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    nijigenyouaka

    @nijigenyouaka@nijigenyouaka2 の、Twitterに投げるにはちょっと長い妄想や、ネタバレを含む色々なジャンルの感想入れです

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    こういうことを時々考えながらダラダラ字を書いていますというメモおよび隙自語

    「良い小説って何?」突然の隙自語ですが、私はプロットを立てるのが死ぬほど苦手です。苦手というか、いつも「大体なんとなくこんな話にしたい!起承転結とか知らん!」というぼやぼやのメモだけ残しておいて、小説を書くうちにそのメモの内容を綺麗さっぱり忘れます。流星光底だって最初は夏油を出すつもりだったんですけど、夏油のげの字も出てきませんでしたね。私はそういう限界字書きです。
    なので以下は「こうすればこういう小説が書ける」「小説とはこういうものだ」みたいな有益な話ではないのでご了承ください。全部 "I think" 以上でも以下でもありません。
    ※ 唯一『ミヨゾティのあなたへ』だけは頑張って起承転結から考えた作品なんですが、結局プロット通りに書くということが向いてなくて苦しんだので今は一旦やめています。



    昔から「論理的思考力」の評価が著しく低い子供でした。好きだった数学が一番だめで、特別好きでもない英語が一番得意でした。本は大好きだったので海外文学をかじりました。ぼんやり思うのは、「内容の面白さ」「話の上手さ」「良いプロット」を司るのは論理的思考力なんだろうなあということです。最近読んで泣いたのは、ケンリュウさんの『紙の動物園』なんですが、あれは私の思う「面白い小説」であり、人にも勧めやすいです。短編集で読みやすいので是非。突然の宣伝。
    『紙の動物園』は、プロットが良い小説です。起と承は少し暗い雰囲気で全然盛り上がらないのですが、転で全ての点が繋がり、結でいつの間にかどぼどぼに泣いています。(※個人の感想)
    ケンリュウさんの経歴を見ると、弁護士とプログラマの経験が。論理的思考力ありそうだなあというアホな感想が口から出ました。

    小説を構成する二大要素は、プロットと文体だと思います。ここまではプロットの話でした。ここから文体の話をします。これは以前ツイッターで見た「名作のプロットしょうもない説」の個人的解釈でもあります。

    以前チラッと、リルケの『マルテの手記』が好きだということを溢したと思います。好きだから言えるのですが、『マルテの手記』は面白い小説ではありません。というかそもそも小説ではなく散文だという論が多数派です。なのでどんな話かと聞かれるととても困ります。強いて言うなら主人公のマルテがパリに行って人間観察する話です。何にも面白さが伝わってきません。人にも勧めにくいことこの上ないです。
    なら『マルテの手記』の何が良いのかと言うと、プロットではなく文体なんです。リルケはそもそも詩人であり、面白いお話よりも美麗な詩を書く才能がありました。少し逸れますが、レディーガガの二の腕に入れられているタトゥーはリルケの有名な言葉です。
    詩の良さって、人に伝えるのが難しすぎると思いませんか。詩の良し悪しは、詩を読む人の経験に左右されると言っても間違っていないと思います。詩を楽しめないからと言ってその人の人生が薄っぺらいと言いたい訳ではありません。「それと同じか、または似たことを考えたことがあるかどうか」に左右されると思っています。余談ですが哲学も全く同じです。

    リルケには、リルケと同じように作家を志す友人がいました。けれどその友人は、自分に才能がないのではと悩み、リルケに相談します。リルケは手紙でめちゃくちゃ厳しい返事をするのですが、その手紙の一節が、レディーガガの二の腕に入っています。私はそれだけでレディーガガの音楽を聴きたいという気持ちにさせられます。ちなみにリルケの返事を読んだあと、その友人は作家への道をすっぱり諦めています。確かジャーナリストになったはずです。リルケは別に「お前には無理だ」みたいな批判は一切言っていないのですが、彼の「書くこと」への覚悟の重さが分かる逸話で好きなんですよね。

    文章は思っているよりも書き手の思考を顕著に表します。いわゆる純文学の良さはプロットではなく文体、もっと言うと文体を作る書き手の思想が司っているものだと思います。例えばカフカの『変身』なんてプロットは全然つまらないと思いますが(好きなんですよ、カフカ)、私はあの病的で個性的な世界観が忘れられません。安部公房の『他人の顔』と通じる部分があるなとも思います。『他人の顔』もプロット主体の小説ではないと思っています。

    プロットの良さと文体の良さは全く別物です。雑に例えますが、漫画ならお話の面白さと絵の上手さは別物です。こないだ「羅生門の続きを書く課題が出たときに、みんなと違う話にしてよく書けたと思ったけど、みんなが思いつきそうな話を書いたやつに負けたと感じた」という趣旨のツイートを見ましたが、あれはつまりプロットで勝負したつもりで文体で負けたということですよね。それは小説として勝った負けたとは別の話ですし、プロットでなら勝ってるんだと思います。

    ものすごい悲しいことを言います。プロットは練習すれば上手くなれると思うんですよ、なぜなら論理的思考力だ(と現時点では思っている)から。けれど文体は言語的、または詩的才能なんじゃないかと感じているんですよね。例えば村上春樹の文体を真似ることはできるかも知れませんが、それをすれば「本当に書きたいもの」ではなくなると思います。もしあなたが「村上春樹のように良い小説」を書きたいと思っているならそれも(絵におけるトレースのように)意味のある練習になると思いますが。

    呪術廻戦は色んな名作をオマージュしていますね。個人的にはさほど思い入れのあるオマージュ元作品がないので何とも思わず面白く読んでいますが、ジョジョファンの友人はジョジョを好きすぎるあまり呪術廻戦を面白く読めないと言っていました。オマージュも一長一短です。例えば私、『走れメロス』は太宰治オリジナルだと思っていたのですが、後に原作があるのだと知って以降、全く違う視点から良い作品だと思うようになりました。



    個人的には、プロットを考えるより文体をこねている時間の方が圧倒的に長いですし楽しいです。短歌をよんでいる時間と似ています。なので最初に用意したプロットそっちのけにしてしまうんだと思います。文体に個性を出したい人は、小説よりも詩や短歌について考えるといいのではと勝手に(勝手に!)思っています。あと純文学や散文ですね。『ミヨゾティのあなたへ』五条視点では悩みに悩んで、三浦綾子さんの『道ありき』から表現を参考にした箇所があります。文単位ではなく同じ熟語を使った程度ですが、読んだことある人なら気付くかもしれません。余談ですが『道ありき』はキリスト教徒だったアメリカ人の友人に勧められた伝記です。五回は繰り返し読んでいます。

    結局良い小説とは何なんでしょうか。私は良い小説よりも良い推しカプが書きたいです。推しカプの時点で良いのは間違いないのですでに目的は達成されています。では私は何に苦しんでいるんでしょうか。やっぱり良い小説が書きたいのに書けないから苦しんでいるのかもしれません。楽しいのだから別にこれでいい気もします。もう少し歳を取ってから考えるべきことのような気もします。(まるで自分が若いかのような語り口)
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