が擦りつけられて、耳元でごろごろと盛大に小黒の咽喉の音がなっている。着痩せのする、筋肉の発達した胸をぐいと押し返した。
「なんだそれ。お前、本当は名で呼ばない大層な理由なんかなくて、私にその『我儘』を言わせたいだけなんじゃないのか」
「は んなわけないし、いや待って、そこ疑われるなら俺」
言い草が少々癪に障ったばかりで小黒から捧げられる敬慕の想いに微塵の疑いもないが、必死な弁明が可笑しくなって笑い出す。
「なんだよ、全然笑うとこじゃないんだけどっ」
「ショ!」
相槌を打つようなタイミングで、小黒の頭の上に小さな黒い毛玉が表れた。
「あっ、いっぱいになった? 」
「ショショ」
湯張りの見張りを言いつかっていたらしい黑咻は、歌うように身体を揺すって、本体である小黒の様子にはお構いなしでご機嫌だ。
「師父」
頭に黑咻を乗せたままベッドを下りて、小黒が無限へ手を差し出す。
「とにかくそれって誤解だし、風呂でゆっくり話そ」
天鵞絨の毛皮に覆われた長い尾は小黒の背後でゆったりと左右に揺れ、大きな猫の耳は星からの声を受け取るためのパラボラアンテナにも似て、張り詰めて無限へ向けられたまま。翠緑の眸は昇っていく陽の光に透けて、貴石の耀きを放ちながらも、どこか心許なげに無限を見つめている。
「……そうだな」
故意(わざ)と間を置いてから、うっすらと汗ばんでいる手へ手を重ねた。途端に小黒を包む空気がほどけて、尻尾が垂直に立ち上がる。ベッドを下り、狭い部屋の階段までの数歩の距離を手を引かれて行く。
「ね、俺が全部洗ったげる。髪も身体も、足の指の間も、全部ね」
「うん」
前を向いたままの小黒の、わずかに見える頬のラインが微かに赤い。
最高に可愛いのはどちらかと、唇を綻ばせながら頷いた。
了.