冬の夜に(山のおうち) 光の変化に、ふと顔を上げる。
窓の外は星月が銀を嵌めたような青い夜に移ろい、その底に黄昏の残滓が漂うばかりだ。わずかばかりのその光も、間もなく消える。山の夜の訪れは、地上よりもはるかに早い。
『小黒』
修行の後、少し遊んでいくと別れた弟子が、まだ帰ってきていない。「晩ごはんは僕が一緒に作るから、師父は勝手に作っちゃダメ!」だと、言い置いていった。日頃ならば、とっくに夕食の時間だ。
ソファへ本を伏せて、立ち上がる。袖も裾も長い古装の上に毛皮の裏打ちのある外套を羽織って、厚い樫の扉を開けた。廃墟だったこの山奥の家を2人で直した一年前に、小黒の好きな色を選ばせて、一緒に塗り直した。雪に閉ざされる前に一通り住めるように調ったのは幸いだ。
灯りも持たずに躊躇なく踏み出し、家の周囲の拓けた土地から森へ分け入れば、枝も幹もくっきりとした寒ざむしい木立と薄く雪を被る常緑の葉叢とに阻まれて、月の光の届かぬ足下はなお闇い。
『どこだ』
妖精たちと違って、気配を探れぬ自身がもどかしい。白い息を吐きながら、最後に別れた滝のほとりへ道なき道を進む。ごつごつと荒れた地面に足音も立てず急ぎながら、耳を澄まして目を凝らす。
小黒に、危険はないと知っている。
森で生まれて育った上に、今は転送にも金属の扱いにも慣れた。なにより、熊も狼の群も棲むが、仮に虎が居たとしても、小黒に勝てるこの山の生き物は無限のみ。それでも、不慮の事態が起こらないと誰に分かるだろう。まだ、この世に出でてたった9年の仔猫(こども)だ。
『小黒』
わずかばかりしがみついていた枯れた葉が、さやかな風に揺すられて散って行く音、夜の鳥の啼き声、獲物を狙う獣のかそけき足音、遠くも雄壮な滝の水音、仲間を呼ぶ狼の遠吠えが韻々と尾を引く。凍てつく空気と同じく、常人には森(しん)と密やかな山中に、あらゆる音を拾って小黒を捜す。
聞きなれた愛らしい囀りが耳へ届いたのは、15分も経った頃だ。
「ショッ、ショ! シショ!」
夜の森の深くから近づいてくる片言の「シショウ」は、無限を呼んでいるのではない。小さな仔猫のさらに小さな分身が、「師匠が居るよ」と本体に楽しげに話しかけている声音に、一気に気が抜けた。柔らかな肉球が枝を蹴る音は少しも聞こえないが、一直線に梢を駆けてくるささやかな熱の塊を、無自覚の微笑みで待つ。
「ひふ!」
間もなく、嬉しげな呼びかけと共に、闇の一片が千切れて飛び出してきた。
「小黒」
受け止めた仔猫の背中にはまるまると太った大きな兎、その口にはこれも立派な雉の雄が咥えられている。師父と明瞭に発音できなかったのは、このためだ。
「獲った! 今日と明日のおかず!」
「すごいな、こんなに」
「えへへ」
二体の獲物を受け取りながら、大きな2つの耳の間に手を置いた。滑らかな天鵞絨の手触りを楽しみながらゆっくりと撫でる掌に、ごろごろと快く震える咽喉の音が伝わり、ぴんと立った長い尻尾も小刻みに震えている。
「師父、どうしたの? どっか行くの? あっ、おかず獲り来た? お腹空いた?」
「いや」
金属で作ったネットに兔と雉を、頭に黑咻を、肩に小黒を乗せて、来た道へゆったりと踵を返す。
「迎えに来たんだ、お前を」
「ぼく?」
大きな猫の目が、不思議そうに瞬いた。
「なんで?」
「こんなに寒いし、日が暮れて真っ暗だ」
「でも僕もふもふだし、暗くても見えるよ? それに、この山で僕より強いの師父だけだし」
「知ってる。でも迎えに来たかったんだ」
「ふーん」
そのまま言葉が途切れ、だが沈黙が気になる間柄ではない。小黒を見つけられた安堵で、口元を綻ばせたまま歩を進める。
「あのさ、師父」
「うん」
黙然としていた小黒が器用に無限の肩の上で方向を変え、前肢は右の肩に、後肢は左の肩に置いて、そのまま首の後ろへ長く寝そべった。
「兔でシチュー作ろ。クリームシチュー」
「シチューか。いいな、温まる」
「兔おっきいから、いっぱい作れるね」
「そうだな、鍋いっぱいに作ろう。雉はどうしようか」
「丸焼き!」
「ご馳走だ。楽しみだな」
「うん!」
気温の感じ方はコントロールできるが、今は寒さに小黒の高い体温が心地良い。再び穏やかな沈黙の中で家路を辿り、無限の咽喉元に懐かせている頭をもたげて、小黒がまた口を開く。
「ねえねえねえねえねえ、師父」
「うん」
「お家っていいね」
「どうした、急に」
「だって」
すり、と、頬が無限の頬へ擦りつけられた。どこもかしも温かい小黒の、掠めた鼻先と薄い耳だけがはっとするほどに冷たい。
「師父が、迎えにきてくれる」
嬉しげな、どこか照れてもいるような、そして隠しきれずにまた盛大に咽喉が鳴り、天を指す尻尾が震える。
「当然(もちろん)」
笑みを含んだ声で応えて外套の胸元を開けたのは、少しも寒い思いなどさせたくないからだ。察した小黒が、続いて黑咻が、外套の中へ飛び込んでくる。
両腕で支えて作った空間で小黒がくるくる回り、落ち着く位置を見つけて丸くなった。そして、ひょこりと顔を出す。
「師父」
呼ばれて落とした視線の先で、大きく瞠った目が凝っと無限を見つめている。
「……呼んだだけ!」
無限が口を開くより先に、身を翻して再び懐へ潜りこむ。
外套の上から柔らかな膨らみを撫でた無限の目に、点けたまま出てきた家の灯りが、暖かく映った。
了.