片側のオレンジは愛を知っている。俺とあの女とが落ち合うまでそう時間はかからなかった。やはり前回と違って仕事で使うもの、という制約がなくなった分、選びやすかったのだろう。俺と女はまたカウンターを隔てて向き合った。瞼に乗せられたアイシャドウをリムーバーで落とし、下地を指で広げる。
「もう大分お仕事には慣れましたか?」
「え、あ…そう、ですね。少しは。」
「同期で仲のいい人ができたり、」
「まあ一人、そういうのは。」
俺は女が選んできたパレットを手に取り、下地の色にブラシを立てた。
「それは良いですね。何かと仲がいい人がいた方が働きやすいでしょう。」
「…そいつに、化粧のやり方教わったんです。なんか、詳しいみたいで。」
俺は肩が少しぎくりとした。初めてにしては1ヶ月そこらでやけに化粧が上手くなったものだと思っていた。
「そうでしたか。ご来店された時も随分綺麗なアイメイクをされているなと思いました。」
「そんな…。ありがとう、ございます。」
女の頬は薄紅色に染まった。あまり他人に褒められることがないのかもしれない。ちょうどタッチアップも終わり、女に鏡を見るように促す。女は自分の姿を見てはにかんだように笑うと、すぐに目を伏せた。
「どうでしょうか?」
「…ん。いいかな、って。薬研さんは、どう思いますか?」
「…そうですね、僕もお客様によく似合っていてとても良いと思います。」
女は瞳を輝かせると、睫毛を震えさせながら小さなく頷いた。
「こちらに決められますか?」
「いや、あの。薬研さんに選んで貰ったもの、試したくて。」
「ふふ、かしこまりました。」
女はもじもじとして首を竦めた。女が纏う匂いが少し濃くなったように思ったのは、体温が上がったからであろうか。そんなことを思いながら、俺はリムーバーを手にして、女の瞼に手を伸ばす。化粧を落とすのも、自分の手でアイシャドウを塗り重ねるのにも慣れている。けれど、この女にそれを施すのは不思議な高揚感があった。この女の全てが自分の思いのままになった気がする。俺の思いひとつで瞼に乗せられた色を消し去るのも自由、この女をどう飾るかも俺次第。腹の底から熱いものが込み上げるような心地を覚えて、自嘲した。
「お客様は、学生の頃は結構大人しかったんですか?」
「え、」
「お肌がとても白くて綺麗なので。」
「…ぁ、いや。そんな。元からあまり日に焼けないんだ、です。」
女の細い首筋が一瞬震えたように見えた。
「そうなんですね。それじゃあ…」
真っ新になった瞼のキャンバスに下地を再び塗って、色をまた重ねていく。それはちょうど、俺が嘘や罠を重ねるのと同じように。
「サークルは文芸部、いや…茶道をやっていたりされましたか?」
「あ、そう…です。何でわかったんですか。」
女は驚いたような声色になった。
「僕、人を見る目には結構自信があるんです。職業柄…というのもあるかな。」
「すごい…ですね。」
「ふふ、まだまだこんなものじゃないですよ。」
左右で印象が変わらないようにグラデーションを揃えながら、更に目元を飾っていく。澄んだ瞳は瞼の中に隠されたままなのに、女の顔は既にもう華やかなさを放っていた。
「山姥切さんには、ご兄弟…お兄さんがいらっしゃいますよね。」
「え、あ、はい。」
「恐らくそんなに歳は離れていない…3、
4…5歳以上は離れていないかな。」
「上の兄とは4つ離れていて、下の兄とは3つ離れてるんだ…何でわかるんだ?」
女はよっぽど興奮してしまったらしい。今まで普通に装っていたはずの男のような口調が隠せなくなっていた。
「驚きましたか?」
「ああ…。」
これはそんなに難しいことじゃない。ちょっとしたコツさえ掴めば、誰にでもできるインチキだ。まるで相手を掌握したかのように錯覚させるまやかし。それは相手をよく観察すること、ただそれだけ。後はそれを口にする言い回しにちょっと工夫を加えればいい。俺は女の瞼の上にハイライトを乗せながら、唇を歪めた。
「お客様のお名前も、もしかしたら当てられるかもしれませんね。」
「え、嘘。」
勿論嘘だ。分かりっこない。ただ、これもわかる時はある。例えば身につけているものの中にアルファベットのモチーフがある時は賭けの勝率は大きく上がる。ただ、この女は名前の特定できそうなものは何一つとして身につけていなかった。
「その前に。仕上がりを見て頂けますか?どうぞ、鏡をご覧になってみてください。」
女は少し残念そうに眉を下げると、目を開いた。鏡に映った自身を見た瞳は眩く輝き、プリズムまでもが拡散しているかのように煌めいている。
「わ…これ、俺…?」
「ふふ、自分じゃないみたいでびっくりしますよね。」
ごく自然に目を細めたのは、女の反応が初心で愛らしかったからかもしれない。
「あ、そう、だ。俺の名前。」
「実は。お名前を当てるのはあまり得意じゃないんです。まだ練習している途中で…。お客様があんまり喜んでくださるもので、つい大きく出てしまいました。」
俺は申し訳なさそうに、肩を竦めながら力無く笑った。試供品のパレットを閉じて、静かにカウンターへ置く。
「俺、俺は山姥切って言います。珍しい苗字だから…きっと当てるのは難しかったと思う。」
俺を見上げる女の目は、何かを訴えかけるかのようだった。必死さ、それとも俺の擁護か?いや、自分の感じた高揚を台無しにしたくない防衛反応か。多分、どれも違う。女が見つめる俺の姿は、澄んでいて煌めいていたから。
「山姥切さん…。確かに珍しい苗字ですね。」
俺はそっと、山姥切の瞳を覗き込むように彼女を見た。山姥切は一層目を輝かせて、俺を見つめている。ああ、そんなに純粋じゃ、心配になってしまう。俺はあんたが期待するみたいな、いい人でもすごい人でも何でも無いんだよ。
「どうですか?こちらのパレット、気に入られたように見えたのですが。」
「…ぁ、はい。可愛い、です。これ…。」
山姥切はハッとしたように身体を跳ねさせると、今までの前のめりな姿勢を解いた。語尾が小さく萎んでいく様子に、どことなく罪悪感を覚える。強引に話を戻したのが、彼女の幼く綺麗な夢を、大人気なく汚れた自分が踏み潰したように思えた。
「あと一つ候補のパレットが残っていますが…こちらも試されますか?」
「はい。やって欲しい…です。」
「かしこまりました。」
俺は擦れて汚れた大人らしく、品のいい笑顔を浮かべた。それに反して、リムーバーを手にした指先は冷たく強張っていた。けれどそんなことを山姥切は知るはずもない。知らなくていい。俺は閉じられた真珠のような瞼にそっとリムーバーを乗せ、女を飾る化粧を溶かした。
◇
山姥切は、結局俺が選んできたパレットの二つのうち片方を選んだ。俺が二番目に彼女に化粧をしたパレットだ。元より、山姥切の気を引く為に会話を誘導したのは俺だ。それを自らの感傷で不自然に断ち切ってしまったせいで、山姥切は一瞬気を落としてしまった。それでも何とか持ち直して、会話をした後、俺と山姥切はレジに向かった。時間が過ぎ去るのはあっという間だった。山姥切から金を受け取り、釣りを出す。
「薬研さん、あの…聞いてもいいですか。」
山姥切はもじもじとしながら話を切り出した。俺はショッピングバッグを山姥切へ差し出して返事を返す。
「はい。何でしょうか。」
「俺…俺、またここに来てもいいですか。」
「…ぁ。」
山姥切が続けた言葉が意外で、思わず口から空気が漏れた。
「…ええ、勿論です。いつでもお待ちしておりますよ。」
「あの。」
「はい。」
「あの、俺。下の名前、国広って言うんだ。」
「国広さん。」
山姥切はおずおずと俺から買ったものを受け取り、胸に抱いた。山姥切国広、あまり女にはつけない名前だ。どこか懐かしく、安心するようなその不思議な響きに、俺は惚けるような心地を覚えた。
「なんだか…薬研、さんの前では、本当の自分で居ていいような気がする。」
「それは…恐縮です。」
「では。」
山姥切は俺に背を向けた。また行ってしまう。やっと名前を知ったのに、次はいつ会える?次あんたの笑顔が見られるまでどれくらい待ったらいい?頭の中に幾つもそんな弱気が浮かんで、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「山姥切、さん。」
「ん、」
咄嗟に、俺は唇を動かしてしまっていた。麦色の髪がたなびいて、翡翠の瞳が俺を見る。
「少しだけ、30秒だけ、お時間頂けますか。」
「…はい、大丈夫です。」
俺は礼を述べて、名刺を一枚取り出した。そして名前の下に、自分の携帯番号を記した。仕事用のものじゃない、私用の番号を。最後にこの番号を自分から書いたのはいつだったろう。番号を覚えていたことすら奇跡だ。
「お待たせ致しました。これ、また貰って頂けませんか。」
俺が差し出した名刺を、山姥切は素直に受け取った。
「下に書いたのは、私の電話番号です。もし何か困ったことがあれば…いつでもご連絡下さい。スキンケアでも、化粧品のことでも、何でもお力になれれば。」
「これは、親切に。ありがとうございます。」
山姥切は目を細めて微笑んだ。そして俺の名刺を大事そうに鞄へ入れると、軽く会釈をした後に背を向け、店の外の雑踏に飲み込まれて行った。俺は山姥切の後に続いて店と通路との境界まで出て行って、山姥切を見送った。丁寧な店員を演出してその実、山姥切の後ろ姿を恋しく見つめている。山姥切国広、男のような名をした女。花が開くように笑う女。やっとあんたの名前を知ることができた。俺は熱くなるような頬を手の甲で掠めて、店の中に戻った。いつもと変わらないはずなのに、どこか胸がそわそわとして、何かが物足りないような心地がする。それを誤魔化すように、不必要にディスプレイを弄り回していたら、ニヤニヤとした姫鶴が近づいてきた。
「さっきのやぁくん、面白かったなぁ。」
「…何がだよ。」
「ふふ、強がっちゃってさぁ?あの子から連絡先聞かれると思ってたんでしょ。」
「…。」
俺は眉根を寄せて、姫鶴に背を向けた。こういう時に限って、店の中に客が入って来ない。
「初めてじゃない?やぁくんが自分から連絡先教えたの。」
「さぁな。いちいち覚えてねえよ。」
俺は店が落ち着いてから開けようと思っていたダンボールを引っ張り出してきて、そこにカッターを入れた。
「あの子、かぁいいね。何にも知らないってカンジ。でも全部知ってるって感じもする。汚れてなくて、綺麗で、かぁいいね。」
姫鶴の言葉に、俺は手を止めた。
「随分ポエミーだな。」
「やぁくんが直接的過ぎるだけだよ。」
「あっそ。」
山姥切は、俺に電話をかけるてくれるだろうか。風が吹くはずもないのに、何処からともなくひやりとして心地のいい風が、冷房とは違う澄んだ冷たい風が吹いたような気がして、俺は頬を緩めた。