憧れのあの子の瞳は煌めく夜空だった 疲れた――。
脳内を占めるのはそれだけだ。
「はぁ……」
ソファにぼすんと倒れこみ、テレビをつける。ぼんやりと夜のニュースを眺めていると、「晩御飯……」「だる……」「でも何か食べたい気もするし……」「あ、例の件について調べものしておかなきゃ……」などが次々頭に浮かんでくる。せめて家のなかだけでも仕事と離れていたいが、そうも言っていられないのが現実だ。
「あ~……」
うめきながら、朝テーブルの上に放置したままだった食べかけのパンに腕を伸ばす。袋を閉めて出る余裕は無かったから、パンはすっかり乾燥してパサパサになっていた。
それでも何も食べないよりかは、と口に押し込むが、口内の水分がみるみる奪われてしまい結局食べたことを後悔した。コンビニに寄るのすら面倒で一直線に帰宅したが、せめて肉まんでも買ってくるべきだったか。
『次のニュースです。先日発覚した成り代わり事件。女性に成り代わっていた異形の者が探偵に確保されました――』
テレビから流れてくるのは、ここ最近話題になっていた成り代わり事件についてだ。アナウンサーは淡々と事件の概要について話している。
「成り代わりか……」
どこかの異形の者が自分に成り代わって仕事に行ってくれないかなぁ、と人前では絶対に口に出せない不謹慎な考えが頭をよぎる。
成り代わられるというのは、死とほぼ同義だ。
だから別の自分が滞りなく今進行中の仕事をやってくれたとしても、喜ぶはずの自分はお陀仏なわけで。この考えは非常にバカバカしく本末転倒ということになる。
――つまり今自分は、そんなあほくさい考えをするくらい疲れているのだ。
「ふぅ……」
小さく溜め息を吐いて目を閉じる。ニュースはまだ異形の者について話していた。
ぼんやりニュースを聞いていると、ふと、『あの子』のことを思い出した。
高校の同級生、御守夜子――。
綺麗で凛としていて、憧れの人だった。
あの年頃なんて皆騒がしくてなんぼみたいなものなのに、彼女はいつも落ち着いていた。
大口を開けて笑ったり、声を張り上げて怒ったりするところなど見たことがない。だいたい彼女の小さな口はいつも引き結ばれていたし、笑うときだって口角を少し持ち上げるくらいだ。
それでも口角が上がっているときの彼女の瞳は、確かに笑っているとわかる光を宿していたし、無感情な人というわけでは無さそうだった。
そういうところに惹かれるのか、彼女は積極的に周囲と関わるタイプでは無かったが、周りから好かれていた。
もちろん自分もそのうちの一人だった。
『異形の者を確保した探偵の話しでは――』
彼女のミステリアスさはその外見や振舞いもあったが、何より職業がそう思わせた部分もあると思う。
御守は自分と同じ学生ながら、探偵と呼ばれる異形を捕まえる仕事をしていた。
月明かりを背にビル群を飛び回り、かっこいい武器を持って異形の者と戦う――これはドラマ知識だが――、そんなイメージのある探偵に御守の外見と佇まいは面白いほどマッチしていた。
自分はそんな彼女のことを――物語の世界の住人だと思っていた。
当時の自分はいつか自分も超常的な力が覚醒して、なんて妄想を常にしていたから、すべてが現実離れした御守をキラキラした眼差しで陰から見ていたものだ。
彼女の人間味の無さは、思い通りにいかず欝々とした青春時代を送っていた自分にとって、まさに理想の姿に見えた。
だから、彼女が涙を流しているのを目撃したとき、息が止まるかと思った。
あれはそう、昼休憩中だった。
なんでそのとき一人だったのかは忘れてしまったが、とにかく一人で廊下を歩いていたときだ。屋上へと続く階段から鼻をすする音と嗚咽が聞こえてきた。
(誰か泣いてる――)
それは興味本位だった。誰が泣いているのか少しだけ気になったのだ。
だから足音を立てないように階段を上って――見てしまった。
そこにいたのは御守夜子だった。
彼女は右手でスマホを握りしめながら、左手で零れ落ちる涙を何度も何度も拭っていた。
目も鼻も真っ赤になっていて、いつもサラサラの黒髪は乱れていて――。
見てはいけないものを見てしまった気分になった。
物語の世界の住人の生々しい姿。苦しそうに声を抑えながら涙するなど、いつもの彼女からは想像もつかない。
(あ――――)
だから自分は、御守と目が合った瞬間に逃げた。
自分のせいで何かを壊してしまった気持ちになってしまった。
自分が彼女の人間の部分を見てしまったから、御守夜子はこちらの世界に引きずり降ろされてしまった――と。
今思うとアホらしいというか、世界観に浸りすぎだというか。
強くてかっこいい同級生は正しく同級生だったのだ。あのとき、彼女も自分と同じ年齢だったのに。自分はどこかで違う存在のように感じていて――。
「――んあっ」
いつのまにか半分寝落ちていたようだ。自分のいびきの音でハッと目が覚める。
やばい、せめてシャワーだけでも浴びなければと、大きく伸びをしながらつけっぱなしだったテレビに目をやり――。
「へっ?」
自分は、まだ夢を見ているのだろうか。
テレビに見覚えのある人物が映っている。
「御守夜子……」
テロップはしっかり彼女の名前だ。夢じゃない。
テレビの中の彼女は記憶にあったままの姿だ。艶やかな黒髪、ミステリアスに光輝く瞳、どこか不機嫌そうな表情。何もかも変わらない。
ただ見慣れた制服姿じゃないことと、頬から丸みが少し取れ大人らしい面立ちになっていたことが、確かな時の流れを感じさせる。
「わあ……」
テレビのなかの彼女は、インタビュアーに質問され笑った。
それは口角を少し持ち上げた、静かな笑みだった。
「――っし! シャワー浴びて、資料ちょっとだけまとめるか!」
憧れの人は、自分が思い描いた物語の住人じゃなくて人間だった。
自分と同じように涙することもあるし、年も取る。
だけど自分が青春時代、まるで小さな子どものように目を輝かせて彼女を見つめていたことは変わらない事実で。
そして今もなお、自分は当時のような瞳で彼女を見ていた。
いまだ彼女は、自分が憧れたあのときと変わらぬ輝きを宿しているのだと思うと――不思議と気力が湧いてくる。
やっぱり彼女は、憧れの人だ。