Irrésistiblement(みつくり) 待ちぼうけの壁の花、の表現は正しくない。
夜会が始まってすでに2時間近く、広光の番の傍えである光忠は未だに姿を見せない。同じ家に暮らしているが、所用で外出している光忠とそれぞれ別にこの鶴丸家本邸へ来る手筈になっていた。しかし、待ちぼうけを食わせるなら相応の理由があるはずと理解している。通りかかった給仕から何杯目かのシャンパンを受け取って、静かに口へ運んだ。周囲がざわざわと五月蠅いのは、この1時間と30分ほどの間に広光へダンスの申し込みに来た10人余りが、全員玉砕の憂き目に遭っているからだ。
社交界に初めて姿を表した広光を、かの名家・大倶利伽羅伯爵家嫡男にして極種(オメガ)、この場に居る独身の優種(アルファ)の男女ならば誰しも一度は縁談を検討しただろうその人と知る者は、ほとんど居ない。高嶺の花では足りず、天上の花あるいは水に映る月と謳われる極種に生まれ、ご多分に漏れず屋敷の奥深くで珠玉として育まれてきた。愚か者から身を守るために、番を見つけて契りを交わすまでは、社交界へ出ることもない。
だが広光を誰とも知らずとも、誰しもその姿に目を奪われずにいられないだろう。
琥珀の眸を浮かべる切れ長の目、細く通った鼻筋と小さく高い鼻、引き結ばれた意志的な唇、柔らかく揺れる癖のある髪。どれ一つを取っても宝玉のような目鼻が、芸術家の筆になるように細い面輪の中へ見事に配され、異人めいた橄欖色の肌は豪華な照明の灯をうけて艶やかだ。優種でなくとも一曲の相手を所望したい者は多くあるだろうが、優種でなくては到底その挙に出られない。
「よう、伽羅坊。光坊はまだ来ないのか」
現在のところ、誰ひとり視線すらもらえない優種たちが遠巻きにする中を、ずかずかと臆さず近づいてきたのは、夜会の主催者である鶴丸侯爵家当主の国永だ。
「鶴丸さま」
「他人行儀はやめろって」
公の場でそうもいくまいと思うが、鶴丸は朗らかだ。中身は純米大吟醸と思われるフルートグラスを手に、広光の耳元へ顔を寄せた。微笑を湛えたまま、甘く繊細な美貌からは想像のできない低声で、ひそりと囁く。
「みんな、どうにか君の気を惹きたくてやきもきしてるぜ。虫除けに俺と一曲踊っておくか?」
淡い蜂蜜の色の鶴丸の眸を間近で見返し、返答に躊躇した。
己を、合理的な人間だと思っている。全てのダンスの誘いを断ってきた上で鶴丸と踊れば、皆は勝手に有りもしない事実に納得して、広光を放っておいてくれるだろう。
それなのに、頷けない。
初めての夜会のこの夜に、否、これから幾度の夜会に出ようとも、踊りたい相手はたった一人だ。
「……いや」
鶴丸の気遣いを理解しながらも、きっぱりと断ろうとして、大広間の入り口がざわめいた。
ゆっくりと左右に割れていく夜会の客たちの真ん中に、厚みのある長身が現れる。
巴旦杏型のくっきりとした目、薄く整った唇、秀でた額と高い鼻の彫り上げたような美貌と、焔の揺らめく黄金の眸。広光とは対をなす白磁の肌にくっきりとした黒い革の眼帯すら、瑕疵ではなく不思議な色気となって背筋を撫でた。だが美貌にして優雅なその男は、およそ似つかわしくなく薄く汗を浮かべて息を切らせ、夜会のために後ろへ撫で付けた髪の一房が、はらりと額に落ちかかっている。
「伽羅ちゃん、ごめん。待たせた」
極上の天鵞絨の声が空気を震わせ、折しも曲の切れ目に、自分のために開いた人波を一顧だにせず大広間を大股に突っ切ってきた。傲慢ではなく、それは光忠にとっては呼吸のごとく自然な振る舞いであるのだと見てとれる。
「おっと、ご登場だな」
楽しげに呟いた鶴丸が、一歩下がって場所を空けた。
社交界の中心に居る華やかな青年と今宵突如表れた謎めいて美しい青年の対峙を、皆が固唾を呑んで見守っているのを感じる。
だが、他人などはどうでもいい。
広光を待たせた自己嫌悪に駆られている愛しい表情を見上げて、目を細めた。白い絹の手袋の手を伸ばし、乱れた前髪を指に掬って撫でつけてやる。
「そんな髪型をしてると、堅気に見えないな」
広光の口元に浮かぶ淡い笑みに、怒っていないと安堵したのだろう。見てとれるほどに光忠を取り巻く空気が和らぎ、唇が緩やかな弧を描く。
「じゃあ、何に見えるんだい?」
「海賊」
「海賊って」
光忠が笑うと同時に、我に返ったのだろう楽団が再び円舞曲を奏で始めた。思い出したように、男と女、女と女、男と男のカップルたちが、手を取り合って広間の中央へ出て行く。
「じゃあ、ご期待に応えないとね。君を攫っていかなくちゃ、僕のお姫様」
「姫って言うな」
「お手をどうぞ」
抗議には応えず、光忠が手を差し出した。
重ねた二つの手を高く掲げ、光忠の広い背に腕を回し、光忠の大きな手に腰を支えられ、楽の音に乗って広間へ滑り出していく。
「ね、ごめん。本当は家に帰るまで内緒にしておこうと思ったんだけど」
燕尾服の長い裾を翻しながらくるくると回り、あるいは離れ、また戻って互いの身体に腕を回し、ステップでしなやかに大胆に大広間を支配しながら、2人の距離が零(ゼロ)になるたびに光忠が言葉を継ぐ。
「うちに、新しい家族がいるよ」
「は?」
図らずも出た間の抜けた声に、光忠は笑みを湛えたままだ。
「こんなに待たせたんだから、遅刻の理由はちゃんと言わなきゃね」
「なんだ、新しい家族って」
「今日、ここに来る途中で仔猫を見つけたんだ。水たまりの中で、目も開けられずに震えていて」
「拾ったのか」
訊ねる声が弾んでしまうのも、自分の目が輝いているだろうことも、自覚がある。
「もちろん。でもあんまり弱っていたから、うちの者に預けていくだけじゃ心配で」
大倶利伽羅家の所領に建つ2人の新居に仕えてくれる使用人たちは、みな信頼のできる者ばかりだ。それでも置いてはいけなかったと言う傍えに、もう一度目を細める。
「洗って温めて山羊の乳を飲んで眠ったところまで確かめて、拾った時に胸に抱えたからジャケットを汚してしまって、着替えて来たんだ。ごめん、大事な日なのに君を待たせた」
「なに言ってる。その仔を見捨てるような奴なら、俺があんたに惚れると思うか」
「……ちょっと待ってよ、なにその殺し文句」
百戦錬磨の伊達男の目元に血の色が匂い、広光は唇を綻ばせた。
耳で聴いてはいなかったが、曲の終わりに光忠の自然なリードで足を止める。愛しい男の美しい顔から外した視線を周囲に向ければ、恐らく光忠に意図的に導かれてきた大広間の正面だ。夜会の主人である鶴丸が、笑顔で自分たちを待っている。
「さて、諸君」
夜会の客たちへ呼ばわった鶴丸が、グラスを高く掲げた。ざわめきが止まり、大広間中の全ての視線が集まる。
「今夜は驚きの発表だ。耳を澄ましてよ~く聴いてくれよ」
本当にそんなものが必要なのかと何度も訊いたが、光忠も鶴丸も両親も、極種には余計な揉め事を招かないために必要なのだと口を揃えた。無意識に眉を寄せたが、嬉しげに破顔する光忠に手を取られる。
「ほら。観念してよ、僕の奥方」
「奥方って言うな」
微笑む光忠の唇が指先に押し当てられて、腹を括った。
「社交界の花形・燭台切侯爵家ご嫡男の光忠氏と大倶利伽羅伯爵家ご嫡男の広光氏から重大発表だ。ほら、2人とも真ん中においで」
嬉しげに差し招く鶴丸を軽く睨み、結婚の発表のために光忠と共に進み出た。
了