大切なものは失ってからその大切さがわかる。俺は今までに彼女を二人失ったが、二度目ともその実感はわかなかった。だが今の俺はこの陳腐な言葉を理解できる。悪寒のない背中はどんなに快適で、頭痛のない頭はどんなに晴れやかだったろう。俺は布団の中で蓑虫のようになって、関節の痛みとシベリアにいるかのような悪寒に顔を顰めた。
異変が起きたのは突然だった。蟹汁の蟹を山姥切に多めに食わせ、定時より前に帰らせた後、まずやってきたのは頭痛だ。俺はそれについては不思議に思わなかった。普段の不摂生に加えて、運動不足の身体での全力疾走、雨で冷えた身体。不調を来さないはずがない。しかしいつもより早く就寝すれば支障はないと思っていた。翌朝には快適に目覚め、朝日を浴びて鳥の囀りを耳にしながら珈琲を入れる。しかし俺のその予想は大きく外れた。それはまるで、夏の台風の進路図のようにだ。なぜなら俺は蟹汁を食った日に床に伏せ、それから今日まで、つまり丸二日も寝込んでいるのである。
凍えきった手足の指先は、一向に解ける様子を見せない。暖房器具を布団の側に置いているのに、どうしたことだろう。俺は痛む関節をぎしぎしと言わせながら寝返りを打った。
幸せとは、実は大したことでないのかもしれない。不自由せずに息が吸えて、身体に痛い場所はなく、腹が空けば飯が食える。それがどんなに満ち足りたことであることか、忘れてしまっているだけなのかもしれない。熱でぼんやりした頭でそんなことを考えていると、背後に近づいて来る人の気配がした。つい数十分前に部屋に入れた山姥切だ。
「カラチャン先生、起きているか。」
卵のような、出汁のような匂いがする。
「…ああ。」
「卵雑炊を作ったが、食えそうか。」
「……今は、何も食える気がしない。」
「そうか。」
奥のキッチンへ戻って行く気配を、俺は呼び止めた。
「昼には。」
「む。」
「昼には食えるようになるかもしれん。取っておけ。」
「ああ、承知した。」
山姥切のアホ毛が揺れる音がする。実際に聞こえている訳ではなく、正確には無音だ。きっと今そのようになっているだろうという心象風景の話だ。どうしてこいつはピンピンとしているのか。普通こういう時に風邪を引くのはあいつの方だろ、と理不尽な怒りが腹の中燻る。寒くて仕方がないのに、吐く息は嫌になるほど熱い。俺は布団の中で無音で唸った。
◇
再び目を覚ました俺を出迎えたのは、茹だるように暑い身体と、甘ったるいフリルとリボンに飾られたメイドだった。
「おはよう、カラチャン先生。」
「…今何時だ。」
服を着たまま水に入ったかのように重い身体を起こす。
「13:24だ。何か飲むか。」
「…ああ頼む。」
山姥切は尻をぷりぷりと振りながら奥へ消えた。以前のように丸出しにはしていないが、やはり動く度に柔肌がフリルから肌気けて、尻の存在を明らかにする。単なる比喩ではなく本当に白桃のようで、齧り付いたら甘そうだと馬鹿なことを考える。それこそ肌はひんやりと冷たくて、触れれば心地良さそうだ。
「そら、どうぞ。スポーツドリンクだ。多かったら残してくれ。」
ぼんやりとした思案から帰ってきて、声がした方を見ると俺の側に控えた山姥切が目に映った。差し出されたコップを手に取ると、気持ちのいい冷たさが掌に伝わる。喉へ流し込むと、乾いた大地が水を吸うが如く見る見るうちに身体へ染み込んだ気がした。けれど、茹だる身体は未だ癒されないままだ。
「どうも。」
山姥切にコップを返すと、山姥切はこくりと頷いた。
「飯は、食えそうだろうか。」
「まあ…。食ってみようと思う。」
「承知した。」
山姥切は飲み物と一緒に持ってきたらしい今朝の粥を俺に差し出した。スプーンを粥に入れ、口へ運ぼうとする。しかしコップを持った時はそれほど苦に感じなかった手の震えで、口へ入る前にそれはぼたぼたと皿の上に落ちた。
「…カラチャン先生。」
俺は無言で溜息を吐き、もう一度試みた。けれど結果は同じだった。苛つきからか、空腹からか、はたまた熱による不調なのか、胃がムカムカとする。
「カラチャン先生、俺が食べさせよう。」
「…断る。」
「断られたのを断る。」
「…は?」
山姥切は俺から粥を奪い返すとスプーンをそこに入れて掬い、自分の口元にそれを近づけた。山姥切の桃色の唇はふぅと息を吐き、粥が上げる湯気を吹き飛ばす。ふぅふぅと二、三度粥を覚ます唇をぼうっと眺めていたら、覗き込むようにして山姥切が俺に近いた。
「そら、口を開けてくれ。」
「っ…いいと言っている。」
至近距離で見た改めてこの距離で山姥切を見ると、なんとも美しい顔立ちなのだと思い知った。瞳を青い湖と喩えるなら、長いまつ毛はその湖畔に息づく葦だろうか。優しく、しなやかに実ったそれは湖に寄り添って静かに揺れる。血色良く色づいた頬は薄桃色で、愛らしい乙女の象徴たる輝きを放っている。潤いを持った桃色の唇は…。
「カラチャン先生、早く。痒が冷める。」
俺は狂った思考からやっと帰ってくると、山姥切から顔を背けた。相当熱が高いのだろう。おかしなことばかりを考えている。
「ほら、あーん。」
ガキのようで、こんな扱いは癪だ。お前より幾つ歳上だと思っている。頰が熱いのは熱のせいだ。
「あーん。」
繰り返された言葉に、俺は仕方なく振り返った。ずい、と目の前に出されるスプーンに恐る恐る口を開ける。山姥切は意外にもゆっくりと気遣うように俺の口の中へスプーンを差し入れた。
「どうだ、食べられそうか。」
喉を飲み下して頷く。鼻が詰まっていて味は少し薄く感じたが、優しい味わいに何処か胸がほっとした。
「いいことだ、でも多かったら残してくれ。」
二口目を掬った山姥切はまた唇を僅かに突き出して、ふぅふぅと息を吐いた。俺は粥を食い切るまでいちいちこれを見せられるのか…と思うと気が遠くなる。粥よりもあの唇のほうが旨そうだ。一度齧れば溢れるような甘い果汁が弾け、痛む喉もたちまち癒してくれる気がする。…などと、最早止まらない阿呆らしい絵空事を考えながら、俺は馬鹿みたいに口を開けた。そうして気づけば粥はなくなっていて、山姥切は満足そうに笑った。