心を伝うは言葉を以て 長期の任務の折など、無限が館に小黒を預けに来る。幼い弟子の存在は考慮されているのだろうが、並ぶ者なき立場だけに、頻繁ではないが対応に慣れる程度には多い。今回は3か月ぶりで無限と連れ立ってきた小黒を、若水は館の桟橋で出迎えた。小黒を預け、無限はそのまま任務へ直行だ。澄明に晴れ上がった空の下、桟橋で向き合う二人を館との境に建つ門の前から見守る。
「気をつけてね、師父」
「嗯。さっさと終わらせてさっさと帰ってくる。待っていてくれ」
「大丈夫だよ。師父ならすぐ帰ってくるって知ってるから」
「もちろんだ。待たせない」
「師父」
「小黒」
交わされる言葉だけ聞いているとまるで別れを惜しむ恋人同士だが、膝を突いてしゃがんでいる175cmの無限とその半分と少しほどの身長の小黒が固く抱き合っている姿は、出張に行く父親と見送りの息子、あるいは歳の離れた兄と弟だろうか。
『相変わらず仲いいなあ。可愛いの』
誰にでも塩対応、表情筋が死んでいると皆が口を揃える無限が子供好きであることは知っていたが、鳩老曰く「100年ぶり」の弟子への甘さは尋常ではない。よほど2人の相性がよかったのだろう。微笑ましさに口元を緩ませながら、目の前の光景を余念なく録画する。
「いってくる」
液晶の中の無限が小黒の目を見つめ、小黒もまた無限を見つめ返してしっかりと頷いた。立ち上がった無限が滑らかに若水を振り向く。
「じゃあ水(シュイ)。よろしく頼む」
「もちろん! 任せて無限様」
「いい子で」
小黒の大きな猫の耳と耳の間に優しく手を置き、無限が緩やかに踵を返した。
「いってらっしゃい」
小黒の声に微笑む横顔を見せ、無限を送るために待っている精霊獣へ向かって歩いて行く。転送門を使えば速いが、常に混雑していて慌ただしく、ゆっくりと別れを惜しむ時間を持てないために避けているようだ。
無限を乗せて飛び立ち、頭の上で大きく円を描いた精霊獣に小黒と並んで手を振って、門へ続く階段を上る。広大な館の敷地を居住区画へ歩きながら、小黒が明るい笑顔で振り仰いだ。
「あっ、ねえ、水(シュイ)。ぼく、今年から学校なんだ。人の子の学校」
「無限様から聞いてるよ。朝と夕方にお迎えするんだよね」
「誰が来てくれるの? 冠萱さん? 」
「ううん、私」
細い指で自分の顔を指すと、小黒がきょとんと目を瞠る。
「でも水も見た目は子供だろ」
「ふふーん。見てなさいって」
変化ならば、狐精の最も得意とするところだ。術を発動するとの意識すらなく、全身に気を巡らせる。大きな狐の耳と豊かな尾はそのままに、面輪も手脚の長さも身の丈も、すらりと大人の女性に見合った姿へと変じた。
「あっ!」
目の前に顕れた、歳の頃なら23〜24歳の美女の姿に、小黒が大きく口を開ける。細い腰に手を添えて、しゃなりとポーズを取ってみせた。
「これでどう?」
「ふわあ。すごい」
「でしょ」
丸く目を瞠った小黒の感嘆は、見事な変化に向けられたものと思ったが。
「いつももかわいいけど、すごいキレイだね!」
「え?」
「ぼく、知ってる! 美女って言うんだ」
垂直に尻尾を立て、満面の笑みを浮かべた小黒が続けた言葉に、思わず瞬く。
「やっ⋯⋯やだなあ、もう、小黒ってば! 照れるじゃない」
衒いのない褒め言葉に、頬へ熱が上がってきた。ヒトの基準ならば美形揃いの妖精たちだが、それだからこそわざわざ正面きって容姿を褒めはしない。その中でなお美貌を讃えられる者などは、ごく一部の稀な存在だ。
「なんで? 師父もいつも言ってるよ、心の中で思ってるだけじゃ伝わらないから、ちゃんと言葉にするんだよって。それにいつでも会えるって思ってても、明日会えなくなるかもしれないしって。ぼくもそう思う」
「えっ」
若水を見上げる訥々とした口調の小黒の表情はごく真面目で、しかしどこにも気負いはない。
小黒と出会うきっかけとなった、4年前の事件を思い出す。幼い心で受け止めた、いくつもの出会いと別れ、喪失を思う。
大きな翠の目の中に、無限と過ごしてきた時間を見る。
「うん、そうだね。私もそう思う」
微笑み返して片膝を突き、小柄な小黒を抱き寄せた。
「小黒、ほんとに良い子。可愛いし、大好き!」
「え」
お返しがあると思わなかったのか驚いた声を出し、しかしすぐに若水の首へ子供の腕が回されてきた。言葉よりもはるかに雄弁な小黒の長い尻尾は、真っ直ぐに立ち上がって小刻みに震えたままだ。
「ぼくも。水、大好き」
「ふふっ」
くすぐったいけれど、気分が浮き立って楽しい。小黒と無限が毎回桟橋で繰り広げている大袈裟な別れの場面を思い出し、なお口元が綻んでいく。
「ありがと。いいね、ちゃんと言葉にするって」
「そうだよ」
笑って立ち上がり、胸を張る小黒と並んで桟橋と館の境の門を潜る。
「あっ」
2人の正面から歩いてきた妖精を見て、小さく声が出た。振り仰いだ小黒を見下ろし、もう一度2人で前方の妖精に視線を向け、再び顔を見合わせて笑う。
「行く?」
「行こ!」
前方から桟橋へ歩いてきたのは、小黒や無限とも旧知の仲であり、若水にとっては師にしてバディでもある鳩老だ。桟橋に用があるのか、ただの散歩か。いずれにしても、笑顔で呼びかける。
「鳩老!」
「おお、水。小黒も一緒か。また無限は任務か?」
「うん。小黒が学校に行くようになったから、私が送り迎えもするの」
「それでその姿か。なるほどな」
穏やかに笑う鳩老を前に、小黒と目を見交わす。互いの意志を確認して頷き合い、若水は鳩老の首筋に、小黒は腰に抱きついた。
「うわっ なんじゃなんじゃ」
年を経た大妖精の風情で日頃は沈着な鳩老が、2人の思いがけない行動に慌てた声を出す。
「いつもありがと!」
「ぼくも! いつもありがと」
「んん? 新しく流行っとる冗談か?」
「冗談なわけないでしょ。本気。だよね、小黒」
「嗯!」
「本気??????」
怪訝な声を出されたが、ともかくも伝えたい気持ちは伝えた。
「本気だよ。いつもありがと」
「本気??????」
繰り返された怪訝な呟きを背中に聞きながらひらりと手を振り、館の本棟へ小黒と並んで歩き出した。ふと悪戯心が湧いて、小黒に笑顔で問いかける。
「ね、無限様が帰ってきたら大好きって言っていい?」
「えっ!……あっ、うーん、えっと」
幼かった頃は何事につけはっきりとした物言いだった小黒だが、4年の歳月と無限との暮らしが確かな変化をもたらしている。言葉を探している横顔に、目を細めた。
「なんてね。冗談だよ」
「っ、べつに、いいし。ちゃんと言葉にして、師父に言ったらいいよ」
そっぽを向いた小黒の長い尻尾が、低い位置で左右に揺れている。言葉を補完し、時に言葉よりも雄弁な、音ではない言葉がそこにある。
「ふふっ」
「なに?」
「なんでもない。大丈夫だよ、誰が無限様を好きでも、無限様が一番好きなのは小黒だから」
「はあっ そんな話、してないっ」
膨れ面の目元に血の色が匂い、揺れていた尻尾が真っ直ぐに立ち上がる。小黒自身は、己の尻尾の雄弁さに気づいているのだろうか。桟橋で見た、小黒と無限を思い出す。別れの言葉を交わしながら、寂しげに萎れている小黒の尾に目元を和ませていた無限の表情を、首筋に抱きついていた小黒は知らないだろう。
大きな猫の耳の間のふわふわと揺れる黒い髪へ、そっと掌を置いた。
「無限様、早く帰ってくるといいね」
「……うん」
真っ直ぐ前を見つめたままの小黒が、小さく頷く。
天鵞絨の毛に包まれた長く黒い尾の先が、緻密に組まれた木の床にしょんぼりと触れた。
了.