暖暖和和 余韻嫋々と渡る笛の音に目を覚ます。
「ショ」
幾度か瞬き、潜りこんで眠っていた、ぼく/小黒の懐からもぞもぞと抜け出た。暗く埃っぽい廃屋を、身体全部を使ってぐるりと見回す。石の床に即席で造った竈の中で小さな炎が揺れているが、灯りの届く範囲に人影はない。
「ヘイショ」
埃を巻き上げて軽く弾みながら、扉が朽ちて落ちた玄関へ向かう。沓摺へ跳び乗って、中庭へ目を凝らした。
「ショ~」
庭木が野放図に枝を伸ばし、手入れもされぬまま瓦が抜け落ちている月亮門が口を開け、蛾眉の月に照らされる荒れた光景の中に、ただ一つ座す人影がある。長年の風雨と苔にくすんだ青秞の磁鼓橙に腰を下ろして、端然と笛を奏でている。柔らかな音に誘われて近くまで行き、しかし距離は保ったままで、大きな目を凝らした。気づいた無限が笛から唇を離して、静かに首を巡らす。目が合うや、微笑みかけられた。
「おいで」
呼びかけられたところで、旅の始まりの似たような場面でその肩に乗り、指で弾き飛ばされたのは忘れていない。無言のまま警戒を全身に漲らせると、美貌の目元がなお柔和に細められた。
「もういじわるはしないよ。おいで」
低く穏やかな声の温度に惹かれ、それでも慎重に近づいていく。布履(ぬのぐつ)の足下まで行くと、再び無限が笛に唇を添えた。微風にも似てさやかに流れ出した旋律をしばらくその場で聴いていたが、膝に乗り、肩に乗り、ついには頭の上まで移って陶然(うっとり)と目を閉じる。
雲ひとつない艶やかな夜空に、降るような星が瞬いている。
小吃の屋台のテーブルで、無限が朝食を買ってきてくれるのを待つ。
「♪」
湯気の上がる蒸籠を覗いて注文する無限の背中をそわそわと見ていて、耳と耳の間を丸い指の先に押された。
「ショ?」
降り仰ぐと、ぼくたちが暮らしていた森と同じ青くて緑の目が、物言いたげにぼく/黑咻を見ている。
「おまえ、また無限の笛聴きに行ったの。前にピンされたろ」
ぼく/小黒が親指と人差し指で円の形を作り、空で軽く弾く。
昨夜は無限の笛をひとしきり聴いてから一緒に廃屋へ戻り、こっそりとぼく/小黒の懐に戻って眠った。ぐっすり眠っていると思ったぼく/小黒は、どうやら起きていたらしい。
「ショッ、ショショ、ショッ、ショ~」
優しく穏やかで、どこか淋しい。
そんな無限の笛の音をとてもきれいだと思っている。おぼつかなくも、そう説明してみた。
「きれい? 無限の笛が? ……さびしいって」
言いさして口を噤み、ぼく/小黒が少しだけ眉をしかめた。
その中へ戻っている間のぼく/黑咻は微睡に似た状態だが、ぼく/小黒がなにを感じてなにを思い、考えているかは伝わってくる。それとも、流れこんでくる。ぼく/小黒も、ぼく/黑咻に対して同じはずだ。ぼく/小黒は感情も考え方も複雑で、ぼく/黑咻にはまるごと全部を理解はできないが、それでも直感的にはわかる。この旅の間の、無限への気持ちの変化も。
「……」
「なんだよ」
なにも言っていないが、ぼく/小黒の眉の間が一段と狭くなった。
「どうした。小さい子をいじめてるのか」
食欲を刺激する肉と香辛料と炭水化物の匂いとともに無限が戻り、持っていると見せかけて一部を金属で支えた大量の朝食の皿を卓子へ並べ始めた。鴨の出汁が甘く香る麺に気を取られながら、それでもぼく/小黒が言い返す。
「黑咻をいじめたのはあんただろ」
「そうだな、あの頃はまだお互いをよく知らなかった。悪かった」
「ハイン」
耳の後ろを掻かれて、心地よさに声も弾む。
「別にあんたなんか知らなくっていいし」
「そうか」
素っ気ない口ぶりと裏腹に無限の手が伸びてきて、ぼく/小黒の頭を撫でた。
「なんだよ!」
「ほら、伸びるぞ。早く食え」
無限の口元には旅の始まりの頃には見なかった淡い笑みが浮かび、勺子に数本取り分けた麺をぼく/黑咻の口元へ運んでくれる。
「ふん」
握った箸をどんぶりの中へ突っ込むぼく/小黒の表情は、どこか照れくさそうだ。
麺をすすりながら横顔を見上げて、ぼく/黑咻の身体の中のどこかにほわりと灯が点った気がした。
暗くて温かいどこかで、守られている。
身体は少しも動かず目も開けられないが、この空間の外側では地鳴りが轟き、ぶつかり合う金属が甲高く鳴り、無限や風息の声も聞こえてくる。なにが起きているのかはわからないが、常に淡々と起伏のない無限が、ひどく声を荒げている。あの感情は、怒りだろうか。それ以外のなにかだろうか。ぼく/小黒はどこに居るのだろう。これまで、離れたことなど一度もなかった。近くには、なにも感じない。気配すらない。
否、遠く微かに、ぼく/小黒を感じる。
『ぼくはしんだの……?』
心許なく滲む呟きと、鼻を啜る音。ぼく/黑咻はこの温もりに守られているのに、ぼく/小黒はどことも知れない場所でたったひとりで泣いている。
大丈夫、泣かないで、ここにおいで。
そう伝えたいが、ぼく/黑咻には術(すべ)がない。
破壊の音は絶え間なく、ぼく/黑咻の全身の毛が逆立つような強い感情がぶつかり合っている。流れこんでくる激しい怒り、入り雑じる憐憫とやるせなさ、違う道を幾つも模索し、決して折れず毀たれない、靭やかな強さ。
ぼくたちのために、怒ってくれている。
ぼく/小黒をあの場所から出すために戦ってくれている。
『むげん……?』
呟きと同時に衝撃がぼく/黑咻を揺るがし、守られていた温かな場所から固く冷たい地面へ落ちた。
目を閉じたままだが、不思議と周囲の風景が見える。
2つの大きな力に巻かれて荒れたどこかの街、険しい顔の風息と対峙している――それともなにかの術で動けずにいる無限。とても強いはずなのに、その姿はぼろぼろだ。そして自分がどこに居たかを、初めて知った。ぼくたちの能力(ちから)が奪われたあの時、無限がぼく/黑咻を助けてくれた。
『むげん!』
ぼく/小黒が、どこでもない場所から同じものを見ていると感じる。
無限は逸らさずに風息を睨み続け、風息は邪魔者を葬り去ろうとしている。風息や他の皆と出会ったあの日、ぼく/小黒は優しくしてもらってあんなに喜んでいた。
『むげん!』
ぼく/小黒の丸く小さな手が、自分を包んでいる見えない壁を叩く。
ぼくたち2人だけの旅もとても楽しかったけれど、無限と3人での旅はもっともっと楽しかった。大樹の根元や石の洞や廃屋や、それとも屋根のあるちゃんとしたホテルのふかふかのベッドで眠り、お店や人間(ひと)のくれる美味しい物や無限の作る不味い物を食べ、ぼく/小黒は怒ったり笑ったりふて腐れたり、無限は泰然として変わらず、ぼく/小黒に術の手ほどきもしてくれた。筏に乗り、共に歩き、あるいは赤いスクーターで路を行く。3人でたくさんの風景を見て、人と出会って別れた。
無限の綺麗な笛の音は、優しく穏やかだ。最後に聴いたのは数日前、ほんの少しの淋しさは、もうどこにもなかった。
『むげん!』
大事にされていた、尊重されていた、守られていた。
本当は知っていた、この旅路で、ぼくたちはずっとそうだった。
だから、今度は。
『むげん!!!!!!』
咽喉も裂けんばかりに叫んだぼく/小黒の意思を、ぼく/黑咻がこの場所に居る理由を、正確に理解した。
「ハイン」
応えた声は、聞こえただろうか。
ぼく/黑咻の小さな身体が浮き上がり、どこかへ吸い込まれて飛ばされる。ぼく/小黒が、透明な丸い壁を破って出たのを感じる。この世界の外側で、一瞬すれ違う。
次の瞬間、誰かの掌の上にころりと落ちた。
「は……っ、あ……え、えっ!? しゃお、小黒!?」
狼狽える声が、頭の上から降ってくる。
そして、もう一つ。
「誰が喜ぶって!」
誰より聴き馴染んだ声が、どこか遠くで決然と響き渡る。
ぼくたちは間に合ったのだと、知った。
なんの変哲もないビジネスホテルの安いベッドへ寝転がる。外は早い凩が吹き荒れているが、建物の中は暖かく、時折窓が揺れるばかりでいとも安全だ。
「電気消すぞ」
「うん」
隣のベッドに横になった無限が、枕元のスイッチを捻って電気を消した。
旅の終わりに師と弟子となって、すでに3ヶ月が経つ。ぼく/黑咻はその場に居られなかったが、2人が2人でなにを成し遂げたのかは、ぼく/小黒の中で見た。
「晩安!(おやすみ)」
「晩安、また明日」
「ハイン」
凩を聞きながら、ぼく/黑咻もぼく/小黒の懐で目を閉じる。しかし、幾ばくもせずにぼく/小黒が勢いよく起き上がった。
「ねねねねねねねねねえ、師父。寒いでしょ。風ビュンビュン吹いてるし」
朗らかで期待に満ちた声に、隣のベッドから短く柔らかな笑い声が応える。
「そうだな。一緒に寝てくれるか?」
「もー、しょうがないな!」
無限の返事を最後まで待たずに、ぼく/小黒が無限のベッドへ飛び移った。当然、ぼく/黑咻も一緒だ。
微笑む無限が空けてくれたベッドの半分へ2人で転がり、毛布を顎の下まで引き上げてもらう。そのままぼく/小黒が頭まで布団の中へ潜っていって、無限の懐に身を丸めた。
『ショ』
森の爽やかさと花園の馨しさを併せ持った無限の肌の匂いに、ぼく/小黒の甘い日向の匂いが重なり、ベッドの中は2つの体温で暖房も要らないほどに暖かい。まるで、ぼくたちが過ごした懐かしいおうちの森の、春の酣(たけなわ)のように。
「あったかいな」
そして、ぼく/小黒がそっと呟いた言葉は、春の爛漫よりも喜びに満ちて。
同意を示すべく、小さな身体の全てをぼく/小黒の頬へ押しつけた。
了