ネクタイ「うーん…」
鏡を前に手を右に左に、こっちが上で、こっちが下?ここに通すの?よくわからない。
「…」
出来上がったのはせっかくの新品のワイシャツの襟をぐちゃぐしゃにして、まるで首輪をしたかのような情けない姿の僕だ。はじめてのネクタイは僕につけられるのが嫌らしい。
「ここを引くと外れ…ぐぇー」
自分で自分の首を絞めるという情けない行為を繰り返していると、ぐいっと肩を引かれた。何事だろうと見上げれば先生が僕を見下ろして笑っていた。
「これから散歩にでも出かけるのか?」
あんなに外れるのを嫌がっていたネクタイは先生の指に撫でられてひらりと解けた。クシャクシャの襟を綺麗にそれえて、ピンと立たされてしまう。先生とお揃いみたいだ。
「違うよ、先生…このネクタイがわがまま言うんだ」
「おや、なら君に新しい子をあげようか」
そう言って先生が空中から紐を引くかのように取り出したのは赤いネクタイだった。
「え」
という僕のことなど気にせず、先生は僕の首にそっとそのネクタイをかけて、器用に結び始めた。じっと僕の首元を見て結んでいる先生にちょっとドキドキする。どこを見ていいのかわからず先生の顔を見つめる。以外と長いまつげが湖のような瞳に影を作っている。
「はい、できたぞ」
顔を上げた先生とばちりと視線が合う。ドキリと跳ねる心臓は単純だ。
「あ、りがとう…先生」
「ふふ、どういたしまして」
にっこり笑う先生は僕の襟を直して、ネクタイの位置を調節し、満足そうに頷いた。
「よく似合ってる」
「これ…本当にいいの?もらっても」
「あぁ、もちろん。君の社会人祝いだ」
社会人。そう、今日は入社式だ。新品のスーツに新品の鞄、靴。何もかもが新しい。でも、先生からもらったネクタイが一番輝いている。
先生に背中を押されて玄関に向かう。靴を履いて、鞄を持って視線を上げれば先生が微笑んでいる。ガチャリと扉開けて振り向いた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
鼻先に降りたキスにぶわっと顔が赤くなるのを先生は楽しそうに見たあと、扉は無常にも閉められた。