徹夜くらい楽勝でしょ 辰姫がよく話す子だと、そういうイメージが固まったのはいつの頃だろう。
「ねぇ聞いて弥宙。先週、釣りに行ったんだけど、もう本当に久しぶりだったの! 早く暖かくならないかなってずっと準備して待っていたから、やっと行けて、それでね……」
マシンガンみたいに途切れることがない辰姫の話。趣味の渓流釣りにやっと行けた嬉しさ、だけじゃない。辰姫はだいたいこんな感じだ。
お昼休みのラウンジは、常に誰かの話し声で満ちている。喧騒の中で一人、ベンチに掛けて雑誌を読んでいたら辰姫がふらりとやって来て、知らない間に話が始まっていた。
「ねぇ弥宙ってば」
「なによ。忙しいの、見たら分かるでしょ?」
「辰姫がいるのに?」
「うん」
「雑誌よりも辰姫と話しましょうよ、ね? 雑誌なら部屋でも読めるでしょ?」
辰姫の話はちょっと聞き流していた。ちょうど、もう少ししっかり読みたいと思っていた特集に差し掛かっていて、つい辰姫のことがおざなりになる。
けれど、辰姫が片手間な返事にもめげることもなく話しかけ続けてくるものだから、文章が滑って頭に入ってこない。
「……もう!」
「うわっ……急に大声なんて出さないでよ。びっくりした」
「辰姫がしつこいからでしょ」
ついこの間買ったばかりの雑誌、ワールドリリィグラフィックから顔を上げる。この前までの冬の寒さはどこへ行ったのか、今日はとても暖かだった。ラウンジに差す日光に照らされた辰姫の目は、それにしたって楽しげに輝いている。
「やっと辰姫と話す気になった?」
「どこかの誰かさんが、ずっと隣で話しかけてくるからね」
「だって聞いてくれないんだもの」
まるでわたしが悪いかのような物言いに、思わず左の眉が上がる。勝手に話しかけてきたのは辰姫なのに失礼ねとは思ったけれど、確かにちゃんと聞いていたとは言えない。聞き流していたし。
手の持ったままの雑誌に視線を落とす。今月の表紙はメルクリウスの暴君、アルテア様だ。ゼロトップ戦術の特集も組まれていて、わたしとしては何がなんでも発売日に買いたかったもの。買ってからは毎日読み返しているけど、まだまだ読み込みの余地は残っている。今開いているゼロトップ戦術についての特集コラムだって、引用元の資料を確認していない。
後ろ髪は引かれるけど、雑誌は閉じることにした。鞄の中へしまって、そこでようやく身体を辰姫の方へ向ける。
「……それで?」
「もう、やっぱり聞いてないじゃない」
「聞いてたってば……釣りに行ったんでしょ」
「その話はさっき終わったよ」
じとりと睨め付けるような視線。逃げるように視線を逸らせば、遠くから誰かの楽しそうな笑い声が聞こえた。
「じゃあ、何を話すの?」
話すことは多分尽きないだろうけど。そう聞いたところで、機嫌を悪くしただろうかと少しの不安が頭を過った。もういいと立ってしまうかもしれない。もしそうだったら……どうしようかな。
そろそろ素直に謝るべきかしらと算段を立て始めたわたしの右半身に、とんと軽い衝撃。
「ん?」
「何から話そうかな、話したいことはたくさんあるのよ」
相変わらず楽しげに瞬く夜空色の目は、いつもよりも近い。別にベンチが狭いとか、そういうわけじゃない。ただ単に、辰姫が嬉しそうに距離を詰めてきただけであって。
「近い」
「そう?」
肩をそっと押し返す。わたしよりも高い場所から見下ろす辰姫は、大して気にしていないと首を傾げた。僅かに距離が生まれた拍子に、薄氷色の髪から辰姫の使うシャンプーの香りがして、意図せず心臓が跳ねる。何てことはない。ただ、他人の香りに驚いただけだ。
「辰姫、スキンシップが多いって自覚ないでしょ」
「だってそんなことないもの」
「あるわよ。すぐ人にくっつくんだから」
だからといって、誰に対してもそうではないけど。そもそも辰姫は人見知りだから、こんな風に話してくれるようになるまでかなり時間がかかる。
そう考えると、今の状況に悪い気はしなかった。なんだかんだで心を許してくれている。それはわたしだって同じだ。これでも随分頑張ったんだから。
「弥宙が一人で寂しいって言うんだから、仕方がないわね」
「誰も言ってないじゃない」
「実際、一人寂しく雑誌を読んでたし」
「別に寂しくなかったけど?」
誰について話しているのかしら。寂しいなんて口にするどころか、考えてもいない。本当に、適当なことばかり言う。
唇を曲げてみせても、辰姫は笑ったままだ。ご機嫌そうで何より。さっきまでの話はあんまり頭に残っていないけど、今はちゃんと聞いている。うん、わたしってば優しい。
「辰姫が話しに来て嬉しいでしょ?」
「自惚れすぎ!」
咄嗟に返したけど、つい今しがた似たようなことを考えていた。特大ブーメランだ。つい、ため息が漏れてしまう。
「嬉しくないの?」
わたしが呆れたと思ったのか、辰姫が下から覗き込んでくる。ふわふわ揺れる薄い水色の髪が柔らかな日に透けて、ちょっとだけ透明に見えた。
「別に?」
寂しくもないし、特別なことは何もない。いつも通り、辰姫と話しているだけ。だから、嬉しくないというわけじゃない。嬉しくもないけど。何でもないってこと。
「ふぅん?」
「何よ、その顔」
「そういうのを、ツンデレって言うんでしょ?」
誰よ、変な知識を植え付けたの。顔が歪んだのを隠す気もなかった。大方、わたしが周りからツンデレだとか何だとか言われているのを聞いたのだろう。
「ツンデレじゃないわよ」
顔を逸らす。こういう仕草もまたツンデレと言われる要因の一つだと分かってはいるのだけど。案の定、辰姫が笑みを深めた。ツンデレの意味、本当は前から知ってたんじゃないの?
「素直じゃないなあ」
「こんなに素直な人間、世界中を探してもわたししかいないと思うけど」
「絶対違うよ。素直じゃない人間でしょ?」
「素直だってば」
「はいはい」
辰姫が適当に話を切り上げる。あまりにもくだらないやり取りだった。意見が合わないことは多いし、大抵お互いに引かないのだけど、今回は辰姫があっさり引いた。多分、辰姫にとってはそんなに大したことではなかったからだろう。あと、わたしに引く気がないというのもある。
「それで、わざわざこんなところまで何の話をしに来たの?」
辰姫は話をしようと来たはずのに、まだ本題に入っていないことを思い出した。今のところ、くだらない話ばかり。
いつも通り、一方的に辰姫が話すのを聞いて相槌を打ち、時たま茶々を入れることになるだろうなと思いながら、とりあえず促してみた。
釣りの話は終わったらしいから、あと辰姫が話しそうなのは好物のお寿司かな。
「たくさんあるんだってば。何から話すか迷ってる」
「ふぅん、例えば?」
「えっと、この前壱がくれた海苔が美味しかったこととか、あとは百合ヶ丘から徒歩圏内にお寿司屋さんを見つけたこととか……あ、しえちゃんってお寿司食べる時もあの甘い飲み物飲むらしいよ」
少し突いただけでもなかなかの量が返ってきた。確かに、これでは何から話すか悩むというのも分かる気がする。
「壱さん、海苔好きだものね。わたしもたまにもらうけど、あれ、確かすごく高級なものだったはず……」
「そうなの? よくくれるよ」
「見たことあるわよ」
厳格な幼馴染が辰姫に海苔をあげる光景は、何度か見たことがあった。海苔の値段は、壱さんのご実家事情からしたら雲の上だ。もう考えない方がいい。
「あと、しえちゃんじゃなくて紫恵楽様だって。何度も言ってるのに」
「しえちゃんはしえちゃんだよ」
「よく許されるわね……」
上級生のことは様付けで呼ぶのが規則なのだけれど、当の紫恵楽様に注意する気もないようだし、辰姫だから許されているところはある。わたしだって注意はするけれど、別に本気で直させる気はない。
お寿司とは合わないと思うんだけどなぁ、と辰姫がぼやく。紫恵楽様が好んで飲んでいることは聞いたことがあった。お寿司に合わせるまでとは知らなかったけど。
「弥宙はどう思う? やっぱり合わないよね?」
「まぁ……? 紫恵楽様がお好きなものを否定する気はないけど……」
わたしもお寿司と一緒に飲んだことはない。でも合わないだろうとは思う。上級生のお話だから、流石にはっきりとは言えない。
隣の辰姫がぶらぶらと脚を揺らしながら、こちらへ視線を向ける。
「しえちゃん、そこは譲れないんだって」
「好きなものだからでしょ」
「そうだけどさ」
少しだけその唇が尖っていた。太陽が雲に隠れて急に肌寒さを覚える。暖かくなったと言えど、すぐに冷え込む季節だ。
「……なんか、弥宙にそんなこと言われるの、不思議な気分」
「悪かったわね、論戦好きで」
「それは言ってないけど」
自分が巷で論戦好きだとか何とか評されていることは知っている。噛みつきすぎと言われることもある。わたしとしては、正しいと思うのなら堂々と意見すればいいと思っているけど。
「わたしと辰姫だってよく言い合うでしょ。それと似たようなものじゃないの」
「確かに。でもしえちゃんとは言い合わないかな」
間接的に失礼なことを言われている。辰姫を睨んだけど、だって事実だしと一言。紫恵楽様が声を荒げる姿は確かに見たことがないので、黙って大袈裟に息を吐いた。
「……あ、予鈴」
スピーカーから流れた予鈴の音に、席に残っていたリリィたちがちらほら慌てて立ち上がる。わたしも次の講義がある。立ち上がれば、辰姫はわたしとは対照的に、ゆるゆると緩慢な動きでこちらを見上げた。
「次入れてるんだっけ?」
「えぇ。辰姫は……なさそうね」
「工房に行くつもりだけど」
それは何とも羨ましい。今日は講義が多いから、わたしが工房へ行けるのはまだ少し先だった。
辰姫もわたしに倣って立ち上がる。やっぱり少しだけその動きは遅い。
「暖かさで動きが鈍くなったの?」
「そんなに遅くないよ」
春の陽気で眠くなったのかもしれない。歩く速度を緩める。講義が始まるまでには間に合うだろうから、もう少しくらい辰姫に時間をあげても問題ない。
「これくらいなら、日にあたるのも悪くないかも」
「講義、行くのやめる?」
「サボらないわよ。委員長がサボるなんて、良くないでしょ」
辰姫本人にサボり癖があるわけではないけど、面白がってこんなことを言う時はたまにある。わたしがちゃんと講義に出ると分かって聞いている。試すような視線にいつも通りの答えを投げ返せば、辰姫の大きな目が弧を描いた。
「弥宙は真面目な委員長だものね」
「当たり前じゃない」
楽しそうだ。ふんふんと鼻歌を口ずさんで歩く辰姫は、本当に春の陽気にあてられてしまったのかもしれなかった。
「いいことでもあったの?」
「どうして?」
「機嫌が良さそうだから」
わたしが問うと首を傾げて、どうかしねと笑う。その頬は緩んでいた。理由は分からないけど、楽しそうだからいいかな。まだ少し冷たさの残る春の風が心地よかったから、それ以上は聞かないことにした。
「それじゃあ、辰姫は工房に行くから」
「ちゃんと休憩は取りなさいよ。ご飯も食べて……」
「あぁ、うん。弥宙だって同じようなものじゃない」
「辰姫の場合は本当にぶっ通しで朝までやるでしょ。わたし、ご飯は食べてるから」
「片手でつまむ程度を食事と言えるのかしら」
「ご飯抜きとは訳が違うわ」
ブリトーやサンドイッチを食べるのはれっきとした食事でしょう。食べながら作業することも多いけど。
「うわ、もうこんな時間……じゃ、わたし行くから」
「えぇ、ごきげんよう」
校舎の中へ入る。講義のある教室は二階だ。階段を上がってふと窓の外を見下ろせば、あの薄氷色の髪が、ふわふわ揺れているのが見えた。
「辰姫、辰姫?」
わたしの声に返事はない。仕方がないと中に入れば、工具の音が耳に入った。やっぱり作業中だった。
あちこちに置かれた工具やら段ボールを避けながら、奥へ進む。照明はついている。どうやら仮眠はしていないらしい。
「弥宙?」
「ごきげんよう」
「あれ、今何時?」
「十一時」
わたしの気配を感じて振り向いた辰姫が、ギョッとした顔をする。けれど、時間を伝えれば、なんだと言うように大きく息を吐いた。
「まだそんな時間なのね。日が変わってたらまずかったけど」
「ご飯食べてないくせにまだも何もないわよ」
「あら、差し入れでも持ってきてくれたの?」
まるでわたしが持ってくるのを待っていたかのような口ぶり。黙って袋ごと差し出せば、手袋を嵌めた手がさっさと持っていった。
「その中にわたしの分も入っているから、全部食べないでよね」
「なにこれ?」
「ブリトー。この前もあげたでしょ」
「そうだっけ」
タコスとブリトーの区別がついていないのかもしれなかった。わたしとしてもそんなに分かっていないけど。どちらも美味しいので問題ない。確か、トルティーヤの原料が小麦粉かトウモロコシ粉かの違いだったと思うけど。
「なんだ、弥宙もご飯食べてないじゃない」
「失礼ね」
せっかくなら辰姫と食べるのもいいかななんて、そう思って持ってきたというのに。そんなことは言えないので、代わりにソファにどっかりと腰を下ろした。お互い、工房は隣にあるからよく来るし、勝手知ったる何とやらだ。
手袋やらゴーグルやらを外した辰姫が隣に座る。スプリングが沈む感覚。ガサガサと袋からブリトーを一つ取り出して、頬張っている。
「わたしはこれにしようかな」
「それは?」
「ハムとチーズ」
定番のものだ。間違いがない。冷めても美味しい、片手で食べられる。合理的で気に入っている。
辰姫が食べているのはトマトとチキンが入っているものだったはず。淡白な方が辰姫は好きだと思ったから。
「調子はどう?」
「良いわよ。今日は朝が来るまでに眠れそう」
「何よりだわ……」
「弥宙は大丈夫じゃなさそうね」
目敏い指摘。多めにブリトーを頬張る。口に広がるチーズの塩味に顔を顰めた。別に、作業が詰まっているからとかじゃない。
「もう少しで何とかなるのよ」
あとピースが一つあれば完成しそうな、そんな感じ。頭のどこかで引っかかっている。それがもどかしくて、悔しい。
自分ならもっと上手くできると思っているし、その自信に見合うだけの努力をしている。だから、できないなんて思わない。けれど、ここまで出掛かっているのに出てこないのは、焦燥に駆られる。
考えながら、またブリトーを一口。そこで、視線を感じた。
「辰姫、どうしたの?」
「ううん」
「チーズでもついてる?」
「ついてないよ」
口元を触って確認してみても、何もついていない。髪や頬も、特に違和感はなかった。だからこそ、辰姫の意図が分からなくて、結局はわたしもその夜空みたいな目を見つめ返すことしかできない。
「おかしいところがあったら言ってよ。分からないわ」
「別におかしいところなんてないわ」
「じゃあどうしてこっちを見てるのよ」
ちょっと食べにくい。どうしたのかしら。辰姫はもうとっくに食べ終えていて、ただこちらを見ている。何も話さない辰姫を、正直どうしようかと悩んでしまう。真顔の彼女はあまり見る機会がない。一人でいるときはそうなのだろうけど、少なくともわたしといる時は感情を表に出していることが多い。
「……難しいな」
「なにが?」
「弥宙が何か話してくれないかと思ったんだけど」
冗談かと思ったけど、至極真面目な顔をしていた。これはまた、誰かに何か言われたのかしら。
「何かって?」
「何でも。悩みでも、嬉しいことでも。辰姫は話を聞いてもらうの、嬉しいから。弥宙も話したら少しは楽になるんじゃないかと思って」
あぁ、なるほど。そういうことね。納得はしたけど、驚いてもいた。辰姫の口から、そんなことを聞くとは思っていなかった。
弥宙の話が聞きたいだなんて、初めて言われた気がする。何だか気恥ずかしい。でも、悪い気持ちではなかった。
「話したいこと、何もないの?」
「ちょっと待って、急に言われても……あぁ、もう、考えるから」
急かさないでよ。お昼とは逆に、わたしが話すことをまとめなければならなかった。
「なかったら、それでもいいけど」
「ないだなんて言ってないでしょ。別に……話すことくらい、あるわよ」
いくつか浮かんできた話の種を、どれから話そうか手に取ってみる。辰姫に興味がなくても付き合ってもらおう。
「興味ないからって寝たりしないでよね」
「それは弥宙によるかも」
「聞きたいって言ったの、辰姫じゃない。とことん聞いてもらうから」
「えぇ?」
眉を顰める辰姫に、思わず笑みが浮かぶ。たまにはそういうのも、悪くない。私が好きなもののこと、辰姫はよく知らないだろうし。あとはやっぱり、リリィやCHARMについての話かしら。後者になると、またいつもみたいに辰姫が口を挟んできそうだけど。
……なんだ。話したいことがたくさんあるのは、わたしだって同じじゃない。
思い至って、やっぱりちょっと恥ずかしくなる。人のことを言えない。
「弥宙ってば、話す前から笑ってる」
「笑ってない」
「そんなに楽しみなの?」
「別に」
素っ気ない返事に、今度は辰姫が楽しげな笑い声を溢した。横目で見て、かち合った夜色の目がちゃんとこちらを見ていたから、それ以上何か言う気も失せてしまう。
「ほら、聞かせてよ、弥宙の話」
「仕方がないわね」
催促されたから仕方なく。いつもとは逆のやりとりに、特に理由もないのにおかしくなって二人で笑った。