「今夜、騎士様のこと抱くから」
突然そう言い渡されたカインは当然のように固まってしまった。手に持っていたフォークを落としそうになり、慌てて皿に乗せる。口に運ぼうとしていたタルトのひと欠片が行き場を失ってどこか寂しげに取り残されて、けれどカインがそれを視界に映すことはなかった。そこにはオーエンの、なにか企んでいるような楽しそうな笑顔だけが映っていた。
付き合おうと言い出したのはオーエンのほうだった。ある日、なんでもないことのように「ねえ、恋人っていうのになろうよ」と言い出したのだ。もちろんカインは戸惑ったが、気づいたときには「おまえがそうしたいなら、いいよ」という言葉を返していた。それまでもオーエンがカインの部屋に気まぐれに現れてはふたりで過ごすことが数え切れないほどあり、いつの間にかその時間を楽しみにしている自分がいたことをカインは自覚していたが、まさか恋人になろうと言われて迷わず了承するほどの好意を抱いていたとは思っていなかった。その日の夜は、今まで知らなかった自分の気持ちと、オーエンと恋人になったのだという事実に頭がいっぱいになり眠れないほどだった。
オーエンの性格を考えれば、あれは自分をからかうためについた嘘なのかもしれないと疑いを持たないわけではなかったが、それならば返事をした時点で、まさか本気にしたの? と散々なじられているだろうし、それからのオーエンの行動もあって、すぐにそんな疑いはなくなった。手をつないできたり、甘えるようにすり寄ってきたり、カインにもそれを要求したりと、恋人同士でないと行わないようなことを何度もしてきたからだ。そして今もそうしているように、ふたりきりで食事をする、いわゆるデートと呼ばれている行為も頻繁にやってきた。
しかし、カインを抱く、などと言ってきたのははじめてだった。言わずに行ってきたというわけではなく、性的なこと自体をこれまで一切してこなかった。それは筋金入りのもので、ふたりはキスさえもしていない。本音を言えば、カインはうっすらとそういった行為を望んでいたが、そんな欲望がわいてくるたびに、オーエンが要求しないならしなくてもいい、と自分を納得させて終わっていた。そもそも俺とは恋人のような距離感で仲良く過ごしたいというだけで、俺に性欲なんて抱けないのかもしれない、と考えることすらあった。そのときもカインは、俺だって性欲で付き合い始めたんじゃない、ふたりで過ごすのが楽しかったからそうしたんだ、と自分に何度も言い聞かせてやり過ごした。
だからこそ、それを言い渡されたときは気が気じゃなかった。自分の胸を詰まらせるものが期待なのか緊張なのか、もしかしたら恐怖なのか? それすらもカインにはわからなかった。それからなにを話したかも忘れてしまったし、オーエンがカインの頼んだタルトを食べている姿がいやに目に焼き付いていて、ああ自分はろくに食べ物も胃を通らなかったのか、と食事が終わってからようやく気づくくらいだった。
これまでも色恋沙汰には巻き込まれることはあったし、自分を好いてくれる人間が多いことも理解していた。もちろんそれを食い散らすようなことはしなかったが、そういった遊びごとについてはやたらと詳しくなり、その話題になると顔を赤くしてなにも言えなくなってしまう……なんてこととも無縁になった。そんな、いわばその話題に慣れているはずの自分が、恋人とはじめての夜を過ごすというだけで、こんなにも動揺してしまうというのが、カインには信じられなかった。信じられなかったが、それが現実であることは理解していた。
帰ってから、カインは部屋を必死に片付けた。どちらの部屋で行為に及ぶのかはわからないが、もしカインの部屋だった場合、散らかった部屋だとムードがない、とオーエンが嫌がるかもしれないと思った。いつもは、床に落ちているものをタンスや引き出しに無理やり押し込むことを掃除と呼んでいたカインだったが、今日はちがう。服は綺麗に畳み、本や文具も引き出しの中に整然と並べた。もちろんベッドの手入れも欠かさない。ここが一番大事だろう。今から洗っては間に合わないので、不器用ながら魔法でなんとか整えることにした。そして出来上がった、しわひとつないシーツと、新品同様の枕を見たカインは、自分にもこんな細かい魔法が使えたのかと大いに驚いた。そして同時に、恋人とのセックスを楽しみにするあまりにこんな魔法が使えるようになったのかもしれない、という羞恥がカインを襲った。なにはともあれ、そんなカインの努力により、今日はじめてカインの部屋に入った人間ならひとり残らず「この部屋の主は几帳面で綺麗好きだ」と感じるような、ぴかぴかの部屋が完成した。
それからカインは、人がいない時間を見計らって浴場に入った。髪も体も、今までにないくらい丁寧に時間をかけて洗う。今日一日の努力だけで、髪が触り心地のよいさらさらなものになるはずがないだろうし、肌だって突然綺麗になったり柔らかくなったりすることもないとわかっていたが、出来ることはすべてしておきたかった。それと、抱く、と言われた以上は。カインはもう一度、そこに誰もいないか、誰も入ってくる気配がないかをよく確認して、浴場の隅で、抱かれるための準備をした。先の通り、カインは経験はないものの、そういった話題には詳しかった。男同士でセックスをする時、抱かれる側に必要な準備のことも知っていた。もちろん、はじめてなので滞りなくとはいかなかったが、なんとか最低限のことは成し遂げた、というのがカインの感想だった。
その夜、オーエンはカインの部屋にやってきた。掃除をしておいてよかったと思ったのもつかの間、オーエンが「騎士様の部屋じゃないみたい」と不満げに言ったので、カインは一瞬頭が真っ白になった。けれど、なにか言い訳をしようと開いた口からはどうしてか「おまえが来るかと思って、綺麗にした」と正直な言葉が出てきて、ますますなにも考えられなくなった。ほとんど停止した頭に、もしかしたら俺が乗り気なのに引いて抱くのをやめるかも、と悪い想像が渦巻く。
しかしオーエンは一言、「へえ、そう」とだけ言って、当たり前のようにベッドに腰掛けた。それから、固まったままのカインを見て、どうしたの、さっさと来てよ、と、いぶかしげな顔をして言う。促されるままカインはオーエンの隣に座った。肩と肩が触れ合って、オーエンがじっと目配せをしてくる。カインはそれが、自分に甘えてきて、というサインだと知っていたから、黙って従った。この場合やることは、オーエンの肩に頭を乗せるだけだ。そうしたらオーエンの方から腰に手を回して、ぎゅっと抱き寄せてくる。恋人になってから何度もしてきたことで、カインはそのたびに胸を高鳴らせていたが、今日は状況がちがう。オーエンに聞こえていないかと心配になるほど、ばくばくとうるさいくらいに心臓が鳴っている。
「ほ、本当に俺と寝るつもりなんだな?」
カインはおそるおそる聞いた。これくらいの触れ合いならこれまでもしてきた。もしかしたら、昼に聞いたのは聞き間違いか、それかただの気まぐれで、本当に抱くことなどないのかもしれない、と未だに思っていた。
「……? 当たり前でしょ、なに言ってるの」
けれど、オーエンはそんな疑いを叩き切るように答えた。その言葉を聞いて、今から行われることを思い知らされたカインはもう気が気じゃなかったが、オーエンは、いやなの? 騎士様は僕の恋人なのに? と、またカインを追い詰めるような言葉を続けた。恋人、という言葉にカインはまた心を揺らされ、ひどく酔っ払っているような気分になった。これまで、恋人らしい触れ合いはしてきたものの、キスや性行為といった決定的なことはしてこなかった。だから、オーエンはただ触れ合いたかっただけで、恋人というのはそれを行うための名目に過ぎず、本当に自分に恋をしているわけではないのではないか、と思うこともあった。でも、そうじゃなかった。オーエンは自分を抱くと言っている。恋人だから抱くのだと。それだけでもう処理出来ないほど心はぐちゃぐちゃになっていたが、オーエンがカインの心が落ち着くまで待つようなことはなかった。
「こっち向いて」
カインは、その言葉の意味がわからないほど察しが悪いわけではない。どきどきと鼓動を弾ませながら、オーエンのほうに顔を向けて、そっと目を閉じる。オーエンはその表情を満足そうに眺めたあと、静かにカインにくちづけた。しかしそれは、あまりにもあっけなく終わった。本当に、くちびるが一瞬触れ合っただけだった。感触を楽しむような時間などなかった。
カインは呆気にとられた。もちろん、はじめてのキスがこんなにも簡単に終わったことに対してである。しかし呆然としながら、ふと思った。オーエンはやはり、こういうことは好きじゃないんじゃないか。手や肌は、日常生活の中で、恋人以外の人間とでも触れ合うことがいくらでもあるが、口はちがう。口と口を触れ合わせるなんて汚い、とオーエンが思っていてもおかしくはない。だったら無理にしてくれなくてもよかったのに、とカインは暗い気持ちになった。逆に拒絶されたような気分だった。そしてそれから、セックスは大丈夫なのか? と不安を抱いた。そんなことをずっと考えていると、オーエンが小さな声でつぶやいた。
「べつに味がするわけじゃないんだ」
「え?」
「恋人同士で、お互いがお互いのことを愛して、それがたまらなくなったときにするって書いてたから。そんなに特別なら、なにか味がするんだと思ってた」
「書いてた……?」
「まあいいや。続きしよっか」
書いてた、の意味がわからないまま、今度は向かい合わせに座る。それからオーエンは、迷うことなくカインを抱きしめた。カインはなにか疑問を持っていたはずだったが、そんなことはすぐに忘れて、気づいたら抱きしめ返していた。キスが出来なくても、オーエンが自分を愛してくれていることに変わりはないだろう。カインは体いっぱいにオーエンの体温を感じて、それだけでたまらなく幸せだった。オーエンはカインをきつく抱きしめて離さない。きつく、きつく抱きしめて……。
「オ、オーエン、ちょっと痛いんだが」
「こういうのはちゃんとしなきゃだめでしょ」
オーエンは力をゆるめない。それどころかカインにも、もっとちゃんとして、と不服そうな声で命令した。 ちゃんともなにも、今でもしっかり抱きしめている。意図がよくわからないまま、おそらく力を込めろと言われているのだと理解して、カインもこれまでにないほど力強く抱きしめた。自分が本気でやるとオーエンの細い体は壊れてしまうのではないかと思い全力は出さなかったが、オーエンはひとまず満足したようだった。オーエンが力を弱めたタイミングでカインも手を離し、ふたりは再び向かい合った。
「け、結構鍛えてるんだな」
「うん、魔法で筋力強化したから」
「なんでそこまで……?」
やはり理解が追いつかないままでいると、オーエンはベッドに横になった。ついに、とカインはごくりとつばを飲み込む。しかしオーエンは服を脱ぐこともなく、腕をカインの方に投げ出して寝転がったまま動かなかった。
「騎士様、こっち」
「あ、ああ……?」
「ほら、ちゃんと頭乗せて」
頭を乗せるよう指示されたのは、投げ出されていたオーエンの腕だった。いわゆる腕枕だ。
「重くないか?」
「僕がこれくらいのこと耐えられないと思ってるの? ばかにしないで」
カインは、オーエンの細い体に見合った細い腕を枕代わりにするのは抵抗があったが、これも魔法でなんとかしているのだろうと納得してそのままオーエンのほうを見ながら寝転がった。腕の細さと、おそらく魔法で強化されている筋肉の固さが相まって、とてもじゃないが寝心地がいいとは言えない。それでも、満足そうなオーエンの顔を見ているとなにも言えなくなった。
黙って見つめ合う。オーエンは幸せそうに微笑んでいて、カインもきっとそんな顔をしていたが、内心は疑問でいっぱいだった。なんでいま腕枕なんだ? 雰囲気を大事にしているのだろうか? たとえばこのまま、またキスをして、お互いに服を脱がせあって……。そんなことをするんだろうか? 答えは出ないまま、ついにオーエンが口を開いた。
「ねえ騎士様、わざわざこんなこと言いたくないけど……僕いま、幸せだよ」
「え? あ、ああ……俺もだ」
「騎士様……それじゃあ、おやすみ」
「ああ、おやす……」
え?
「……いや、は!? お前、今日俺のこと、その、抱くって」
カインは思わず体を起こしていた。なにが起きているのかわからなかった。オーエンは自分のことを抱くと言った。さっきも、俺と寝るつもりなのかと聞いたら、当たり前だと言った。恋人なのだから当然だと言わんばかりだった。
「……え?」
オーエンも、何度かまばたきをしてから起き上がった。また無言で見つめ合うが、さっきとはまったくちがう。ふたりの顔から微笑みは消えて、お互いにわけがわからないという顔をしていた。
「抱いたよ! キスしたあとあんなにきつく抱きしめたでしょ!? 魔法で強化までして……あれでも足りなかったの!?」
「足りてるに決まってるだろ! あばらと背骨両方持っていかれるかと思ったくらいだ!」
「じゃあいいだろ!」
「よ、よくない!」
カインは慌てふためいた。まさか、抱くって、本当に、抱きしめるという、ハグをするという、そういう意味だったのか? だとしたらなんでわざわざ、宣言までして? 抱きしめ合うことなんて、これまでも何度もあったのに……。
オーエンもまた慌てふためいていた。あんなに強く抱いたのに、まだ足りなかったの? 騎士様ってモテそうだと思ってたけど、やっぱりこういうことも何度もやってて……本当に背骨を折るくらいしないと足りないの? でも足りてるとは言ってるし……。
お互いに、考えても考えても答えが出ない。その沈黙を破ったのはカインだった。
「だってお前、俺と寝るつもりなのかって聞いたら、そうだって……」
カインはぐっとシーツを握りしめた。オーエンはやはり、なにを言っているのか理解出来ないという顔をして、思うままに叫んだ。
「だから今から寝るんでしょ!?」
「寝るっつって寝るやつがあるか!」
その叫びに対して、カインが一瞬で否定するような言葉を叫び返した。オーエンはやはり、やはり、カインがなにを言っているのか理解出来なかった。寝ると言って寝るやつがあるか? 寝るって言ったんだから寝るのは当然のことなんじゃないの?
「騎士様……僕……」
オーエンは悲しげにひとみを揺らす。
「ずっと北の国でひとりで過ごしてたから、都会の言葉遊びとか、謎かけとか、よくわからない……」
「シリアスな感じで俺を悪者にするな!」
オーエンとしてはかなり本気の戸惑いだったが、カインからすればそんな扱いはたまったものではなかった。言葉遊びに疎いオーエンをいじめたような覚えはない。というか言葉遊びではない。しかしそれを聞いて、カインは、オーエンは本当になにも知らないのだとしっかりと理解した。
「その、オーエン。恋人が言う抱くとか寝るとかは、抱きしめるとか一緒に睡眠するとか、そういうのとはちがうんだ」
「は? 僕、ちゃんと本読んできたんだよ?」
「本……? ああ、さっきなんか、書いてた、って言ってたっけ……。それにはなんて書いてあったんだ?」
自分と恋人として一歩先を進むためにオーエンがわざわざ本を読んできたという事実はカインの胸をむずがゆくさせたが、それにひたっている場合ではない。間違えて子ども用の絵本でも読んでしまったんじゃないか。カインは黙ってオーエンの言葉を聞く。
オーエンによると、本には、まず手を握ったり体に触れ合ったり、それからキスをしたりすると書いてあったという。そして抱き終わったあとは腕枕をして愛を語らう。これはピロートークと呼ばれており、これがあると相手は満足感や愛されているという安心感、あとときめきだとかなんだとかを感じることが出来るため必ず行うべしと強調して書いてあったのだ、と。
「その、キスのあとすぐ抱き終わってたのか? 抱く、の説明とか……間になにも書いてなかったのか?」
疑問に思ったことをカインはそのまま聞いた。ピロートークがどうとかいう記述があるなら、おそらく子ども向けの絵本ではないのだろう。しかし、それにしては行為についてぼかしすぎだ。オーエンは「確かに、間になにか書いてそうではあったんだけど……」と言ってから、少しの沈黙のあと、言いづらそうに答えた。
「途中封印がかかってて、無理やり解いたら文字がおかしくなってさ。そこだけちょうど読めなくて」
「な、なんで封印がかかってる本を参考にしたんだ?」
「店で一番高いやつを買ったんだよ」
「高ければいいってもんでもないんじゃないか、安いのでも同じこと書いてるだろうし……」
カインは思ったままのことを言った。普通なら、そんなくだらない本に魔法使いしか解けないような封印をかけてあることなどない。それが売っている店ってなんなんだ、なんでそんなところで買ったんだ。そのあたりの古書店の奥の棚でも探せば、もっと安いものがいくらか出てくるだろう。そして書いてある内容は、文体こそ違えどすべて同じものだ。しかしオーエンは納得しない。
「おまえは一番上等なやつをやりたくないの?」
「結果的になにも出来てないだろ」
カインがすぐさま否定、というか呆れたようなことを言ってきたので、オーエンはあからさまに機嫌が悪くなってしまった。けれどカインが、まあ、おまえがそういう気持ちで高いのを買ってくれたのはうれしいよ、と続けると、その表情はほんの少しだけやわらいだ。
カインはもう一度、本の内容を詳しく聞かせてくれ、と言った。オーエンは、うーん、と思い出しながら答えていく。
「さっきも言ったけど、最初に手を繋いだりキスをしたりするって書いてて……」
「ああ」
「そのあとが……読みにくいんだけど、多分……」
オーエンが思い出そうとするのを、カインは緊張しながら待った。目の前にいる恋人は眉間にしわを寄せ考え込んでいる。それは彼の整った顔立ちを壊すものではなく、むしろいつもは見せない悩んだ顔つきはカインの目には魅力的に映った。
さあ、今からなにを言うのだろう。もしかしたら、封印をかけてあるような本だから、なにかとても特殊なことが書かれていたんじゃないか。今それを思い出したら、オーエンがそれを実行に移さないとも限らない。カインは緊張からか期待からか汗ばむ手を、ぎゅっと握りしめた。オーエンが口を開く。
「そこに乱入してきたクラーケンが……」
?
「大暴れして部屋中を壊して……」
「それ絶対解読失敗してるぞ」
カインは、先ほどまでの胸の高鳴りがうそのように、冷静に、真顔で、淡々と答えた。カインの胸にあった熱のようなものがもうすっかり冷え切っていることを知ってか知らずか、オーエンもまた淡々と続ける。
「でもクラーケンを用意出来なかったんだよね」
「用意出来たらやるつもりだったのか」
「ただ、そのあとに、抱き終わったら、って書いてたから。クラーケン抜きでも最悪抱きしめるだけでいいのかと思って」
「クラーケンがいるほうが最悪だな」
「で、これもさっき言ったけど、最後は二人でピロートークっていうのをやるんだよ」
「つまり間のクラーケンがいなかったから、キスして抱きしめてそのままピロートークになったってことか」
「そうだよ。でも失敗したってことはやっぱり……クラーケンがいなきゃダメなんだね」
「いたらダメなんだよ」
カインの言葉をほとんど無視して、オーエンは、僕の準備不足のせいで……と悔やむようにうつむいた。いつも自信に満ちあふれ、 人をなじりからかうことで楽しんでばかりの彼がそんなしおらしいことをするのは本当に珍しいことで、カインはその姿をいとおしく思えばいいのか呆れた目で見ればいいのかわからなかった。もう抱きしめてなぐさめて、今日はこのまま一緒に言葉どおり寝てしまおうか、と思ったとき、オーエンは悔しそうな声を漏らした。
「人間はクラーケンなんて用意出来ないだろうから、クラーケン抜きでも出来るだろうと思ったのに……」
「クラーケン抜きでも出来るのは合ってるな」
オーエンはまだセックスについて独自の解釈を信じ切っているようだったが、少し落ち着いてきたのか、うつむくのをやめてカインに向き直った。
「だったらセックスってなにするの?」
オーエンはきょとんとした顔で言う。子どもが、はじめて聞く遊びのルールや、買ってもらったばかりのおもちゃの使い方を聞くような、純粋な表情だった。カインは一瞬、こんな幼い子にセックスのことなんて教えられない……と思いそうになったが、相手は自分よりはるか年上、幼子とはかけ離れた存在であることを思い出し、だったら早いうちに正しい知識を教えてやったほうがいいか、と思い直した。オーエンは生まれてきてからすでに千年以上経っているので「早いうち」の範囲からはとっくに外れているのだが、混乱しているカインは自分の思考がおかしくなっていることに気づかず真剣にそう考えていた。
「えっと、そうだな……」
教えてやらなければ、と思ってはいるが、やはり気まずい。オーエンの性格を考えると、ベッドの上で自分を辱めるようなことをするかもしれないとは思っていたが、こんなかたちで行われるとは思っていなかった。まさか、セックスについて口頭で説明する、なんてことになるなんて。そしてその要求に悪意がないぶん、辱める目的でわざと行われるものよりずっとたちが悪い。カインは気まずさをなんとか振り切って説明を始めた。
まず男女で行われるものを説明した。その時点でオーエンはまったく話についていけないという顔をしていたが、カインは恥ずかしさからオーエンの顔を見ることが出来ず、オーエンのその表情に気づけなかった。だから続けて、男同士のやり方も、知っている範囲で説明した。カインだって詳しいわけではないが、大体は合っているだろう。
「……は?」
カインの言葉を素直に黙って聞いていたオーエンは、ひととおりの説明が終わったあと、信じられない、と言うように叫んだ。
「騎士様はセックスをなんだと思ってるの!?」
「おまえこそなんだと思ってるんだ!」
「だ、だって……え? それで子どもが出来るの?」
「そうだよ!」
オーエンの中で、ずっとずっと長い間信じていた愛のかたちが崩れていく。
愛は僕とは無縁のもの。眩しくて目に入れてられない光で、うっとうしいくらいあたたかい空気で、立っていられないくらいやわらかい地面。そういうもの。そういうものだったけど、今ではほんの少し、悪くないと思えるもの。
そんな幻想が音を立ててばらばらになっていく。オーエンにはそれが許せなかった。だからカインの言葉を信じないことにした。心から愛し合うふたりがたどり着く場所が、そんなよごれたものであるはずがない。
「……騎士様がおかしいんだ。間違ってるよ。それで子どもが出来るって言うならそんなことをみんながやってるってことになるでしょ? ありえないよ」
「クラーケンに部屋壊されて子どもが出来るほうがありえないだろ」
「人間はクラーケン抜きでも出来るんでしょ」
「クラーケン抜きでも出来るのは合ってるな」
どうも、カインがうそをついているという雰囲気ではない。オーエンだって、そもそも騎士様が誰かを騙すことなんてありえない、それも僕をこんな意味のわからないうそで騙すなんて絶対にありえない、そんなことは理解していた。しかし説明された異常な行為を人間たちがほとんどみんな行っているとも思えない。そんなものは獣がやることだ。心や愛、知性を持った人間がやることではない。つまり、カインがなにか思い違いをしているのだろう。そう思って教えてやったのに、カインはかけらも自分の考えに疑問を持っていない。それどころか、オーエンが理解していたセックスのやり方を当たり前のように否定してくるのだ。確かに言われてみれば魔物に部屋を壊されて子どもが出来るというのもおかしな話だとは思う。けれど、それでも、カインが言う行為よりはまともに思えた。やはりそんなことは獣同士でしかありえない。あまりにも倒錯している。
オーエンの心はそんなふうにカインの言うことを受け入れられないままだったが、頭では少しずつ理解してしまっていた。まず自分が思っていたように、魔物を用意して部屋を壊させることでしか子どもが出来ないのなら、人間がこうも繁殖しているとは思えない。じゃあ抱きしめ合うだけで子どもが出来るのかとも思ったが、それもよくよく考えてみると違和感がある。それで子どもが出来るなら、性別はまったく関係ないはずだ。それらに比べてカインの言うことは、男女の間で子どもが生まれる、それも必ず女が妊娠するということと、つじつまが合っている。信じられないが、合ってしまっている。
「……騎士様は今日、それをやると思ってたの?」
まだ、どこかふらふらするような気持ちのまま、オーエンは問いかける。男女の行為ですら受け入れがたいものなのに、男同士でするときは……あれに、あれを、入れる……? もはや、正気の沙汰とは思えなかった。それを、目の前にいる至極まともな感性を持っていそうな、むしろそこらの人間なんかよりよっぽど立派で真面目で気高い感性を持っていそうなこの男が、受け入れて実行するつもりだったのか? 本当に? そう思ったゆえの問いかけだったが、カインは小さな声で「まあ、そうだけど……」とそれを肯定してしまった。
「そんなことやると思ってたのに、嫌がらなかったの?」
オーエンには信じられなかった。だって、自分がそれをやると、おまえを抱くと言ったのは今日の話だ。もちろん自分はそんな行為とは思っていなかったから当日に言ったのだが、カインからすれば、今説明されたおぞましい行為を突然その日の夜に行うと言い渡されたことになる。いくら恋人とはいえ、そんなことを受け入れるだろうか? しかしこの問いにもまた、カインは「その、そういうことになるな……」と肯定の返事を返してきた。
オーエンはそれ以上なにも言えなかった。きらきらしたものだと信じていた恋人同士の行為は生々しいけだもののやることで、清廉潔白なはずの騎士様はそれを知っていて、しかもそれを今夜突然やると言われても文句も言わず受け入れて……。理解の範疇を超える情報が次から次へと頭に詰め込まれて、もうなにも考えられなかった。
「も、もちろんおまえが嫌ならいいんだ。そんなことしなくても、今までどおりでじゅうぶん幸せだから」
黙りこくってしまったオーエンを安心させるように、カインは笑ってそう言った。けれど、オーエンがそれを聞いて安堵することはなかった。騎士様は、自分も本当は嫌だった、ではなく、おまえが嫌ならいい、と言っている。まるで、さっき言われたあのおぞましい行為を望んでいたような言い方だ。本当はやりたかったけど、今のままでも幸せだから我慢すると、そう言っているみたいだ。オーエンは恋人の秘められた欲望を知って、気が触れてしまいそうだった。けれど心の奥に、本当にカインがそれを望んでいるのなら、という気持ちがわずかに芽生えつつあった。
「気持ち悪いこと言って悪かったな、もう寝よう」
いまだなんの返事もよこさないオーエンに、カインはつとめて優しく語りかける。そのやわらかい声色に反して、カインの心はぎりぎりと締め付けられるように傷んでいた。やはりオーエンは自分に性欲なんて持っていなかった。オーエンはただ触れ合うだけで幸せだったのだ。それ以上のことを求めていた自分が恥ずかしかった。期待して、雰囲気が壊れないように部屋を片付けたり、時間をかけて体を洗ったりしていた自分が、ひどく滑稽で、そして、気持ち悪いと思った。
「うん……もう寝る」
オーエンはそう言って、力なくベッドに横たわった。カインもおそるおそる隣に寝転がる。天井を見上げながら、カインは自分に言い聞かせた。オーエンの様子を見る限り、きっと、俺が説明した行為に嫌悪感を持ったのだろう。でも、それをしようと思っていた俺のことは拒絶しなかった。部屋に帰らず、同じベッドで眠ることを受け入れてくれた。それだけで幸せじゃないか。
むなしさを埋めるように何度もそう考えていたとき、オーエンの手が頬に触れた。思わず目を向けると、自分を見つめているオーエンと目が合った。もうふてくされて眠ろうとしているものだと思っていたのに。戸惑っているカインからオーエンは目をそらさない。
「でも明日、別の本を買ってくるから」
「え?」
「そこに、本当に騎士様の言うとおりのことが書いてたら、」
そこまで言ってから、オーエンはきゅっと口を結んだ。カインは、無理しなくていい、このままの関係でかまわない、と言おうとしたが、声にならなかった。かける言葉に迷ったわけではない。この期に及んで期待している自分のあさましさに嫌気がさしたが、どうしても言葉の続きが聞きたかった。少ししてから、オーエンは意を決したように口を開いた。
「騎士様となら、やってみてもいいよ」
それから一ヶ月後の今は毎日のように激しくヤりまくっています。よかったね。