チョコレートよりもあまい むせ返るような、甘い香り。視界に入らない場所にまでばら撒かれたチョコレートの存在が、僕から自由を奪っていた。
下手に身動きすれば床やシーツや色々なものを汚してしまうのは明白で、僕は僕の上に跨った彼を突き飛ばすことをためらっていた。
「……団長さん?そろそろどいて欲しいなぁ~」
「ドランク、すっごく可愛いよ」
耳のあたりを撫でながら、うっとりとした目で言われて僕は呻くしかなかった。一体誰が、一回りも年上の男にこんなことを抜かすような残念な子に育ててしまったのか。彼が両親を知らないのは重々承知の上で、僕は心の中で問答する。
少なくとも、出会い頭で相手を押し倒すような行動を取らせているのは―彼をそういう風に狂わせてしまったのは―間違いなく僕自身なのだけれども。
そうだ、僕はただ頼まれてチョコレートを渡しに来ただけなのだった。それが、あっという間にベッドの上にひっくり返されて。彼に差し出したチョコレートの箱は手からすっぽ抜けた勢いで壁にぶつかって、その中身がばらばらと僕の周りに降り注いだ。
床の上に落ちた音がしなかったことだけが救いで、そんなことに気を回せてしまうくらい僕のほろ酔い気分は一瞬で吹き飛んでいた。
発端はほんの少し前のこと。チョコレートの甘い香りで目覚めた僕に、スツルム殿が不器用にラッピングされた四角い箱を押し付けてきた。
「日付が変わる前にグランに渡しておいてくれ」
「ふぇ……?」
昼間、騎空団の女の子たちが入れ代わり立ち代わり厨房を使っているのは知っていた。今日がバレンタインデーだってことも。
スツルム殿も例に漏れず、飲み仲間でもあるドラフの子たちとチョコレート作りに奮闘しているようだった。きっと僕にも用意してくれているんだろうな~なんてそわそわしていたのに、いつまで経ってもスツルム殿は現れず。仕方無しにお酒を飲みながら待っていたのがいけなかった。
いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていたらしく、気がついた時には大きなジョッキを傾けるドラフ女子飲み会メンバーたちに囲まれてしまっていた。
「ぼ、僕のっ……分はぁ?」
「ん」
指さされた先にあったのはチョコレートの匂いが染み付いた空っぽの箱だった。呆然と見上げた僕に、スツルム殿はにべもなく言った。
「つまむ物がなくなったからな」
「えええ~!そんな、嘘でしょお?」
「寝ているお前が悪い」
ずっと待っていた僕の気持ちも知らないで、僕にくれるはずのチョコレートをおつまみにしちゃうなんて薄情すぎない?スツルム殿がそんな人だったなんて……まぁ、知っていましたけどね!
「どんまいにゃ~どらんきゅきゅん~」
呂律の怪しいドラフ女子に背中をばんばん叩かれて僕は盛大に溜息をついた。
そりゃあね?改めて面と向かって渡すなんて照れくさくなっちゃったのかもしれないけどね?だからって食べちゃうことないよねえ?お尻を刺されたとしても僕はチョコレートが欲しかったの!
グランさん宛のチョコレートの包みにはおっきなリボンがかけてあって、テーブルの上には包装紙の切れ端や余ったリボンなんかが無造作に散らかっていた。ここでラッピングしていたのだろう。僕が寝ている横で。ああ……僕ってばどうして気が付かなかったんだ。
そんな思考も、お尻に走った痛みで遮断された。スツルム殿の目が「早く行け」と言っているのが分かって、僕はまだお酒の残った身体を引きずりながらふらふらと食堂を後にしたのだった。
「だーかーらぁー!チョコはスツルム殿からで、僕からじゃないんだってばぁ!」
「分かってるよ。さっきも聞いた。もらえなかったって話も」
そもそも、押し倒される前にちゃあんと念押ししたんだ。男の僕が、グランさんにチョコレートを渡そうとしてるなんて思われたら気持ち悪いでしょ?グランさんは、そりゃあ喜んじゃうかもしれないけど。僕は、そんなんじゃないし?そんなんってどんなの?いや、知らなくていいし知りたくもないけどねぇ~?
「だったら……」
「でも、僕が嬉しいのもドランクが可愛いのも変わらないからさ」
「なに、言って……」
そういえば。なんだか耳に違和感がある。グランさんが触れているのが原因ではなさそうだ。ぱたぱたと動かしてみると、見下ろしてくる顔がふにゃふにゃと一層だらしないものに変わる。
「僕がドランクから欲しいのは、チョコよりもドランクそのものだから」
「ちょ……ちょっと待って!」
なるべくベッドの上のチョコレートを転がしてしまわないように、慎重に手を持ち上げて耳を探る。そこには手触りの良い細長い布のようなものが巻き付いていた。それが何なのか、僕はすぐに理解した。グランさんの取った行動の理由も。
グランさん宛のチョコレートの箱にかけられていたリボンが、どういうわけか僕の耳にも結んであるのだ。スツルム殿か……いや、あの場に居た酔っぱらいの誰かの仕業だろうけど。グランさんから見れば、バレンタインの日に好きな相手が自分にリボンを付けて部屋を訪ねてきた。という状況になるわけで……。平たく言えば「僕を食べて♡」と言っているも同然だ。そんなつもりは全然ないけど、自分の置かれた現状をようやく把握してかあっと頬が熱くなる。
僕の耳にリボンを結んだ犯人に恨み言のひとつも投げつけてやりたいけど、普通に考えれば他愛のないイタズラに過ぎないわけで。まさかリボンのせいで僕がこんな目に遭うなんて、誰一人考えもしないだろう。団員の間では、僕とグランさんはただの顔馴染みということになっているのだから。
「えへへ。チョコ、いっぱいあるから後で一緒に食べようね」
「だ、団長さん?あの……これは、違うんだってぇ~!」
そんな叫びも虚しく、僕はグランさんに美味しくいただかれてしまうのだった。
☓END☓