即興曲第3番Op.142-3(シューベルト)小さい頃はただひたすらに幸せだった。
凛月の世界はとても狭かったけれど、隣には、目の前には、常に〝おにいちゃん〟がいてくれたから。
おにいちゃん、おなかすいた。おにいちゃん、たいくつ。おにいちゃん、うたって。
凛月が願えばなんだって叶えてくれたし、凛月の欲しいものはいつも先回りして与えてくれた、万能で完璧なおにいちゃん。
ほぼ家の中で完結するような小さくて、でも暖かい、凛月のための国。
〝おにいちゃん〟が世界の全てだった。
でも大きくなるにつれ、兄は次第に家にいないことが増えて行った。
後から思えばそれも凛月のためだったのだけど、当時はそんなことわかるはずもなく。
兄も兄で何も説明してくれなかったから凛月を捨てて外の世界に行ってしまうのだと、恨んで。
凛月の世界の全てだった兄が、隣にいてくれなくて。
けれど、そんな小さな世界を壊す代わりに連れてきてくれたもう一つの世界。
手を引かれてこわごわと外に一歩踏み出してみればそれまでよりずっと面倒なことが増えたけれど、でも、それも存外嫌じゃないことに気づいた。
兄の出て行った〝外の世界〟はこういうものなんだと見渡しているうちに気づいた。
兄が、倦んだ顔をするようになったこと。心からの笑顔が消えたこと。
ごとんと階下で音がして、珍しく零が帰宅したことを知る。
鏡で自分の顔に〝心配〟が浮かんでいないことを確認して、凛月は扉を開けた。
「ここが家だっていまさら思い出した感じ?」
「凛月、まだ起きてたのか」
「嫌味?まだまだ俺たちが寝るような時間じゃないでしょ」
海外を飛び回っていてちっとも家に帰って来ないことを皮肉を込めて口にしても、零はちっとも気にしていない素振りで笑って流す。
いつからか、零が作り物のような表情ばかり浮かべるようになった。
反抗期とは言え大好きな〝お兄ちゃん〟。最初は心配をきちんと伝えた。疲れてるなら休めば、とか。俺に出来ることなら手伝う、とか。
でもいつだって零はそれを『大丈夫』の一言で終わらせてしまう。
頼ってもらえないことへの苛立ちからついつい当たり散らしても、ごめんなと返されて、最終的には凛月の心配ばかりしてきて。
自分はいつになっても零の庇護対象でしか無いのだという現実を突きつけられて。
「ほんっと腹立つ」
零をがんじがらめにする鎖は、弟に生まれてしまった凛月にはどうしたって壊せないとずっと悔しい気持ちでいたのに。
「ほんっとむかつく」
「なんか言ったか?」
「なんにもー、それよりまーくん喉渇いた」
「はいはい」
凛月の分までドリンクを引き替えてきてくれた真緒に礼を言って、一口飲めば、冷たい炭酸がしゅわしゅわと口の中に広がる。
その爽やかさと同じくらい晴れやかな顔をした零が、ステージの上で歌っていた。
新たに得た、仲間たちと共に。
「こんな隅っこじゃなくもっと前で見れば?朔間先輩絶対喜ぶのに」
「喜ばせたくないからここにいるってことがわかんないまーくんじゃないよねぇ」
「まぁそうだろうけど」
でも絶対来てることには気づいてるぞと真緒が苦笑する。
そんなことは凛月もわかっている。さっきから目が合うし、そうじゃなくても自分に気づかない零など零では無いし。
「俺は薫さんを見に来たの。あとコーギーたちと」
何もかもがつまらないという顔をしていた兄は、このまま死んでしまうんじゃないかとすら思っていた兄は、今、すごく楽しそうにライブをしている。
歌うこと、踊ること、たいして好きじゃないようなフリをやめて、心から幸せそうに笑っている。
普段の言動はなんだかころころと変わるけれどそんなことは凛月にとってはたいしたことじゃなかった。
小さい頃、凛月の世界の全てだった、万能で完璧なお兄ちゃん。
「いや……完璧では無いかも……」
本気で呆れるようなこともしでかすが、でもそんな人間味のあるところを凛月にも見せてくれるようになったお兄ちゃん。
本人の前はもちろん、本人がいない場所でも絶対に口にはしないけれど。
「よかった」
兄が、幸せになれるルートが開けて。
そんなことを思いながら満面の笑みを浮かべる凛月を、真緒がやれやれと肩を竦めてぽんと叩いた。