春の昼下がりの定義ただいま戻りましたというわたくしの声に返事はなかった。出かける前は廊下の向こう側、突き当たりの椅子に座っていた彼女の姿はない。
どこかへ出掛けているのかしら、携帯に連絡はなかったのだけれど。
ひとまずは訓練服を着替えてしまおう。クローゼットへ向かいかけた足が止まったのは、二段ベッドの下、つまり雨嘉さんのベッドに人がいるのを見つけたからだった。
レースカーテン越しに誰かがいることに気がついて、なるほどと得心した。
それでも、万が一予想が外れていては良くないからと、レースカーテンに手を伸ばす。他意なんてどこにもない。
音を立てないよう、慎重に開いたカーテンの中。雨嘉さんは壁にもたれかかって座っていた。綺麗な緑の目は閉じられていて、予想通り彼女が眠っていると分かる。
鮮烈な朝日や西日とは違う、柔らかなお昼の陽ざしが雨嘉さんの黒髪を照らしている。前髪に触れれば、陽の熱を吸収した髪がさらりと指からすり抜けていった。
穏やかな寝顔。髪に触れても起きる気配はない。もう少し、と思うままに、丸みを帯びた白い頬へ指を下ろしていったところで雨嘉さんの睫毛が震えた。
反射的に触れていた指を離し、後ずさる。ぎ、とベッドが音を立てた。触れすぎた。
震えた睫毛の向こうで緑の目が覗いた。伏せた目が焦点を合わせようと動いて、それからわたくしを捉える。
しぇんりん。呼ぶ声は密やかだった。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたわね」
「ううん……いつの間にか、寝ちゃってた」
あくびを噛み殺して目を細めた雨嘉さんが気に留めないようさり気なく、そっとベッドから抜け出た。距離を取らなければ、微妙な違和感までも見つけられてしまいそうだった。
「帰ってきてたんだ」
「えぇ、つい先ほど。あなたがいらっしゃらないと思って、少し驚きましたのよ」
「本を読んでるうちに、眠気が来たみたいで……」
わたくしに続いて立ち上がった雨嘉さんは、本棚に文庫本を戻す。この間、書店で購入していたものだ。栞がちょこんと飛び出ているのが見えた。
「今日はあたたかいですから。つい眠たくなってしまうのも分かりますわ」
そう言って微笑んでみせれば、彼女も釣られたのかゆったりとした笑みを浮かべた。まだ少し眠気が残っていそう。
「神琳の手も、あたたかかったよ」
「……そうでしょうか?」
「うん」
やはりまだ眠気が残っているのだろう、雨嘉さんの言葉はいつもより緩慢だった。
それと対照的にわたくしはといえば、そんな彼女の言葉に目を泳がせてしまう。何を動揺することがあるのか、それも理解できないまま。
平静を装おうと、静かに深呼吸をした。
「それを言うなら、雨嘉さんだって……」
あなたの頬も、あたたかかった。
言葉は続かなかった。喉でつっかえて、言おうとはしたけれど、結局胸の奥にしまわれた。
急に黙りこくったわたくしに首を傾げる雨嘉さんに、改めて口を開く。
「眠っていたからでしょうか、あなたの方があたたかかったですわよ」
「そう、かな」
「えぇ」
無理やり繋げた会話。彼女が少し鈍いところのある人でよかった。他の人ならこうはいかなかったから。
「わたくし、そろそろ着替えますね」
「あ、そうだよね」
いつまでも訓練服でいるわけにもいかないと、そっけない話題転換をしてしまった。
クローゼットを開いて、訓練服に手をかける。もう雨嘉さんには背を向けていて、目の前にあるのは自分の服しかないはずなのに。
布に触れているはずの指先には、まだ雨嘉さんの頬の感触が残っている。頭には彼女の眠る姿が焼き付いている。
薄いレースカーテンを開けて彼女を見つけた時も、ゆっくりと緑の目が開いてわたくしを見た時も、似た感情が心を占めていた。
それはまるで、宝物をしまってある小箱を開いたような、そんな気持ち。
この感情に名前をつければ、きっと安心できる。けれど今は、そうしたくなかった。
名前をつけて安心するよりも、不安なままでいる方が、きっとわたくしたちは幸せでいられる。