あなたの熱で綻ぶぽつりぽつりと軽やかな音を立てていた水滴の音が、激しく打ちつける音に変わるのにはそれほど時間は掛からなかった。サンクタムの大きな窓の表面を、水が滝のように流れていく。外を見下ろせば、色とりどりの傘が咲き、人と共に流れていく。息を吸うと冷たく重い空気が肺に溜まり、体の底が冷えていく。そっと手を見下ろせば、そこはいつもより震えていた。
「はぁ…」
吐き出した息は頼りなげに、サンクタムの空気に溶けていく。体に張り付くような重い空気をかき分けながら、ストレンジは雨音が聞こえない室内を探すために歩き出した。雨音と共に思い出される事故の衝撃に、腕をぎゅっと掴んだ。
空間が歪んでいるサンクタムの中で、外の音が聞こえない場所を見つけるのは簡単のはずだ。そう思っていたのに、今日に限って目的の部屋が出てきてくれない。灼熱の地獄でもいい、極寒の氷の世界でもいい、どこでもいいから繋がってくれとドアを開けたり閉めたり。ここはどうだと開いた先は、熱帯雨林の雨季で土砂降り。次はどうだと開けてみれば、酸の雨が降り続く異世界で。どうやら今日はついてないらしい。諦めて自分の部屋に篭るかと、部屋に戻り、ベッドの上で光る電話に気づいた。
着信履歴を覗けば、そこには「トニー」の名前が。珍しい。電話なんてと思いながら、ストレンジは電話をかけた。プルルルとコール音が一回なって、もしもしスティーブン?とトニーの声が耳に届いた。
『今大丈夫かい?』
「あぁ、大丈夫だ。何かあったか?」
『あーいや、ちょっと君の予定を確認したくてさ』
「予定?」
『ほら、この前いいお店見つけたって言ったろ?』
トニーの言葉に、ストレンジは思考を巡らした。そういえば、数ヶ月前にそんな話をした気がする。いや、彼にとっては数日前か。
「言ってたな」
『それでさ、今度君と一緒に行きたいなって思って』
「私と?」
『そう』
「なぜ私なんかと…」
『んー、行きたいから?』
「だからなぜ…」
「…君と一緒に過ごしたいだけだ。駄目かい?」
少し間を置いて答えるトニーの声が、はっきりと耳に届いた。目の前に彼がいるみたいだ。はっと視線をあげるも、当たり前のように誰もいない。
『スティーブン?もしもし、聞こえてる?』
しばらく黙ってしまったストレンジに、トニーは心配そうな声を上げた。すぐに意識を戻し、なぜか波立っている心音を叱咤し、平然と答えた。
「…聞こえてる」
『嫌かい?僕なんかとは…』
「…別にいい」
『本当かい?』
「もちろん奢りだよな」
『ふふ、もちろん』
「そうか…」
『じゃ決まりな、予定なんだけどさ…』
忙しいはずのトニーから出てきた豊富な日程に、ストレンジは不思議に思いながらも、そこには触れなかった。そこに触れたら、もう戻れない気がしたから。
『それじゃ、明後日の19:00に』
そこから他愛無い話をして、電話は切れてしまった。耳元に当てていた電話を放り出し、ベッドへ倒れ込む。手の震えはいつのまにか収まっていた。
彼が連れてきてくれた店は予想よりリーズナブルで、庶民的なお店だった。アンティークが飾られたシックな室内に落ち着いたbgmが流れ、穏やかな時間が流れていた。でされた料理はどれも美味しくて、ワインも進んでしまった。カランカランと音を立てて開けた扉の外の風が頰を撫でて気持ちがいい。コツコツと靴を鳴らしながら、二人で並んで歩いた。
「今日はありがとう、スティーブン」
「こちらこそ…ご馳走様でした」
食事中はいろんな話をしたというのに、二人っきりになると黙ってしまう。何を話そうかと考えて、トニーに視線を向けると、彼がこちらを見て笑っていた。
「なに?」
「ん?いや…君と一緒にいれて嬉しくてさ」
「トニー…君は変なやつだな」
思った通りのことを伝えると、彼は声を出して笑い出した。そりゃ変だろう。こんな己のような人間と一緒にいて嬉しいだなんて。もう半分人間でない自分と一緒にいて何が楽しいんだろう。
「変か、変なのかもな!だって、君が愛しくて愛しくて仕方がないんだもの」
そう言って、スッと手を握られストレンジは、唖然とした表情でその手を見た。トニーは手を握ったまま、スタスタと歩き続けてしまう。ストレンジはそれについていくしかできなかった。
「君はさ、よく何考えてるかわからないとかさ、魔術師だから人間と感覚がずれてるんだとかさ、言われてるだろ」
「なんで知ってる…」
「僕、耳がいいんだ」
ぎゅっと手を握るトニーの熱が、ジンジンとストレンジの手に伝わっていく。そこから全身に熱が伝わるかのようだ。
「僕は君がいろんなことを考えているからそうなんだと思うんだ」
「?」
「君は魔術師として、僕らとは違う方面から考えるし、考えないといけない立場だ。君のことがわからない時、それは君がそれだけ物事を真剣に捉えて、どうすれば最善なのかを考えてるからだと思う」
「…」
「僕はそういう…何事にも真剣に、そして人のために生きれる君が、素敵だなって思うんだ。そして僕は、そんな君が傷つかないように守りたいって思うんだ」
トニーの足が止まり、ストレンジを振り返った。彼の目はキラキラと輝き、真っ直ぐにストレンジを見つめていた。
「ぁーまぁ、何が言いたいかっていうと、僕は君のことが好きなんだ」
「は…」
「君はどう思う?」
こてんと首を傾げて見つめられ、ストレンジはぽかんと呆けてしまう。
「…スティーブン?」
「わ、たしは…その…」
トニーの声にストレンジはきゅっと口を紡ぎ、目を彷徨わせた。彼のことをどう思っているのか、今はよくわからなかった。ただ一緒にいて、安心するのは事実だった。
「あ」
ぽつり。鼻先に当たる冷たい感覚に視線を上げた。さっきまで見えていた三日月は姿を消し、どんよりとした雲が天を覆っていた。
「あめ…」
「スティーブン、こっち!」
トニーはストレンジの手を取り走り出した。雨から逃げるように駆け出すも、雲の動きが早かった。ざぁっと降り出す雨にびちゃびちゃになりながら駆け込んだのは、小さな公園だった。大きめの木の下に滑り込み、息を吐く。
「うわぁ…雨の予報なんて聞いてないぞ」
トニーは濡れた髪をかきあげながら、空を見上げた。どんよりした雲からシャワーのように雨が落ちてくる。ストレンジはそっと手を見下ろした。冷たいはずの手は震えることなく、そこにいた。
「スティーブン、大丈夫?冷たいよな」
タオルを取り出し、その手を拭いてくれるトニーの手は少し冷えていたが、暖かく優しかった。冷たい雨と共に思い出されるはずの記憶が霞んでいく。
「トニー」
「ん?」
スティーブンはトニーの手を取ると、一歩ずつ下がり、雨の元へと出ていった。
「おい、スティーブン!」
「トニーと一緒なら平気」
「スティーブン?」
「来て」
ストレンジが雨の中で両手を広げた。整えていた髪は雨でびしゃびしゃで、せっかくの服も濡れて体に張り付いている。それなのに、とても嬉しそうだった。
「トニー」
見たことない表情を見せるストレンジに、トニーはゆっくりと近づいて、その胸に飛び込んだ。ぎゅっと抱きしめ合い、雨の中でくるくると回る。
「トニー、私、君のこと嫌いじゃない」
「ふふ、スティーブン、今日はそれで許してあげるよ」
抱きしめ合い、そしてお互いにの唇を合わせた。触れ合うところが熱い。
「さぁ、帰ろう」
しばらく雨の中で抱き合って、二人は帰路に着いたのだった。
『もじもじ?』
「スティーブン?ゴホッゴホッ…大丈夫か?」
『ドニーは?』
「ゲホッ…なんと、大丈夫じゃない」
お互いに鼻声で電話して、笑い合ったのはその次の日のこと。