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    6_rth

    @6_rthのポイピク。
    ボツ、えっち、習作含めてデータ保管のため全作品置きます。

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    6_rth

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    何が何でも5章までにかつに何とか付き合ってほしかった。
    断章Ⅱは含みませんがイベストメモストその他含んでます。大島家と東城さんは多分こんなに仲良くない。独自解釈あります。
    ほんのりめぐタマと月歌ユキとあさにーなの要素があります。

    blooming
     ヒトサンマルマル、購買から少し離れた階段の陰。天候は晴天、視界良好。風向きは……留意する必要なし。
     ピークを過ぎて人も少なくなった購買で、見慣れたオレンジのフードはやけに目立つ。壁に半身を押し付け、気配を殺してそっと覗くと、ちょうど観察対象の彼女が会計を済ませようとしているところだった。
     ……そうして観察対象はわたしの予想通り、購買でサンドイッチを購入した。種類は遠目で分からない。双眼鏡は生憎持って来ていなかった。諜報員たる者、いついかなる時でも準備をしていなければならないのだけれど、午前の座学が押して寮室へ取りに戻ることができなかったのだ。
     観察対象Aは速やかに会計を済ませ、教室の方へ戻っていく。その背中で黒くしなやかな尻尾が緩やかに揺れるのを見て、それからわたしはそっと壁から離れる。冷たかったはずの壁は、わたし自身の体温ですっかり温くなっていた。
     先ほどまで観察対象Aがいた購買へ足を進める。やはり人は少なく、おかげでそのまま店員の佐月さんが待つカウンターへ辿り着くことができた。
    「東城さん、いらっしゃいませ」
    「こんにちは、佐月さん。サンドイッチをいただきたいのだけれど」
     わたしの言葉に佐月さんは瞬きをして、それから困ったように眉を下げる。
    「すみません、先ほど最後の一つが売れてしまったようで……」
    「あら、そうなの? どうしようかしら」
     売り切れは想定していなかった。けれど、お昼時なのだから仕方ない。今日は別のものを買うことにしましょう。
     何が残っているかしら、と棚を見れば、売り切れているのはサンドイッチくらいで、他は案外残っていた。そもそも売っているものの種類が多いのもあるかもしれない。
    「ランチというならこちらはいかがでしょう?」
    「……それは?」
    「スティック状にしたパンプキンパイです。サンドイッチと同じように片手で気軽に食べられますよ」
     佐月さんの手の中でカサリとビニール袋が音を立てる。中には細長いパイが4本。かぼちゃの餡はきっと甘くて美味しいのだろうと想像すると、先ほどまであまりなかった空腹感を覚えた。
    「それじゃ、いただくわ」
    「まいどありです」
     会計を済ませて袋を受け取る。手の中にあるそれは、思っていたよりも重さを感じた。甘い餡が入ったパイなのだから、おやつに出てもおかしくないけれど、たまにはこういうのも悪くない。
     浮き足立つ気持ちのまま、早く戻ろうと廊下を歩く。紅茶も買おうかしら。それなら、甘くない方が合うわよね。
    「つかささん」
    「ひゃっ!? あっ、朝倉さん……!?」
     背後から突然声をかけられ、反射で肩が揺れる。勢いよく振り向けば、もうとっくに教室へ戻っているはずの観察対象Aが立っていた。後ろ手を組んだ朝倉さんは、目を白黒させるわたしに微笑む。
    「驚かせないで……!」
    「ふふ、購買に行くのが見えたからつい。ごめんなさいね」
    「不意打ちで殺されるのかと思った……」
     カレンちゃんのフリをして声をかけてこなかったとはいえ、そもそも背後から急に声をかけられること自体、心臓に悪い。猫のような朝倉さんは、時々こんな風にわたしを揶揄っては悪戯っぽく笑う。
    「殺したりなんかしない。カレンちゃんはともかくね」
    「そのカレンちゃんだったら、今頃わたしの命はなくなっていたわ……」
    「大丈夫。つかささんのことを狙ってはいるけど、ここで殺しても美学に反するみたいだから」
    「やっぱり美学的に問題がなければ殺されるのね!?」
     少し前のことを、カレンちゃんはまだ根に持っている。それこそ、おはようからおやすみまで気を抜けないくらいに。寝込みを襲われたらとか、出撃した先でキャンサーと一緒に殺されるんじゃないかとか。わたしが想像した殺害パターンは数え切れない。そのほとんど全てを今のように『美学に反するから』と否定されてはいるけれど、わたしの身の安全は保証されていない。
    「今はカレンちゃんじゃなくてあたしだから、本当に大丈夫。ね?」
    「……それなら、いいんだけど」
     フードの耳は立っていないし、ゆらゆら揺れる尻尾の先も鋭くない。纏う雰囲気だって柔らかで、穏やかだ。いつも通りの朝倉さんだから、とりあえず今は大丈夫。彼女の言葉に頷けば、向日葵色の目が僅かに細められる。
    「……それよりもつかささん、今日は購買?」
    「あ、えぇ……この時間からカフェテリアに行っても混雑しているんじゃないかと思って……」
     予め考えておいた理由を言いながら、当初のプランと乖離が起き始めていることに焦りを覚える。
     わたしが朝倉さんを観察していたのは、彼女と一緒にお昼を食べようと思っていたからに他ならない。朝倉さんが購買に行くと言って教室を出てから、月歌さんに折角だからつかさっちもかれりんと一緒に購買に行きなよと言われたのだ。
     あたしはユッキーと二人っきりで食べる予定があるからさ、と月歌さんは言っていたけれど、隣の和泉さんが全力で首を横に振っていたあたり、わたしたちを二人にしようという思惑なのだろう。
     朝倉さんに手を取られたあの日から、月歌さんは事あるごとにわたしと朝倉さんを二人にしようとする。わたし自身、カレンちゃんはともかく、朝倉さんのことは好ましく思っているけれど、月歌さんは中学生の告白だとか何とか言って茶化してくるので、気恥ずかしさが勝っていた。
     ……その話は今は置いておくとして。
     月歌さんによって逃げ道を塞がれたわたしは、言われた通り朝倉さんを追って購買まで来たものの、一緒に食べましょうと誘うタイミングを掴みかねてしまったのだ。その結果が物陰からの観察である。
    「……あの、朝倉さん」
    「なに?」
     教室までは遠くない。歩けばすぐに着く。だと言うのに、すっかり人気のなくなった廊下で二人立ち止まって、こうして話しているのはやっぱり恥ずかしい気がする。こんなところを人に見られでもしたら、生温かい視線で見られるに違いないわ……。
    「その、良ければなのだけれど。一緒に食べない?」
    「もちろん」
    「ほんとう!?」
    「断る理由はないもの。そんなに驚くこと?」
     すぐにいい返事が投げられたから、思わず大きな声を出してしまう。朝倉さんが笑みを溢したから、我に帰って視線が泳ぐ。子どもっぽかったかしら。
    「もしかしたら一人で食べたいんじゃないかと……断られるかと思って」
    「まさか。午後の訓練までは時間があるでしょう? 教室の方が近いから、早めに食べて、少しゆっくりしようと思っていただけ。つかささんのお誘いを断るなんてことしない」
    「それなら、いいけど……」
     朝倉さんは柔らかい笑みを浮かべたまま、わたしの右手をそっと取った。わたしよりも小さな手は、少しだけ冷たい。聞いたことはないけれど、わたしよりも体温が低いのかもしれなかった。
    「早く行こ?」
    「え、えぇ……」
     わたしの手を引いて、少し前を歩く朝倉さんの尻尾が揺れている。以前興味本位でそれに触って、危うくカレンちゃんに殺されかけたことを思い出して視線を逸らす。そうして、お風呂や就寝時くらいしかまともに見ることがない黒髪を覆うオレンジのパーカーを見つめる。フードと当たって摩擦が起きているはずなのに、彼女の黒髪は艶やかで触り心地がいい。それを知っているのは、わたしが髪のお手入れの仕方を教えているからなのだけれど。
     たまにはフードを取ってもいいのではないかと思うくらいには、朝倉さんは外では徹底してフードを被っている。曰く、これがアイデンティティらしい。わたしとしては綺麗な髪なのだから見せたっていいと思うのだけれど、彼女は恥ずかしいからと取る気配はない。つかささんに綺麗ねって言ってもらえるだけで嬉しいのと朝倉さんは笑うから、それ以上言えずにいる。だから今も、フードを被ったままだ。
     わたしからは顔が見えない後ろ姿と、繋がれた右手の感覚には覚えがあった。いつのことだったかしらと思い出せば、以前、基地内で迷子になった時のことだ。迷ったと連絡をしたら、朝倉さんはすぐに来てくれた。はぐれないようにとこうして手を繋いで、行こうとしていた図書館へ連れて行ってくれたのだ。
    「ねぇ」
    「なに?」
     声をかければ、心なしか朝倉さんは歩を緩めた。歩幅の小さくなったわたしたちの隣を、知らない誰かがすれ違っていく。
    「つかささん?」
    「どうかしたの?」
    「ぼんやりしてるように見えたけど……もう部屋に着くよ」
    「あ、そうね。ごめんなさい、手を握ったままで」
     さっきまではまったく見えなかった黒い髪。二つに結えられたそれがフードから覗く。朝倉さんの向こうには、見慣れた教室の扉がある。ずっと手を繋いだまま、ここまで来てしまったらしい。
     色々なことを考えていたら、いつの間にか着いてしまった。早かったような気がする。いつもなら購買から教室までは、もう少し時間がかかると思うのだけれど。
     繋いだままだったことを思い出し、着いたのだからと離そうとする。離れる前のほんの一瞬、朝倉さんが手の力を強めた。それは手を繋ぐには強いけれど、握手と呼ぶには弱々しいくらいの僅かなもの。
     するりと私の手から抜けていった朝倉さんの手。柔らかな指先が掌をくすぐって、思わず目を細めた。息を一瞬止めたから、鼓動が大きくなる。けれどそれもすぐに元に戻って、後に残ったのは右手の中に空気が入り込む感覚だけだった。目に見えない、掴めないはずの分子が異物のように思える。
     どうやらわたしは朝倉さんと繋いだ手の感覚はあるのに、ないようにも感じていたらしい。繋いでいると思っていたし、確かに彼女の体温も感じていたはずなのに。その一方で感触も体温も、溶け合ってまるで一つになっているような錯覚を覚えていた。
    「それより、何か言おうとしてなかった?」
    「そうだったかしら……?」
    「忘れちゃったの?」
     朝倉さんは少し眉を下げて笑う。言おうとしたことはあったのだけれど、きっと大したことではない。思い出したらまた話しましょう。朝倉さんなら聞いてくれるだろうから。
    「それよりも、購買でパンプキンパイを買ったの! 美味しそうでしょう?」
    「つかささんがこういうの買うの、珍しい」
    「本当はサンドイッチを買おうと思っていたのだけれど売り切れてしまっていたの。そしたら、佐月さんがおすすめしてくれたのよ」
     左手に持っていた袋を見せれば、朝倉さんはじっと中のスティックパイを見つめる。ジャンクフードまではいかないけれど、これも彼女のお気に召すはず。
     教室の扉を開けて中に入りながら、朝倉さんの反応を待つ。
    「片手で食べられるのはいいと思う。次に見かけたら、あたしも買ってみようかな」
    「な、なら! 一つ、どう……?」
    「え?」
     朝倉さんの目がぱちんと瞬く。月歌さんが一緒に食べなよ、なんて言ったから、妙な緊張をしてしまう。人を誘うだけでこんな変な風になったことなんてない。なんだかカッコ悪い!
    「ほら、味見も兼ねて。朝倉さんのサンドイッチと交換しない?」
    「……つかささんがいいなら、交換してもらおうかな」
    「もちろん! そうと決まれば早く食べましょう? わたし、お腹が空いてしまって……」
     はやる気持ちのまま椅子に座る。少ししてからわたしの隣に腰を下ろした朝倉さんは、小さな手で口元をおさえた。
    「どうしたの?」
    「ううん、ふふっ……つかささんが可愛いなって思っただけ」
    「そ、そうかしら……?」
     美人だとか美少女だとか、よく言われるのはそういう言葉だから、可愛いと言われることはあまりない。今のどこが可愛いのかは心当たりがないけれど、悪い気はしない。それに、朝倉さんが楽しそうなのを見ると、少し不思議な気持ちになる。
    「朝倉さんこそ。いつも可愛いって、色んな人から言われているでしょう?」
    「別にそんなことない。……ほら、早くお昼食べよ? あたしもお腹空いた」
     合っていた視線がすっと逸らされる。サンドイッチを一つ取り出した朝倉さんは、黙ってわたしに差し出した。
    「はい。つかささんには照り焼きチキンをあげる」
    「ありがとう。パイは後で食べる?」
    「そうする」
     朝倉さんが買ったのはフルーツサンドではないので、パンプキンパイはデザート代わりにするのだろう。いただきます、と二人で手を合わせる。誰かと揃って言う方が、一人で言うよりもわたしは好きだ。
     わたしも先にサンドイッチを食べることにした。甘辛い照り焼きのタレとカラシの風味が口に広がる。鶏肉も柔らかくてジューシーだし、千切りのキャベツのおかげでしつこさを感じない。わたしはドームの生活を経験したことがないけれど、やっぱりセラフ部隊の衣食住は世界情勢を踏まえると、それ以上ないくらい高水準なのだろう。
     思いのほか食べ応えのあるサンドイッチを食べ終え、自分で買ったスティックパイに手を伸ばす。作りたてのようにサクサクで、食感は軽い。かぼちゃの餡も裏漉ししているのか、滑らかな口触りだ。鼻から抜けるこの香りはシナモンね。軽食だと思っていたけれど、本格的だ。
    「つかささん、お味はどう?」
    「美味しいわ! 流石、セラフ基地の購買ね。お洒落なカフェで出したら人気が出そうなくらい……」
    「そんなに?」
     どこか楽しそうな声音で尋ねてきた朝倉さんにそう返すと、少し戸惑ったような顔をされる。
    「朝倉さんもどうぞ。思ったよりも本格的よ」
    「ありがと。いただきます」
     一口齧った朝倉さんが目を丸くする。多分、さっきのわたしも似たような表情をしていたのだろう。
    「美味しいでしょう?」
    「うん……予想以上。これ、購買限定なのかな」
    「確かに、カフェテリアでは見たことがないわね」
     カフェテリアの方が利用者数は多いから、勿体無いような気がする。二本目を食べ終わり、最後の一本に手を伸ばしながら、朝倉さんの方を伺う。向日葵色の目と音が鳴りそうなくらい、しっかり目が合った。
    「うん?」
    「何でもないわ!」
     まだパイを食べている朝倉さんが首を傾げた。慌てて首を振り、袋の中のパイを取り出す。それを齧りながら考える。別に慌てることはなかったのではないかと。
     目が合うことなんて、今までだって数えられないくらいある。だってさっきなんて手を繋いだくらいだもの。今更何を慌てることがあるのかしら。
    「ごちそうさまでした」
    「……ごちそうさまでした」
     そんなことを考えながら、手を合わせる。袋をゴミ箱に捨てたところで、朝倉さんが口を開いた。
    「つかささんのおかげで、いいランチになった」
    「えっ、そうかしら……?」
    「うん。あのパイ、また食べたいな。美味しいし、片手で食べられるし」
    「お気に召したのならよかったわ」
     わたしとしてはお昼を一緒に食べることが目的だったのだけれど、それに加えて朝倉さんが喜んでくれたから、薦めてくれた佐月さんには頭が上がらない。わたしがサンドイッチを買おうとしていたのは、朝倉さんのよく選ぶワンハンドフードだからだ。折角かれりんと一緒なんだから似たやつ買って親交深めなよ、なんて月歌さんに言われたのもある。わたし自身も彼女の目に留まるものがいいな、と思っていたりもした。
     そして、それが当たったので、今のわたしはとてもそわそわしている。浮き足立っている。こんな気持ちは初めてだ。さっきも、楽しそうな朝倉さんを見て不思議な気持ちになったけど、それとよく似ている。
     例えて言うなら、お母さんに褒めてもらった時の気持ちに似ている。胸が温かくて、満たされる感覚。けれどそれはまったくの同じではない。
    「つかささん」
    「な、何かしら!」
    「驚かせるつもりはなかったんだけど……ずっと立っているし、座ったらどうかと思って」
    「そうね、是非そうするわ!」
    「つかささんは今日も元気ね……?」
     ゴミ箱の前で考え込んでいたわたしを朝倉さんが呼んだ。片付けも終えたから、その言葉に従って朝倉さんの隣に戻る。
    「デンチョ、開いてないの?」
    「え? あぁ、つかささんがいるから」
    「わたし?」
     基本的に部屋にいる時はゲームをするかデンチョを触るのが大半の朝倉さんが珍しく、何も持たずに座っている。それが珍しくて指摘すれば、返されたのはわたしの名前。何かあったかと思い出せば、確かに心当たりがある。
    「そ、そうね、言ったのはわたしだったわ……」
    「思い出した?」
    「えぇ……」
     彼女が言っているのは、ペペロンチーノとガーリックトーストを食べた日のことだ。デンチョを触る朝倉さんに、『わたしが目の前にいるのだから、そういうのはやめない?』と言ったのだ。
    「だからね、つかささんの話を聞こうと思って」
    「抱腹絶倒させるくらいの話よね、任せて。頑張るわ」
    「笑わせるとか、そういうのは気にしなくていいから。あたしはただつかささんの話が聞きたいだけ」
    「そうなの……?」
     何でもいいと言われたら少し困る。何せ、話したいことは山のようにあるのだから。どれから話そうかしら。
    「それじゃあ、今日の朝にあったことなんだけど……」
     結局話す順番は纏まりきらず、頭に浮かんだものから話すことにした。
     あれもこれもと話すわたしに時折相槌を打ちながら見つめる朝倉さんのその視線は、やっぱりわたしの胸に温かさとそれだけでない何かを残していった。


     ここのところ、わたしはおかしいと思う。
    「そう、おかしいのよ」
    「急にどうしたんですかつかささん!」
     うんうんと頷いてみれば、思いがけず声をかけられる。お昼時、色んな人の声で満ちたカフェテリアの中でも、國見さんの声はわたしの耳にはっきりと届いた。
    「あら? 口に出ていたかしら」
    「はい! それはもうばっちりと!」
    「そんなつもりはなかったのだけど……」
    「考えに集中して気がつかなかったんでしょう。私もめぐみさんに指摘されることがありますから」
     その逢川さんは今は見当たらないけれど、彼女が國見さんにどうツッコミを入れるかは容易に想像がついた。切れ味はそのままに、わたしや他の人に対するよりも柔らかな言い方をするのだろう。彼女は國見さんに甘いから。
    「……そういえば逢川さんは、まだ補習が終わらないのね」
    「えぇと、その……ここに来ていないということは、そういうことではないでしょうか……」
    「月歌さんも見ていないものね。司令官、今回は本気のようだし、午後の訓練はどうなるのかしら」
    「フォーメーションの見直しをする予定ですし、流石にお二人がいない中ではどうにもなりませんね……」
     座学の点数が悪いからと補習に呼ばれた月歌さんと逢川さん。今回こそは合格点を取るまで教室から出さないと司令官が宣言していたから、恐らくランチも教室で取らされているだろう。和泉さんは樋口さんに話があると研究所へ行き、朝倉さんは用事があるからと単独行動。結果として、いつも通りカフェテリアへ来たのは、わたしと國見さんだけとなってしまった。
     國見さんと二人でランチを取るのは、少し珍しいことだった。わたしから見て、話すことがないわけでもなく、気が合わないということもなく。単にわたしたちは二人だけになる機会自体が多くない。わたしは朝倉さんと、國見さんは逢川さんと一緒にいることが大半だから。
     だから今、ミートソーススパゲッティを少しずつフォークに巻いて食べる國見さんを正面で見るのは、何だか新鮮に思えた。
    「今週はイタリア料理ばかりですね」
    「カフェテリアの人がマリアさんにレシピを教わったそうよ。とは言え、國見さんが食べているミートソーススパゲッティはイタリアのボロネーゼとは異なるの。詳しく言うと、ボロネーゼをアメリカ風にアレンジしたものね。挽き肉の粗さやソースの味付け、使用するパスタが違うのよ」
    「なんと! イタリアンパスタではなく、アメリカンスパゲッティだった!」
    「もしかすると、それはマリアさんではなく、キャロルさんが伝えたのかもしれないわね」
     元々丸い目を更に丸くしながらスパゲッティを少しずつ食べる國見さん。あまりまじまじと見たことは無かったのだけれど、なるほど確かに逢川さんが甘やかす気持ちも分からなくはない。えぇと、この気持ちのこと、何て言うのだったかしら。
    「……つかささんも食べますか?」
    「あ、いえ、遠慮しておくわ。わたしもまだ自分の分を食べ終わっていないし」
     見つめていたから、食べたいのかと首を傾げられる。美味しいのだろうけれど、そういうわけではなかったから、首を横に振る。諜報員たる者、観察が不自然であってはならない。何事もいつだってスマートに。
     國見さんに感じた気持ちの名前を探しながら、プレートに残ったままのパニーニを手に取る。本場ではパンは脇役であまり美味しくないそうだけれど、これは違う。ほんのりとした甘さがサラミの旨みを邪魔せず引き立たせ、シンプルながら上手くまとめられている。うん、美味しい。オリーブオイルの香りも良い。
     こういう、片手で食べられるものは、朝倉さんが好むものだ。なんでも、ゲームをしたりデンチョを操作するのに、両手が塞がると不便なんだとか。ピザやらサンドイッチやら、この間月歌さんにオススメされたバインミーとか。朝倉さんが選ぶのは手が汚れなくて簡単に食べられるものだ。
     期間限定とはいえ、もうしばらくはイタリア料理がたくさん並ぶだろう。パニーニもきっと、朝倉さんのお気に召すに違いないわ。
    「……つかささん、何か考え事ですか?」
    「えっ、いえ、別に何も考えていないわよ? 別に……」
    「それはずばり、完全に考え事をしている人の言い方ではないでしょうか!」
    「う……」
     スマートにはいかない。國見さんに見破られるとは。パニーニを少し大きめに齧る。さっきよりもしょっぱい。サラミの塩味が今は苦く感じる。
    「もしよろしければ、この國見タマが悩みをお聞きしましょう!」
     さあどうぞ! と國見さんはまっすぐこちらを見つめてくるから、思わず少し引いてしまう。握り拳で胸をとんと叩く姿に、拒否権がなくなっていくような気がした。
     話すことがない……いえ、そもそも何か悩んでいたかしら。少し前までは何か考えていたような気はするのだけれど、もう思考の流れに乗って遠くへ行ってしまった。
    「大したことではないの。ただ、このパニーニ、朝倉さんが気に入りそうだと思っていただけ」
    「それですか?」
    「えぇ。朝倉さんって、片手で食べられる軽食を好むでしょう?」
    「確かに! サンドイッチやピザをよく食べていますし、パニーニも可憐さんのお気に召すでしょう! パニーニとサンドイッチの違いが分からないけど!」
    「パニーニは波型、サンドイッチは平型の鉄板で焼くのが大きな違いね。だからほら見て、パニーニは縞模様が特徴なのよ」
    「なるほど……!」
     もう一つお皿に乗せられたままのパニーニを示せば、國見さんは興味深そうに覗き込む。月歌さんが触っては餅みたいに柔らかいと言うその白い頬に、赤橙のミートソースが付いていた。
    「あら國見さん、ほっぺたにミートソースがついているわ」
    「あ……ここでしょうか?」
    「反対ね。もう少し下……左、そう、そこ」
    「ありがとうございます、お恥ずかしいところをお見せしました……」
     紙ナプキンで頬を丁寧に拭いた國見さんは、本当に恥ずかしそうにはにかむ。
    「ちなみに、パスタは啜らずに巻いたまま一口で食べるのが、ソースを飛ばさないコツよ」
    「流石つかささん! ランチを始めてから私の知識が急増しています!」
     國見さんと二人だけのランチは珍しいけれど、これはこれで良いものだ。逢川さんや和泉さんはわたしの話を一刀両断するし、月歌さんは一応聞いてくれるけれどいつの間にか月歌さんのペースに持っていかれる。わたしの話をまともに聞いてくれるのは国見さんと朝倉さんだけだ。
    「あ」
    「……つかささん?」
     ぽんと浮かんだそれに、思わず小さな声が漏れる。喧騒の中でも國見さんはわたしの声を拾ったらしく、小さく首を傾げられる。
    「最近のわたし、朝倉さんのことばかり考えている気がしたの」
    「可憐さん、ですか?」
    「えぇ」
     パニーニを食べながら、朝倉さんが好きそうだなとか。朝倉さんなら話を聞いてくれるのにとか。目の前に座る人が朝倉さんじゃなくて、何だか違うなって思ったり。
     思い返せば朝倉さん、朝倉さん、朝倉さん。自分でも驚くほどに彼女のことを考えている。
    「それが何だか、わたしらしくないというか……おかしいんじゃないかって思って」
    「おかしい……?」
    「えぇ。だって今まで、こんなにも誰かのことを考えていた経験なんてなかったもの」
     軍に入る前の記憶は失われている……正確には、頭のいいわたしが覚えていたのだけれど。覚醒して記憶を思い出しても、わたしの記憶にいるのはお母さんばかり。他の誰かは存在しないのだ。
     大きめのダイス状にカットされたトマトをフォークで刺して小さな口に放り込んだ國見さんは、しばらく咀嚼して飲み込んだ後、まだスパゲッティが残るお皿の底を見つめた。
    「それは……私も、何となく分かる気がします」
    「國見さんにも?」
    「いえ、おかしいというところではなく! 誰かのことを考えるという点です。私も虎徹丸の艦長として、戦うことだけを望まれてきました。勿論、虎徹丸に乗っていた皆のことは大切でしたが、それも特定の誰かというわけではなくて。だから、今みたいに個人のことを考えるという経験は、ほとんどないんです」
     不思議な気持ちになりますね、と國見さんはスパゲッティをフォークに巻きながら笑う。それに同意してわたしもパニーニを齧る。パニーニがあったお皿はもう白だけになってしまった。
     カレンちゃんにいつか殺される。そう不安になるから、考えてしまうのかしら。でもそれはカレンちゃんに対してだけど、わたしが考えているのは朝倉さんで、でもカレンちゃんのことも考えていて……。
    「でも、誰かのことを考えるのは、当たり前のことなんだと思います」
    「そうなのかしら……?」
    「はい!」
     思っていたよりも、はっきりした声音だった。ぐるぐると回っていた思考が引き上げられるくらいに。けれど、國見さんの顔はその声と違って温度は低く、熱すぎないと思った。
    「だって、大切なんですから」
    「……大切、ね」
     國見さんはほんの少し残っていたスパゲッティを食べ終えた。さっきわたしが教えた通りにしたからか、ソースは飛んでいない。別に手持ち無沙汰なわけではないけれど、指先でパン屑を集めては皿に戻す。そうしないと、どうにも落ち着かないような気がした。
     セラフ部隊に入ってから、わたしの中に色んな人が増えた。勿論、それは実際に住んでいるわけではない。お母さんしかいなかったわたしの中に、いつの間にか31Aや他部隊、基地の人がいるようになったのだ。それは悪いものではなく、どこか心地よいと感じていた。
     そしてその中で、一番長く時間を過ごしているのは朝倉さんだ。
     つまり、朝倉さんと長く過ごすうちに、朝倉さんのことを大切に思うようになったということだ。
    「そうね、わたしも……わたしも大切に思っているわ」
    「つかささん……」
     口に出せば、案外すとんと自分の中に言葉が落ちてきた。なるほど、朝倉さんのことを考えていたのは、大切だからなのね。
    「國見さんも、逢川さんがセラフ部隊に復帰したの、本当に良かったわね」
    「めっ、めぐみさんですか!? そうですねその、はい、良かったです! 本当に!」
    「寂しそうな顔をしていたから、心配だったのよ」
    「あの、この話、まだ続きますか……!?」
     さっきとは一転して、國見さんの顔がくしゃりと歪められた。怒っているわけではなく、どちらかといえば困っているようで、眉尻を下げて視線を泳がせる。おかしいわね、話題はさっきから変わっていないのに。
    「えっ、ごめんなさい。そんなにダメな話だと思わなくて」
    「あれぇ!? もしかしてこれ、認識が違うのでは!? 私だけが恥ずかしいやつ!?」
    「認識?」
    「ぎぃやああああ! つかささんの視線が痛い……!」
    「どうしたの國見さん!?」
     目を押さえて机に突っ伏した國見さんを呼ぶ。しばらく反応がなかったかと思えば、急にゾンビのようにゆらりと起き上がる。そして、こんな時でも彼女の帽子は微動だにしない。どういうメカニズムなのかしら。
    「大丈夫……?」
    「はい。大丈夫です。お見苦しいところをお見せしました」
    「本当に大丈夫?」
    「お気になさらず」
     起き上がったかと思えば、今度は真顔になってしまった。國見さんと二人でいる機会は多くなかったから、何だか新鮮な気持ちになる。人の知らなかった一面を知るのは、パズルのようで少し楽しい。
    「おでこ、赤くなってるわよ」
    「本当ですか?」
    「さっき勢いよく机にぶつけたから……ほら」
     コンパクトミラーを取り出して見せれば、その小さな両手でおでこを押さえた。
    「本当ですね! 本当と書いてマジと読む!」
    「違うわ國見さん、本気と書いてマジと読むのよ」
    「普通にツッコまれた! つかささんのことだからボケを重ねてくると思ったのに! 不覚!」
    「おでこ、濡らしたタオルで冷やしておくといいわよ」
    「ありがとうございます!」
     悲鳴をあげる國見さんに助言すれば、ちょっとヤケになったお礼が返ってきた。一体どうしたのかしら。
     表情豊かな國見さんの様子を観察していれば、少しすると落ち着いたのか、一つ息を吐いた。
    「ふぅ……さすがつかささんですね……まったく予想していないコースからの変化球……」
    「國見さん?」
    「めぐみさんとユキさんに匹敵するツッコミスキルがなければ太刀打ちできない……」
     ぼそぼそと何か呟いていた國見さんは、何か納得したのか目を閉じて数度頷く。人が少なくなり始めたカフェテリアで、國見さんの雰囲気はちょっと異質だった。
    「つかささん、ありがとうございます!」
    「急にどうしたの?」
    「私に足りないものが分かりました! こうしてはいられません、めぐみさんのところへ行って来ます!」
    「えっ……行ってしまったわ……」
     逢川さん、まだ補習が終わってないんじゃないかしら。そう言おうとしたけれど、國見さんは走って行ってしまった。ちゃんと返却コーナーへお皿を持って行っているのが律儀だ。
     國見さんの足りないものが何かはわたしには分からないけれど、どうやらわたしが國見さんに新たな発見をもたらしたらしい。
     一人残されたわたしは、残っていたお茶を飲んで息を吐いた。わたしも國見さんのおかげで、朝倉さんへの気持ちに名前をつけられた。わたしは朝倉さんのことを大切だと思っている。
     ……そう、大切。大切な、仲間。
     じんわりとする胸。わたしの中でそっと息をする温かな気持ち。それに名前をつけるだけで、ほっとした。自分が彼女へ向ける気持ちが何か分からないのは、怖いことだから。
    「ん……?」
     考えていれば、デンチョに通知が入る。誰からかしらと見てみれば、月歌さんからだ。宛先は31Aの全体チャット。どうやらようやく補習が終わったらしい。午後の訓練も三十分後ろにずれるという内容だった。
     今の時間を確認すれば、そろそろカフェテリアは出たほうがよさそう。訓練まで噴水前のベンチでゆっくりしたい気持ちはあるけれど、今日は暑い。訓練前に汗だくになるのは遠慮したかった。
    「ショップで日焼け止めを買ってから行こうかしら」
     そういえば、そろそろ日焼け止めがなくなりそうだ。リキッドタイプの中では一番ベタつかないし、朝倉さんに薦めてみてもいいかも。普段外に出ないと言うだけあって、彼女は肌が白い。フードをしていたって紫外線は容赦がない。これなら肌への刺激も少ないから、大丈夫だと思う。
     そうと決まれば早速と、トレーを持って立ち上がる。思いつきにしては素敵な考えに、頬が緩む。喜んでくれるかしら。


     美容のためには、トレーニングだって欠かせない。
     勿論、諜報員だし、軍属の身でもあるから、体を鍛えるに越したことはない。ムキムキになるほどやるつもりもないけれど。
     正直に言えば、普段の訓練はかなり過酷で、それだけでいいんじゃないかと思わないわけではない。でも、身体の線を整えるためにヨガやストレッチをすることも大切だと思う。
     つまり、今日わたしが貴重なフリータイムにジムを訪れた理由は、他ならない美容のためだった。訓練で酷使された筋肉をほぐしながら、そのつき方や身体のラインを姿見で確認していたというわけ。ストレッチは地味だと思われがちだけれど、こういう努力を怠っていてはボディラインが締まりのないものになってしまうもの。
     ベンチプレスで驚くほど大きなバーベルを平然と持ち上げている月城さんや、向こうでエクササイズを教える浅見さんがいるのを見つつ、ジムを出る。
     どういう技術なのか、激しい運動をしても突っ張ったりしない制服は暑さもある程度は緩和してくれる。それでも夏の夜特有の蒸し暑さはわたしの眉間に皺を生むのに十分だった。
     軽いストレッチで終わらせたから、今から帰って入浴した後も少しはゆっくりする時間がありそう。本を読むのもいいわね。
     帰って何をしようかと考えながらジムの右手へ向かえば、少し離れたところから視線を感じる。そちらへ顔を向ければ、簡単にわたしを見ていた人と目が合った。
    「あら、東城さん」
    「二以奈さん。今からジム?」
     こちらへ歩いてきたのは31Eの大島二以奈さんだった。六つ子の次女で、モデル志望。彼女から美容液をいただいたことで縁ができ、わたし達は時折話をする仲だったりする。
    「いえ、私はさっきランニングマシンをしてきたところで、これから散歩をしながら宿舎に戻ろうかと思っていたんです」
     どうやらわたしよりも先にトレーニングを終えて出てきたところに鉢合わせたようだった。モデルを目指す二以奈さんのトレーニングメニューは、きっとストイックなのだろう。
    「東城さんこそ、今日はストレッチですか?」
    「えぇ。普段は部屋で簡単に済ませるのだけれど、こういうところでやるのも大切だから。ここだと姿見で自分を確認できるもの」
    「そうですね。やはり自分を見つめ直すことは必要です……あ、ガラスに映る私……なんて美しい……」
    「言ってるそばから急に自分に見惚れないで!」
     一瞬、ジムのガラスを横目で見る程度のはずだったのに、気が付けば二以奈さんの視線は姿見の中の彼女に釘付けだった。わたしの声に肩を跳ねさせた二以奈さんは、少し申し訳なさそうな顔ですいません、と謝る。
     月歌さんから聞いたことはあったけれど、二以奈さんは事あるごとに自分に見惚れる癖がある。モデルを目指すだけあって、確かにその所作は洗練されていると思うけれど、お風呂の水面に映る自分にも見惚れるらしい。実際にその様子を見たことはないから、真偽は定かではない。今度お風呂にいるところを観察してみようかしら。
    「でも確かに、二以奈さんの立ち方ってすごく綺麗よね」
    「東城さんこそ、所作が指先まで優美ですよね」
     何か真似できることはないかとお互いをじっと観察する。この基地で他に所作が綺麗な人といえば、柳さんや桐生さんかしら。それぞれが違う方向で美しいから、参考になりそう。
    「ってダメよ! わたしたち二人ともこうしていたら、いつまで経っても動けない!」
    「はっ……」
     二以奈さんのポージングに意識を持っていかれていたのを、無理やり断ち切った。確かに興味はあるけれど、このままでは日が変わっても終わらなさそう。
    「えぇと、これから散歩に行くのよね。お邪魔してしまったかしら」
    「いえ、そんなことはありません!」
    「お、二以奈に東城じゃないか」
     背後から急に声をかけられ、驚いたわたしたちは揃って口を噤む。振り向けば予想通り、特徴的な真っ赤な髪と眼帯が視界に飛び込んでくる。さっきまでジムでエクササイズ教室を開いていた浅見さんが立っていた。
    「浅見さん?」
    「こんなところでどうしたんだお前たち。二人ともさっきトレーニングは終えただろう。まだ足りないなら、エクササイズ教室を延長してもいいぞ」
    「やるのなら、次の日曜日の午後がいいのだけれど……」
     今日はもう遅いし、浅見さんのエクササイズ教室はやると決めて受けないと。かなりハードなので、やろうと思ってすぐにはできないのだ。入隊して少しした頃、興味本位でやった月歌さんが生まれたての子鹿になった時はちょっとした噂になった。
    「次の日曜はダメだな。あたしも予定があるんだ」
    「浅見さんに予定があるの?」
    「東城、お前案外失礼だよな。あたしだって……」
    「どうせお酒を飲みに行くんでしょう?」
     わたしに何か言おうとした浅見さんは、二以奈さんの言葉に黙り込む。浅見さんには鋭い言葉を浴びせるのね、とちらりと横目で二以奈さんを伺ってみれば、大人びた彼女にしては珍しく、少し機嫌が悪いように思えた。
    「ま、まぁほら、あたしにもストレス発散の場が必要ってことだよ!」
    「それで飲みすぎて二日酔いになって、頭が痛いと言うのは誰ですか」
    「に、二以奈、怒ってるのか……?」
    「怒っていません」
    「じゃあどうしてそんなに不機嫌そうなんだぁ!」
    「不機嫌でもありません」
     ぽんぽんと交わされる言葉の数々には、口を挟む間もなかった。そもそも、浅見さんと二以奈さんがこんな風に軽口を言い合える仲であることも知らなかった。二以奈さんって案外、強く出る時があるのね。
     意外なものだからとじっと見つめていれば、しばらくの間続いていた二人の応酬は、少しずつ尻すぼみになっていく。
    「……あー、うん。なんか、このくらいにしておかないか?」
    「そう、ですね。私もそろそろ切り上げたいと思っていたところです」
    「わたしに気にせず、続けていいのよ? ひょっとしてお邪魔だったかしら、向こうで見ているからどうぞ続けて!」
    「距離の近さは問題じゃないんだぞ、東城」
     小学生かお前は、と言いながら浅見さんが頭をかく。二以奈さんを見てもさっきまでの言葉はなく、どうやらここでおしまいのようだった。
    「東城は置いといて。飲みすぎないから心配しなくてもいい。そういうことだ、二以奈」
    「それ、何回目ですか、もう……。行くなとも飲むなとも言っているわけじゃないですから。でも、自制はしてくださいね」
     仕方がないと言わんばかりの声で、けれど二以奈さんの顔は優しかった。口元には笑みが浮かんでいるし、先ほどまでの言葉の鋭さを感じさせないほどにその目じりが穏やかだった。それにその声音だって、普段の彼女とどこか違っていて、心のどこかがほんの少しだけ落ち着かなくなる。
     二以奈さんの許可が降り、見違えるほど明るくなった浅見さんは、まだ業務が残っているからと学舎へ戻って行った。その後ろ姿を見つめる二以奈さんに声をかける。
    「ねぇ」
    「あ……すいません、先ほどはお見苦しいところを」
    「いえ、それはまったく気にしていないのだけれど。これから散歩に行くのよね?」
    「えぇ、はい」
    「よければ、ご一緒してもいい?」
     わたしの言葉に、二以奈さんは少し虚をつかれたような顔をしたけれど、断ることはなかった。
     行きましょうか、と言う二以奈さんの声はどことなく曖昧だった。浅見さんと話している間にすっかりクールダウンした身体に、大して心地よくない夜の風が吹く。今日も熱帯夜だ。
    「二以奈さんって浅見さんと仲が良かったのね」
     特に意味のない会話の始め方だった。わたしは自分の部隊以外だと積極的に交流するわけでもないから、浅見さんと二以奈さんがどうして仲がいいかは知らないもの。
    「んんっ……! そ、そうですね。色々と気にかけていただいています」
     二以奈さんが吃る。その反応に、二以奈さんが浅見さんに向けている感情を垣間見てしまったような気がした。ユキさんにルカさんのことを聞いた時とは若干違うけれど、何となく重なるところがあるし、そういうことなのよね、きっと。
    「……あの、東城さん、その表情は色々とクるものがあるのでやめてください」
    「そんなにおかしな顔をしていたかしら」
    「おかしくはありませんけど! 真面目に聞かれると困ります……」
     ふぅ、と一息吐いた二以奈さんは、ちょうど通りかかったナービィ広場を見て、少しお付き合いいただけますかと尋ねる。特に断る理由もないので頷けば、微妙な笑顔が返ってきた。
     ベンチに二人。色々な意味で微妙な距離があった。
    「最初に言っておきますけど、浅見さんとは何もありませんので」
    「そうなの?」
     今思い返せば、そこそこ砕けたやり取りをしていたけれど。首を傾げるわたしに、二以奈さんはそうですよ、と繰り返す。
    「ほら、浅見さんって、司令部の中では誰に対してもフランクじゃないですか」
    「それはまあ、確かにそうかもしれないわね」
     カルパスがどうの、と言っていた浅見さんを思い出しながら肯定する。司令官や七瀬さんが浅見さんほど感情的な人ではないから、余計に打ち解けやすく感じるのかもしれない。
    「以前から本当に色々と気にかけてくださっているんです。訓練だけでなく、姉妹との関係についても」
    「大島家に問題でもあるの?」
    「問題はないんです。ただ、私たちはずっと一緒ですから、言えないことだってある。それだけですよ」
     大島家は大抵一緒にいるし、その繋がりの強さは実戦でも高く評価されている。優秀な人を集めた切り込み部隊のわたしたちでさえ、連携という面で言えば彼女たちに劣る。
     苦労をともにした姉妹にすら言えないことがあるというのは、一人っ子のわたしにはよく分からない感覚だった。
    「……姉妹って、実はけっこう大変なのね」
    「本当に。でも、良いものです」
     心の底からそう思っていると分かる声だった。きっと、あまり仲が良くないわたしでも、大島家の誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろうと思えるくらいに。
    「あの、一つ聞いてもいいかしら」
    「何でしょう?」
    「二以奈さんって、浅見さんのこと大切?」
     わたしの問いに、二以奈さんの動きがピシリと止まる。そのまま瞬きすらしなくなったから、大丈夫かしらと見ていれば、その顔が、綺麗な形の良いおでこまで赤く染まった。
    「東城さんって意外と投げ込んできますね……」
    「ごめんなさい、気を悪くしたかしら……」
    「いえ、お気になさらず……」
     しばらく目を閉じて考え込んでいた二以奈さんだったけれど、観念したような顔つきで大切ですよ、と小さく呟いた。
    「姉妹とは違う気持ちです。きっと、あの人だけの。特別な大切……勿論、姉妹も特別なんですけど」
     赤みが引かないままはにかむ二以奈さんの笑顔が、羨ましいと思った。わたしには分からないことだったから。
     大切は大切。でも特別。わたしにとってそれらはすべて、お母さんに向けていたもの。特別も大切も、家族のものだった。
     お母さんが大切で特別。それは変わっていない。きっとこれからも変わらない。けれど、今のわたしには大切なものがたくさんある。頭のいいわたしに壊されたくないものが。
     そこまで考えたら、わたしの手を取ってくれた人の顔が思い浮かんだ。前に進むために一緒にいてほしいと言った彼女は、あの時どういう気持ちだったのかしら。
    「……難しいのね」
    「難しいんですよ」
     最近、朝倉さんのことばかり考えてしまうのは、ただ大切だからではなくて、特別だから? この気持ちは大切、だけじゃない?
     そうなのかしらと考えてみても、胸のあたりがきゅうっとなる感覚は前と変わらない。
     分からないまま思わず漏れた声に、二以奈さんは静かに同意してくれた。



    「東城、どっか行くのか?」
     午後五時過ぎ。午後の訓練も終わり、あと少ししたら夕食という時間に、寮室を出る準備をしていれば、ソファに腰掛けてデンチョを操作していたはずの和泉さんに声をかけられる。
    「えぇ。図書館へ本を返しに。今日が返却期限なのをすっかり忘れていたわ」
    「お前、この前も期限過ぎて司書の人に怒られてなかったか……? 次やったらペナルティだっただろ」
    「すごいわ和泉さん、よく覚えているのね! わたしは今の今まですっかりさっぱり忘れていたのに」
    「そりゃあれだけ忘れてたら逆に覚えるわ。というか、借りてるんだから忘れるなよそれくらい……」
     さっきまで触っていたデンチョから視線を上げた和泉さんは、げんなりしたような顔だ。和泉さんに覚えていてもらおうかとも一瞬考えたけれど、どう考えても怒られるのでやめた。わたしだってツッコミの鋭さで怪我をしたくはない。
    「出かけるんだったら傘持ってけよ」
    「雨、降るの?」
    「これから夕立だそうだ。デンチョの天気予報でも出てるぞ」
     そうなの? とデンチョを確認してみると、確かに雨雲が近づいている。心なしか、窓の外の景色も重苦しい。
     わたしと同じように窓の外を見た月歌さんは、読んでいた漫画本を閉じ、唇を尖らせる。
    「また雨? 最近夕立ばっかじゃん」
    「夏だから仕方ないって」
    「ユッキーのナーイスハッキーングで雨、なくせない?」
    「ハッキングで天気を変えられるわけないだろ」
    「ユッキーならできるよ! まずはやってみよ?」
    「何なんだよ、その押しの強さはどこから来るんだよ!」
     ますます顔が渋くなる和泉さんと、引く気配がない月歌さん。まだ続きそうな二人のやり取りを見ていると、ベッドで瞑想をしていた逢川さんがふらりと降りてくる。
    「めぐみん、どうしたの?」
    「タマ、ちょっと前に出かけてったやろ。スタジオに忘れもんした言うて。せやから、迎えに行ってくる」
    「ほぉ……」
    「何やねん月歌、その顔」
    「いいや? めぐみんがおタマさんのこと、好きで良かったなって思ってさ」
    「うっさいわ! ほんで何やねん東城まで! 揃いも揃ってそんな顔すんなや! 和泉、自分何とかせえ!」
    「いや、何であたしが……ほら、んなこと言ってる時間があったら早く行けよ。雨が降って来ちまう」
     和泉さんに急かされた逢川さんは、露骨に顔を歪めるも何も言わず、傘を手に部屋を出ていった。多分、あれは舌打ち一歩手前だったと思う。
     大きくため息を吐いた和泉さんが、月歌さんを嗜める。
    「はぁ……おい月歌。あんまり逢川を揶揄うなよ。東城も」
    「ごめんって。でもあたし、別に揶揄ったつもりはないんだけど」
    「あれだけニタニタしてたらそりゃ怒るわ。自分は違うみたいな顔してるけど、東城もだぞ」
    「わたし、月歌さんほどニヤニヤしてなかったわよ?」
     それに、別に揶揄うとかそういう意味合いではなく、単に微笑ましいなと思っていただけで。わたしの言葉に和泉さんの眉間の皺が深くなった。
    「それだろ、原因」
    「というかつかさっち何気に酷くない!? あたしと同じ気持ちでいたのに、しれっとあたしのことディスったよね!?」
    「そんなことはないけれど……?」
    「お前らな……はぁ。東城も本を返しに行くんじゃなかったのか?」
     和泉さんの言葉に、当初の目的を思い出す。そういえばわたし、図書館に本を返しに行くんだったわ。わたしの顔を見た和泉さんが、この世の苦いものをすべて混ぜて作った飲み物を飲んだような顔で勢いよく立ち上がった。
    「絶対忘れてただろ! この一瞬でどうやって忘れるんだよ、最早才能だろ!」
    「和泉さん」
    「今度は何だよ!」
    「デンチョは床よりソファに投げた方がいいと思うわ」
    「投げねーよ! 床にもソファにも投げたくないわ! そもそもどうしてあたしがデンチョを投げなきゃいけねーんだ! 司令官に怒られるわ!」
    「だってユッキー、今にも投げそうな勢いだったから……」
    「待て月歌、どうしてお前もそこで乗ってくるんだ」
     ツッコミの勢い的にそろそろ手に持ったデンチョを投げ捨ててもおかしくないと思ったのだけれど、どうやら和泉さんにそのつもりはなかったらしい。確かに彼女はハッカーだから、貴重な電子端末を投げたりはしないだろう。それにもし壊れでもしたら、和泉さんの言う通り、司令官にそれはそれは詰められるだろうし。
     面白そうという理由だけで乗っかってきた月歌さんと顔を見合わせて頷けば、和泉さんは今度こそ頭を抱えた。
    「……とりあえず、東城はさっさと図書館へ本を返しに行ってこい。そろそろ出ないと、夕食の時間に遅れるぞ」
    「そういや、かれりんもまだ帰ってこないね」
    「朝倉か? ゲーセンに行くって言ってたし、直接カフェテリアに来るんじゃないか」
     今度こそ部屋を出ようかとした時、ふと和泉さんが口にした人の名前が、わたしの動きを止めた。
     確かに、和泉さんが言った通り、訓練が終わってから朝倉さんはゲームセンターに寄りたいからと一人だけフレーバー通りの方へ向かっていった。時々月歌さんが一緒について行ったりもするけれど、今日は一人だった。彼女が一人で行動することは珍しいわけではないし、遅刻する人でもないから、心配することはないけれど。
    「わたしも本を返したら直接カフェテリアへ向かうわ」
    「オッケー、あたしたちは二人で行くから気にしなくていいよ」
    「勿論。それじゃごゆっくり」
    「あたしたちについての話のくだりは何も気にならないのか……?」
     扉が閉じる寸前に和泉さんの声が聞こえたけれど、残念ながら内容までは聞き取ることができなかった。

     図書館で本を返して学舎を出ると、すっかり地面はずぶ濡れになっていた。庇の下から空を見上げれば、宿舎を出た時は溜め込んだ水分を落とさないようにしていた雲から、勢いよく水の粒が溢れていた。文字通りバケツをひっくり返したような、見事な夕立だ。
     この中を傘無しで歩けば、一分もしないうちにずぶ濡れになるだろう。夏とはいえ、濡れれば冷える。
     夕立は激しく、しばらくはこの勢いのまま降り続きそうだ。傘を持って来ていてよかった。和泉さんに後でお礼を言わなきゃ。
     そう考えながら傘の留め具を外したところで、そういえば朝倉さんは傘を持っていないのではないかと思い浮かんだ。彼女はいつもフードを被っているけれど、この雨の中では、あまり大した効果はないだろう。これから夕食だから、入浴までは少し時間が空く。風邪を引くと、良くないわよね。
     そうと決まれば、早かった。傘を広げて空の下へ繰り出せば、瞬く間に雨粒が傘に当たる音が聴覚を占める。そのまま、カフェテリアとは逆方向、フレーバー通りへと足を向ける。
     たまたま手に取った傘が大きいものだったらしい。わたし一人で使うにはあまりにも余裕があったけれど、二人入っても片方が押し出されることはなさそうだ。
     傘を持っていない隊員が、わたしの横を駆け抜けて行く。湿度の高い重い空気をかき分けて歩くのは、夜でもないのに何となく不安になった。それはどういうものなのかと考えてみれば、お母さんがいない夜によく似ていた。すれ違う人はいて、わたしは決して一人ではないのに、傘の外の暗い灰色がわたしをたった一人しかいないように切り取っている。暗くなりつつある薄闇の中に立つ時計塔は、今は誰もいないだろう。
     嫌な孤独感を抱えながらモザイク橋を通ってフレーバー通りへ辿り着くと、何もかもが急に明るくなった。
     雨で光が拡散して、普段よりもぼんやりとしたフレーバー通りは、それでも人がまばらにいる。通りの中央、シアターバトルへ足を踏み入れる。映画館特有の匂いとカーペットのふんわりした足触りに迎えられながら周囲を見回せば、入ってすぐのソファに朝倉さんが座っているのが見えた。
    「朝倉さん!」
    「あれ、つかささん?」
     デンチョを操作していた朝倉さんは、わたしの声にはっと顔を上げる。彼女の驚いた表情は少し珍しい。
    「……もしかして、あたしを迎えに来てくれたの?」
    「えぇ! 図書館に本を返して来たのだけれど、ちょうど雨が降って来て……もしかしたら朝倉さん、傘を持っていないんじゃないかと思って」
    「そうなんだ……ありがとう、つかささん。帰ろうとしたら大雨で。もうすぐ夕食だし、濡れたらどうしようって困ってたの」
    「いえ……いいのよ。わたしも和泉さんに雨が降るって教えてもらって傘を持って来たから」
    「あぁ、デンチョの天気予報。さすがユキさん。あたしも先に見ておけばよかった」
     朝倉さんはそう言って入り口の向こうを見つめる。それから、来てくれて本当に良かった、とわたしに微笑んだ。
    「つかささんが来てくれたおかげで、濡れずに済みそう……あ、もう皆、カフェテリアにいるみたい」
    「えっ、本当?」
    「ほんと。連絡来てる」
     慌ててデンチョを開けば、部隊のグループチャットに和泉さんとから『もうお前ら以外着いてるぞ』とメッセージが入っている。時間的にも早く行かないといけない。
    「いけない。朝倉さん、わたしたちも行きましょう?」
    「うん……えっと」
    「どうしたの?」
    「これ、傘って……一つ?」
    「そうよ?」
     朝倉さんの視線は、私が手にした傘に注がれていた。何せ、朝倉さんを迎えに行こうと思い立ったのは雨が降り出してからなので、当然ながら傘は自分の分しかない。
     何か問題かしら。ひょっとして、二人入ったら狭いんじゃないかって思ってる?
    「大丈夫よ! この傘はけっこう大きいの。朝倉さん、華奢だし、二人で入ってもびしょ濡れにはならないわ」
    「……」
    「えっと……もしかして距離が近くなるの、嫌だったかしら。それならわたし、走ってカフェテリアに行くけど……」
     傘を見つめて何も言わない朝倉さんに、一つの傘に入るのが嫌だったのではないかと不安になる。もしかして、傘だけ置いていけってこと?
    「ううん、違う。わざわざ傘を持って来てくれたつかささんに、雨の中走って行けなんて言わない。ただ、そう……たくさん雨粒がついてるから、やっぱりけっこう雨降ってるんだなって思って見てただけ。」
    「そ、そう……? それならいいんだけど」
    「ほら、そろそろ行こ? みんな待ってるし」
     シアターバトルの扉を開ければ、まだ雨は激しく降り続いていた。夕立にしては長い。止むまではまだかかりそうだ。
     傘を開けば、残っていた雨粒が弾けるように飛んだ。けれど、上書きするようにそれ以上の雨粒が傘に打ちつける。
    「あの、狭くない? 濡れたりしてないかしら」
    「大丈夫」
    「じゃ、じゃあ行きましょうか……」
     隣の朝倉さんは思ったよりも近い。誰かと同じ傘に入った経験なんて、わたしにはない。朝倉さんとわたしは、確か五センチの身長差がある。いつもなら大して気にならないはずなのに、近いからかしら。彼女はこんなに小さかったかと思ってしまう。
    「ごめんなさい、傘を持ってもらって」
    「いいのよ、わたしの方が身長が高いのだから」
    「そうね。つかささんとの身長差、何だかいつもよりあるような気がする」
     そう言ってわたしを見た朝倉さんの顔も、いつもより少し下にあった。距離がある時はこんな風に感じなかったのに。
     そう考えると、距離の近さばかりを意識してしまって落ち着かない。何だか恥ずかしくて、自分が自分ではないような気がして。それはきっと、今がいつもと違うことばかりだからだ。
    「つ、つかささん」
    「あっ、えっ、どうかしたかしら……」
    「歩くの早くない……? 急にどうしたの?」
    「あ……」
     指摘されてから、自分が少し早足になっていたことに気がついた。元々の歩幅にそう違いはないから、朝倉さんが置いていかれることはなかったけれど。
    「ごめんなさい……」
    「ううん、いいの。でも……そうね」
     傘を持っていたわたしの右腕にするりと絡まった朝倉さんの左腕。腕を組んでいると脳が理解すると同時に、心臓がぎゅんっと変な音を立てた気がした。
    「ああああああの、朝倉さん……?」
    「こうしたら、同じ歩幅で歩ける。それに近くなった方が、濡れずに済むし」
    「あ、あぁ、そうね、とても合理的で素晴らしい考えだと思うわ……!」
     ね? と目を細めて微笑む朝倉さんの顔を直視できなくて、慌てて視線を逸らした。ざあざあと音を立てる雨が、空から線状に落ちていくのをぼんやりと見つめる。わたしの気持ちは浮ついたまま、雨のように落ちてこない。
     さっきぎゅんっと音を立てた心臓はまだ変なままだ。朝倉さんは真っ当な考えで腕を組んだのだから、わたしみたいにおかしな気持ちにはなっていないのだろう。
     背中が熱くて、でも、朝倉さんと触れている右腕はもっと熱い。手を繋いだ時よりも近くて、触れた部分が多くて。手を繋ぐ方が直接的な接触のはずなのに、今の方が彼女を意識してしまう。
     今度は早くならないようにゆっくりと。そわそわする気持ちを抑えて歩いていれば、くすくすと小さな笑い声が耳に届く。
    「朝倉さん……?」
    「ふふ、つかささん、ぎこちない」
    「う……」
     動きが固い自覚はあった。けれど、それを朝倉さんに指摘されると、やっぱりそうなのね、と頬が引き攣った。
    「だって、朝倉さんが急にこういうことするから……」
    「いやだった?」
     こちらを覗き込んでくる朝倉さんの温かな色をした目は、少しだけ意地悪だ。案外彼女は悪戯好きで、人を揶揄ってくる時があった。
    「……嫌じゃない、けど。朝倉さんが濡れないなら、それで」
    「そう言ってくれるのは嬉しい。でも、つかささんが濡れるのもダメ」
    「え……ひゃっ!」
     左手の甲に触り慣れない感触。一体何かと見てみれば、黒くてふさふさしたものがわたしの手の甲を撫でている。朝倉さんの尻尾だった。よく見慣れたものだけれど、触れられるとなれば話は別だ。一度興味本位で触った時は、危うくカレンちゃんに殺されかけたそれが今、わたしの手の甲から指先を伝う水滴を拭っていた。
    「尻尾……濡れてしまうわ」
    「これは濡れてもいいの。それよりも手、濡れたら冷えちゃうから」
     肩まではいかないけれど、左腕や手の甲は雨に濡れていた。大した濡れ方でもなく、それくらいなら後でハンカチで拭いてしまえばいいからと、気にしていなかった。
    「ありがとう……でも、よく気がついたわね。朝倉さんからは陰で見えないと思うのだけど」
    「どうしてだと思う?」
    「え? えーっと……」
     どうしてかと聞かれても。わたしには朝倉さんの考えていることはよく分からない。彼女がいつも優しい人だからではないのかしら。
    「優しいからじゃないの?」
    「あたし、優しいかな」
    「違うの?」
     朝倉さんが優しくないと言うなら、世の中の優しいのハードルはそこそこ上がる気がする。わたしの言葉に、組まれた腕に力が込められた。また少しわたしたちは近くなって、思い出したように心臓がおかしくなる。
    「つかささんがあたしのことを優しいって思ってくれるなら、嬉しい」
     いつもそう思ってる、とは言えなかった。朝倉さんの言葉と表情が、わたしの口を縫いつけてしまったから。
     わたしを見るその目には、既視感があった。思い返せば、わたしは何度かその視線を向けられたことがある。話を聞いてくれる時や、今みたいに一緒に歩いている時。
     朝倉さんの向日葵色の目がわたしを見ると、胸が温かくて、でも少しだけ痛くなる。さっきみたいに心臓がぎゅんって音を立てるようなものじゃない。とくん、と拍動するのに合わせて、痺れるような痛みを感じる。
     さっきからわたしの心臓はぎゅんっとなったり、とくんとしたり忙しい。この身体は人間ではなくて、ヒト・ナービィなのに、不思議。きっとわたし、オリジナルにはないことを経験してる。
    「あの、朝倉さん……」
     この気持ちと痛みは、朝倉さんに聞けば分かるのかしら。
    「なに?」
     小さく首を傾げる朝倉さん。普段よりも近い距離で見たからかしら。特に初めて見るわけでもない彼女のその仕草を、どうしてか今は可愛いと思ってしまった。
    「……ううん、何でもない」
    「ふ……変なつかささん」
    「……変かしら」
     そう言われると、そうかもしれなかった。やっぱり、最近のわたしはおかしいもの。朝倉さんのことばかり考えて、彼女の言動に一喜一憂して、挙げ句の果てに心臓もこんなにおかしくなって。それにさっきのは何? 人のことを可愛いって。そんなこと、考えたことない。
    「おかしいに決まっておろうがーーーー!!!」
    「いやあああああっ!? カレンちゃん!?」
     右腕が急に強い力で掴まれる。すぐ隣にいたはずの彼女のパーカーの耳は立ち、尻尾の先端も鋭い。そしてフードの中から覗く赤い目。カレンちゃんだ。
     殺されると慌てて距離を取ろうとするも、右腕を掴まれ、引き剥がせない。相変わらず恐ろしい身体能力だ。見た目だけなら、元の華奢な女の子のままなのに。
    「なんじゃ、諜報員? その程度の力でワシを振り解けるとでも思っておるのかぁ?」
    「思ってません! でも殺されたくはないから距離は取りたい!」
    「馬鹿め、元々こんな近いのに殺すなど、ワシの美学に反するに決まっておるであろう……そもそも覚醒していない貴様を殺すなど、赤子の手をひねるよりも簡単なことよ……」
    「事実だけどそれはそれで悲しくなる……!」
     つまりカレンちゃんからすれば、わたしなど取るに足りないのだ。実際、覚醒しなければカレンちゃんに打ち勝つことはできないのだけど。
    「殺すなら貴様ではなく、覚醒した貴様じゃなぁ……絶対に殺す、殺す、殺すうううう!」
    「怖い怖い! この至近距離で殺害宣言しないで!」
    「じゃがなぁ!」
    「ひぃっ……!」
     ずいっと顔を近づけられる。フードの陰から覗く真っ赤な目、眉間の深い皺。同じ朝倉さんの顔なのに、こうも印象は変わるのね、と他人ごとのように感心するほどに別人に見えた。
    「朝倉と近いだけで鼻の下を伸ばすようなやつと朝倉を一緒の傘に入れられるかーーーー!!」
    「へっ、えっ……ちょっとカレンちゃん!」
     言い捨てると同時に、カレンちゃんが走り出す。恐ろしい速さだ。まったくもって追いつけない。そのうえ、わたしが持っていたはずの傘まで強奪されたので、瞬く間に雨に濡れていく。
    「ひゃひゃひゃ……! 貴様なぞ、濡れてしまえばいい!」
    「いやよ、風邪引いちゃう!」
     片手で傘を差しながら走るカレンちゃんとの距離は縮まるどころか遠ざかっていっている気すらする。雨脚はさっきより緩まってはいるものの、それでもカフェテリア前に着く頃には、そこそこ濡れてしまった。
    「はぁ、はぁ……つ、着いたわ……」
    「つかささん、大丈夫?」
    「え、あぁ、朝倉さん……平気よ、これくらい……」
     普段の訓練の賜物か、体力的な疲労はそこまでなかったけど、なんだかすごく疲れてしまった気がする。 
     カフェテリアの入り口でわたしを待っていたのは、カレンちゃんではなく朝倉さんだった。どうやらカレンちゃんはカフェテリアへ走って行っただけらしい。
     入り口隣に設置されたベンチに座るでもなく、その手の中の傘をぼんやりと見つめていた朝倉さんは、やっと雨から逃れたわたしを視界に入れると、ことを理解したのか慌てて駆け寄って来た。
    「ごめんなさい、カレンちゃんのせいでつかささんが濡れちゃった」
    「いいの、気にしないで……」
     むしろ殺されることに比べれば、雨に濡れるくらいどうということはなかった。本心を言えば、濡れないのが一番ではあるけど。それよりも至近距離で見たカレンちゃんが、今日の夢に出て来ないことを祈りたかった。
     額や頬へ流れてくる雨がくすぐったい。カフェテリアに入る前に少し拭いた方がいいわね。制服は乾くとして、せめて顔や手だけでも。
     わたしがポケットからハンカチを出すよりも早く、頬を伝い落ちる水が拭われる。柔らかな布の感触と、柔軟剤の匂い。支給品の柔軟剤なのに、違う人の匂いがした。
    「ん……いいわよ朝倉さん。自分で拭けるから」
    「ううん、これくらいさせて。傘を持って来てくれたのはつかささんなのに」
     そこまで気にしないでほしかった。またカレンちゃんから、朝倉にそんなことをさせるなとか言われそうだもの。さっきだって……。
     思い返せば、聞き捨てならないことを言われた気がする。
    「ねぇ、朝倉さん」
    「なに?」
    「わたしって鼻の下伸びてるの?」
     聞いてみれば、朝倉さんはよく分からないというように眉を顰めた。それから怪訝そうな顔をしたけれど、軽く息を吐く。ため息というには浅すぎた。
    「カレンちゃんに言われた?」
    「まあ、そう。容姿には自信があるのだけど、カレンちゃんにはそう見えるのかしら。朝倉さんはどう思う?」
     カレンちゃんにはそう言われたけど、朝倉さんから見たら違うのかしら。人格が違うから、容姿の見え方も変わったりする?
     疑問にちょっとした興味を混ぜて聞く。朝倉さんは少しの間、無言だった。黙ってわたしの顎から首筋をハンカチで柔らかくなぞっている。
     さっきまでの横顔とは違って、真正面から朝倉さんと向き合っていることに気がついて、彼女の顔を見つめてみる。朝倉さんはわたしの顎か首の辺りを見ているから視線は合わない。
     何を考えているのかしら。表情に何も浮かんでいないから、朝倉さんの思考が分からない。いつものような柔らかさも、有事の時に見せる真面目さもない。知らない顔に、距離を感じた。視線が合わないからかしら。いつもなら目を合わせてくれるのに。
     不安になり始めて少し経ってから、わたしは口を開いた。なんだか、この空気が耐えられないと思ってしまったから。
    「……ねぇ、やっぱりそう見える?」
    「ううん、あたしは別にそうは思わないけど」
    「ちょっと考えてたりしない?」
    「まさか。カレンちゃんも変なことを言うのねって思ってただけ」
    「本当?」
    「あたしがつかささんに嘘ついたことある?」
    「……ないわね」
     悪戯をすることはあっても、朝倉さんは嘘を吐く人ではなかった。現に今までを思い出しても、嘘を吐かれた記憶はない。
     わたしの答えに朝倉さんはほらね、と笑みを深める。特に勝負をしたわけではないのに、ちょっと負けた気がした。
    「はい、つかささん。手、出して」
    「手?」
    「顔は拭けたけどまだ手が濡れてるでしょ。冷えちゃう」
    「そんな、顔だけで十分よ。手は別に……カフェテリアに入ったら洗うもの」
    「あたしがしたいの。だめ?」
     その顔と声は良くない。今の天気のようなしっとりした声と、訴えかけるような表情。よく月歌さんが抗えないと言う気持ちが、今は何となく理解できた。断ってはいけない気がする。
    「だめじゃない、けど」
    「それなら……」
     差し出された朝倉さんの薄い手のひらに、まだ濡れている自分の手を重ねる。もう少しで触れるところで、彼女の視線が違う方向に向いていることに気がついた。そちらを目で追ってみると、カフェテリアの扉の隙間から、よく見慣れた赤い目がこちらを覗いている。朝倉さんが名前を呼んだ。
    「月歌さん」
    「あ、やべ。見つかっちゃった」
    「そんなところで何してるの?」
    「そりゃ、アレだよ。二人の中学生みたいな初々しいやり取りを見守ってたんだ」
    「茶化さないで、もう!」
     月歌さんはいつもそう言う。別にわたしたちは中学生じゃないし、初々しいやり取りもしてない。さっきまでのやり取りを見られていたのは恥ずかしかったけど。
     怒るわたしを意にも介さず、月歌さんはカフェテリアの扉を開ける。
    「いやぁ、二人ともなかなか来ないから待ってたんだけどさ。カフェテリアの入り口に来たと思ったら、なんか良さげなことしてるじゃん? それでつい」
    「良さげなことって何……? ただ雨に濡れたから、朝倉さんが拭いてくれただけよ」
    「それが良さげなんだって。ね、かれりん」
    「そうね」
    「んふ、ほらつかさっち。かれりんもこう言ってるよ……ま、とりあえずご飯食べようぜ。あたしお腹ペコペコなんだ」
     適当に流されたようにも思えたけど、お腹が空いたのはわたしも同じだったから、何も言わないことにした。月歌さんは先に行ってるからと、皆が待つ席へさっさと戻ってしまった。朝倉さんが傘立てに傘を立てるのを見ながら、今度こそ自分のハンカチでさっと手についた雫を拭く。自分でやると数秒で終わってしまった。
    「朝倉さん、どうかした?」
     カフェテリアに入らず、わたしをじっと見ていた朝倉さんに声をかける。待たせていたかしら。
    「ううん、残念だなって」
    「何が?」
    「つかささんとの時間が終わっちゃったこと」
     そう言って目を伏せる。少し影が掛かった向日葵色の目は、夜道の街灯を思い出させる。
    「その……またいつでも時間は作れるわ」
    「本当?」
    「もちろん! その、わたしも朝倉さんと一緒にいる時間は大切だもの……」
    「つかささんがそう言ってくれるの、嬉しい」
     朝倉さんが笑う。いつものような、微笑んでいるのとは違う笑い方で、初めて見る顔だった。
     ゲームだって、お喋りだって、朝倉さんとするのは楽しい。とてもいいものよね。わたしと朝倉さんは、いい関係を築いていると思う。
     ……この関係を、何と呼ぶのかしら。友達にしては、なんだか行き過ぎている気がする。多分。頭のいいわたしは、そもそも友達がいなかったから知識としてしか知らないけど。
    「つかささん、早く行こう?」
    「あ、えぇ。そうね。皆待ってるものね」
     思考は朝倉さんの声に止められた。今は考える時間じゃない。二人で、皆が待つテーブルへ向かえば、他の四人は食事を取ってきたところのようだった。どうやら今日は鯵の南蛮漬けらしい。
    「遅かったな。……待て東城。お前、傘持って行ったよな?」
    「持って行ったけど、それが?」
    「なんでそんなに濡れてるんだ……?」
    「シアターバトルへ朝倉さんを迎えに行ったら、ここへ来る途中カレンちゃんに傘を強奪されたの」
     この上なく分かりやすい説明をしたら、和泉さんの表情は歪められた。和泉さんって黙っていたら美人なのに、げんなりした顔ばかり見ている気がする。
    「……いや、まあ。殺されなかっただけよかったんじゃないか」
    「そうよね!? わたしもそう思う!」
    「うわあああ! なんだよいきなり! 助かったことへの食いつきがよすぎるだろ!」
     この気持ちを分かってくれる人がいてよかった。かぼちゃの煮物の小鉢を机に置いた和泉さんに感動のあまり食い気味に反応すれば、逆に引かれた。
     ギョッとした顔の和泉さんは、メガネのフレームをクイっと上げながら、お前らもさっさとご飯とって来いと言う。
    「そうね。行きましょう、朝倉さん」
    「うん」
     トレーを受け取る前に手を洗わなければならない。壁沿いに設置された手洗い場へ向かうと、流石に人は少なかった。待ち時間もない。
     手を洗いながら、何気なく前にある鏡を見て、あら、と思った。
    「つかささん? 水、出しっぱなしよ」
    「……え、えぇ。ごめんなさい。待たせてるわね」
    「……? うん、行こう」
     朝倉さんの声に慌ててトレーを受け取りに行く。けれど、別人のような顔をした鏡の中の自分が、どうにも頭に焼きついて離れなかった。


    「どったの、つかさっち。美しいお顔がぐにゃぐにゃになってる」
    「……例えぐにゃぐにゃでも、わたしの顔で間違いはないのよね」
    「本当にどうしたんだ?」
     私物の鏡をテーブルに置いて、頬をぺたぺたと触っていれば、月歌さんが二段ベッドの上段から身を乗り出してこちらを見ていた。
    「化粧水の新しい馴染ませ方でも研究してる?」
    「いいえ、お肌のケアはもう終わってるの。月歌さんは、自分の顔が別人みたいに見えたことってある?」
    「急に難しいこと聞いてくるなあ」
     消灯時間まではそんなに時間がない。鏡の中のわたしはいつも通りで、何だかもう気のせいだったのかしらという考えが頭に広がっていく。
    「でもそういう時ある。自分ってこんな顔してたっけ? みたいな」
    「月歌さんにもあるの?」
    「おうよ」
    「それ見た時ってどう思うの?」
    「え? 喜ぶ!」
    「……?」
     予想していなかった月歌さんの言葉に、思わず眉を顰めてしまった。月歌さんの言動が予想できた試しなんてないし、むしろ予想できないのが予想範囲内なのだけど。
     よいしょ、と言いながら、言葉の割に俊敏な動きで月歌さんが二段ベッドから飛び降りる。
    「おい月歌、ベッドから飛び降りるなって言っただろ。うるさいし埃が舞う」
    「ごーめんって。つかさっちの危機だったから許して」
    「宿舎内で危機に陥るって何なんだよ……」
     難しい表情でデンチョを改良していた和泉さんが、口をへの字にしながら顔を上げた。梯子なんて面倒くさくて使ってられるか! とベッドから直接飛び降りる度に、月歌さんは和泉さんに怒られている。真下で寝ているから、余計に振動や埃の影響を受けるのだろう。
    「とにかく、静かにしてなさい」
    「はぁい」
     さっき月歌さんが素直に謝ったからか、和泉さんはそれ以上小言を言わなかった。ベッドの中でまた難しい顔をしながらデンチョとにらめっこをし始めた和泉さんの、一瞬だけ見えた緩んだ目尻。月歌さんにだけ向けられたそれは、どこかで見たことがあるような気がして。
    「ユッキーってたまにお母さんだよな」
    「んなわけあるか。お前みたいな大きい子どもがいた記憶ないわ」
    「やだお母さん反抗期なの?」
    「うっせえな! あたしのことはもういいから東城の面倒見てやれよ! 危機なんだろ!」
    「そうだった!」
     へらりと笑う月歌さんの言葉に、あぁ、と合点する。確かに、お母さんのようだった。でも、当たり前だけど和泉さんは月歌さんのお母さんじゃない。けれど、さっきの和泉さんの視線の温度を、わたしはよく知っている。わたしもお母さんに、ああいう目を向けてもらっていたから。
     和泉さんが月歌さんに向けている感情が、他の人とは明らかに違うものだということはよく知っている。それが、世間一般で言う恋愛と呼ぶものにカテゴライズされることも。
     母親が子どもに恋愛感情を向けるということは、一般的ではない。和泉さんが月歌さんに向けた視線は、何と呼ぶのが正解なのかしら。
    「おーい、つかさっち?」
    「あ……何かしら」
     ひらひらと目の前で手が揺れている。見れば、月歌さんがこちらを覗き込んでいた。
    「そんなに深刻な問題だったりする?」
    「いいえ、そこまでではないのだけど……えぇと、何の話だったかしら」
    「何だっけ、美味しい刀削麺の作り方?」
    「違う気がする……あぁ、自分の顔が別人みたいに見えるって話」
    「そういやそんな話だった!」
     言い出した手前、思い出せてよかった。月歌さんは、自分の顔が別人のように見えたら喜ぶって言ったから、どういうことか聞こうと思っていたんだった。
    「どうして喜ぶの? 不安にならない?」
    「だって自分の知らない顔を知ることができたってことじゃん。あたしだったら、こういう顔もできるんだなって思うけど」
    「……それが、本当に知らない自分だったらどうする?」
    「んー……」
     わたしの問いに、月歌さんは少し考え込む。真っ赤な右目が宙を彷徨ってぐるぐる回る。そうしてしばらく考えてから、彼女は口を開いた。
    「別にどうもしない」
    「は……」
    「だって自分は自分だもん。あたしが今まで知覚できなかった自分を見つけただけ。だからさ、あんまり難しく考えなくていいんじゃない?」
    「そうかしら……」
     月歌さんは簡単に言ってのけるけど、それは月歌さんだからできるのではないかとも思ってしまう。彼女はたくさんの輝きに溢れていて、すぐそばにいると月歌さんなら何でもできてしまうだろうと、本当に思ってしまうのだ。カリスマという言葉が完璧に当てはまるわけではないけど、月歌さんには圧倒的なカリスマ性がある。
     つまり、月歌さんを比較対象にすると正しい分析はできない。わたしも優秀な部類に入るし、座学でいえば月歌さんよりも成績は上なのだけど、こういうところで月歌さんに勝る人はそうそういない。
    「見て、つかさっち」
    「え? ……やだ、何それ」
    「せっかく鏡があるんだし、変顔を極めようかと思って研究してみた」
     恐らくこの部屋の外の人には見せられない顔だった。月歌さんの整った顔立ちが、最早原型を留めていない。まさか変顔の才能まであるとは思わなかった。神様は一体月歌さんにいくつ輝きをあげたのだろう。
    「ふふ、ふふふっ……月歌さん、それ、見せちゃダメな顔よ……ふ、ふふっ……」
    「お、つかさっちのツボに入った。これとかどう?」
    「だっ、だめ、ダメよそんなの……!」
     ぐにゃんぐにゃんと恐ろしいくらいに月歌さんの顔はおかしなことになっている。伸縮性が凄まじい。ゴムでできていたりするのかと疑うレベルだ。
     月歌さんが満足して変顔を止めた時には、すっかりお腹が痛くなってしまった。
    「ふー……つかさっちがいい反応するもんだから、ついついハッスルしちまったよ」
    「すごいわ月歌さん、人の顔ってあんなに変わるものなのね!」
    「だろ?」
     変顔のパフォーマンスでお金を取れそうなくらいクオリティが高かった。ちょっとニヒルに笑った月歌さんの顔はすっかり元の端正なものに戻っている。あんな顔が作れるものなのね、と感心していれば、部屋の扉が開く。
    「なんや騒がしいな」
    「パーティータイムでしたか!?」
     外の自販機に飲み物を買いに行った逢川さんと國見さんが戻ってきたようだった。逢川さんの後ろから、一緒にエナジードリンクを買いに行くと行ってついて行った朝倉さんがひょっこりと小さく顔を覗かせた。
    「パーティーじゃなさそうだけど。楽しそう」
    「えぇ、楽しかったの。すごいのよ月歌さん! さっき……」
    「おっと、つかさっち。それは言わない約束だぜ」
     言いかけたわたしの言葉は、他ならない月歌さんに遮られた。
    「どうして?」
    「そりゃあ、あんなのはほいほい人に見せるものじゃないからさ。それに……」
     月歌さんがそっとわたしの耳元に顔を寄せる。こういうのは新鮮で、少しドキドキしながらわたしも耳をすませた。
    「どうでもいいことを秘密にするって、なんかカッコよくない?」
     その言葉に目を見開く。確かに!
    「そうね……」
    「なんやねん自分ら、急に黙って。けったいなやっちゃな」
    「逢川さん、そういうわけでこの回については黙秘権を行使させてもらうわ……」
    「いやほんまに何言うてんねん……」
    「ずるいです! 月歌さんとつかささんばかり仲良しで!」
    「タマ、多分あそこに入るのやめといたほうがええで」
     言いたい気持ちはあるけど、それ以上に誰かと秘密を共有するのが嬉しい。國見さんには少し悪い気持ちがあるけど、逢川さんが上手い具合に引き離してくれている。
     わたしの隣に座った朝倉さんがエナジードリンクの缶を開けた。カシュ、と軽い音。
    「こんな時間に飲んで夜眠れるの?」
    「カフェインなら大丈夫」
    「それならいいけど……カフェインの摂りすぎは皮脂の過剰な分泌に繋がって、毛穴トラブルになることもあるから気をつけてね」
    「そうなの? やっぱり身体には良くないのね」
     朝倉さんは手の中の缶を見つめる。派手な色合いの缶は、明らかに身体に悪影響だと声高々に主張している。わたしは飲んだことがなかった。
    「それ、美味しい?」
    「うーん、なんだろ……甘い」
    「ふぅん……」
     確かに、人工的な甘ったるい匂いがする。胸焼けがしそうなくらいのそれは嗅ぎ慣れない。ケミカルというか、小さい子が病院で処方されるシロップ薬を思い出させた。
    「飲む?」
    「え?」
    「すごく視線を感じるから。飲んでみたい?」
     わたしがあんまりにも見ていたからだろうか、朝倉さんは手の中の缶を揺らして笑う。中の液体がちゃぽん、と音を立てた。
     どうぞ、と手渡されたそれは、朝倉さんの体温で少しぬるい。思ったよりも軽くて、そんなに喉が乾いていたのかしらと考えてから、せっかくだしと一口いただくことにした。
    「どう?」
    「やっぱり甘いのね……なんだか、不思議な味」
    「嫌い?」
    「……嫌じゃない、わね」
     匂いと同じくらい甘ったるい液体が喉を落ちていった。もっと纏わりつくような甘さかと思ったけど、想像よりは飲みやすい。疲労した時に飲むイメージが強いけど、これは何本も飲んでしまいそうな気がする。
    「あ」
    「朝倉さん?」
     小さな声が耳に届く。何かあったかしらと思って隣の朝倉さんを見れば、向日葵色の目がいつも以上に丸くなっていた。
    「つかささん、ごめんなさい。その……飲みかけを渡しちゃって」
    「飲みかけ……? あ……」
     つまり、と思考が至ったところでそのまま止まる。視線が自然と下ろされて、じっと缶の飲み口を見つめた。朝倉さんの言葉ひとつでこうも簡単に意識してしまうものなのか。
    「べ、別にわたしは気にしないわ。朝倉さんこそ、嫌じゃないかしら」
    「あたし? あたしはつかささんなら……いいかな」
    「そ、そう? なら良かったわ……これ、ありがとう。お肌に影響がないくらいなら、たまに飲むのもいいわね」
     自分でも何を言っているのか分からないまま、缶を朝倉さんに返す。つかささんなら、という言葉に心が浮ついている。他の人がダメでもわたしなら許されるという、ちょっとした特別感。
    「……あいつらも早く付き合えや」
    「間接ぶっちゅーした! めぐみさん、間接ぶっちゅーです!」
    「こらタマ! 声がデカい!」
     逢川さんと國見さんの声が聞こえて、そういえば別に二人きりでいたわけではないことを思い出す。つまり、さっきまでのわたしと朝倉さんのやりとりは部隊の他四人にしっかりと見られていたわけで。
    「あ、あああ、朝倉さん……」
    「どうしたの?」
    「その……」
     なかなか言い出せないわたしに、朝倉さんがん? と首を傾げた。言うのを急かされるわけでもなく、ただじっとこちらを見つめられる。普段なら特に気にならないはずのその視線すら、今は合わせることもできない。
    「……ふふ、ちょっとからかいすぎちゃった」
    「からかわれたの、わたし?」
    「そんなつもりは無かったんだけど。つかささん、回し飲みとかしたことなかったんだ」
    「したことはないけど……」
     わたしの返事に朝倉さんはそっか、と小さく呟いた。その声はどこか遠くに感じた。
    「さっきも言ったけど、嫌じゃないわよ?」
    「え?」
    「だから朝倉さんが気にすることはないわ。お互いに嫌じゃないって言ってるし、それに親しい間柄なら、こういうこともするんでしょう?」
     ここに来るまでのわたしはしたことがないから、少しドキドキしたけど。朝倉さんが嫌ではないなら、問題はない。彼女がわたしのことを好意的に思ってくれているから許されることなのだし。
    「そうかもね」
     朝倉さんの言葉は短かった。パジャマ姿のおかげで陰らない向日葵色の目が、わたしを見ている。その目を見て、あ、と思った。
    「あ……」
    「おわ、もうこんな時間じゃねーか。お前ら、消灯時間が近いぞ。寝る準備しろよ」
     朝倉さん、と言いかけた声は途中で止まった。わたしと月歌さんに邪魔されてから旧式の有線イヤホンをつけて作業をしていた和泉さんが現実世界に戻って来たらしく、就寝準備を促される。
    「……なんだこの空気」
    「ユッキー、今のはバッドハッキーング、だ」
    「は?」
    「和泉……今のは間の読み方を誤ってるわ」
    「何の話だよ」
    「ユキさん……」
    「待て待て待て! 國見にまでそんな目で見られるのか!? 何をしでかしたんだあたしは!」
     後ろから聞こえる和泉さんの声の方へ振り向くことが何となくできない。四人の騒がしい声はいつも通りなのに。
    「つかささん」
    「……なに?」
     こちらを見る朝倉さんは特に変わった様子もない。わたしとしては、さっきまでのやり取りを後ろで騒ぐ人たちに茶化されているように思えるのだけど、朝倉さんはそう感じてはいないのかもしれない。
    「歯磨きして寝よ?」
    「えぇ……そうしましょう」
     後ろではまだ和泉さんが三人から詰められている声が聞こえてくる。それは見ないふりをして、朝倉さんと二人でさっさと歯を磨いて、おやすみを言い合ってベッドへ潜り込む。
    「……」
     ほどなくして、全員が就寝準備を終えて、部屋の照明が落とされた。真っ暗なベッドの天井をただじっと見るのにも飽きて、寝返りをうつ。壁を見つめたり、枕に顔を埋めてみたり。色々してみたけど、目が冴えていた。
     結局、最初と同じ仰向けになって、ベッドの天井を眺めるところで落ち着いた。明日も訓練があるから、早く眠りたい気持ちはあるけど、まだ眠れそうにない。
     薄闇の中で、向日葵が咲いている。実際に咲いているとかじゃなくて、その。朝倉さんがさっきわたしを見た時の目。それにやっぱり既視感を覚えたのだ。
     今までも何度か感じてきたその既視感の正体を、ずっと考えていた。
     和泉さんが月歌さんに向けていたものにも、二以奈さんが浅見さんに向けていたものにも重なる。
     けれどそれだけではなくて、お母さんがわたしを見る時の目にも似ているのだ。つかささん可愛い、と言われる時が、きっと一番よく現れている。
     ということはつまり。
     朝倉さんはわたしのことを大切で特別に思ってくれているということよね。そうよね。
     心の中でうんうんと頷けば、ふわりとあたたかな気持ちが広がった。朝倉さんのことを考えると、わたしの心はあたたかくなる。朝倉さんも、わたしのことを考えるとこんな気持ちになるのかしら。同じだったら嬉しい。
     わたしも朝倉さんを大切に思っている、のだと思う。他の人のことを考えても、こんな気持ちにはならないし、そもそも距離の近さとか、スキンシップがどうとか、そういうことも気にすることはあまりない。朝倉さんだから、こんなに気にするし、考えている。
     今だって、天井の向こう側にいる彼女のことを考える。カレンちゃんに寝ているところを襲われて殺される、なんてことは起きていないし、特に何もなければ眠る時も朝倉さんの人格のままらしい。
     ……朝倉さん、もう寝たかしら。もうちょっとだけ話していたい、まだ一緒にいたいと思うことが、少しずつ増えていく。
     かと言って起こすわけにもいかないから、代わりに野営中に見た寝顔をぼんやりと思い出した。年はわたしとそう変わらないと思うけど、それにしてもあどけない寝顔をしていた。
     ……なんだか、ちょっと変態みたいじゃない? 人の寝顔を思い出すなんて。これは朝倉さんには言えないわね。
     明日は何を話そうかしら、と考えながら、少しずつ落ちていく瞼に従うことにした。
     



    「ねぇ、朝倉さんは紅茶とか飲むことあるの?」
     つかささんの声はよく通る。お昼休みのカフェテリアの喧騒の中でも、まっすぐな声はあたしの耳にクリアに届いた。
     さっきまで、入浴後のお肌の保湿方法について話していたはずのつかささんが、思い出したようにそんなことを聞いてきた。急にどうしたのかと思ったけど、彼女の持つカップを満たしているものが何かを思い出して、なるほどと合点した。
    「紅茶? 飲まないわけじゃないけど、あんまり」
    「そう……」
     わたしの返事に、つかささんは微妙に萎びた声を出す。表情こそあまり変わらないけど、仕草や声から感情は如実に伝わってくる。長くない代わりに濃い付き合いをする中で、つかささんが一番感情を乗せるのは声だということを知った。
     きっと、つかささんのことをよく知らない人が見たら、ただ美しく紅茶を飲んでいるだけに見えるのだろう。実際は、ちょっとしゅんとしているんだけど。
    「それに、つかささんみたいに飲んでも様にはならないから」
    「わたし?」
    「つかささん、紅茶に詳しいし、何だか慣れている感じがするけど」
    「そうね。実は紅茶には少し知識があるの。特に香りが好きで」
     紅茶の香りにそっと目を伏せる。柔らかな緑がかった青い目に長いまつ毛が影をさす様子が、まるで一枚の絵画のようで、声をかける隙を見出せない。こんなに騒がしいカフェテリアの中だというのに、つかささんはたまに、違うところにいるような雰囲気に包まれる。
    「朝倉さんがたまに飲んでいるのって、自販機で売っている紅茶よね」
    「うん。ストレートよりは甘い方が好きかな。ジャンキーな感じで」
    「本当にジャンキーなものが好きなのね……」
     砂糖がたっぷり入った、最早ジュースと呼んでもいいくらいの、ペットボトルの紅茶が好きだ。紙パックに入っているのも好き。
     あたしにとっては、身体に悪いものの方が美味しいのだ。悪いと分かっていてもやめられない。やめるつもりも今のところないけど。
     つかささんはそんなあたしと違って、ジャンクフードはほぼ食べないし、生活習慣だってきちんとしている。夜更かしだってしなければ、毎日のストレッチを欠かすこともない。
     全然違うなぁ、なんて思いながら、感嘆の声を漏らしたつかささんに肩をすくめて見せる。これはもう、あたしの一部のようなものだから。
    「紅茶自体は好きなの?」
    「どうだろ。いつも飲んでるのは、つかささんからしたら紅茶って呼んでいいものか分からないから」
     綺麗なアーモンド形の目をぱちんと瞬かせたつかささんに、紅茶の風味とかはよく分からない、と伝えて、それからお茶を一口飲んだ。冷たい麦茶は、冷房がきいたカフェテリアでも心地よい。
    「あのペットボトルの紅茶、つかささんの口には合わないと思う。飲んだことないでしょ?」
    「それはないけど……」
     上品な所作のつかささんが手にするには、言い方は悪いけどちょっとチープかもしれない。あたしみたいな一般的な女子高生には似合うんだけど。
     つかささんはカップの中の紅茶に視線を落として、何かを考えている。こういう時は大抵、ちょっとした知識を教えてくれるか、何か突拍子もないことを言い始めることが多い。ユキさんが露骨に警戒し始めるのも、この辺りからだ。
    「お茶会しない?」
    「今してるけど」
    「そうじゃなくて! いや、今も間違ってないけど……でも朝倉さんが飲んでいるの、麦茶でしょう?」
    「ふふ、そうね」
    「もう、またからかって……」
     ちょっとからかえば、面白いリアクションが返ってくる。覚醒していないつかささんは、言葉をそのまま捉えがちで、こういう反応をするだろうなと予想した通りになることも多い。予想していても面白い。
     あたしが持っているコップからあたし自身へと視線を上げたつかささんは、こちらを伺うようにじっと見つめる。
    「紅茶とお菓子を楽しむの」
    「いわゆるアフターヌーンティー?」
    「そう。今度の日曜日の午後、どうかしら」
    「あたし、紅茶にはまったく詳しくないけど、大丈夫?」
     さっきまでの会話からして、あたしが紅茶の知識がまったく無いことは、つかささんもとっくに分かっているはず。お互いに持ち寄るにしても、つかささんのお眼鏡に適うものを選べる自信はない。
     苦笑いしながら聞いてみれば、つかささんはちょっとドヤ顔をした。
    「心配しないで! わたしが準備するわ!」
    「つかささんが?」
    「元々茶葉はいくつか持っているの。もう少し買い足したいから、お菓子もあわせて用意するわ」
    「それじゃ、全部つかささんの負担にならない?」
    「平気よ! わたしがしたいの。あ、そうね……それなら、ペットボトルの紅茶を持ってきてもらえる?」
    「それって、さっき話してた?」
     アフターヌーンティーにペットボトルの紅茶を持って行くのは場違いなんだろうなということは、流石に分かる。
     一応念押しで聞いてみても、つかささんとの認識は相違がないらしい。本当にあの紅茶風味のジュースみたいな飲み物を? 
     怪訝に思っているうちに、つかささんの中では話がまとまってしまったらしい。
    「楽しみにしておいてね」
     そろそろ訓練だからアリーナへ行きましょう、と笑うつかささんの後ろをついて行きながら、彼女にしては珍しく少し強引な進め方をしているな、と考えた。
     普段なら、どうかとあたしへ聞いてくるのに。今日のつかささんは何というか、ちょっと浮かれてる?
     どうしたのかな、と思ったけど、絹糸のようなさらさらの金髪が目の前でご機嫌に揺れているので、楽しそうだから聞くのも野暮に思えて聞かなかった。我ながら単純だけど、つかささんに誘ってもらえて嬉しかったのもある。
     カフェテリアの外は、思わず顔を顰めてしまいたくなるほどの炎天下だった。アリーナまで、直射日光を避けられそうな陰はない。フードをしていても肌に紫外線が突き刺さる感覚がする。
     いつもなら外を歩くの嫌だな、なんて考えるのに、今はそんな考えは一切起きなかった。ただ、日曜日が待ち遠しいな、と真夏の日光に照らされて輝くつかささんの金の髪を見ながらそう思った。

     楽しみにしていることがあるとその日までの時間が長く感じるというのは、ヒト・ナービィでも変わらなかった。
     日曜日の午後、お昼ご飯はそこそこに抑えて、あたしはつかささんに指示された場所へと向かっていた。
     カフェテリア横に併設されたテラス席。パラソルが並んで影を作っているそこの、一番カフェテリア側のテーブルにつかささんがいるのが見えた。
    「待っていたわ、朝倉さん」
     あたしを見つけた彼女は、日に当たるにもかかわらず、あたしのところへ来てくれる。宝石のように輝く青い目は、クールなその容姿に不思議と似合っていた。
    「準備、ありがとう。もう終わったのね」
    「えぇ。ついさっきね。さすがわたし、ナイスタイミングよね」
     テーブルを見やれば、ポットやお菓子などが並べられている。用意をするから朝倉さんは時間になるまで遊んでて、と言われた手前、何も手伝うことができなかった。
    「早く始めましょう? わたし、とっても楽しみにしていたんだから!」
     早く早くと急かすつかささんの言葉に従って、テーブルにつく。同じようにあたしの目の前に座ったつかささんは、待ちきれないようと言うように口を開いた。
    「ここのカフェテリアってやっぱりすごいのね。お茶会ができるように、一式揃えられていたわ。お願いしたらすぐに貸してくれたし、お菓子まで作ってくれたのよ」
    「さすがセラフ部隊。少しでも貢献できるように、頑張らないとね」
     話しながらも、つかささんはティーポットへ茶葉とお湯を入れて、すぐに蓋をした。ガラス製で中がよく見える。茶葉が対流するお湯に乗って勢いよくぐるぐると回っていた。
    「つかささんは、紅茶はホットが好きなの?」
    「どうして?」
    「夏でもホットティーを飲むんだと思って」
    「あ」
     茶葉とは対照的につかささんの動きが止まる。何となくそうかな、とは思っていたけど、どうやら予想は当たっていたらしい。
    「そうよね、暑いわよね……」
    「別に気にしない。つかささんの好きなものを知れるし」
     途端に少ししゅんとするつかささん。覚醒していないつかささんは、けっこう突っ走ることがある。気にしない理由は、あたしの本心だったりする。
     それにしても、つかささんがカフェテリア側のテーブルを取っていてよかった。まだカフェテリア内の冷房がこちらへ流れてくるから、思っているよりも暑さは感じない。
     あたしの言葉に返事がなくて、どうしたのかとつかささんを見てみれば、いつもより少しだけ頬が赤くなっていた。どうやら、照れているらしい。
     つかささんが照れること自体、あまり多くない。あたしからしたらちょっと恥ずかしいと思うことも、つかささんは平気、なんてことも珍しくはない。
     そのつかささんが、あたしの言葉に照れている。白磁の肌が赤いのは、暑さのせいじゃない。
     ティーポットの中でくるくる回っていた茶葉の動きは、少しずつ緩やかになってきていた。茶葉もすっかり開いて、透明だったお湯に色をつけている。
    「つかささん、紅茶の飲み頃ってどれくらい?」
    「あ、ええと、そうね。茶葉の大きさによって変わるけど……これくらいならそろそろいいわね」
     話題を逸らすと、つかささんは慌ててティーポットを手に取った。下を向いた彼女が一瞬だけきゅっと眉間に皺を寄せたのを、あたしは見逃さなかった。我慢するような顔。きっと、照れる自分に困っている。
     くるりとスプーンが紅茶をかき混ぜる。舞った茶葉が沈むよりも先に、紅茶がカップに注がれる。
    「慣れてる」
    「ふふ、言ったでしょう! 紅茶には少し詳しいの」
     いつもなら誇らしげに胸を張るけど、まだ紅茶を注いでいる途中だから、ドヤ顔だけ返ってきた。ついさっきまで照れていたのに、すっかり元の調子を取り戻している。
    「けっこうしっかり淹れるのね」
    「ベストドロップといって、紅茶でも日本茶でも、最後の一滴が大切なのよ。しっかり注ぎ切ることね」
    「渋みが出そうだけど」
    「味が損なわれる前に淹れてるから大丈夫。むしろ、お湯が残ったままだと二杯目を淹れた時に渋みや苦味が強くなったりするから……はい、どうぞ」
    「ありがと……」
     紅茶を淹れるつかささんは、視線を奪われるくらい様になっていた。30Gのカッコいい人や31Fの執事さんみたいな、皆が口を揃えて言うカッコよさとは少し違う。つかささんは誰もが振り返るくらいの美人だけど、あたしがこんな風に思うのはただ、あたしがつかささんのことを好きだからだ。
    「どうしたの?」
    「ううん、つかささんがこうやって紅茶を淹れてくれるの、嬉しいなって」
    「そ、そう……」
     オブラートに包んだあたしの本心に、つかささんはそっぽを向いた。諜報員とは思えないくらい分かりやすい。もちろん、覚醒したら分かりにくくなるから、覚醒していない時限定だ。
     立ちっぱなしのつかささんに座るよう勧めれば、まだ少しぎこちないまま、ゆっくりと席についた。
    「ストレートで飲むの?」
    「そうね、最初はストレートがいいわ。今日は飲みやすいダージリンのセカンドフラッシュを選んでみたの」
    「……?」
     ダージリンは知っているけど、セカンドフラッシュは知らない。格ゲーの必殺技みたい、コマンド何だろう、なんて適当なことを考えていれば、つかささんが補足を入れてくれた。
    「セカンドフラッシュっていうのは夏摘みのことね。ファーストフラッシュ……春摘みよりも渋味が少なくて、味、香り、色のどれをとっても芳醇で素晴らしいのよ」
     冷めないうちにどうぞ、と勧められ、少しだけ息を吹きかけて冷ましてからカップに口をつけた。
    「何これ、全然違う……」
    「でしょう?」
     ストレートなのに甘い。渋味が無いわけではないけど、強すぎない。鼻からふわりと抜けた香りは存在感があるのにしつこさがない。総合すると、紅茶を飲んだのは初めてかもしれないと感じるほど、今まで飲んできた紅茶とは違っていた。
    「今まで飲んでいたものを、これから同じ紅茶として呼べないかも……」
     思わず漏れたあたしの言葉に、つかささんはふふん、と笑う。得意げで、でも満足そうな笑顔。
    「ダージリンは季節によって味や香りが変わるから、合わせるお菓子も少しずつ違ってくるの」
    「これは……フィナンシェとカステラ?」
    「そう。フィナンシェには特別にナッツも入れてもらったのよ」
    「ナッツ、好きだったの?」
    「わたしが言ったわけじゃなくて、サービスで」
     カフェテリアの人は、食材が欲しいとかメニューを追加してほしいと要望を出せば、かなりの確率でそれを叶えてくれる。つかささんも茶器一式のレンタルとお菓子を希望したらしいけど、フィナンシェにナッツを入れるサービスまでしてくれるらしい。
     綺麗に並べられたフィナンシェを一つ取る。残念ながら、見ただけでナッツの種類が分かるほど詳しくはないから、そのまま一口齧る。バターの濃厚な風味と甘さ、それからナッツの食感。ナッツ入りのフィナンシェは初めて食べたけど美味しい。
     フィナンシェのようなお菓子も、片手で食べられていい。でも、普段から食べるには少し上品すぎるかな。あたしにはあんまり似合わないかも。
     こっちの方がまだ馴染みがある、と切り分けられたカステラを口に運ぶ。ただ、片手で食べると手がベタベタになるから、ちゃんとフォークを使うべきね。
    「美味しいわね、朝倉さん」
    「うん。紅茶に合う」
     クリーム系のお菓子よりも、こういうシンプルなお菓子の方がこの紅茶との相性は良さそう、というのは素人ながら理解できた。
     目の前のつかささんはカステラに舌鼓を打っていたけど、あたしの視線に気がついたのか、ご機嫌に細めていた目を丸くした。
    「な、なに?」
    「ううん、何も。美味しそうに食べてるなって」
    「たくさん食べて太ったら食べようって思ってたりするの……?」
    「ふっ……」
     予想の斜め上をいく言葉に、思わず笑い声が漏れてしまう。カレンちゃんに襲われてから、つかささんは事あるごとにカレンちゃんを気にする言動を取るようになった。無理もないけど、流石にカレンちゃんに食人の嗜好はない。もし聞いていたら、気色悪いことを言うなって暴れそう。
     もちろんあたしにもつかささんを食べる気はない。ただ、つかささん本人は割と本気で聞いてきているので、ちょっと面白いのだ。
     だから、からかいたくなる。
    「食べたいって言ったら、どうする?」
    「いやよ!」
     即答だった。カレンちゃんに襲われた時のことを、つかささんは今もまだ引きずっている。申し訳ないことをしたと思う反面、あたしが前に進もうと思えたことだったから、ずっと忘れないつかささんに、そのままでいてほしいとも思ってしまう。
    「冗談。食べたりしないから、安心して」
    「……朝倉さんがそう言うなら……。でも、そもそも太ること自体が良くないから、気をつけるわ」
     美容に気を使うつかささんが、こんな風にお菓子をたくさん食べるのは珍しい。栄養バランスがどうとか、夜は間食をしないとか、色々と彼女の中でルールがあるらしいから。
     気をつけると言いつつ、カステラを一口サイズに切り分けて口に運んでいる。形の良い、少し薄めの唇へ自然と視線が吸い寄せられる。気に入って愛用している大島家のリップのおかげで、荒れることもなく艶やかだ。
    「……つかささん、もう一つフィナンシェをもらってもいい?」
    「もちろんどうぞ。朝倉さんはフィナンシェの方が好き?」
    「うん、そうね。そうかも」
     要領を得ない曖昧な答え。けれど、つかささんは特に気に留めなかったらしい。少し鈍感なところに、今は助けられた。
     時々、欲しいな、と思ってしまう。あたしよりも大きくて柔らかい手を。湖みたいに美しい、やわらかな緑がかった青い目を。弧を描く血色の良い唇を。それから、心を。
     ごろりと舌の上に転がるナッツを噛み砕く。ついでにあたしの本心も砕けてしまえばよかったのに。真夏の午後に似つかわしくない後ろ暗い感情は、いつまで経ってもあたしの中から消えてはくれないのだ。
    「ねぇ、それ、いただいてもいい?」
    「うん?」
     そんなあたしの気持ちを一つだって知らないつかささんは、キラキラした目で何かを見つめている。あたしの手元に置かれたペットボトル。つかささんに言われた通り買ってきた、あたしにとっては飲み慣れた甘ったるい紅茶だ。
     どうぞ、と二本買ったうちの片方を手渡せば、つかささんは開けて一口飲むなり、目を丸くした。
    「甘いのね」
    「あたしが一番甘いと思うのを選んだの」
     レモンティーも悩んだけど、一番甘いのはミルクティーだと思う。個人的にはストローで飲めて楽だから紙パックで飲むのがいいんだけど、流石に自販機には売っていなかった。
    「朝倉さん、よく飲んでるわよね」
    「エナドリに飽きた時の糖分補給になるから」
     砂糖が貴重品になっているこのご時世にまだ置いてあるのが驚きなくらい、大量の砂糖が入っている。飲み続けたら病気になるだろう。ヒト・ナービィに当てはまるかは、知らないけど。
    「でも、これはこれで美味しいわ」
    「つかささんの言う紅茶にカテゴライズされるかは微妙かもね」
    「……甘さで埋め尽くされそうだけど、茶葉の風味はしないこともない、かしら……?」
    「じゃあ紅茶?」
    「それは、うーん……」
     軽い気持ちで茶々を入れれば、口を結んで考え込んでしまった。あたしだったらどっちでもいい、の一言で終わってしまうのに、つかささんは真面目に考えている。同じようなことは今まで何度もあった。
     そういうところ、いいなって思う。特別好きなもの以外に大した感情を抱くことのない、平坦で薄っぺらいあたしからすれば、何にでも興味を持って真面目に考えるつかささんが羨ましい。好奇心が強すぎて危なっかしい時もたまにあるけど、それも含めてつかささんは魅力的だ。
     あたしの適当な一言にうんうん唸っているのが可愛らしくてしばらく見つめていたら、ようやく視線に気がついたつかささんがむっと顔を顰めた。
    「もう、朝倉さん! またからかったのね!」
    「ううん、からかってない」
    「うそ!」
    「真面目に考えるつかささんが素敵だなって思っただけ」
    「……朝倉さんって、意外とそういうことをすぐ言うのね」
     本心なのに、とは思った。でも、本心だからこんなに軽く言ってしまう。これより上手く吐き出す方法も、我慢する方法も、あたしは知らない。つかささんが思うよりもずっとあたしは途方に暮れている。
     このままずっと、あたしのこういう冗談を真に受けないでいてほしいのに、今日のつかささんは違った。
    「わ、わたしも朝倉さんのことは素敵だと思ってる、のよ」
    「そうなの?」
    「そうよ! いつも思ってる……」
    「ふ、ありがとう……あたしには何もないけど、つかささんにそう思ってもらえるなら、嬉しい」
     つかささんに微笑めば、何かを言いかけたけど、しゅんと目を伏せて黙ってもう一度ペットボトルを傾けた。
     どうしてつかささんがそんなことを言ったのか、推測ができないわけではなかった。けれど、それを蒸し返すこともしたくないから、ズルいあたしは笑ってうやむやにした。
    「アフターヌーンティーってもっと手順や作法があるんじゃないの? 何段にもお菓子を並べるのとか」
    「ケーキスタンドね。元々は英国貴族の習慣だから、細かい作法や手順はもちろんあるわ。サンドイッチ、スコーン、ケーキの順番に食べるとか、ケーキを食べたらサンドイッチには戻らないとか」
     今日はケーキスタンドは無く、お菓子は白いお皿に並べられていた。それに、あたしはそういう作法も知らずに紅茶を飲んでお菓子を食べていたわけで。お話し好きのつかささんのことだから、あたしに教えながら過ごすのも、考えなかったわけじゃないはず。
    「作法のことまったく知らなかったけど、大丈夫だった?」
    「大丈夫。その……」
    「なに?」
     答えは返ってこない。つかささんは視線を泳がせていた。どうやら、言いたくないのではなく、ただ言葉を選んでいるようだった。
    「確かにそういうのを話しながらって、考えたのよ。でも、作法とかそういうものよりも、楽しく過ごしたかったの。それから……」
     つかささんは、突拍子のないことを言う時がある。それは日頃からよく知っている。新しいアイディアをもたらすこともあれば、状況を更にかき回すこともある。今はどっちだろう。後者なのかな。
     言葉を止めて、それから黙り込んだつかささんを見つめる。真面目な顔。色んな人から美少女と言われるつかささんを、今はあたしが独り占めしている。
     そのつかささんが、顔を寄せてきた。手を招いてくるから、大人しくあたしも顔を寄せる。好きな人のお人形みたいに整った顔がすぐ目の前にやってきて、ドキドキしない人なんているのだろうか。
    「……あのね」
     そっと囁かれる。カフェテリア内にも、テラス席にも、人なんてまばらにしかいない。今までの会話だって、きっと誰も聞いてはいない。けれど、つかささんは誰にも聞かれないように声をひそめる。
    「この茶葉がわたしのお気に入りだってこと、知ってほしかったの」
    「どうして、そんな小声で言うの?」
     そうして告げられた内容は特に囁くようなことではなかった。つかささんの意図を掴めず首を傾げれば、つかささんも同じように首を傾げる。
    「だって秘密を共有するのって、カッコいいでしょう?」
    「……これ、秘密なの?」
    「わたしのお気に入りの茶葉を知っているのは朝倉さんだけよ?」
     あたしが聞きたいのはそういうことじゃないんだけど。つかささんが当然のような顔をするものだから、それならそれでいいかと思ってしまった。悪い気はしないし。
    「つかささんの秘密、教えてもらっちゃった」
    「誰にも言ってはだめよ? わたしと朝倉さんの秘密だから」
     きっと誰かから見たら、小さい子どもがおもちゃの隠し場所を共有しているようなものなのだろう。それでも、あたしの心は満たされていた。つかささんが自分の何かをあたしにくれた事実に、心臓を鷲掴みにされている。
    「諜報員のつかささんの秘密なんて、重要情報ね」
     嬉しいと苦しいを同時に感じながら、それでもいつも通り微笑んでみせる。
     途端に慌て始めたつかささんを見て、少しずつ冷静になる頭で考えた。
     つかささんに変なことを吹き込んだの、月歌さんかな。



    「あれ、ユキさん?」
     消灯時間前、夜風に当たりたくなったから屋上へ行けば、珍しい先客がいた。そういえば、少し前にふらっと部屋を出て行ったような気がする。
    「ん……? あぁ、朝倉か」
    「珍しい。考え事?」
    「作業に詰まったから、気分転換ってところだな」
    「ユキさんでも詰まることあるんだ」
    「当たり前だろ。あたしだって万能じゃないんだから」
     部隊で一番万能なのはユキさんだと思うけどな。本業のハッキングから戦闘データの収集と分析、果ては絶え間ないボケへのツッコミまで、ユキさんがやっていることは余りにも多い。部隊長の月歌さんが勢いよく引っ張っていくリーダーなら、ユキさんはその勢いにあたしたちがついて来られるよう調整するバランサーだろう。
    「まだいるのなら隣、いい?」
    「どうせ誰も来ないんだから、隣のベンチを広々使ってもいいと思うが?」
    「ユキさんと二人でいるの、あんまりないから。せっかくの機会だし」
     ユキさんは一人でいることもよくあるけど、大抵何かの作業をしているから、実は二人で話す機会は多くない。流石に、作業の邪魔をするのも悪いし。
     返事を待たず彼女が座っているベンチの空いているところに腰を下ろせば、ユキさんは目を細めてあたしを見る。
    「……お前、けっこうそういうこと言うよな」
    「なにが?」
    「いや、あたしに対しては、それ以上の意味がないって分かってるんだが。距離感を間違えて、変に受け取られても知らないからな」
     和泉さんが忠告する時にしてはとても珍しく、明言を避けていた。人のことを考えてストレートな物言いをするような彼女がそうしたのは、よっぽど言いにくいか、あまり得意ではない話題か。きっと、両方だ。
     あたしたちしかいない屋上に夜風が吹く。まだまだ熱帯夜で、風が吹いても涼しくはならない。微妙に湿っぽい風は、あたしたちみたいだ。
    「本当に意味はないんだけどね」
    「だからだよ。ま、ここは男性がいないから、そうそう起きないだろうけど」
     腕を空へ伸ばして大きく伸びをしながらユキさんは言う。そうだね、と同意したけど声にはしなかった。
    「そんなこと言ってユキさん、月歌さんにこういうことを言われたら嬉しいでしょ」
    「なっ……んでここで月歌の名前が出てくんだよ……」
    「月歌さんと距離が近い時のユキさん、面白いから」
    「人を観察して面白がるな!」
     ちょっとした意趣返しだ。ユキさんの言葉に矛盾があることに、ユキさん自身が気がついていないから。
     目尻を吊り上げて吠えたユキさんは、乱れた自分のペースを取り戻すようにため息を吐く。レンズの向こうで黄緑色の目が逸らされた。
    「月歌は関係ないだろ……そうやってすぐ茶化すの、悪い癖だぞ」
    「自覚はある」
    「じゃあ直せよ……お前、実はけっこういい性格してるよな」
    「ありがと」
    「褒めてねーよ。なんでうちの隊員は皆こんななんだよ……」
     額に手を当てるユキさんに、頭痛でもするの? と聞こうかとしたけどやめた。これ以上引っ張っても、ユキさんのツッコミが過激になるだけだ。夜だからか流石に声を抑えているけど。
    「まあ、その……あれだ。東城を揶揄うのもほどほどにしておけ」
    「つかささん?」
     なんであたしがこんなこと言わなきゃいけないんだよ、とぶつぶつ呟きながらユキさんが出した名前に思わず反応してしまった。それから少し考えて、心当たりがないわけではないと思い至る。
    「客観的に見たら、東城への絡み方だけ変だぞお前」
    「そう見える?」
    「それも自覚あるだろ、すっとぼけんな」
    「……ユキさんに隠し事って、不可能なんじゃないかな。実はエスパーだったりする?」
    「んなわけあるか。何回でも言うが、あたしは別に完璧でも万能でもないわ。割とお前のこと知らねーよ」
     あたしの事情を詳しく知っているのは、つかささんと月歌さんだけ。深く知らないユキさんがこうも容易く踏み込んだことを言ってくるのは、そもそもユキさんが洞察力に優れているのもある。それから、あたしがものすごく分かりやすくしていることも。
    「ユキさんから見てあたし、分かりやすかった?」
    「それを聞くな。相対的に東城が鈍いってことになる」
    「そうだよね」
    「多少はフォローしてやれよ」
     ちょっと鈍いところもそれはそれで魅力の一つなので、別にフォローしなくてもいい。
    「東城との間に何があったのかは知らないが、とにかく作戦行動に支障は出すなよ」
    「それは分かってる」
     念を押してくるユキさんにそう答えると、ならいいが、と微妙に納得していない口ぶり。あたしだって作戦行動に影響を出したいとは思っていない。そもそも、つかささんにしていることに意味があるかと言われれば微妙なくらいだ。
     ぼんやりと上を見上げれば、星がよく見えた。夏の大三角って見つけにくくて、今日も満点の星空だな、という薄い感想しか出てこない。つかささんに聞けば教えてくれるかな。
    「そろそろ消灯時間だ。戻ろうぜ」
    「……うん」
     ベンチから立ち上がったユキさんはさっさと部屋へ戻って行ってしまう。その後ろ姿を見ることもせず、あたしはただ、ユキさんに言われたことを思い出していた。


     部屋に戻って照明を落とされてからも、あたしは寝付けなかった。さっきユキさんに言われたことが、まだあたしの頭の中にこびりついている。
     変な絡み方、なんて言い方をされたけど、それはあたしがつかささんに向ける執着の現れの一つだ。他の人じゃなくてあたしを見てほしい。そんな気持ちで、ずるいことをしている。
     つかささんがあたしのことを考えてくれたら嬉しいし、あたしの言動で表情を変えてくれるのを見るのも好きだ。
     こんなにも誰かへ向ける感情がおかしくなったことなんてなかった。人間関係なんてもっと上手くやれるはずで。この気持ちはなんだか……。
     そこまで考えて、また心がずんと重くなる。重石をつけて水の中へ落とされるような感覚。これはよくない。あの日の夕方、カフェテリアで、意識が強烈な負の感情に呑み込まれたことを思い出す。
     ……今は違う。あたしはちゃんと前を向いて歩こうと決めたの。つかささんがそばにいてくれる。いなくならないって、言ってくれた。
    「お水飲みたい……」
     そこまで考えたところで限界を迎えた。起き上がれば、頭が痛い。カレンちゃんは意識の奥の方にいるらしく、呼びかけても反応がない。さっき、意識が呑み込まれてカレンちゃんが出てこなくて本当に良かった。もしそうなっていたら、多分あたし、この身体でもう生きてはいられない。
     自販機でお水でも買ってこよう。寝ている皆を起こさないよう、音を立てず慎重に梯子を降りる。幸いにも時間はすっかり夜更けで、皆ぐっすり眠っているようだった。
     喉が渇いたから、早く買って戻って寝たい。急いでいたこともあって、ぎ、と僅かに梯子が音を立てる。下で眠っているつかささんが起きないかとヒヤヒヤして覗き込んだ。
    「……あれ」
     けれど、ベッドで眠っているはずのつかささんはどこにもいない。今晩もいつもと変わらず、全員がいることを確認してから梯子をのぼったはずなのに。
     眠れなくてどこかへ行ったのかな。起きてたのに全然気がつかなかったけど。
     お水に買いに行くついでに、探して来ようかな。寝ぼけて迷子になっても大変だし。
     他の四人を起こさないように気をつけながら部屋を出て、自販機までゆっくり歩く。デンチョを確認するともうすっかり夜更けだ。当たり前だけど、つかささんから何か連絡が入っているとか、そういうことはない。
     蒸し暑さは少し引いていた。すれ違う人なんていないから、あたしが何かの横を通り過ぎたのは掲示板くらいだった。
     いつ見ても、自販機は眩しい。夜でも明るくていいですね! とタマさんが感動していたのは記憶に新しい。今となってはすっかり慣れたけど、あたしたちはそもそも、それぞれの境遇があまりにも違っている。
     ガコン、と音を立てて落ちたお水を手に取って、蓋を開けた。汗をかくほどではないにしても、快適には程遠い空気だ。よく冷えたお水が喉を通る感覚は心地よく、つい多めに飲んでしまう。この前まで行っていた砂漠での作戦行動を思い出すと、好きな時に水分補給ができる環境はいいな、と感慨深くなる。
     喉が潤ったところで、つかささんを探しに行くことにした。と言っても、夜も遅いしおそらく宿舎から遠いところには行っていないはず。やっぱり屋上とか?
     歩いているうちに、元々なかった眠気が今日はもう来ないんじゃないかと思えるくらい、目が冴えてきた。徹夜は慣れているし、今日は寝るのを諦めるという手もありかもしれない。眠れないならもう仕方ない。
     宿舎の中央にある螺旋階段を登っていく。手に持ったペットボトルの中で、お水がチャプチャプ音を立てる。音なんてそれくらいしかなくて、なんだか変な気持ちだ。誰もいない夜の建物の螺旋階段なんて、ゲームにでも出てきそうだし。
    「……あ」
     今日……厳密には、もう日が変わったから昨日だけど。こんなに短時間の間に屋上へ何度も来ることはそうそうない。そもそも、屋上へ来る用事というのが、夜風に当たりたいとかそのくらいだから。
     さっきのユキさんとあたしはそうだったけど、今屋上にいるつかささんはどうなんだろう。
    「つかささん」
     あたしに背を向けてベンチに座っているつかささんに声をかける。高い場所だからか、少し風が吹いていた。つかささんはまだ背を向けたままだ。
    「……つかささん? ……っ!」
    「あら、殺人鬼の方じゃないのね」
     聞こえていないのかと近づいて肩に手を置こうとした途端、手首に痛みが走る。軽く捻られた手首に、ギリギリと力を加えられ、思わず顔を歪めた。
     こちらを向いて立ち上がったつかささんの目。いつもの柔らかさはどこにもなく、底の見えない鋭利さを湛えていた。
    「つかささん、痛い……」
    「…………はぁ」
     その間にも手首へ掛けられる力が緩むことはなく、流石に痛いと訴えれば、つかささんはしばらく黙り込んだ後、この上なく大きなため息を吐いてあたしの手を投げ捨てるように解放した。パジャマの布越しでも痛かった手首を摩る。痕にはならなさそうだった。手加減されていたからだと思うけど、本心はつかささんしか知らない。
    「なにその顔。まるでわたしが悪いことをしたみたいじゃない」
    「したでしょ、さっき」
    「わたしはただ、反射的に自衛行動をとっただけよ」
    「あたし相手に?」
    「殺人鬼が主人格を模倣している可能性だってあるもの」
     残念ながら否定できなかった。カレンちゃんがあたしのフリをすること自体は無いわけではない。それを利用して殺人するかと言われたら、しないだろうけど。
    「……どうしてこんな夜に覚醒してるの?」
    「それをあなたに言う理由がある?」
    「知りたいから」
    「は?」
     あたしの答えにつかささんは怪訝そうに眉を顰める。普段のつかささんが絶対にしない表情を、今はあたしだけが独り占めしている。それがあたしの心に一雫、昏い充足感をもたらした。
    「……無能なわたしは、こっちのわたしと他の人をあまり会わせたくないみたいだから。実に非効率的だわ」
     そうしてものすごく嫌々という顔で告げられたことに、思わず頬を緩ませてしまう。だって、あの覚醒したつかささんが、あたしとこんなに素直に話をしてくれるなんて思ってもみなかった。
    「笑うほど面白かったわけ?」
    「面白くはない。でも、あたしはつかささんと話したかったから」
    「いつも話してるでしょう、あの間抜けな諜報員とは呼べないわたしと」
    「違う。普段のつかささんもだけど、今のあなたとも」
    「……何なの、あなた」
     この世のものとは思えないという視線を向けられる。その青い目がぎゅっと苦々しく、苦しげに細められて、つかささんは喉から声を絞り出した。
    「……どうしてなの……?」
    「つかささん……?」
    「どうしてあなたが、そういうことを言うの?」
    「いっ……!」
     状況を把握するよりも早く、背中に痛みを覚えた。さっきまでつかささんが座っていたベンチに、今度はあたしが押し付けられていた。どうやら、背もたれに背中を打ちつけたらしい。
     痛い、とすら言わせてもらえなかった。両肩を掴まれ、押さえつけられる。すぐ目の前にあるつかささんの整った顔。その中で青い目が、今まで見たことのない温度を持っていた。
    「気づいていないとでも思っていたの?」
    「なにを……?」
    「あなたがわたしにしていること」
     つかささんの端正な顔に浮かんでいたのは不快なのか嫌悪なのか、あるいはまったく別の感情か。あたしにはその本心は推し量ることができないけど、つかささんはあたしに構わず、美しい笑みを浮かべた。
    「あなたの一挙手一投足に反応する、無能で馬鹿なわたしは、さぞかし可愛かったでしょう?」
    「……」
     蔑むような笑み。あたしだけに向けられているようには思えなかった。あたしの目をまっすぐ見ているように感じたけど、その実あたしではないものを見ているような。きっと、覚醒していないつかささんにも向けている。
    「諜報員でありながら、こんな簡単に引っ掛かるなんて本当に間抜け」
    「それもつかささんじゃないの?」
    「これと同列ならいっそのこと別人と言われたほうがマシよ。ま、本当に人格が分かれているあなたからすれば、同じなんでしょうけど」
     ひどい言われように、返し方に困って黙り込んだ。覚醒したつかささんは弁が立つ反面、その性格からか言葉は辛辣だ。高圧的にも捉えられるそれは、人と衝突に繋がることも少なくない。
    「ところであたし、いつまでこうされてるの?」
    「はぁ? 元はと言えば、あなたが原因じゃない」
     ベンチに押さえつけられている状況から抜け出せないままでいる。あたしを見下ろすつかささんの目は氷に似ているのに熱い。
    「分からないフリなんてしないでね。……馬鹿なわたしの気を引くために、こんなに色々と張り巡らせているとは思わなかったわ」
     核心をつく言葉に、つきん、と心臓が痛む。これは、よくない。
     黙ったままのあたしを、つかささんは目を逸らすことなく観察し続けている。どこまでバレているかと考えて、ほぼ全部だろうなとすぐに結論づけた。あたしの何倍も賢くて聡いつかささんには、見えないことの方が少ない。
     きっと、あたしがつかささんに向けている気持ちにも、覚醒したつかささんは気がついている。
     知らず知らずのうちに、じんわりと汗ばんでいた。早く冷房のきいた部屋に戻りたい。それから、薄めの毛布だけ被って目を閉じる。きっとすぐに眠って、気がついたら朝だ。起きたらもう、何もかもいつも通り。
    「つかささんの言うことがあたしの想像と合ってるかは分からないけど、あたしはつかささんのこと、大事な友達だと思ってる……それよりももう遅いから、部屋に戻らない? あたし、眠たくなってきた。明日も朝早いし」
     さっき水を飲んだはずなのに、口の中が乾いて仕方がない。つかささんが肩を掴んだままだから、水を飲めそうにもなかった。
     何でもないように笑ってみせれば、つかささんは顔を歪めて舌打ちをする。普段は絶対見ない表情に、耐え難いゾクゾクとした感覚がお腹の底から湧き上がってくる。
     その感覚が、どういう感情に由来するのか考えて、答えを見つけた途端、あたしの意識は黒く深い闇に包み込まれた。

     気がつけば、一人暗闇の中だった。あぁ、今頃多分カレンちゃんが覚醒したつかささんに勝負でも仕掛けてるんだろうな、なんてぼんやり考える。
     カレンちゃんが表に出ている間、あたしは大抵この空間にいる。部屋なのか開けた場所なのかも分からないここはいつも暗くて、自分の手すら視認しづらい。あたしが表にいる時、カレンちゃんが同じ空間にいるのかはよく分からない。言葉を投げかけて返ってくることがあれば、ごくごく稀に一切の連絡が取れなくなることもある。今はどちらか分からない。カレンちゃんに何か言う気にもならなかった。
     カレンちゃんが表に出る時間がどれくらいなのかは、その時によってまちまちだ。一人で歩き回ってもこの暗闇では何も見つけられない。そんなことはとっくの昔に分かっているから、あたしはやることも見つけられず、膝を抱えて座り込んだ。
     カレンちゃんが覚醒したつかささんを目の前にしてこうも長時間、出てこなかったのが意外だな、と最初に考えた。頭はふわふわしていて、いつもより上手く働かない。さっきまでのことは、すぐには鮮明に思い出せない。
     あたしが闇に呑み込まれ、カレンちゃんが覚醒したつかささんに負けたあの日。あの日からカレンちゃんはずっと覚醒したつかささんに執着している。許せん、絶対に殺してやる、と息巻くカレンちゃんは、やっぱりあたしと同じ存在なのだ。
     つかささんが殺人鬼であるカレンちゃんを負かし続けるなら、あたしたちは一緒にいられる。恐れていたことが起きてもあたしがこうして生きていられるのは、つかささんのおかげだ。一緒にいるならつかささんがいいとあたしが決めたのも、あの出来事だった。
     泥濘の中でもがいていたあたしを引っ張り上げてくれた人。人殺しで引きこもりで、何にもないあたしを照らしてくれる。
     膝頭におでこをくっつけて目を閉じる。すぐ頭の中に浮かんできたつかささんは、ドヤ顔をしていた。あたしに雑学を教えてくれる時によくする顔だ。あたしの中で一番印象が強かったりするのかな。
     こんな時に思い出したのがドヤ顔だったことがちょっとだけ面白くて、笑った拍子に目尻からぽろりと涙が零れた。おかしいから笑ったのに、どうしてか涙が出て仕方がない。
     つかささんに全部当てられたのが悲しかったとか傷ついたとか、そういうんじゃない。ただ、前を向こうと決めたはずなのに、あたしがまた図星をさされて逃げ出してしまったことが、嫌になったのだ。
     この気持ちは伝えるべきじゃないのかも。理性ではそう考える自分がいる。だってあたしもつかささんも、女の子だ。つかささんに好きな人がいたかどうかは分からない。元の性格と境遇からしたら、好きな人なんていなかったんじゃないかと思ってるけど。
     ……あたしだって、女の子を好きになったことはない。あたしの記憶では、日本という国は同性の恋愛についてそこまでメジャーではなかったと思うんだけど、この基地は女の子しかいないからか、距離感が近いというか、そういう関係になることもよくあるらしい。ヒト・ナービィであることが関係してる……わけじゃなさそう。
     とにかく。分かっているのは、あたしがつかささんのことを恋愛的に好きだということ。基地内で一般的なんだったら告白してもいいんじゃないかって、無関係な人に言われそうだけど、できるわけない。だってあのつかささんとあたしが釣り合うと思う? 何にもないあたしが、つかささんに選ばれるはずがないでしょ。
     そんな風に思うならつかささんのことを諦めたらいいのに。
     分かってる。でも、それもできない。理性で分かっていても、感情は言うことを聞かないのだ。
     つかささんにもっとあたしのことを考えてほしい。あたしを見てほしいし、あたしを呼んでほしい。本当はあたしがつかささんを求める気持ちと同じくらい、あたしを求めてほしい。つかささんの一番があたしじゃないといや。他の誰かなんて、選ばないでほしい。
     理性で抑えられないほどあたしは欲深くて、つかささんに意識してほしくて、色々とアプローチしてしまう。自分があんなことするなんて、思ってなかった。すごく、あざといことをしてるって自覚はある。これでもしつかささんに嫌われたら元も子もないだろうなとか、客観的に見たらすごく分かりやすいんだろうなとか。でも、それでも欲深いあたしはつかささんが欲しかった。
     そして、つかささんはあたしが仕掛けたアプローチを全部踏んでくれた。本当に諜報員? と思ってしまうほど見事に。その度に求める反応を返してくれるから、あたしはどんどん止まれなくなる。
     いつもはまっすぐあたしを見てくれる目が逸らされるのも。困ったようにきゅっと寄せられた形の良い眉も。繋いだ手を躊躇ってから握り返されるのも。……それと、暑さのせいにできないくらい赤くなった頬も。
     上擦った声で呼ばれる名前が好き。恐る恐るだけど、手を握り返してくれる律儀なところも。最初は反応が微々たるものでも良かったはずなのに。積み重なると満足できなくなって、今のあたしはつかささんから選ばれるのを待っている。まるで中毒のようだ。
     そうやってつけ上がって、これ。覚醒したつかささんなら全部お見通しなんて、最初から分かってる。容赦のないつかささんの言葉を思い出して、ざっくり切られた傷に塩を塗った気持ちになる。
     それでも、覚醒したつかささんがあたしに無関心ではなかったことに安堵している。母親しかいない彼女の中に、あたしが存在していた。その感情を向けられてお腹の底がゾクゾクした感覚は、歓喜だ。強い歓喜とそれへの警鐘、それとつかささんの覚醒で、カレンちゃんが表に出たんだろうというのが、今のあたしの推測だ。
     ようやく思考をまとめ終えて、大きくため息を吐いた。倦怠感が酷い。こんなの良くないと思う気持ちと、もう仕方がないという諦めが、綯い交ぜになっている。どこまでもあたしは両極端だった。二面性は誰もが持つものだけど、あたしはきっとその振れ幅が人よりも大きいのだろう。
     ユキさんがあたしに忠告したのは、見当違いでも間違いなんかでもない。真面目で常識的なユキさんからすれば、あたしの振る舞いはきっとおかしいのだろう。
     月歌さんとユキさんのような関係が羨ましかった。お互いを特別に思う気持ちがとても綺麗で、それが伝わってて。天秤が均衡を保ってていいなって。あたしとつかささんは、あたしばかりが重くて、つかささんの気持ちを押し潰してしまいそう。つかささんがあたしの気持ちに気がついていないから、まだ均衡を保てている。
     知らなくていい。知ってほしい。どちらもあたしの本心だ。何もかも、薄氷を歩くようなバランスで成り立っている。現在地から一歩踏み出すだけで、そのバランスが崩れてしまうかもしれない。だから、あたしはつかささんが歩いてきてくれるのを待っているのだ。
     相変わらず真っ暗で何も見えない。耳を澄ませても何も聞こえなくて、自分の心臓の音だけが響いている。あたしが表にいる時、カレンちゃんは中から見ているらしいけど、あたしはそうじゃない。カレンちゃんが表に出ている間、あたしは外の情報を何も得られない。カレンちゃんが戻ってくる時に教えてくれるくらいで、後は実際に目を覚まさないと分からない。
     だから、今カレンちゃんがつかささんと何をしているのかは分からない。前みたいに殺そうとしているだろうとは思うんだけど、あたしの人格を塗り替えているわけではないから、やっぱり勝てないと思う。そもそも勝たれたら困る。
     ぐるぐると思考を回したけど、これ以上考えることはなかった。あたしがどうしようもないってことだけは揺るぎない事実で、これ以上それを自覚しても、ただ嫌になるだけだ。そんなことは分かってて、それでもあたしはつかささんに好きになってほしいと思っている。こんな薄汚れた感情を恋と呼ぶのなら、世の中の人たちは真っ黒だ。
     ぐらりと頭が揺れる。真っ暗な中で、もう上下左右の区別もつかなくなって、膝を抱えたまま揺られているような心地がした。その浮遊感は気持ち悪くて心地よくて、やっぱりあたしのものだった。


    「……」
     遠くでぼんやりと声がする。でもよく聞こえなくて、何よりまだ目を覚ましたくない。頭も体もすごく重くて、今こうしているのが心地よすぎる。
    「……さん、…て」
     少しずつ声がはっきりしてきた。意識を揺さぶられているのにその声はすんなりと耳に馴染んで、あたしの好きな声だ、と嬉しくなる。
    「朝倉さん、朝よ。起きて!」
     そうして声があたしの名前を呼ぶ。何だろうと目を覚ませば、金色が揺れていた。それから、あたしを見下ろす青い目。つかささんだ。ここはどこかと思えば、見慣れた部屋の天井がつかささん越しに見えた。
     あたしたちは確か宿舎の屋上にいたはずで、そもそもつかささんは覚醒していたし、あたしもカレンちゃんに変わっていたはずで。じゃあこれは何? 夢?
     ……夢だとしたらいい夢。このまま覚めてほしくないくらいに。
    「……つかささん、おはよ」
     嬉しくて。きっと今あたし、笑っちゃってる。ちょっと掠れた声で言えば、つかささんがぱちんと一つ、瞬きをした。変な声だったかな、なんて考えながらつかささんを見つめていたら、急に泣きそうな表情へ変わる。
    「どうしたの、つかささん……」
    「違うの、何でもないのよ」
    「でも」
    「おい東城! 朝倉まだ起きないのか!? 早くしないと点呼に間に合わなくなるぞ!」
     空気が弾ける。和泉さんの声であたしの意識が急にはっきりして、これは夢じゃないと認識する。そして、さっき笑ったことが急に恥ずかしくなってしまった。
    「洗面所使うならもうちょい待ちや! タマの寝癖がまったく直らん!」
    「帽子被ったままでどうやって寝癖つけられるんだよ器用だな!」
    「おぉ、おタマさん、今日の寝癖は芸術点が高い!」
    「ありがとうございます、えっへん!」
    「褒めるな月歌! 國見も踏ん反り返るな!」
     階下で皆が忙しなく朝の準備をしている。これは夢じゃなくて現実で、和泉さんの言う通りなら……。
     まさかと思いながら恐る恐る時計を見ると、あたしがいつも起きている時間を大幅に過ぎている。こんな時間に起きたことはないってくらいの時間。
    「えっと、その。朝倉さん……体調は大丈夫かしら」
    「……うん、平気。急いで準備する。起こしてくれてありがとう」
    「そう……?」
     つかささんはあたしの気持ちに気がつかない。心配そうな顔をしながらも梯子を降りていった。それに続いて梯子を降り、急いで朝の準備にかかる。点呼遅刻のペナルティなんて受けたくない。
    「お、かれりんおはよ。珍しくぐっすりだったね」
    「おはよう月歌さん。こんな時間とは思わなくてびっくりちゃった」
    「分かる分かる。起きた時心臓止まるかと思うよね」
     月歌さんと二人話しながら、並んで制服に着替える。着替えながら、明らかに身体が重いことに気がついた。間違いなくカレンちゃんは昨日の晩、つかささんと戦闘してる。
    『次こそ殺してやる! あの諜報員め、煽るだけ煽りおって……!』
     あたしの思考に呼応したカレンちゃんが吼える。どうやらカレンちゃんと覚醒時のつかささんはお互いに煽り合うことが多いらしい。もちろんあたしが実際に聞いたことはないから、色んな人からの証言にはなるんだけど。
     カレンちゃんは相当激しく動き回ったらしい。身体が痛い。全身が筋肉痛だ。
    『あれくらいワシにしては軽いウォーミングアップに過ぎんわ……朝倉が貧弱なだけェ!』
     何をしたかは聞かないけど、絶対にウォーミングアップのレベルじゃない。頭も身体も重いと思ったけど、ここまでとは思わなかった。
    『いいじゃろ別に、貴様の身体はワシの身体でもあるんじゃからなぁ!』
     おかげで袖を通すのも一苦労だ。痛みを我慢して着替えを終え、洗面所へ直行する。ルーティンを済ませて、最後にいつもより少し雑だけど髪を結ぶ。パッと鏡に映る自分をチェックすると、ほんのり顔が赤い。さっきのつかささんとのやり取りで照れてしまったからだ。まだ赤みが引かないのは急いでいるからってことにするのは、ちょっと強引すぎるかな。
     一度顔は洗ったけど、もう一回洗っておく。寝坊したから目を覚ましたかったってことにしよ。
     無理やり自分を納得させて、とっくに準備が終わっている皆へ合流する。タマさんの寝癖はちゃんと直ってなくて、帽子の下から元気よく覗いていた。
    「朝倉が寝坊なんて珍しいが……点呼には間に合ったな」
    「ごめんなさい、ユキさん。少し夜更かししてしまって」
    「お前の夜更かしって最早徹夜だろ。健康に悪いからせめて休日だけにしとけよ」
    「はぁい」
     お母さんみたいなユキさんの小言は、点呼の時間が来たから早々に終わった。ギリギリで準備を終えて良かったと思いながら、部屋を出て並ぶ。
     じっとあたしを見つめるつかささんの視線には、気がつかないフリをした。


     いつも通り歌詞を持ち寄って、新曲の作詞をする。月歌さんの号令で各々が集中できる場所へ向かったのが二十分前のこと。
    「あれ、かれりん早かったね」
    「今日は何だか、冴えてたのかも」
     早く書き上げたからスタジオに戻れば、予想通りあたしが一番乗りだった。一人でルーズリーフに歌詞を書いていた月歌さんが顔を上げる。
     月歌さんのすぐ隣に置いていった椅子に腰掛けて、出来上がったルーズリーフを取り出す。見せなかったのは、全員が揃ってからせーので出すと決まっているからだ。
    「今回どうだった? ずいぶん早かったけど、なんかビビビビビビッて来た感じ?」
    「相変わらずすごくビが多い気がするけど、そうかも」
     言葉にしたいことが多くて、ルーズリーフにたくさん書いた。あたしの中で、たくさんの感情が渦巻いていてそれを歌詞として起こしたらどうだろうと思ったから。
     月歌さんの手は止まらない。当然のように話しながら作詞をするなんて、あたしには到底できそうにもない。本人は誰でもできるよ、と普通に言ってのけるのがまた、雲の上の人だなと思わせる。
    「そりゃいいね。みんなで見るのが楽しみだ」
    「月歌さんも順調そうね」
    「当然。音楽をするのは楽しくて仕方ないんだ。めぐみんも戻ってきて、これで皆揃ったし」
     ふっと笑う横顔は、いつもみたいな満面の笑顔ではなかった。月歌さんのその表情は、何度か見たことがある。冗談の多い月歌さんの本心はいつだって少し見えにくくて、今みたいに断片的にしか覗けない。
    「それに、天使みたいに可愛いかれりんと一緒にいるからネ!」
    「……あたし、天使なんかじゃない」
    「かれりんはすーぐ謙遜するなぁ。褒め言葉は素直に受け取っとくのがいいって学校の隣の家に住んでたおばさんの妹の旦那のいとこが言ってたよ?」
     それは最早誰なのか分からないけど、月歌さんなりの冗談だということはよく分かった。それでも、あたしは月歌さんの言葉を受け取ることができない。あたしのやってきたことや抱えているものを考えれば当然だった。
     返事がないことを不思議に思ったのか、月歌さんがルーズリーフから顔を上げる。さらりと綺麗な髪が流れ落ちても、左目は隠れてよく見えない。見えている方の赤い右目があたしをじっと見つめて、それから月歌さんは口を開いた。
    「かれりんさ、つかさっちとなんかあった?」
    「……どうして?」
    「二人とも変だったから。かれりんは珍しく寝坊して、ずっと上の空。つかさっちも追撃のタイミングが遅れてる。それに何より二人は今日、視線が合ってない。そうだろ?」
     単刀直入に踏み込んだ月歌さんは、ずばずばと遠慮なくあたしたちの変化を指摘する。それは確かに本当のことだった。訓練こそカレンちゃんがやるから支障はなかったけど、それ以外はダメダメで、もう部屋に戻って引きこもりたいくらいだった。つかささんもあたしに視線を投げかけてくるのに、何も話しかけてくることはなく、あたしたちの間に変な距離が生まれていた。
    「喧嘩でもしたのか?」
    「喧嘩……っていうわけじゃないの。つかささんに怒ることなんてないから」
     本当に。つかささんがあたしに怒ることがあっても、逆なんてない。もっとも、あたしの心のうちをすべて言葉にしてしまったら、彼女はもうあたしと口をきいてくれなくなるかもしれない。さっきあれだけルーズリーフに書き連ねたはずなのに、あたしはまだ感情を吐き出しきれずにいた。
    「つかさっち、心配そうな顔でかれりんを見てたよ。昨日の夜に何かあった? 寝るまではいつも通りだったじゃないか」
    「……」
     月歌さんって実はめぐみさんと同じだったりする? あたしは何にも話してないのに、全部当たってる。こういう時の月歌さんの勘はとても鋭いのだ。だから、部隊長なんだろうな。
     どうしたらいいんだろう。あたしは少しだけ途方に暮れていた。つかささんとのこともそうだし、今のこの状況についても答えが見つからない。
     月歌さんも黙って、無音になったスタジオ。あたし一人になったような錯覚すら覚えた。
    「月歌さんって」
    「ん?」
     その錯覚が嫌で、無理やり声を出す。月歌さんを呼んでから何を話したらいいか悩んだ。
    「…………どうしてあたしのこと、天使だなんて言うの?」
    「えぇ? そう言われても実際そうだからなぁ……」
     結局、さっきあたしが否定したことを自分で蒸し返した。言ってから別のことを言えばよかったと後悔した。月歌さんとならいくらでも話題なんてあるのに、どうしてこんなことを言ってしまったんだろう。
    「そういうこと言われたら、ユキさんに嫉妬されちゃう」
     あたしの弱い冗談に、月歌さんは一瞬不思議そうな顔をして、それから破顔する。
    「それが残念ながらしないんだよな。かれりんも知ってるじゃん」
    「知ってる」
    「意地が悪いねえ、かれりんも」
    「うん」
     知ってる。自分でもよく分かってる。あたしはズルい人間だってこと。月歌さんがそういうつもりで言ってないと理解していても、今のあたしにはダメージが入る。
    「でもそゆとこが好き!」
     両手を握って顎の下に当てて、月歌さんは身体を揺らした。可愛い子にしか許されないポーズがよく似合っている。いや、そうじゃなくて。
    「あ、そんな顔しないでかれりん! カレンちゃんにならないで!」
    「ならないけど……性格悪くない? あたし」
    「別に? なんで?」
    「……」
     本当に今日のあたしは調子がおかしい。さっきのが月歌さんの冗談だってくらい、分かっていたのに。どうして食いついてしまったのか。当然のように否定されて、これじゃあたしが気にしていることが何か、話してしまったようなものだ。
    「かれりん、つかさっちに意地悪でもしたの?」
     ほら。この流れで分からないはずがない。曖昧に微笑んで誤魔化せば、月歌さんはでもさ、と言葉を続けようとする。
    「かれりんって、つかさっちのこと……」
    「月歌さんお願い」
     それ以上は、言わないで。
     そう言ったあたしがどんな顔をしていたのかは、分からない。でも、月歌さんの赤い目が大きく見開かれて、口を結んだから、それ相応の表情だったんだと思う。
     言葉にしたくなかった。してほしくなかった。あたしがつかささんに向けている感情を他の人に指摘されたくないと、そう思ってしまった。
    「大丈夫、安心してよ。ここでかれりんとは何も話してない。あたしが歌詞を書いて、かれりんはそれを黙って見てた。だろ?」
    「……そうだったかな」
     そうだよ、と短く返したきり、月歌さんはルーズリーフに視線を落とした。言った通り作詞を再開した月歌さんは、誰かが来るまで顔を上げることも、あたしと話すこともないだろう。
     その横顔をぼんやりと見つめて、羨ましいと思った。あたしはそんな風にまっすぐ人のことなんて考えられない。薄っぺらくて何もなくて。さっきだってつまらない独占欲のために月歌さんに気を遣わせた。
     扉が開く音と、人の話し声。時計を見ればもう集合時間だった。月歌さんは一瞬あたしを見て笑ってくれた。
    「お、皆揃ってんな! 歌詞書けた?」
     そうして走ってスタジオの入り口まで皆を迎えに行った月歌さんの背中越し。遠慮がちにあたしを見るつかささんと視線が合う。何か話しに行こうかと悩んで、でも話したいことは上手く出てこなくて、結局笑って手を振ることくらいしかできなかった。
     けれど、つかささんがぱっと笑って手を振り返してくれたから、単純なあたしはそれだけで泣きたくなってしまった。


    「――こちら31A茅森。司令部、聞こえるか」
    『こちら司令部七瀬です。状況の報告をお願いします』
    「目標のキャンサーは撃破した。31Aはこれから北東へ向かい、ドーム近辺のキャンサーを掃討した後、ブリーフィング時に指定された座標へ向かい帰投する」
    『了解です。野良キャンサーとの戦闘ではありますが、くれぐれも油断しないように』
     ――プツン。
     七瀬さんとの通信が切れる。通信妨害するようなキャンサーの有無は、作戦行動の難易度に大きな影響を与える。今回のキャンサーはハブでもなく、特に問題もなく撃破することができた。
    「おーい、皆集合!」
     あたしは月歌さんの近くで警戒をしていたけど、他の四人は別の方角を向いている。全員が集まったのを確認してから、月歌さんがこれからの指示を出した。
    「予定通り、これから北東へ向かう。ドーム近くのキャンサーの掃討が終わったら、ブリーフィングで言われたポイント……軍の施設跡でヘリと合流だ」
    「この辺りって、他に強力なキャンサーの情報ってあるの?」
    「いや、ないな。さっき撃破した個体がここらのボスみたいなもんだ。つっても、ハブと呼べるようなレベルでもなかったが……そもそもこの辺りのキャンサーは質より量みたいなところがあるからな」
     あたしの問いにユキさんが淡々と答える。戦闘記録はユキさんがとっているし、部隊で一番広く視野を保っているのも彼女だ。本人はこういうのはあたしが一番向いてるからな、と言うけど、それにしたってその分析能力は並外れている。
    「質より量ってご飯みたいじゃない?」
    「月歌さん、お昼ご飯はどこで食べますか!」
    「さてはおタマさん、お腹空いたな?」
    「うぅ……」
    「お昼はドーム近くの掃討が終わってからにした方がいいと思う。そこから合流地点までは迂回して行くから距離があるし、何よりキャンサーの数が多い。まずはそれを削らないと、安心して食事なんてできないぞ」
    「そうだね……おタマさん、もう少しだけ頑張ろうぜ……あたしも腹が減りすぎて、そろそろ皮一枚になって飛んでいきそうだな……」
    「飛ばないから安心しろ」
    「不肖國見タマ、頑張ります……!」
     お腹が空いたらしいタマさんと月歌さんがユキさんにツッコまれているのを視界の端に捉えながら、あたしも少し空腹を感じていた。この様子だと、遅めの昼食になりそう。

     実際にお昼ご飯を食べられたのは、すっかりお昼を過ぎた後だった。お昼ご飯よりもおやつの方が、時間的には近い。
    「まさかこんなに量が多いとは思わなかったわね……」
    「どいつもこいつも、一匹やと大したことないくせに……」
    「波のように押し寄せて来ましたからね……ヒュー……」
    「相変わらずお前体力ないな……」
     キャンサーの数を削り切ったあたしたちは、その量の多さに言葉を失った。まさかこんなに群れとなって襲いかかって来るとは思わなかったのだ。めぐみさんの言う通り、単体だと大した強さはないけど、とにかく数が多い。カレンちゃんですら、その多さに飽きた! と言うくらい。
    「でもこれでお昼が食べられる!」
    「念願のランチターイム!」
    「おいお前ら、まだキャンサーがいるかもしれないんだから周囲の警戒を怠るな! 待て!」
    「タマ! 昼食べるならそっちやなくてこっちにしとけ! そっち虫多いで!」
     お腹が空いていたタマさんと月歌さんが、座って食べるのに手頃な場所を探しに走り出す。その後ろを追いかけるユキさんと、タマさんを連れ戻しに行っためぐみさん。あれだけ掃討したからキャンサーの反応はないし、少し離れても多少は問題ないはず。
     四人がいなくなって必然的に、あたしとつかささんがその場に残された。
    「……あ、朝倉さん。わたしたちもお昼にしない?」
    「うん。皆どこか座れる場所を探しに行ったし、ついて行こ」
     ここは周囲に座れるところがないから、座れそうな岩とかがあればいいんだけど。皆を追いかけるにしても単独行動は危険だから、つかささんが一緒の方が安心だ。
     先に向かった四人を追いかければ、少し歩いた先に開けた場所があった。
    「ここなら視野も確保できるし、休憩もできるだろうな」
    「この倒木、少し湿っぽいですが、少し座る程度なら許容範囲でしょう。他に座れる場所は無さそうですし……」
     苔が生えていない大きめの平らな石がいくつか並んでいる。それぞれ適当に座る場所を選んで、ようやくお昼ご飯の時間だ。
     支給されたお昼ご飯……エネルギーバーを取り出す。今日はチョコレート味らしい。
    「朝倉さんってレモン味が好きなのよね?」
     封を開けようとしたら、隣から唐突に質問が飛んでくる。以前、あたしがレモン味のエネルギーバーが好きだけどなかなか来ないという話をしたことを言っているらしい。
    「うん。レアなのか、あんまり当たらないんだけどね」
    「それって、これよね?」
    「そう! つかささん、ラッキーね」
     つかささんの手の中にあったのは、確かにあたしが好きだと言ったレモン味のエネルギーバーだった。これが物欲センサーなのかな。そこまで強く当たってほしいと思っているわけじゃないんだけど。
    「朝倉さんのは?」
    「あたしのはチョコ味。これも美味しい」
    「そうね、チョコレート味は美味しいわ」
     手の中のエネルギーバーをじっと見つめていたつかささんは、それをあたしに差し出した。
    「つかささん?」
    「あげる! それと交換しない……?」
    「気を遣わなくていいのに」
    「だってこれ、朝倉さん好きなんでしょう?」
     だからはい、どうぞ、と差し出されたそれを、断りきれず、恐る恐る受け取った。
    「つかささんも、どうぞ」
    「えぇ、いただくわ」
     もらったのだからあげないと。処理が遅れ気味な頭で判断して、あたしもチョコ味のエネルギーバーをつかささんにあげた。満足そうな笑顔でつかささんはそれを受け取って、交換成立。
     いただきます、と手を合わせて二人でエネルギーバーを齧る。人工的につけられたレモンの風味が好みだ。食べやすいように工夫されていることは分かっているし、作戦行動中に贅沢なんて言えないけど、やっぱり乾燥気味なエネルギーバーは若干食べにくい。
    「……うん、美味しい」
    「これだけで活動に必要なカロリーを摂取できるのよね。それに、ビタミンや鉄分も補えるのだから、完全食にかなり近いわ」
     栄養学のことは詳しくないけど、つかささんの言う完全食というのがすごいものだということは伝わった。
     もそもそとエネルギーバーを齧ってつかささんの話を聞きながら、そういえばこういうの久しぶりかもしれないと思った。あの夜の後から、つかささんと話すのが少しだけ辛くなって、あまり二人にならないようにしていたから。つかささんからそれについて何か言われることもなく、あたしたちの間には微妙な距離が生まれていた。
     辛くなったくせに、今こうしてつかささんの話を聞いているあたしは、その声に安心している。彼女があたしに対して変わらない接し方をしてくれることに、よかったと思っている。それがあまりにも勝手で、また自分が嫌になる。
     量があるわけでもないから、エネルギーバーはすぐに食べ終わってしまった。つかささんを見やれば、まだ手の中に半分ほど残っている。ずっと話しているからなんだけど、遅れているのは珍しい。何だかんだでいつもだったら話しながら食べるのに。
    「……あの、朝倉さん」
    「なに?」
     さっきまでノンストップで話していたはずのつかささんが、遠慮がちにあたしを覗き込んだ。青い目が不安気に揺れていて、あ、と思った。
    「わたしの話、つまらなかったかしら」
    「そんなことない。つかささんの話を聞くの、好きだもの」
    「でも、あんまり反応がないというか、その……何だか一人で話しているようで。やっぱりつまらなかったわよね。待って、ちゃんと朝倉さんが面白いと思う話をしてみせるから」
     そう言って視線を宙で彷徨わせ始めたつかささんをしばらく見つめて、どうしてこんなことを言ったのか思い至った。あたしが相槌も打たず、話半分で聞いていたからだ。つかささんはただ話がしたいからあたしを選んでいるわけじゃない。あたしと話がしたいんだ。
    「待って、つかささん」
    「えっ、何を……?」
     何に待ってほしいのかは、きっとつかささんは分からないだろう。それでよかった。あたしの気持ちなんて、分からなくていい。嘘、分かってほしい。違うの、今そういうことを考えたいわけじゃなくて。
     つかささんがもし、本当にそういう理由であたしに特別話をしたがるのだとしたら?
     ……そんなはずない。全部あたしの都合のいい妄想で、つかささんがそんなこと考えるはずがない。
    「朝倉さん……?」
    「ごめんなさい、つかささん。ちょっと考え事してただけ」
    「具合が悪いとかそういうのは? さっきの戦闘で疲労が溜まったのかしら?」
    「本当に平気。大丈夫だから」
     心の底から心配そうにあたしを見つめるつかささんを視界に入れないようにして返事をする。今は作戦行動中だと言い聞かせることで、何とか自分を保つことができた。そう、今は大事な作戦行動の途中。ここから先は、さっきまでのような長時間に及ぶ戦闘こそないと言われているけど、それでも戦闘はある。ここで油断してはいけない。
    「そう……?」
     そしてこういう時、つかささんは深入りしてこない。あたしが大丈夫だと言えば、心配そうにはするけど、追及せずに退いてくれる。
     助かったと思った矢先、月歌さんの声が耳に届く。
    「かれりん、つかさっち! 食べ終わった?」
    「うん。そろそろ出発する?」
    「そうだね。皆食べ終わったなら、ルートの確認して出発するつもり。つかさっちも食べ終わってんね。よし、全員集合!」
     どうやらあたしたちが最後に食べ終わったらしい。集合の号令がかかると、ユキさんたちはすぐにやって来た。
    「というわけで、これからヘリとの合流地点へ向かう。ユッキー、ルートは予定通りで大丈夫かな?」
    「あぁ。ブリーフィングで話したが、ここから合流地点へは少し迂回する必要がある。最短距離で目指すのは途中に崖があるから難しいだろう。ここから尾根を下りつつ、目標ポイントへ向かうのが安全だな」
    「キャンサーの群れについては、もう出てこない認識でいい?」
    「そうだな。尾根を下った先は以前31Dが掃討を行なっている。基地を出る前に二階堂にデータを送ってもらったが、そもそもキャンサーの数が多くないエリアらしい。午前中のような戦闘はもうないと言っていいだろう」
    「そうか。なら、予定通り尾根を下ってヘリとの合流地点を目指そう。かれりんとめぐみん、先頭で敵の奇襲がないか警戒してくれ。おタマさんとつかさっちは最後尾で後方警戒。あたしとユッキーがサイドを見る」
     ユキさんの情報をもとに月歌さんが手早く陣形を整える。ブリーフィングでの話では、ヘリとの合流時間はヒトナナサンマル。あと二時間半くらいはかかると見込んでおくべきね。
     作戦行動に向けて、思考がしっかり切り替わったことに安堵しながら、めぐみさんから遅れていることに気がついて慌てて歩みを早めた。


     あたしたちが合流地点に到着したのは、ヒトナナマルマルだった。キャンサーが想定以上に少なかったことと、尾根がなだらかで歩きやすかったことで、予定よりも早く着いた。
    「こちら31A茅森。司令部、応答願う」
     月歌さんはさっそく、司令部の七瀬さんに通信を繋いだ。
    『こちら司令部七瀬です』
    「ななみん、合流地点として指定された軍の施設跡に到着した」
    『了解しました。道中のキャンサーとの戦闘や、部隊の消耗はどうですか?』
    「やっぱり山頂がキャンサーの巣窟だったみたい。尾根を下ってからは質も量も目に見えて落ちた。そのおかげで全員、特に消耗もなく進めたさ」
    『それは何よりです。ヘリの到着まで、凡そ三十分かかります。予定時刻通りに到着する予定ですので』
    「そっかー。ま、早く着いたから仕方ない。キャンサーの脅威は低いだろうから、ヘリが来るまで遊んでていい?」
    『遊ぶのではなく待機してください』
    「はーい」
     それでは、と七瀬さんとの通信を終えた月歌さんは、勢いよくあたしたちを見る。その顔がやたらニヤニヤしていたから、次に彼女が言いそうなことは容易に想像ができた。
    「まだヘリ来るまで時間があるから待機してろってことはさ、この施設跡の周辺を調査しに行ってもいいってこと?」
    「七瀬の言うこと聞いてたか? 遊ぶなって言われてただろ」
    「遊びじゃないよ。みさりんたち、施設跡と南側の調査はしたけど、北側までは手が回らなかったんだろ。時間があるならあたしらが見てきてもいいんじゃないか?」
     その言葉の割に、月歌さんの目はキラキラと輝いている。要するに、探検に行きたいのだ。キャンサーの危険性の低さからすれば、軽く偵察に出るくらいならいい気もするけど。
     ユキさんはしばらく考えてから、ぼそりと結論を告げた。
    「一人は危険だからダメだ。誰か連れてけ」
    「じゃあおタマさん!」
    「了解であります!」
     本場仕込みの敬礼をするタマさんを引き連れて、月歌さんは早速北側へ偵察に向かって行った。
    「遠くに行きすぎるなよ! あと時間までに戻ってこい! 聞いてるか! ……ったく」
    「うちも瞑想しとこ」
     止めても無駄だということは分かっているから、とりあえず嗜めておいたユキさんは近くにあったベンチに腰掛ける。多分、今日の作戦行動の記録を整理しつつ、何かあった時のために文字通り待機するつもりだ。めぐみさんも陰の方で目を閉じて天を仰いでいる。
     そしてつかささんはと言えば、付近をふらふらと歩き回っている。合流地点として設定されたここは、昔は軍の施設があったらしい。建物自体は無いけれど、所々にまだ使えるベンチやテーブルなどが散らばっている。31Dが付近を掃討した際に施設跡の調査は済んでいるから、この開けた場所はもう、ヘリの発着に便利な開けた場所という扱いになっていた。
    「あたしも、ちょっと月歌さんたちについて行ってみる。すぐ戻るね」
    「あぁ。まだ暗くないが、お前もさっさと戻って来いよ」
    「うん」
     ユキさんにそれだけ告げて、ぼんやりと歩き始める。向かう方角こそ決まっているけど、実際に月歌さん達がどこを歩いているかはぬかるんだ地面に残る足跡を辿るしかない。
     軍施設跡の周囲には、森林が広がっていた。迷子にならないよう慎重に歩く。夏の夕方だけあって、湿度が高い。
     一人でこうして歩いているけど、鳥の声すら聞こえない。木々の葉が風に揺れる音ばかりが響いて、物寂しい気持ちになる。このまま月歌さんたちに合流できなくなっても困るから、ほどほどにして、早く戻ろうかな。
     足をもと来た方へ向けかけた時、向こうに鮮やかな橙があるのが見えた。森林の緑の中でそれはとても目立っていて、あたしの足はそちらへ引き寄せられるように動く。
     どうやらそれは、森が終わった先にあったらしい。
    「わぁ……!」
     思わず声が漏れる。そこにあったのは、向日葵畑だった。ものすごく広大なものではない。その始まりから終わりまで全部が、あたしの視界に入るくらいの広さだ。
     もう八月も下旬に差し掛かったところで、少し待てば九月に入るような今の時期に、まだこんなにたくさんの向日葵が咲いているんだ。
     引き寄せられるように、橙の海の中へ足が向かう。影が差す暗い深緑の森から、鮮やかな橙へ視界が一気に変わって、眩しくて目を閉じた。閉じた瞼の裏にも太陽の光は突き刺さる。
     ざぁ、と熱さの引いた風が吹いた。頬を撫でるそれに目を開ければ、少しずつ短い夜へ移ろうとする夕暮れの空が目に入った。向日葵はまだ太陽を向いている。夜になれば、しなだれてしまうのだろうか。
     あたしよりも少し背の高い向日葵たちを見渡して、一つを見つめる。今まで間近に見たことはなかったけど、意外と大きい。向日葵畑は広くないけど、気を抜くと迷子になってしまうんじゃないかと思うくらいだ。
     ……あたし、もしもここで迷ってしまったら、もう誰にも見つけられないのかな。
     ふと、そんなことを考えた。ユキさんに月歌さん達を追いかけるとは伝えたし、一応月歌さんたちの向かった方向へ進んだつもりだけど、ここへ二人が辿り着くかは分からない。もしいなくなったら、ここまで探しに来てくれるのかな。来てくれなかったりして。それでもいいんじゃないかって、ちょっと思う自分がいたりもして。
     今のあたし、すごくネガティブだ。こんなにも周りは綺麗な向日葵に囲まれているのに。……だからかな。自分が場違いな気がするから? あたしがあたし自身のことを好きになれないから?
     俯きたくなるあたしを相手にしないかのように、向日葵たちは空を向いている。いっそ清々しくなるほどだったから、思わず意味もないのに笑ってしまった。
    「……あたしなんかより、ずっといいよ」
     小さく呟いた言葉は、風で揺れた葉が擦れる音にかき消された。
     誰もいない。誰も。今ここには、あたしが一人。
     誰も来てくれなくてもいいなんて考えたけど。やっぱり来てほしいとも思う。誰かじゃなくて、つかささんに。一緒に見られたら、きっと幸せに満たされるんだろうな、なんて。
     あたしは弱虫で、人を殺して人を憎んで、それでも一人で生きていくことはできない。あたしはやっぱり人間で、それも矛盾した人間だ。
     そんなあたしをあたしとしていさせてくれる人。天使なんかじゃなく、普通の人間だと突きつけてくれる人。時に残酷に、時に優しく真っ直ぐに、間違いを正してくれる。
     だから、あたしはつかささんが好き。
     だからこそあたしはずっと、つかささんを待っている。同じ気持ちになってほしくて。あたしがつかささんを求める気持ちの少しでも、つかささんが抱いてくれたらと、願ってしまう。
    「……ふっ」
     知らず知らずのうちに笑ってしまった。あたし、こんなこと考える人間だったっけ。
     ……本当に、そろそろ戻ろうかな。誰も探しに来てくれなくても、自分で戻ることはできる。
     綺麗な向日葵を見ることもできたし。いい景色を独り占めしちゃった、なんて。我ながら白々しい思考に、ため息すら出ない。
     そうして、今度こそ皆のところへ戻ろうと振り返った時、ガサガサという音を耳が捉えた。これは何だろうと耳を澄ませる。これはきっと、誰かが草を踏み分けている音だ。
    「……誰?」
    「おや! 可憐さんではないですか!」
    「タマさん?」
    「月歌さん! 可憐さんに先を越されてました!」
     向日葵の花よりもずっと下に、見慣れた黒い海軍帽がある。その後ろからは、月歌さんが草陰から顔を覗かせた。
    「ほんとだ、かれりんじゃん。というか、かれりん一人だけ?
    「月歌さんたちを追いかけて来たつもりだったの。でも、いつの間にか追い越したのかも」
    「えぇ! ここまで一人で来たってこと!? けっこう遠いんだけど……」
     月歌さんとタマさんは驚いて顔を見合わせたけど、あたしとしてはそんなに歩いたつもりもなかった。風にゆらゆら揺れる向日葵の花は、あたしと月歌さん達のどちらに賛成しているんだろう。
    「なぁんだ、いいとこ見つけたから戻ったら皆に自慢してやろーって思ってたのにかれりんが一番乗りだったかぁ」
    「でもあたしも偶然見つけただけよ」
    「違うよかれりん、最初に見つけたって言うのがミソなんだよ。なあ、おタマさん」
    「当然です! 何事も最初に見つけた人が多く褒賞を受け取る権利を与えられるものですから!」
     やっぱりこの二人には共通した何かがあるらしい。言われてみれば確かにそうかもしれないとは思うけど、今回についてはやっぱり違う気がする。
    「この景色を独り占めするのはもったいないと思ってたから、二人と見られてよかった」
    「私もです! 本当は、めぐみさんたちとも見たかったのですが……」
    「今から呼んで戻って来るには、ちょいと時間が足りないな」
    「そうですよね……」
     しゅんと視線を落としたタマさんの様子に、月歌さんが帽子ごと頭を撫でる。ガシガシと乱暴に撫でても、帽子はびくともしない。不思議なメカニズムだ。
     つかささんと二人きりで、なんて大層なことは望めなくても、タマさんが言ったようにせめて皆で見られたら良かったんだけどな。月歌さんが指摘した通り、それには時間が足りない。
     つまり、この景色はあたしたち三人での見納めだ。
    「あとで戻ったら、めちゃくちゃ自慢してやろうぜ。見に行けば良かった! って言わせるくらいにさ」
    「そのためには今しっかり見ておかなきゃ」
    「これはまさに、瞳の奥に……」
    「録画中!」
     どちらかと言えば写真の方が正しい気もするけど。
     これを言うためだけに、カレンちゃんは一瞬出てすぐに戻ったらしい。
    「相変わらずノリがいいなカレンちゃん」
    「楽しんでるみたい」
     こういうのは乗った者勝ちじゃァ、とカレンちゃんは言う。あたしが乗る前にカレンちゃんが出ているから、大抵あたしが見るのは盛り上がってる皆だ。少し離れた場所からそれを眺めるのは、面白かったりする。
    「そういえば二人はどこを歩いていたの?」
     あたしはここにしか辿り着いていないけど、タマさん達は真っ先に偵察に出かけたから、他に何か見つけたのではないかと思って尋ねる。
    「私たちはけっこう歩き回りましたからね! 施設周辺の森はほぼ一周しました!」
    「何か見つけた?」
    「何もありませんでした……!」
    「施設の周りはただの森だったんだよ。何か見つけないと帰れないってやけくそで歩いてたら、ここを見つけてさ」
    「寧ろ、可憐さんはよくここを見つけましたよね」
     月歌さんもタマさんも驚いているけど、本当に大したことじゃないと思う。あたしはただずっと北へ歩いていたら、ここに辿り着いただけ。
     深く息を吸えば、草と土の匂いがする。別に馴染み深いわけじゃないのに、懐かしい感じがする。ノスタルジックというのか。
    「はー……うっし、そろそろ帰るか。おタマさん、かれりん、ユッキーたちに自慢できるくらいこの景色の良さ、詳細に話せそう?」
    「もちのろん! 私の豊富な語彙力で必ず探検しなかったことを後悔させてみせます!」
    「自慢はしないけど、この景色は目に焼きつけといた」
    「なら、行くか。ユッキー覚悟しとけよー」
     腕を伸ばして勇んで歩く月歌さん達の背中を追いかけて、ゆっくり歩き出して。それから一度振り返った。
     向日葵はまだ、夏の夕暮れの生ぬるい風に吹かれて揺れている。




     あの夜。きっと、頭のいいわたしは朝倉さんを傷つけたんだと思う。
     翌朝、思い出せたところでどうしようもない記憶を引っ張り出して愕然とした。覚醒したわたしが朝倉さんに放った言葉と、朝倉さんの揺れる表情。それから出てきたカレンちゃんとの応酬。
     よく生きているわねという驚きと、朝倉さんを傷つけたかもしれないという不安。寝不足気味で重い頭でも、目覚ましなしで起きられたのは、習慣の勝利だった。
    「おはよ、つかさっち……なんか怠いの?」
    「何だか寝つきが悪くて……ふぁ……」
    「いつも寝不足はお肌の敵って言ってるのに、珍しい」
     珍しいと言えば、まだかれりん起きてないね。
     月歌さんの口から出た名前に、心臓が跳ねる。そうだ。頭のいいわたしは、明け方まで動き回った挙句、ふらふらになって気絶したカレンちゃんを運んで部屋に戻って来たんだった。背負ったまま無理やり梯子を登って、ベッドに投げ捨てて自分もさっさと寝たところまで思い出す。
    「わ、わたしが起こしてみるわ……!」
    「お、おぉ……? そんなに覚悟しなくても、起き抜けでカレンちゃんになることはあんまりないが……頼んだ東城」
     ちょうど起こそうとしていた和泉さんを押しのけるようにして、急いで梯子を登る。背負った朝倉さんの大して重くはない質量と、投げ捨てた感覚が蘇ってきて、心臓がうるさくなる。
    「あ、あさくらさん……?」
     裏返りそうな声で名前を呼ぶ。薄い毛布に包まれた朝倉さんは、まだ目を閉じたままだった。投げ捨てはしたけど、一応毛布はかけた自分にとりあえず安堵しつつ、起きる気配のない彼女の名前をもう一度呼んだ。
    「朝倉さん、起きて」
     返事も反応もない。まさか死んだりしてないわよね、と口元に手のひらをかざし、呼吸を確認する。ふ、と朝倉さんの細い息が届いた瞬間、何だかいけないことをしているような気持ちになって、慌てて手を引っ込めた。
    「あ……朝倉さん、朝よ! 起きて!」
    「……ん……?」
     ようやくわたしの声が聞こえたのか、朝倉さんの目尻が僅かに動いた。
     眉を顰めて、口元がもごもごと何度か動いて、そうしてそろりと瞼が開いた。焦点の合わない向日葵のような色の目がゆるゆると揺れて、それからわたしを捉える。
    「……つかささん、おはよ」
     寝起き特有の舌足らずな掠れ声。ふっと緩んだ頬。わたしを見つめる目は、遠い記憶で愛おしいと言ってわたしを抱きしめてくれたお母さんのそれによく似ていて、けれど明確に違っていた。
     どうして似ていると思っていたんだろう。どうしてわたしは、気がついてしまったんだろう。頭のいいわたしが、朝倉さんにあんなことをしたのは、どうしてだろう。
     ……泣きたくなってしまったのは、どうしてだろう。


     綺麗に並んだ文字を、目が滑っていく。つるつる滑って、ページを捲る手が止まらない。
     開いた文庫本のすべてのページを捲り終わるまで、わずか数分だった。当然だけど、わたしの頭には何の情報も残ってはいない。よく出てきた名前は主人公なのかヒロインなのかすら、区別がつかなかった。
     今のわたしは一周まわって面白くなるほど、読書に集中できていない。せっかく図書館に来て、いいなと思う本を何冊かピックアップしているというのに、わたしが得られたものは何もなく、ただ時間を浪費するばかりだった。
     時間を無為にするほど頭を占めているのは、当然ながら朝倉さんのことだった。わたしの中に芽生えた彼女への感情が、わたしの思考を蔦のように覆っている。この感情の名前に心当たりがないわけじゃない。もしかしたら、と考えると、途端に心臓がうるさくなって、どうしようと困ったり、嬉しくなって落ち着かない。
     本でも読めば気分転換になるかしらと思って図書館に来たけど、どうやらそんなこともないらしい。このままここにいても仕方がないし、帰ろうかしら。
    「あら……?」
     机に積んでいた本を手に取って立とうとしたら、静かな声が耳に届いて、思わず動きが止まる。文庫本コーナーの一番奥の閲覧スペースなんて人はそうそう来ない。だからわたしはここを選んだのに、今日は珍しく誰かが来たらしい。
    「……あなたは、大島家の……」
     少し前に話をした二以奈さんに比べると落ち着いた髪色に、理知的な光を宿した明るい黄色の目。31E部隊長にして大島家長女の一千子さんがそこに立っていた。
    「31Aの東城さん、でしたよね。すいません、読書の邪魔をしてしまって」
    「いいの。全然読むのに集中できなくて、困っていたくらいだったのよ。文庫本を探しに来たの? 珍しいわね」
     申し訳なさそうに謝られたけれど、わたしとしてはもう帰ろうかと思っていたので、謝られる理由なんてなかった。それよりも、一千子さんが文庫本コーナーに来ていることの方が気になった。彼女はいつだって分厚い大きなハードカバーの本を抱え、勉強場所を求めて彷徨っている印象が強いのだ。
    「あ、そうなんです。勉強をしていたんですが、どうしても参考書が必要なところに当たってしまって……それで、探していたところなんです」
    「噂に違わず勉強家なのね。でも、この辺りに置いてあるのはファンタジーや歴史をモチーフにした物語ばかりなのよ。教養系の文庫なら、あっちの新書コーナーの近くにあるわ」
    「えぇ、さっき教えていただいて探してきたところで……生憎、貸出し中だったんです。予約は取ったので、せっかくだからこの辺りの本を見てみたくて」
     どうやら、わたしが教えるまでもなかったようだった。図書館での勉強がほぼ日課になっている一千子さんは、司書の人ともよく話している。彼女に教養文庫の場所を教えたのも、その司書なのだろう。
     ふと、一千子さんの視線が、わたしの持つ本のうちの一冊に注がれていることに気がついた。
    「これが気になったの?」
     抱えていた本たちをまた机の上に置いて、一千子さんが見つめていたそれを見せれば、彼女は口を小さく開けて少し気まずそうな顔をした。
    「すいません、不躾に見てしまって」
    「気になったら見てしまうものよね。分かるわ。わたしもよく人に言われるもの」
    「誰かに指摘されたことはないですけど……その本のシリーズ、昔すごく好きだったんです。小学生の頃、図書館でよく読んだなあって懐かしくなってしまって、それでつい」
    「これ、シリーズものだったのね。わたしは読んだことがなくて。面白そうだったから手に取ってみたのよね」
     結局、全然内容が入ってこなかったから、面白さは理解できていないのだけど。でも、読書好きで勉強家の一千子さんが面白いって言うのだから、ちゃんと読めば面白いに違いない。
    「でも、それはシリーズの五作目なので、読むなら最初からをお勧めします。わたしとしては、そうですね……三十四作目が一番面白いと思います」
    「そんなに長いの!? そこまで読めるかしら……」
    「大丈夫です! 寧ろそれまでは下準備のようなもので、どんどん伏線回収されて盛り上がりますし、それに挿し絵もありますから」
    「それなら大丈夫そうね!」
     挿し絵という視覚から得られる情報だって馬鹿にはできない。文章を読んで認識していたことが誤っていた、なんてことも往々にしてあるのだから。
     一千子さんと話す機会は二以奈さんに比べると少ないのだけど、案外彼女は話し好きらしい。話題が好きなものということもあってか、なかなか止まらない。妹たち以外の話題でここまでヒートアップしているのは、なかなかレアなんじゃないかしら。
     そのシリーズについてずっと話し続けているから、全然内容を理解していないのが申し訳なくなってきた。シリーズの一作目、借りて帰ろうかしら。
    「…………あっ、話しすぎましたよね……」
    「いいのよ。一千子さんのおかげで、一作目を借りて帰ろうと思えたもの」
     余りにも楽しそうに話していたから、その熱量にあてられたのかもしれなかった。それでも、一千子さんはぱっと表情を明るくする。
    「東城さん、読書がお好きなんですね。あまりこの基地では読書好きな人とお話しする機会がないので、とても嬉しいです!」
    「へっ、え、えぇ。そうね。活字が苦手なんじゃないかと不安になっていた時もあったのだけど、そんなことないって分かってからは、読む機会が増えたわね」
     不安が払拭されたのは、『異世界に転生したのにワイちゃん鬱でひきこもってる件』を読んだからだ。あれからも本を読んでいるし、言われてみれば読書が好きと言えるかもしれない。
    「良ければ、東城さんのお勧めの本も教えてください」
    「そうね……たくさんあるから、今度いくつか選んで来るわ」
    「ありがとうございます!」
    「……他の姉妹たちは、本を読まないの?」
     まるで周囲に本を読む人がいないと言うような言動が気になって尋ねてみれば、一千子さんは眉尻を柔らかく下げて困ったような顔をして笑った。
    「実はそうなんです。妹たちはあまり活字は好まないみたいで」
    「二以奈さんとか、読んでそうだけど」
    「あの子は今でこそ落ち着いて見えますが、昔は誰よりも活発でやんちゃな子だったんです」
    「そうなの? なんだか意外ね」
     よく言われます、と一千子さんが笑みを深めた。目を伏せ、本の表紙を指先で撫でながら、きっと彼女は今ここにいない妹のことを考えている。
    「真っ先に前に行くような子でしたから。部屋の中でじっと本を読むより、外で走り回る方が好きだったんです。二以奈だけじゃなく、他の妹たちも、わたしのように読書を好んではいません。読むとしたら、漫画ばかりで」
     以前、二以奈さんと話した時のことを思い出した。二以奈さんは、家族でも言えないことがあると言っていたけれど、それは一千子さんもそうなのだろうか。
     図書館の天井でファンが回っている。その静かな音が、妙に耳についた。
    「姉妹って、ずっと一緒にいても見えないことってあるの?」
    「見えないこと……そうですね、わたしたちは確かにずっと一緒に暮らしてきましたが、同じ人間ではありませんから。きっと、わたしの知らない一面が……いちめんが…………」
    「一千子さん?」
     かくん、と一千子さんの首が揺れた気がした。気のせいかしら、と思ったけど、それにしては何だか言葉も危うい。同じ言葉を繰り返し始めている。
    「わたしの知らないいもうと……? わたしに……わたし……ぴーがががががががー」
    「一千子さん!? しっかりして!」
     禁句を口にしてしまったのか、一千子さんの口から壊れたコンピューターのような音が飛び出した。白煙がその口から漏れ出ているのはわたしの目の錯覚かしら。
     慌てて名前を何度か呼べば、一千子さんはしばらくしてから意識を取り戻した。
    「す、すいません……わたしの知らない妹と考えたらつい……」
    「こちらこそごめんなさい、まさかそんなにショックが大きいとは思ってなかったの……」
     大島家の繋がりの強さは知っていたけど、白煙を上げる勢いで壊れるというのは予想していなかった。呆然とするわたしの前で、一千子さんはため息を一つ吐く。
    「何もかもを把握できるわけではないということは、十分分かっているつもりなんですが……それでも少し、寂しくなってしまうんでしょうね」
     それは彼女に似つかわしくない、落ち着きを欠いた早口だった。一千子さんの言う『寂しい』は、わたしの中で具体的なイメージになってはくれなかった。
    「ずっと一緒にいるのって、きっと大変なんですよね」
    「そうなの?」
     大島家の長女がそんなことを言うのは、意外だった。彼女たちはいつでも一緒にいるし、少なくともわたしはそれが当たり前だと思っていたから。
     わたしが驚いて少し大きな声を出したからか、一千子さんはわたしをまじまじと見つめる。何故かボロを出した気分になった。
    「外部と当事者では、見えるものは違いますから」
    「それでも一千子さんがそう言うのは意外ね。あなたが一番、信じて疑わないと思ってたけど」
    「もちろん、そう思っていますよ。けれど、その実現は平坦ではないだけです」
     そういうものかしら。疑問ではあったけど、外部もいいところなわたしが口を出すのはお門違いのように思えて、何も言わなかった。
    「例えばそうですね。わたしたちは好みはもちろん違いますし、生活スタイルもそれぞれです。四ツ葉が好むコーラやポテチを二以奈が進んで食べることはありませんし、六宇亜の日課のランニングに毎日五十鈴が付き合うことはありません」
    「でもそれって、各自で勝手にできることじゃないの?」
    「やるだけなら。でも、わたしたちはずっと一緒にいますから、必ずしも自分の思い通りにはならないですよね?」
    「それは、確かに……」
     わたしも同じだった。セラフ部隊で、集団生活を送る以上、わたしたちは自分のやりたいことばかりできるわけじゃない。
    「わたしたちは家族ですから、他の部隊よりもきっと、意見を言いやすいんでしょうね。喧嘩をすることだって、日常茶飯事です」
    「あなたたち、喧嘩なんてするのね。いつも仲がいいと思っていたわ」
    「仲がいいからこそ喧嘩するんですよ」
     一千子さんは微笑んだ。それは少し誇らしげで、何となく、これが長女だわ、と思ってしまった。
    「長女って大変?」
    「そんなことありませんよ」
    「喧嘩の仲裁だってするでしょう?」
    「それはもちろん。でも、わたしが喧嘩することもありますから。その時は、誰かが間に入ってくれます」
     少し話が逸れてしまいましたが、と仕切り直して、一千子さんはまたわたしを見る。
    「一緒にいるのにも、お互いに歩み寄る思いやりと努力が必要なんだと思うんです。わたしたちはそれが苦にならないから、表に出てこないだけで」
    「……一千子さんって、いいお姉さんね」
    「ふふ、ありがとうございます」
     何となく、彼女が長女だと思う根拠を見つけた気がする。わたしに兄弟がいたとしても、こんな風にはなれないだろう。
     控えめに笑った一千子さんは、壁にかかった時計をちらりと見て、あっ、と小さな声を漏らす。
    「もうこんな時間……」
    「あら、何か予定が?」
    「ナービィ広場でお昼寝中の四ツ葉を迎えに行かなきゃいけないんです! あの子ったら、起こしに行かないとずっと外で寝ているので……」
    「風邪を引くとよくないわね」
    「えぇ、本当に……東城さん、読書の邪魔をしてすいませんでした。でも、お話できてよかったです」
    「わたしも、有意義な時間を過ごせたわ。ありがとう」
     挨拶もそこそこに、一千子さんはあの分厚いハードカバーの専門書を腕に抱いて、足早に図書館を出て行った。相変わらず人の来ない閲覧スペースでわたしは一人、本の文字に視線を滑らせながら、さっきの会話を思い出していた。
     一緒にいることが平坦な道ではないのなら、わたしは朝倉さんと一緒にいるために何をすればいいんだろう。


    「――というわけなのだけど、どう思う?」
    「……はぁ?」
     翌日、アリーナ前のベンチに座る和泉さんへ尋ねてみれば、つれない返事。
     多少過ごしやすい曇りの日なのに、その顔はこの上なく歪められて不機嫌そうだ。
    「お前、自分が何言ってるか分かってんのか?」
    「もちろん、分かっているわよ?」
    「じゃあさっき何言ったか繰り返してみろ」
    「――というわけなのだけど、どう思う?」
    「その前は」
     今日の和泉さんは不思議なことを言う。珍しく話を聞いていなかったのかしら。
    「その前なんてないわ。何も言ってないんだもの」
    「それだわ! 何も言ってないって分かってて急にどう思う? とだけ聞くお前の思考回路どうなってんだよ!」
    「だって、その前に回想挟んだじゃない」
    「知るかよ! それはお前の頭の中の話! あたしに分かるわけねーだろ!」
     勢いよく一喝されて、思わず首を傾げてしまう。おかしいわね、和泉さんなら何も言わずとも分かってくれると思っていたのに。
    「阿吽の呼吸ってか!? お前とあたし、そんな芸当ができるほど付き合い長くも深くもないだろうが……」
    「悲しいこと言われてるわね」
    「思ってもないくせによく言うわ……何なんだよ、朝倉みたいなこと言って。似てきたんじゃねえよな……?」
    「似てないわよ」
    「はいそういうとこー!」
     血圧が上がってそう、と思いながら和泉さんを見つめる。こういう時の彼女は、ツッコミがひと段落したら落ち着いて話を本筋に戻すので、見守っておいた方がいい。これは月歌さんから教えてもらった茅森流和泉扱い術の一つだ。
    「…………はぁ。で?」
    「何が?」
    「なんか言いたいことがあるからあたしのとこ来たんだろ。さっさと話せよ。あたしだって暇じゃねーんだ」
     思わず目を丸くしてしまう。たっぷり沈黙した後、肺の空気を全部吐き切るくらい大きなため息をついた和泉さんは、いとも簡単にわたしが来た理由を当ててみせた。
    「この流れでどうして? みたいな顔するか? 諜報員の設定、すぐ頭から抜けるの何とかしろよ」
    「すごいわ和泉さん、まるでエスパーね」
    「……………………」
     わたしの言葉に和泉さんの唇がひん曲がる。何なんだこいつ、と言わんばかりの視線が突き刺さったのと、和泉さんが爆発したのは同時だった。
    「そういうとこぉー!!」
    「何が!?」
    「あたしはエスパーじゃねえって前も言ったわ! 逢川と被るだろうが! いや、あいつはサイキッカーであたしはハッカー!! 全然違うだろ!!」
    「和泉さん?」
    「お前と朝倉、揃いも揃ってなんでピンポイントで同じこと言うんだよ! 仲良すぎじゃないか!?」
     和泉さんのキレながらのツッコミは、残念なことに断片的にしか理解ができなかった。えぇとつまり、わたしと朝倉さんが同じことを言ってて仲良しだってことよね?
     わたしの記憶を思い出す限りでは、朝倉さんと和泉さんがそんな話をしていたのは見ていないのだけど、それは今はどうでもよくて。朝倉さんという、わたしがずっと考えていた人の名前がわたしと並んで出てきたことへの困惑に、途端に視線が定まらなくなる。
    「あ、あの、和泉さん……」
    「なんだよ」
    「わたしと朝倉さんって、和泉さんから見て仲良しに見える……?」
     まだ火薬が残っていそうな温度感だった和泉さんは、若干声が裏返ったわたしの言葉に冷静さを取り戻したらしい。黙ってじっとこちらを見つめてくる眼鏡越しの鮮やかな黄緑の目は、わたしの本心を読み取ろうとしている。それは決して不躾なものではなく、何だかんだ言いながらもわたしの相談に真面目に乗ってくれる証拠だった。
    「少なくともあたしから見ると、お前らは仲良い部類なんだと思う」
    「そう……」
     和泉さんに返された言葉にほう、と息を吐く。感じていたのは安堵だけではなかった。何と例えたらいいのか分からない、微妙な気持ち。仲が良いと言われてこんな気持ちになるのは、どうしてかしら。
    「納得いってない顔してるぞ」
    「そうなのかしら……」
    「東城お前、やっぱり鈍いよな」
    「じゃあ、和泉さんには分かるの?」
    「そりゃあ、お前よりはな」
     そう断言する和泉さんの表情は、声音とは裏腹にぼんやりしていた。彼女はいつもはっきりしているのに、今は輪郭が曖昧でぼやけていてよく分からない。
    「教えてくれないの?」
    「教えるようなものじゃないだろ、こんなの」
    「どうして」
    「そういうもんだよ。朝倉風に言うならチートってやつ」
    「インチキってこと?」
    「人に聞くようなもんじゃないってことだ」
     そう言って全部知ってるような顔をする。和泉さんは頑固だから、こうなったら何を言っても教えてくれない。
    「知りたいと思ってるのか?」
    「それは……もちろん」
     レンズが日光に反射して、その奥の目がよく見えない。けれど口元は引き結ばれていたのとその声音から、冗談めかしているわけではなさそうだった。和泉さんはそもそも冗談を好んで言う人ではないけど、それにしたって今は空気が違う。
    「ねぇ、次の補給作戦のことなんだけど……」
    「ルートの確認まだしてないよね」
     わたしたちのすぐ目の前を、誰かが過ぎていく。ここは基地内で、それもメイン通りに設置されたベンチだ。別にわたしたちの会話なんて誰も聞いていないだろうけど、そういう問題ではない。
     人の気配に我に返ったわたしを見て、和泉さんは空を仰いでため息を吐いた。
    「……はぁ」
    「こんなところで話す内容じゃなかったわね……」
    「本当だわ」
     心の底から同意していると分かる声で一言呟いた彼女は、すっと立ち上がって歩き始める。ひょっとして、もう話を聞いてくれないのかしら。飽きた?
    「何ぼんやりしてるんだよ、あたし一人だけ移動してどうするんだ」
    「わたしの話、飽きたんじゃないの?」
    「お前のこの話、最初からあたしが聞くべきじゃないんだって、さっきも言っただろ。聞かなくて良いなら聞かねーよ」
    「じゃあ……」
    「察し悪いな。こんな中途半端に聞かされて、はいさよならなんてできるわけないだろうが。スタジオに行くんだよ。人に聞かれたくないだろ」
    「和泉さん……!」
    「分かったらさっさと行くぞ。何回でも言うが暇じゃないんだ」
     何であたしがこんなことしてんだ、とぶつぶつ言う背中を慌てて小走りで追いかける。今日も暑くて、よく晴れた日だ。少し走るだけで吐く息の熱さが気になるくらいに。

     スタジオに先客がいたらどうしよう、などという不安は杞憂に終わった。
    「誰か来たら、自主練が被ったから二人で練習してたってことにしたらいいだろう」
    「わたしたちが二人だけでいるのって、何だか不思議じゃない?」
    「……お前、今から相談しようとしてること、忘れてないよな」
    「もちろん、忘れてないわよ」
    「いや、もういいな。気にするだけ無駄だよな」
     口をへの字に曲げて無理やり何かを納得した和泉さんは椅子に腰を下ろすと、それで? と早速わたしに話の続きを促した。
    「朝倉がどうしたんだよ」
    「……わたし、朝倉さんのこと話したかしら」
    「お前が朝倉とどう見えてるか気になるんだったら、朝倉と何かあったんじゃないかと考えるのが自然だろ」
    「あぁ……そういうことね」
     またエスパーと言ってしまうところだった。次言ったら多分、和泉さんはすぐここを出ていくだろうから、流石に言わないでおいた。話を聞いてもらっているものね。
    「……悪い、先に冷房つけてもいいか。暑くてたまらん」
    「構わないわ。わたしもそうしようと思っていたところ」
     和泉さんが電源を入れ、空調が稼働する。設定温度と室温の違いが大きいからか、すぐにゴオゴオと音を立てて冷風を吐き出した。もうしばらく我慢すれば、涼しくなるだろう。
    「それで、話の続きなんだけど……」
    「朝倉がどうした」
    「朝倉さんじゃなくてわたしなの。わたし、おかしくなってしまったのよ……!」
    「東城? 朝倉じゃなくて?」
     怪訝そうに目を細める和泉さんに、黙って頷いた。
     わたしは朝倉さんに対して、他の誰とも違う感情を抱いている。
     わたしの話を聞いてくれる時の、柔らかな弧を描く向日葵色。たまにイタズラした時に見せる幼い表情。ライブ中、斜め後ろから見る真っ直ぐな目。
     つかささん、と名前を呼ばれると、それだけでわたしの心臓は生きていることを思い出すように拍動の音を大きくする。
     決して長い時間を過ごしたわけじゃない。それなのに、朝倉さんはわたしの心にこんなにもたくさん存在している。
     わたしの中で朝倉さんに抱く感情の正体は答えが出ていて、けれどそれをどうしたらいいのかが分からない。
    「……なんだよ、ただの惚気じゃねーか!」
    「酷いわ和泉さん! わたし、すごく悩んでいるのに! それに惚気てなんてない!」
    「これを惚気と呼ばずして、何を惚気と言うんだよ! 心配したあたしがバカだったわ! あとあたしに聞くな、人選ミスだ!」
    「和泉さんにしか聞けないの!」
     ガタン、と椅子を揺らして勢いよく立ち上がった和泉さんが、その勢いのまま叫んだ。かなり心外なことを言われている気がするけど、わたしとしては本当に和泉さんにしか話せないことだった。月歌さんは朝倉さんの事情を知っているから、絶対にからかってくるだろうし、逢川さんと國見さんには話せない。
    「だって月歌さんとあんなに素敵な関係なんだもの!」
    「声がデカい! お前はあたしたちをどう見てるんだよ!」
    「付き合ってるんじゃないの!?」
    「付き合ってねーわ!」
    「それなのにあの空気を出してるの!?」
    「何の空気も出してないわ! どいつもこいつも好き勝手言うんじゃねー!」
     お互いにどんどん声が大きくなって、いつしかわたしも立っていた。二人とも立ったまま、大声で叫ぶように言い合っていたことに、少ししてから気がついて、そこでようやくスタジオに静けさが戻ってきた。
    「……とりあえず座るか……こんな馬鹿みたいに叫んでるの見られたら、色々と終わる気がする」
    「そうね……」
     ここがスタジオで本当に良かった。あのままメイン通りのベンチで話を進めていたら、今頃わたしたちは司令官室に召集されているところだ。
    「ごめんなさい、和泉さん。大声出したらちょっとスッキリしたわ……」
    「そりゃあ何より……あたしの何かがごっそり削れた甲斐があった……」
    「だって本当に付き合ってると思っていたんだもの……」
    「どこをどう見たらそう思うんだよ。お前の目は節穴かよ」
     月歌さんと和泉さんを見れば、誰もがわたしと同じ気持ちになるだろうと思う。毎日同じ場所で暮らしていれば尚更。二人がお互い特別に思っていることなんて、すぐに分かることだ。
    「でも、本当に素敵な関係だと思うわ」
    「だからあたしと月歌はそんなんじゃねーよ。あたしたちはただの友人兼同僚で、部隊長の月歌をあたしがサポートしてるだけ」
     もし本当にただの友人だったら、和泉さんの今の表情は何なのだろう。その顔はまるで、月歌さんが自分を好きになるはすがないと言っているみたいじゃない。
    「……あたしのことは今はどうでもいいだろ。それで、なんだ。東城は朝倉との接し方に悩んでいるってことでいいのか?」
    「そうね……今まで誰かにこんな悩みを抱いたことなんてなかったのに」
     朝倉さんとは今まで仲良くしてきた、と思っている。それこそ、部隊の中で二人組を作れとか、もし一人選ぶならと言われたら、わたしは朝倉さんを選ぶと思う。カレンちゃんは怖いけど、朝倉さんとは上手く関係を築いてきた。そのはずなのに。
     決して嫌いになったわけじゃない。むしろ逆で。好きなのに、どうしたらいいか分からない。今まで通り振る舞おうとしても、意識してしまって空回る。ぎこちなさばかりが目について、カッコ悪い。
    「考えていることが通じ合えたらいいのに」
    「そんな都合のいい関係があるわけないだろ」
    「そうよね……」
     流石にそれは和泉さんの言う通りだった。そんな風に通じ合えるのなら、言葉にする必要なんてない。本で読んだ告白だって、する必要はどこにもなくなるのだ。
     ……ちゃんと言葉にしないと、伝わらない。一緒にいるためには、言葉にしなきゃ。
    「……そうよね」
    「ん?」
    「言葉にするしかないわよね。何事も言わないと分からないんだもの」
    「おいおい、急だな!」
    「でも、わたしの気持ちを伝えなきゃ、何も始まらないじゃない」
     考えてみれば当然のことだった。言わないで伝わるなんて、そんな都合のいいことはないのだから、言うしかないのだ。
    「東城、本気なのか? いや、あたしが口を出すのも何だが……」
    「和泉さん、わたしはいつだって本気よ」
    「カレンちゃんに殺されるかもしれないんだぞ」
    「それはそうかもしれないけど……」
     和泉さんの指摘はもっともだった。朝倉さんと仲良くなりたいということは即ち、カレンちゃんとも物理的な意味で距離を縮めるということだ。それが怖いかと聞かれれば、本当に怖い。何せ相手は殺人鬼だ。それも、わたしを殺そうと血眼になって追いかけてくるような。
     和泉さんが設定温度をいつもより下げたからか、冷房の風はまだ強かった。スタジオの中は徐々に涼しくなってきているけど、温度を変えるタイミングを見失ったせいで、少し寒さすら感じ始めた。
    「でも、負けないわ。カレンちゃんに勝てばいいのよ」
    「覚醒するつもりかよ……あんなに嫌がっているのに」
     和泉さんは難儀なものを見るような目でわたしを見つめる。和泉さんはきっとこういう時、何も言わないのだろう。彼女は慎重だから。
    「まぁ……あたしは口を出す立場じゃないから、止めたりはしない。東城のことだから、自分で決めればいい。ただし、プライベートを作戦行動に持ち込むなよ」
    「……えぇ。ありがとう、和泉さん」
     なんだかんだで和泉さんは面倒見がいい。アドバイスはくれるけど、わたしの背中を押すことも忘れない。だから月歌さんも安心できるのでしょうね。
    「わたし、行ってくるわ」
    「はいはい、早く行ってこい」
     若干疲れたような顔で見送ってくれる和泉さんに礼を言って、スタジオを出る。
    「……マジで複雑だよな、あいつら」
     唇をちょっと歪めた和泉さんがそんなことを独りごちていたなんて、わたしは知らない。

     RINNEで朝倉さんにメッセージを送れば、数分もしないうちに返事があった。それを見て、早足で朝倉さんのもとへ向かう。
     返ってきたメッセージの通り、ショップ隣のベンチでデンチョを弄っているのを見つけて、名前を呼ぶ。
    「朝倉さん」
    「つかささん。どうしたの? 突然連絡が来たからびっくりした」
    「あ、いや……その。急にごめんなさい。嫌だったかしら……?」
     言われてみれば確かに、わたしからメッセージを送るのは珍しいかもしれない。話したいことはいつもたくさんあるけど、メッセージではなくて、会って話したいと思っていたから。
     わたしの言葉に、朝倉さんは静かに首を振った。
    「ううん。嫌だなんて、そんなことない。つかささんからメッセージを送ってもらえて嬉しい」
    「そ、そう……?」
    「うん。それで、何か用事? 時間なら空いてるけど」
     不思議そうにわたしを見上げる朝倉さんの言葉に、少しだけ呼吸を整えてから、用意していた返事をした。
    「……一緒に来てほしいの」
    「え、つかささん?」
    「話したいことがあるの。だから……」
     ここで断られたら全部水の泡だと思ったけど、朝倉さんはいいよ、とすんなり頷いてくれた。最初の関門は突破したことに僅かな安堵を覚えつつ、行きましょう、と笑ってみせる。
    「……それでどこに行くの?」
    「時計塔よ。もう夕方だし、暑くはないと思うわ」
    「今日は天気もいいから、きっといい景色ね」
     日の光はようやく和らぎつつあった。それもあってか、朝倉さんは暑さにやられることなくわたしの隣を歩きながら微笑んでいる。いつもと変わらないその様子に、時計塔を降りる時、わたしにその笑顔が向けられなくなったら嫌だと考えた。
     時計塔までの十分にもみたない僅かな道中、わたしたちが何を話したのかはよく覚えていない。多分、全部いつもと大して変わらない、とりとめのない話をしていたんだと思う。右手と右足が同時に出ないかなんて、くだらないことを気にしていた。
     そうして登った時計塔は静かだった。時折吹く風は湿度も温度も低く、熱った頬には心地よかった。
    「……わぁ、やっぱり綺麗……!」
    「そうね、ここから見る景色は素敵よね」
     基地内やその外までもを一望できる時計塔の景色は、セラフ部隊員から人気が高い。特に夜景が綺麗だから夜は人がいることが多いのだけど、夕方は景色を独り占めできる穴場の時間帯だったりする。そもそも今は夏だから、気温的な意味で人が来ないというのもある。
     黄色と青が混じり始めた空が近くて、眩しい。目を細めた先で、朝倉さんが口を開く。
    「急に時計塔に行こうって、景色を見たかったの?」
    「ううん、そうじゃないの……わたし、話したいことがあって」
    「話したいこと?」
     そこで、朝倉さんはわたしに向き合った。フードの中からわたしを見る目を見つめ返す。
    「わたし……」
    「言わせるかァーーーー!」
    「ひぃっ……!」
     少しだけ視線を下げた、そのほんの一瞬のうちに、朝倉さんからカレンちゃんに人格が変わっていた。それを認識したのは背中に痛みを感じてからのことで、どうやらわたしはカレンちゃんに馬乗りになられて、背中を強かに打ち付けたらしい。
    「諜報員貴様ァ! 朝倉に告白するなど二億年は早いわ!」
    「まだ何も言ってない!」
    「いいや、ワシには分かる……貴様が朝倉を見る目は分かりやすかったぞ……? それはそれはガキくさくてなァ!」
     わたしのお腹にのしかかって見下ろす赤い目は、愉悦と言わんばかりに弧を描いた。わたしとしてはまったく笑えない。こんなマウントポジションを取られては、もう死亡ルート一直線でしかない。
    「わ、わたしは真面目に朝倉さんのことを考えてるの!」
     今わたしが置かれているすべての状況に対して言いたいことは山ほどある。けれど、まず第一に言わなければならないことは、カレンちゃんへの反論だった。ガキくさいも分かりやすいも、聞き捨てならないとは思ったけど、今は一度置いておこう。
     下手なことを言えば、きっとすぐに殺されてしまう。震えながら絞り出した声は、我ながら情けなかった。
    「朝倉のことなんぞ、真面目に考えてどうする……?」
    「は……」
     そうして返された言葉は、わたしの予想した中にはまったくないものだった。カレンちゃんが朝倉さんについて、そんな風に言うとは考えていなかったのだ。
    「貴様、分かっておらんな……」
     やれやれ、とわざと大袈裟な仕草をしてみせたカレンちゃんは、気を取り直すように残忍な笑みを浮かべる。
    「まぁ良い。そんなことも分からん馬鹿な諜報員に用などないからのう……さっさと覚醒してワシと勝負せぇ!」
    「待って待って! わたし殺し合いがしたくて朝倉さんを呼んだわけじゃないのよ!」
    「やかましい! 朝倉の本質を理解できない貴様が、抜かすでないわ!」
     カレンちゃんの言う、朝倉さんの本質というものが、悲しいことにわたしには分からなかった。それを理解していないから、カレンちゃんは朝倉さんに戻ってくれないのだろうか。
     ギザギザと尖った鋭い歯を隠すこともせず、カレンちゃんは獰猛な笑みを更に深くする。振り上げられたその手には、槍の穂先のような石が握られているのが見え、思わず身体を硬くする。どうやら、展望台の壁の一部が剥がれているところから拾ったらしい。
     朝倉さんに言いたいことも言えてないのに、カレンちゃんに殺されるわけにはいかない。必死になってもがいても、カレンちゃんはわたしのお腹の上でびくともしない。朝倉さん本人はわたしよりも力が弱いはずなのに、人格でこうも変わるものなのか。
    「ひひゃひゃ……! ようやく覚醒する気になったか?」
    「うぅ……!」
     正直、覚醒したくない。したくないけど、時計塔という非常に動きにくい場所で、カレンちゃんに殺されかけているという状況下で、今のわたしが何とかできるかと言われれば、それはノーだ。一矢報えるかすら怪しい。
     わたしを嘲笑うように覚醒を促すカレンちゃんの誘いに乗りたくない本心を捻じ曲げて、ロケットを開けた。

    「……ふぅん、またあなたなの」
     殺人鬼さん。
     わたしの呼びかけに、目の前の彼女はこれ以上ないほど愉悦に口を歪ませた。
    「ひひゃ……! 待ちくたびれたぞ、諜報員!」
    「とりあえず重いからどいてもらえる? こんなところで馬乗りになられると、汚れるんだけど」
    「どかせてみせれば良かろう……! できるものならなァ!」
     躊躇いもなく持っていた石刃を振り下ろす。武器を晒しているなんて、愚かよね。わたしだったらターゲットに武器を晒すなんてことはしない。
     振り下ろされた腕を掴むと同時に、下半身を捻る。彼女の身体の重心が崩れた隙に、迅速に距離をとった。制服や髪についた土埃を払う。早くシャワーを浴びたい。
     目の前の殺人鬼はといえば、楽しくて仕方がないというようにフードに隠れた赤い目を爛々と光らせている。さっさと何とかしなければ、またあの夜のように、一晩中相手をしなければならなくなる。それは面倒だ。心の底からもう二度としたくないと思う。
    「生憎だけどわたし、あなたの面倒を見るほど暇じゃないのよね。もう帰ってもいいかしら」
    「もとはと言えば、覚醒していないお前が朝倉を呼び出したんじゃろうが……」
     そういえばそうだったな、と殺人鬼の言葉で思い出す。つくづく馬鹿なわたしだ。
    「さぁ、そんなことはどうでもいい。わたしはこんな無駄な時間を過ごしたくないから、早く帰りたいのよ」
     一瞬のうちに距離を詰め、手にした得物でわたしの首を切り裂こうとする物騒な殺人鬼から目を離すことなく、早く帰るためにどうすれば良いかを考える。
     この間は夜だから仕方なく背負って持って帰ったけど、夕方だから気絶させて放置しようかしら。
    「ざまあないなァ、諜報員よ」
    「は?」
    「鏡がないのが残念なくらいじゃなぁ! 今の貴様の顔は愉快で仕方がない!」
    「何の話……」
     心の底から楽しそうに笑う殺人鬼に、苛立ちが募る。その感情をぶつけるように睨みつけたが、彼女は一切動じる様子もなく、それどころか声をあげて笑い始めた。
    「ひひゃひゃひゃ! 普段のスカした顔よりそっちの方がよっぽど良いではないか!」
    「ちっ……!」
     気がつかないはずがなかった。彼女は、わたしが不快という感情を表に出していることに、愉悦を覚えている。何がそうさせているのかは理解できない。したくもない。
    「そういうのが好きなの、もう片方だけだと思ってたんだけど?」
    「貴様……!」
    「あら、怒ったかしら? 殺したい? でも残念。お喋りに夢中で背中がガラ空きよ」
     煽りに弱いのはこの殺人鬼の弱点だと思う。主人格を引き合いに出せば、すぐに頭に血が昇って動きが単調になる。腕を捕まえて手首を捻り上げる。石刃をはたき落とせば、先ほどとは逆にわたしが彼女を拘束する構図になった。
    「出てこいとうるさい割に、前よりも動きが悪いんじゃないの?」
     今度は彼女が舌打ちをする番だった。拘束を解かないまま殺人鬼の得物を拾って、手の届かない向こう側へ放り投げる。知らない間にまた拾われては面倒だ。
    「ま、これで気が済んだでしょう。このためだけに出てくるの、これっきりにしてほしいわね」
     無能なわたしには、この殺人鬼の相手はできないかもしれないけど。考えて鼻で笑い飛ばす。
    「それはできん相談じゃな」
    「へぇ?」
    「ワシが貴様を殺すのだからなァ……それまでせいぜい、ワシ以外に殺されんことよ」
    「それこそ無理ね。あなたじゃわたしは殺せない」
    「ひひゃ……」
     彼女の笑い声は止まない。何を根拠にこうも余裕でいられるのか。後ろから拘束しているせいで、フードに隠れたその顔は見えない。
    「それでも殺す」
     絶対にな。
     怨嗟にしては恨みがない、けれど地の底から響くような声だった。その声を残して、拘束していた彼女の身体が急に軽くなる。先端が尖っていた尾も猫のような柔らかいものへ、立ち上がっていたフードの耳も垂れている。
    「え、なに……? 痛い……つかささん……?」
     拘束したまま主人格へ交代したらしい。あの殺人鬼、あれだけ覚醒しろやら勝負しろやらうるさい割に、やけにあっさりと戻っていったらしい。
     解離性同一性障害の症例の中には、確かに人格によって力が強くなったりすることもあるらしい。それにしたって、ここまで差があるのも珍しいが。殺人鬼という存在が人の範疇を超えているということだ。
    「……なに」
    「覚醒してるの?」
    「あなたに関係ないわ。殺人鬼がうるさかっただけ」
     いつも以上に事実を淡々と述べることに集中する。殺人鬼以上に、こちらの人格は厄介だ。極力関わりたくない。
    「カレンちゃん、これでも楽しんでるから。嫌いにならないで」
    「彼女に思うのは、面倒に巻き込まないでほしいと思っているくらいね」
     今のわたしの回答のどこに、笑うところがあったのだろう。腹立たしい。あの殺人鬼の人格も、こっちの主人格も。
    「それで、そろそろ離してくれる?」
    「……これでいいでしょ」
    「うん、ありがとう」
     以前、肩を掴んだ時はもう少し怯えたと思うのだけど。一度やったら慣れたってことかしら。舐められたものだ。
     拘束を解けば、彼女は捻り上げられていた右肩をゆっくり動かしながら振り向いた。その表情はいつもと変わらないもので、それが余計にわたしの心をささくれ立たせる。
    「つかささんは優しいね」
    「頭おかしいんじゃないの?」
    「おかしくない。つかささんはいつも優しい」
     そういうの、いらない。わたしがこの性格だからお母さん以外の誰とも関わりがなかったって、知ってるでしょ。わたし自身でも自覚あるんだから。
    「こんなことしても、そう言えるの?」
    「わ……!」
     腹が立って仕方がない。衝動的に骨ばって薄い肩を突き飛ばした。尻もちをついたそのすぐ後ろの壁に手をついて、わざと顔を近づけて笑って見せる。
    「わたしがあなたをどう思ってるか、教えてあげましょうか?」
     腹が立つ。
     誰も入れたくないと強く思っていたのに、自然と入ってくるところが。わたしがどうしたって、分かっているように笑顔を崩さないところが。
     腹が立つの。
     そんなあなたに、絆される自分自身に一番。
     わたしの言葉に、彼女は思いがけずその目を少し丸くした。けれど、それはわたしが望んだものではなく、むしろ真逆だった。
     彼女は、朝倉さんはやっぱり笑ったのだ。
     その視線は、ここじゃない高いところからわたしを見下ろしているような、まるで子どもを見るようなものだったから、余計に苛立ちが募る。
    「そんな目で見ないでよ」
     もうこれ以上、入ってこないでほしかった。お母さんしかいないはずのわたしの中に、足を踏み込まないでほしい。それを許してしまえば、わたしはもう違う自分になってしまう。復讐以外どうでもいいの。こんな感情は必要ないの。あなたを求める自分を、許したくない。
     わたしは見るなと言ったのに、朝倉さんは視線を逸らしてはくれなかった。そっと頬に触れられた手が熱くて、反射的に振り払おうとしたはずの手は、一度は振り上げたけど、結局だらりと下がってしまった。
    「……ほら、やっぱり優しい」
    「疲れただけよ。殺人鬼の相手なんてしたから。それとも、今からでもはたき落としましょうか?」
    「それはしないでほしいかな。それよりも、疲れたなら、少し眠ったら?」
    「こんなところで、しかもあなたの側でなんて絶対にいや」
     何をされるか、分かったものではない。部屋に戻りたかったのに、もう時間切れらしい。少しずつ意識が遠のいていく感覚に、思わず顔を顰める。
    「大丈夫」
    「何するの、離れなさい……」
    「いや。離れない」
     背中に回された腕に、そっと引き寄せられる。頬に触れるオレンジのパーカーからは、他人の体温と匂いを感じた。
    「おやすみ、つかささん」
     目を閉じて意識を飛ばす間際に聞いた声は、静かで心地良いものだった。

    「……?」
     妙な肌寒さと温かさのアンマッチに違和感を覚えて目を覚ます。
    「つかささん、起きた?」
    「朝倉さん……? いたた……」
     酷い頭痛だ。額に手を当てようとして、何か握りしめていることに気がついた。そっと手を開いてみれば、鮮やかなオレンジの布が皺くちゃになっている。
     これは何かしらと頭痛に耐えながら考えて、視線を周囲へ巡らせれば、すぐ近くに朝倉さんの顔があった。
    「えっ、なに、朝倉さん……!? うぅ、いたい……」
    「落ち着いて。動くと良くないから、じっとしてて」
    「でも……」
     思わず後退りしようとして、頭を襲う痛みに目を閉じる。一体何が起きたのか。痛みを逃がそうと深く息を吐きながら思い出す。
     そうだ、わたし。カレンちゃんに殺されたくなくて覚醒して、それから……。
     朧げに甦る記憶に、余計に頭を抱えたくなる。頭のいいわたしが、朝倉さんを傷つけていないだろうか。
    「ごめんなさい、朝倉さん……」
    「え、あぁ、パーカーの皺は気にしないで。大したものじゃないから」
    「そうじゃなくて、いや、それもそうなんだけど……」
     わたしが起きるまでパーカーを握りしめていたので、そこだけ皺くちゃになってしまった。それはそれで申し訳ないのだけど、わたしが言いたいのは、覚醒している時の自分の言動だ。
    「覚醒したわたしが、朝倉さんを傷つけたんじゃないかと……」
    「……? ううん、そんなことない。つかささんは優しいから」
     本当に大丈夫かしら、と思ったけれど、朝倉さんは本当に傷ついたとは思っていないらしい。そう言われてはわたしもそれ以上言えず、引き下がるしかなかった。
    「というか、近いし重いわよね。すぐに退くわ……!」
     次に気になったのは、わたしたちの体勢だった。壁にもたれた朝倉さんに抱きしめられるような状態で眠っていたらしい。非常に恥ずかしい。こんなの、本当に子どもみたいじゃない。せっかく告白しようと思って来たのに、全然上手くいかない。
    「別に気にしないのに」
    「わたしが気にするの……!」
    「そう?」
     むしろ気にしてほしい。わたしばかり意識していて、何だかちょっと悔しい。朝倉さんは何も感じないのかしら。
    「隣、座って。……あ、汚れるの気になる?」
    「もうたくさん汚れたから、ここまで来たら同じことよ」
    「なら、お隣どうぞ」
     西日から隠れるように、小さな陰の中で二人座っている。そっと身を寄せ合って、肩が触れ合った。
    「……ねぇ、朝倉さん」
    「なに?」
    「わたしね、本当はこんなつもりじゃなかったのよ」
    「うん」
     本当なら、綺麗な夕暮れの景色を見て二人で少し話をして、それからわたしの気持ちを伝えようと思っていたのに。カレンちゃんが出て来て、覚醒しなきゃいけなくなって。わたしが知らない間に時間も状況も変わってしまっていた。
    「その、わたし。朝倉さんのこと、好きなの」
    「あたしも、つかささんのこと好きよ?」
    「そうじゃなくて! ……違うの」
     お友達じゃないの。この気持ちは、他の誰でもなく、朝倉さんにしか持ってないの。
    「朝倉さんと一緒にいるとドキドキして、苦しくなって、でも嬉しくなる。もっとって思ってしまうの」
     もっと一緒にいたい。話をして、朝倉さんのことももっと知りたい。わたしのことも知ってほしい。
     言いたいことはたくさんあるのに、拙い言葉しか出てこない。もどかしくなりながら、少しずつ気持ちを伝えて、朝倉さんを見つめる。
    「……カレンちゃんが出てきたら、つかささんビックリするでしょ」
    「それはそうだけど……でも、何とかするわ! わたし、カレンちゃんに勝っているもの!」
    「つかささんを困らせちゃうかもしれない」
    「どうして?」
     朝倉さんの質問の意図は掴めないけれど、その目は不安に揺れていた。
     不安そうな目のまま、朝倉さんがわたしを見つめる。何か言いたげだったその口はきゅっと閉じられていたけど、ふっと力が抜けて、ゆっくりと口を開いた。
    「あたし、きっとつかささんが思うような良い人間じゃない」
    「そんなこと……」
    「つかささんは知らないでしょ。あたし、欲しがりなの」
     朝倉さんは自嘲するように笑う。けれど、わたしはそうは思ったことはなかった。
    「知らないかもしれないけど、それはまだわたしが知らない朝倉さんの知らない一面だからでしょう?」
    「実際に知ったら、きっと嫌になる」
    「それはわたしが決めることよ。ねぇ、目の前にいるわたしのこと、信じられない……?」
     朝倉さんを嫌いになるかもしれない未来のわたしより、朝倉さんが好きな今のわたしを見てほしかった。今、確かにあるのはその気持ちなのだから。
     綺麗な向日葵色の目が一度瞬いて、それから気まずそうに視線を逸らされる。
    「……ちがうの。つかささんが信じられないとかじゃなくて」
    「朝倉さんが好き。これがわたしの気持ちなの。他の誰かじゃなくて、わたしが思ってること。今のわたしの気持ちを、朝倉さんに受け取ってほしいの」
     他の人の関係と違っていてもいい。結局、わたしはわたしの気持ちしか分からない。他の人と同じような関係は、朝倉さんと築くことはできない。わたしたちはわたしたちだけの関係の築き方がある。
     こっちを向いてほしい。目を逸らされるのは寂しい。目を合わせて話したいの。あなたに見つめられながら話をするのが、わたしはとても好きだから。
     そう思いながら、朝倉さんを見つめる。彼女はまだ、俯いたままだ。
    「朝倉さんの気持ちが聞きたいわ。わたし、朝倉さんのことを知りたいの……これって、おかしいことかしら」
     わたしの言葉に、朝倉さんの顔がくしゃりと歪む。そうして丸い目からぽろぽろと涙の粒が零れ落ちたから、わたしは自分の心臓が止まるかと思った。
    「あ、あの、あさくらさ……」
    「つかささん……」
     涙声で呼ばれた名前。呼ばれ慣れた自分の名前なのにドキドキして、まるで特別なもののように思える。
    「……つかささんが、優しいのが悪いの」
    「わ、わたし……?」
    「そんな風に言われたらきっとあたし、甘えちゃう。優しくされていいわけないのに」
    「そんなことない!」
     口をついて出た声は、思ったよりも大きかった。朝倉さんは目を丸くして呆然とわたしを見つめる。まだ目尻に溜まったままだった涙が、ほんのり紅潮した頬を滑り落ちていく。
    「お願いだから、そんなこと言わないで。わたし、朝倉さんのことをそんな風に言われたくないわ……」
     朝倉さんは自分を卑下しすぎるきらいがある。でも、いくら本人でも、わたしの好きな人をそんな風に言わないでほしかった。
    「……ごめんなさい」
    「違うの、朝倉さん。責めるつもりなんてないし、その……」
     驚いて一瞬だけ止まった涙が、また目に膜を張る。そんな顔も見たいわけじゃない。そもそもあんな大きな声を出すつもりなんてなかったのに、わたしは何てことをしたのだろう。
    「……朝倉さん、泣かないで。突然大きな声を出してごめんなさい」
    「つかささんは、悪くない、から……」
     涙に濡れた声でそう言って、朝倉さんは膝を抱えてしまった。フードに隠されて、顔も頭も見えない。
     どうしたらいいかと考えて、けれど半ばパニックになった頭では大した考えも浮かんで来ない。嫌がられたらどうしようかと悩みながら、おずおずと腕を回して、朝倉さんの肩を抱いた。
    「朝倉さんが泣くと、わたしまで悲しくなってしまうわ」
     時折声を殺して泣くのが、震える背中から伝わってくる。今のところ嫌がる素振りはないけど、どうやっても朝倉さんの涙を上手く止められそうにない。
    「わたし、あなたに笑ってほしいの。心の底から思っているのよ……」
     いつか朝倉さんに話そうと思っていた抱腹絶倒必至の秘蔵話を披露しようかとも考えたけど、きっと今はそういうのじゃないのだ。
     あの話はまたの機会に。絶対に朝倉さんが笑ってくれるはずだからあたためておきましょう。今は別の案を考えるべきで……。
    「……朝倉さん?」
     いつの間にか、フードの中から朝倉さんがこちらを覗き込んでいた。泣いて目尻の辺りが少し赤くなっていて、眉を寄せてムッとしたような顔をしている。睫毛に涙の粒が乗っているのが見えるくらいには、わたしたちは近かった。
    「あ……近かったわよね!? ごめんなさい……」
     それこそ嫌がられそうで、距離を取ろうとすれば、朝倉さんはぼそりと小さく呟いた。
    「……し」
    「え?」
    「もう少し、近づいて」
    「でも、もう近いわ……」
    「お願い」
     これ以上近づいてしまえば、本当に抱きしめるようになってしまうのだけど。朝倉さんの意図が分からないまま、わたしは黙って従う。
     腕の中の朝倉さんは、わたしを見上げて、それからようやくその表情を僅かに緩めた。
    「……これで、いいの?」
    「うん……本当にごめんなさい、つかささん」
    「謝らないで」
     今日の朝倉さんは謝ってばかりだ。わたしからすれば謝ることなんてないから、その謝罪はずっと宙に浮いている。
    「あのね、つかささん。あたしはつかささんが思い描いてるような人間じゃないかもしれない。それでもいいの?」
    「まだ知らないあなたをもっと知りたいの。朝倉さん、わたしの気持ち、受け取ってくれる……?」
     わたしの二度目の告白に、朝倉さんはようやく笑ってくれた。
    「本当……?」
    「ほんと。あたしもつかささんと同じ気持ち」
    「よかったぁ……」
     ようやく肩の力が抜ける。こつんと額が朝倉さんの首元に当たって、抜けた力がまた戻ってきた。
    「ご、ごめんなさい! すぐ離れるから……」
     距離の近さを思い出して心臓がバクバクするし、息が若干浅くなる。後ろに仰け反りかけたけど、動けない。朝倉さんの腕が背中に回っている。
    「あ、あああ朝倉さん……?」
    「なに?」
    「これは一体どういう……」
    「あたしはつかささんとこうしてたい。ダメ?」
    「ダメじゃないけど!」
     ギュッと抱きつかれて、もう心臓が口から出そうなくらいだ。顔が熱くてたまらない。
    「ふふ……つかささん、顔真っ赤」
    「朝倉さんのせいよ……!」
    「ごめんなさい。でも、つかささん可愛いから」
    「可愛いのは朝倉さんでしょう?」
     くすくす笑う朝倉さんに言い返せば、彼女はつかささんの方よ、と退く気配がない。けれどそれはわたしだって同じこと。
    「ねぇ」
    「ん?」
    「雑貨屋さんで、あなたにプレゼントしたいと思うものを見つけたの。その……よかったら、この後見に行かない?」
    「もちろん。何かしら」
    「ふふ、秘密!」
     向日葵をモチーフにしたイヤリングを見て、朝倉さんに似合いそうだなと思ったのだ。この前の作戦行動中、軍施設跡の北側へ向かった朝倉さんたちが、向日葵畑を見たと言っていたのを思い出したから。
     あの時、本当は話を聞いて、朝倉さんと一緒に行けば良かったとちょっと後悔したのだ。軍の施設跡をふらふら見て回っていたので、ついて行こうと思えばできたのだから。
     それに、彼女の目は向日葵の色に似ているから。気まぐれに立ち寄った雑貨屋さんでイヤリングを見つけた時、プレゼントしたいと思った。
    「きっと朝倉さんに似合うと思う」
    「服? あ、でも雑貨屋さんだからアクセサリーかな」
    「んん……それは秘密。言ってしまったら楽しみが減っちゃうでしょう?」
     勘の鋭い朝倉さんに、つい正解を言ってしまいそうになるけど、何とか耐える。普通に当てられるとは思っていなかったけど。
    「つかささんとデート、楽しみ」
    「で……!?」
    「違うの?」
    「ち、がわないけど……」
     朝倉さんはそういうことを恥ずかしがらずに言う。雑貨屋さんに行くの、初めてのデートとしてカウントするのかしら。それならもっとロマンティックにしたかった!
    「……もう行く?」
    「ううん。行きたいけど、もうちょっとだけ」
     朝倉さんは小さく言うと、そっと目を閉じる。じんわりした甘い痺れが指先まで広がって、それが微熱に浮かされたようなのに心地良い。
     雑貨屋さんの後はブティックに行って、イヤリングに合わせた服を選ぶのもいいんじゃないかしら。それから、朝倉さんにもわたしの服を選んでもらって。次のお休みは、お互いに選んだ服を着て出かけたい。
     少し先の未来の予定を考えて、とくん、と心臓が跳ねる。フレーバー通りに向かう途中で提案してみましょう。
     それいい、と朝倉さんが笑ってくれたら嬉しい。そう思いながら、わたしも目を閉じた。
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    💯😭💯😭👏
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    6_rth

    DONE何が何でも5章までにかつに何とか付き合ってほしかった。
    断章Ⅱは含みませんがイベストメモストその他含んでます。大島家と東城さんは多分こんなに仲良くない。独自解釈あります。
    ほんのりめぐタマと月歌ユキとあさにーなの要素があります。
    blooming
     ヒトサンマルマル、購買から少し離れた階段の陰。天候は晴天、視界良好。風向きは……留意する必要なし。
     ピークを過ぎて人も少なくなった購買で、見慣れたオレンジのフードはやけに目立つ。壁に半身を押し付け、気配を殺してそっと覗くと、ちょうど観察対象の彼女が会計を済ませようとしているところだった。
     ……そうして観察対象はわたしの予想通り、購買でサンドイッチを購入した。種類は遠目で分からない。双眼鏡は生憎持って来ていなかった。諜報員たる者、いついかなる時でも準備をしていなければならないのだけれど、午前の座学が押して寮室へ取りに戻ることができなかったのだ。
     観察対象Aは速やかに会計を済ませ、教室の方へ戻っていく。その背中で黒くしなやかな尻尾が緩やかに揺れるのを見て、それからわたしはそっと壁から離れる。冷たかったはずの壁は、わたし自身の体温ですっかり温くなっていた。
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