春の神様(1)【黒限】 耳の先を撫でた一陣の南風に、丸くなって昼寝していたシャオヘイは頭をもたげました。湿った鼻の先を、むぐむぐと蠢かします。
『来た』
明るく晴れた春の空を、じっと見上げます。
砂糖菓子のような白い雲の合間に五色にきらめく彩雲があらわれて、その端がすうっと梯子のように地まで伸びてきました。
藪に埋もれる小さな小さなシャオヘイの廟は、盛りの近い春の花たちに彩られ、甘い香りに包まれています。その両端の反った屋根から飛び降りて、一心に走り出しました。向かう先は、もうすぐ満開の桃の林です。目を反らさずに見つめ続ける彩雲の端は薄紅の霞さながらの林の上にかかり、その中に一つの影が浮かびました。シャオヘイの大きな耳に聞こえてくるのは猫よりも密やかな足音、真っ黒な鼻へ届くのは春よりも芳しい香り。
緑の草の上を弾みながら走るシャオヘイは、さながら黒くてふわふわの毬です。
「ムゲーン!」
幼い声の呼びかけに応えるように、薄くたなびく雲から姿を表したのは、膝まで届く藍(あお)い髪を絹の衣裳の背に流した若者でした。人知れぬ森の奥で春の若葉と晴天を映す泉か、あるいは土の底の底に眠っている冷たく澄んだ水脈(みお)の欠片か、吸い込まれそうに深い碧い眸がシャオヘイへ向けられます。
「お前か、仔猫」
「猫じゃない!」
叫ぶなりにヒトの子の姿へ変じて、そのまま若者の腕の中へ飛び込みました。
「こら、シャオヘイ! 天仙さまに畏れ多い」
桃の林に住まう年寄りの鶯の妖精がたしなめますが、シャオヘイはしらんぷりです。
「はい、これ。ムゲンにあげる」
顔いっぱいの笑顔で、この春いちばん最初に咲いた黄色い花を、懐から取り出しました。仲良しの花の妖精にお願いして、一輪だけ摘ませてもらったのです。そして、1年に1度しか会えない天仙の耳の上へ、そっと髪挿しました。
抱かれたまま身体を反らし、念入りに花の位置を確かめます。
「ムゲン、きれい!」
絹よりも艶やかな髪の藍にも、極上の白磁よりも薄く滑らかに潤いを帯びる肌の白にも、太陽の光を凝めたような花の色がよく映えます。
「爺(じじ)になにを」
ムゲンは淡い笑みを浮かべますが、自分のことだからわかっていないだけだと、シャオヘイは思います。
初めて出会った時には百花娘々(はなのめがみ)と間違えたほどのムゲンの容姿(すがたかたち)には、春に咲く全ての花を束ねたって敵いません。指先の動きから足取りひとつまで、そのしなやかさと優雅さには、舞の名手もひれ伏すでしょう。なにより、400年以上生きている格の高い天仙なのに、シャオヘイのような数にもならぬ幼い猫神でも、侮らずに対等に接してくれるのです。
「ねねねねねえ、ムゲン。またぼくがお花見せてあげるね! もう行く? おなかすいた?」
「腹が空いたのはお前だろ」
たっぷりとした袖を軽やかに一振りすると、ムゲンの天衣は人の質素な衣服に変わって、頭には菅の笠、シャオヘイはするすると肩へ上ります。
「無限大人(さま)、そのように甘やかされませんよう」
鶯の妖精が嘆息しますが、シャオヘイは「喵」と鳴いて、ムゲンの頬に頭の天辺を擦りつけました。
村に一軒だけの、小さな飯屋に入ります。
「今年もようこそいらっしゃいました。お変わりなく」
すっきりと背筋の伸びた小柄な老爺が、とっておきの湯呑みでムゲンには茶を、シャオヘイには甘く冷たい井戸の水を出してくれました。
「貴方も」
短く応えて、ムゲンが老爺に拱手します。
「猫の神さまも。您好(こんにちは)」
「你好(こんにちは)!」
ムゲンに連れられて、去年初めてこの店へ来ました。それ以来、お祭りや節句の時に、老爺はシャオヘイの廟へお供えを持ってきてくれます。ムゲンとシャオヘイが何者なのかわかっているような様子で、ヒトなのに不思議です。
店の一番奥の席へ座ると、注文しなくとも次々に老爺が料理を運んできて隣の卓子までいっぱいになりますが、シャオヘイとムゲンもまた次々に大皿と蒸籠を空にしていきます。牛の肉を食べ川の魚を食べ野菜と饅頭と熱い汁を食べ米と鶏と豚を食べ、餅を食べ、お腹がいっぱいになった2人は揃って腰を上げました。
「美味かった。謝謝(ありがとう)。また明日も」
そう言って、ムゲンが掌ほどの大きさの翡翠の板を懐から取り出しました。陽光に透ける若い葉の翠を映す爽やかな色合いに、蘭・竹・菊・梅の四君子が透かし彫りにされています。
「謝謝您(ありがとうございます)。明日もお待ちしております」
恭しく翡翠を受け取った手をそのまま胸の前に組み、老爺が深く頭を下げました。
「行こうか。案内してくれ」
「うん!」
ヒトの子の姿から本来の姿に戻って、ムゲンが差し出した腕に飛び乗ります。見た目よりずっと厚みのある肩まで上がって、ちょこんと座りました。
「はじめは、ぼくの廟(おうち)。お花いっぱい咲いたよ。行こ!」
「わかった」
背で手を組み、ムゲンが滑るような足取りで田舎の道を歩き始めました。
冬が終わって花が咲き始める頃に地上へ梯子をかける彩雲は、シャオヘイがこの世に存在を始めた最初の春から知っていました。自分には関係ないとして、興味を持たなかっただけです。ムゲンを知ったのは、シャオヘイが世に出でてから5年経った、去年でした。春の花が次々と咲き始めた頃に、仲良しの花の妖精のスミレが、見慣れぬよそ者と話しているのを見かけたのです。
満開の菜の花に埋め尽くされた野原に、小柄なスミレと、スミレよりは頭一つ大きな誰か。絹の面紗と紛う、膝まで届く藍い垂髪の後ろ姿はすっきりと背筋が伸びて、面輪を包む長い前髪を一陣の風が揺らします。ちらりと見えた頬から顎にかけての曲線は柔らかく、後ろ姿も服装も男性であるのに、女性のようにも見えます。
生来の物怖じない性質で、シャオヘイは菜の花の海を泳ぎ渡って2人へ近づきました。
「スミレ!」
「小黒」
足下から呼びかけると、花の妖精が優しく微笑みます。その薄い肩へ、一息で飛び乗りました。下から見ていた時にはよく見えなかった見知らぬ誰かの顔を、正面から見つめます。
優しい面輪に空と水の色の入り混じる眸、二片の葩を思わせる唇。スミレも人間の娘たちよりずっと愛らしいけれど、この誰かは艶やかな酣(たけなわ)の牡丹のようでもあり、夏の早い朝の水面に映える清麗な蓮華のようでもあります。それに肌の香には森の青い爽やかさと花園の甘さがあって、もしかしてこの見知らぬ誰かは、スミレが時々話している百花娘々(はなのめがみ)なのでしょうか。それなら、なぜ男の姿(なり)などしているのでしょう。
不審さを隠さずにためつすがめつしますが、不躾なシャオヘイの態度にも、端然として眉一筋動かしません。
「駄目だよ、失礼でしょ」
スミレに窘められても、他所者として剣呑に見据えます。
「だれ、あんた」
「無限だ」
短い返答が戻って、沈黙が落ちました。声からすると、やはり男と思われます。
「じゃなくて! どこのダレって意味!!」
「私は名乗った。君の名は?」
「シャオヘイ」
「他者に尋ねる前に、君こそ何者だ」
「なにもの?」
ムゲンの問いかけに小首を傾げて、スミレを見やります。
「ぼく、ようせい?」
「小黒は神さまだよ」
「じゃあ、神さま」
神々はそれぞれに仕事を持って忙しく、まだ幼くて数にもならぬシャオヘイは、ほとんどかまってもらえません。遊んでくれるのは日々を長閑に過ごしている妖精たちばかりで、だから自分が何者なのかをはっきりと理解していませんでした。
「猫神か。私は天に住んでる。人間だが存在としては君たちに近い。雑用係だ」
「はあ?」
「いやだ、無限さま」
スミレが苦笑していますが、シャオヘイにはなにやら少しもわかりません。でもスミレの様子から、ムゲンにからかわれたのだと思いました。幼いと思って、侮っているのでしょう。
「やなやつ!」
言い捨てると、スミレの肩から身を翻します。
「小黒」
スミレの呼びかけが聞こえましたが、返事もせずに菜の花の原を突っ切って走りました。村には1本だけの浅く清らかな川の畔まで行って、ようやく足を止めます。漣を立てて流れる川を覗いて、きゅっと目尻を吊り上げました。
「なに、あいつ。ヘンなやつ」
「ショショ」
水面に映る自分の頭の上に乗っているヘイシュにそう言ってみても、小さな分身は朗らかに笑うばかりです。
「なんだよ、おまえ」
楽しそうなヘイシュに、繭と眉の間に皺を寄せました。
それでも、他所者などシャオヘイには関係ありませんし、天気のいい春の日に不機嫌だって長続きしません。
いつものように麗らかな空の下で遊んで日向ぼっこをしてお昼寝をして、ご飯を食べて眠って日が暮れて明けて、シャオヘイは再び川のほとりへやってきました。この村のたったひとつの名物でもあり、霊験あらたかと名高い月下老人の廟にはいつもお供えが耐えませんが、シャオヘイには森を抜ける旅人が時々備えてくれる餅か米か、あるいは村の子供が気まぐれに持ってくる小魚のほかは自分でご飯を調達しなければいけません。たまには村の食堂で人の食べ残しを失敬したりもしますが、今日は魚を漁(すなど)りに来たのです。
影が映らないように、魚が来たらいつでも獲れるように、身を低くし、集中して、金色の陽がきらきら弾ける川の中を一心に注視します。しばらく待って、丸々と肥えた鮒が、ようやく通りかかった瞬間です。頭の上がふっと人の形に陰りました。もちろん川にも影が映りこみ、鮒はぱっと身を翻して岸から離れていきました。
「ダレだよ!」
狩を邪魔されて語気も荒く降り返ると、昨日会った感じの悪い他所者が背後を通り過ぎていくところです。動じる素振りもなく振り返り、一目で状況を理解したようです。
「早飯(あさめし)か」
「あんたにかんけいない」
関わる気など少しもない他所者からぷいと顔を背けて、再び川の中へ目を凝らします。その頭の上に、またもや影が落ちてきました。抗議をしようと鋭く振り返り、碧い目と目が合います。
「私もこれからだ。邪魔した詫びにご馳走しよう」
「……」
ご馳走って、なんでしょう。天仙さま、と鶯の妖精が言っていましたが、仙人の食べ物は霧や霞ではないのでしょうか。しかし、続いた言葉に思わず耳も尻尾もぴんと立ちました。
「人間(ひと)の食い物は嫌いか」
「きらいじゃない!」
生の魚よりも野ねずみよりも、旅人たちの供える固い餅や米よりも、飯屋で失敬する饅頭や煮込みの肉は、冷たくなっていてもずっと美味しいのです。
「ついてこい」
返事も待たずに歩き出したムゲンの後ろを、半信半疑にそろりとついていきます。頭の高さが少しも変わらない滑るような足取りですのに、ムゲンは随分と歩くのが早くて、しまいにシャオヘイは小走りになりました。でも、「待って」なんて意地でも言いたくありません。道すがらに咲いている連翹の愛らしい花に指先で触れ、ムゲンがふと振り返りました。息を切らしてついていっていたシャオヘイは、目が合って足を止めます。
「なんだよ」
「おいで」
思いがけない優しい響きと共に、ムゲンの腕が差し出されました。
「……だれかといっしょに歩くの、なれてないだけだからな!」
「わかってる」
憎まれ口にも眉ひとつ動かさないムゲンの肩へと、存外にしっかりとした腕を軽(かろ)く駆け上がります。
『ヘンなの』
澄ました顔をして、他所者のくせにこの土地のこともなんでもわかっているように振る舞って。なんだか気に食わないと思いますが、ムゲンの肩は広くて温かくて居心地がよくて、それもまたなんだか気に入りません。川の流れに沿って歩きながらムゲンは笠を被って顔を隠し、ほどもなく村へと入りました。鄙びた農村ながら月老の廟へ詣でる参拝の客が引きも切らず、余所者が歩いていても少しも目立ちません。やがてムゲンが足を止めたのは、まさに月老の廟の前の、小さな飯屋でした。時々ヒトの食べ残しを失敬していますから、シャオヘイも何度も来ています。時折、自分へのお供えを食べて行けと月老が手招いてくれることもあります。
「ようこそ、無限さま。小さい猫の神様も」
店から出てきた小柄な老爺が、まずはムゲンに、それからシャオヘイに胸の前で手を合わせて挨拶しました。普通の人間にはシャオヘイは猫にしか見えませんし、シャオヘイ自身も自分が妖精か神様かよく分かっていなかったのに、この歳を取った人間はどうしてシャオヘイが神様だと知っているのか不思議です。
『じゃあバレてたのかな』
どこにでもいる猫ではなく、食べ残しを盗んでいたのがシャオヘイだったと知っているのでしょうか。
「すぐにお支度いたします、どうぞ」
店の奥に狭い厨があって、老爺と同じように小柄な老婆が忙しく立ち働いています。シャオヘイとムゲンは厨の目の前の4人がけの卓子に通されました。早飯には少々遅い時間でもあり、他に客は居ません。厨の2人も背を向けています。
『平気かな』
ムゲンの肩からひらりと床へ飛び降りると、シャオヘイはむくむくとヒトの子の姿に変わりました。だって真実の姿(ネコ)のままでは、椅子から料理に手が届きません。服は隣の山の大きな妖精にもらったお下がりを着ていますし、耳と尻尾はまだ隠せませんが、食事には関わりないことです。姿はヒトになっても猫の時と同じように動けますから、大人用の高さの椅子に再びひらりと飛び乗りました。
「お待たせしました」
天仙のムゲンはともかく、お茶と井戸水を運んできてくれた老爺も、ヒトの子になったシャオヘイを見ても相変わらず驚きもしません。ムゲンはなにも注文していませんが、待つほどもなく大皿や蒸籠の料理がどんどん運ばれ出しました。ヒトが食事に使う道具の使い方など知りませんので、シャオヘイは手づかみで片っ端から料理を平らげていきます。一方で、2本の細い木の棒をとても優雅にとても巧みに操りながら、ムゲンもシャオヘイに劣らぬ量を次々に胃の中へ収めていきます。特に声もかけず合図した素振りもないのに、2人が――少なくともシャオヘイは――お腹がいっぱいになった頃に料理の提供が止まりました。あんなに食べたものはどこへ行ってしまったのか、ムゲンのお腹は少しも様子が変わりませんが、シャオヘイのお腹ははち切れんばかりに丸々と突き出して、考えてみればお腹いっぱい食べたのなんて、この世に出でて初めてな気がします。
「美味かった。謝謝(ありがとう)。また明日も」
飯屋で食事をしたら金子で購うものと、そのくらいはシャオヘイも知っていますが、礼だけ伝えたムゲンはシャオヘイを伴ってそのまま店を出ました。老夫婦も、揃って頭を下げながら見送ってくれます。
『お金いいの?』
そう訊こうかと思いながらも、ムゲンが捕まろうが罰されようが、自分にはなにも関係ないと思い返しました。
店の目の前の月下老人の廟の前では、気配を察したものかまさに月老自身が石造りの階段の下で拱手しています。もちろんヒトはそうとは知りませんから、自分たちが拝みに来ている神様がすぐ目の前に居るとも知らず、参拝客の一組が月老を避けて階段を上がっていきます。
「無限さま」
「ご老人」
「珍しい供をお連れですな」
「供じゃない!」
にこにこと笑みを浮かべる月老に言い返して、猫の姿に戻りました。
「じゃあね、帰る!」
肩越しにじろりとムゲンを一瞥して走り出そうとし、足を一歩前に出して踏みとどまります。
「ごはんは謝謝(ありがと)!」
そこはやはり、お礼を言うべきでしょう。
暖かい春の土を肉球に感じながら、綺麗に整えられている道を村の外へ向かってまっしぐらに奔ります。
それがシャオヘイとムゲンの出会いでした。
つづく