山姥切と初めて会った日、鶴丸は山姥切を俺に舞い降りた天使だと形容した。今となって考えると、それもあながち間違いではなかったかもしれない。
◇
山姥切と出会ってから気づけば2年ほど経っていた。俺の初めてのヒット作、『俺ん家のエロすぎる無表情エルフメイドをどうにかしてくれないか』通称えるどうはアニメ化が決まった。毎度頭を悩ませられるお色気や、恋愛要素を増やしたことが功を奏したのだ。巻数は8巻に届き、発行部数も伸びて毎月の貯金額が少しだけ増えた。全ては順調、なのだろう。そう全く思えないのは2年もこの女と居るというのに、いつまでも振り回されているままであるからだ。それは恐らく…俺がこの女に好意を抱いているらしいと自覚したからという原因も関係しているだろう。誠に遺憾である。しかし、だから何だというのだ。俺はそれをあいつに告げる気はなかった。言ってどうなる?あの女が作る飯は嫌いじゃない。あの女がただこの部屋にいる時間がもはや当たり前だ。無闇にそれを壊すくらいなら、何もしないほうがいい。
エアコンの稼働音は、もはや血液を運ぶ流動音、生命活動の音とも言える。俺はそれを聞きながら微睡に目を薄めた。夏を迎えるともはや扇風機で暑さを凌げない熱帯、東京ではエアコンが必需品だ。
「カラチャン先生、お昼寝もいいが。今日は修正を貰った所を直すのではなかったか。」
ハスキーボイスの割には瑞々しく甘い女の声に眉を顰める。声の主、山姥切の手には昼食に使われた皿が2枚あった。
「…俺はやらないとは言っていない。」
「ふむ。それは失礼。」
山姥切は尻をぷりぷりとさせて台所に消えた。二年経っても相変わらずセクハラ紛いなスカートの丈の短さは変わらない。そして未だ鶴丸の会社はこのコスプレじみた制服を正式に採用していない。一度鶴丸に聞いたのだが、まだモニターを継続しているからなのだそうだ。適当なことばかり言う。ため息をついて俺はパソコンに向かった。それから間も無くして玄関先でインターホンが鳴る。
「山姥切、」
「ああ、分かっている。」
ドアが開かれると、すぐに聞き覚えのある声が聞こえてきた。この男はいつも急に現れる。鶴丸国永、俺の叔父である。
「いよ、」
「帰れ。」
リビングに胡座をかいたまま言葉を返すと、ジタバタと暴れる音が聞こえた。
「あーん、一言目がそれかよ!冷たいなぁ加羅坊は。この炎天下の中ならむしろ冷たくするのは優しさか?ね、国広ちゃん。」
「社長、あまりドアを開けていると虫が入る。話をするならとりあえず中に入ってくれないか。」
「何だよ、二人揃って冷たいんだから。ほいほい、っと。」
扉が閉まる音を聞いて、俺はため息を吐いた。何だかこの状況には既視感がある。パソコンを閉じて、前髪をかき上げた。苛ついている時に俺がする癖らしい。いつか山姥切から聞いた。
◇
鶴丸の話は突拍子もないものだった。
「旅行…?」
「うん、そうそう。俺の代わりに行ってきてくれないか?」
鶴丸は出されたグラスを飲み干し、満足そうに息を吐いた。山姥切はと言うと、全く自分が当事者であると知らない顔で何を考えているのかわからない顔をしている。
鶴丸の話はこうだ。横の繋がりで経営者の知り合いから温泉地の旅館の宿泊券を貰ったらしい。滞在期間は一週間、泊まれる人数は2人、部屋のグレードはスイート。何でも、日頃世話になっている礼に、と愛人や女と一緒にでも羽を伸ばしてくればいい、ということで譲られたらしい。けれど、こいつに愛人なんていうものはなく、あるのは仕事のみ。ちょうど宿泊期間にも接待や打ち合わせ、外せない仕事が並んでいるとのことだった。
「なんで俺なんだ。別に…それをくれてやるくらい、誰だっていいだろ。」
「よくないだろ!この機会に味を占めて俺にタカるようになるかもしれない!俺は人をダメにしてしまうじゃないか!?」
「自業自得だろ。」
俺は眉を顰めて鶴丸と共に出された麦茶に口をつけた。溶けた氷が落ちて、カランと心地のいい音を立てる。俺自身が鶴丸の頼みを聞くことに問題はない。ない…訳ではないが、こいつの無茶を呑むのは慣れている。しかし、俺がそれをすると困るのは山姥切だろう。仕事に支障が出ることは避けられない。
「加羅坊、お前考えてみろよ。お前は興味ないかもしれないぜ?でも国広ちゃんはどうだ。」
「俺…?」
「国広ちゃんは行きたいんじゃないか?この宿は近くに海もあってな、部屋の窓からは海が綺麗に見えるんだ。ほら、見ろこの写真。凄いだろう?」
鶴丸は持ってきたパンフレットを広げて見せた。山姥切は目を輝かせるようにしてそれを見つめ、感嘆の息を吐いている。
「綺麗だ…。見てみたい。」
「うんうん、だろ?」
「でも…。でも俺、カラチャン先生と一緒に行っても仕事が出来ない。宿に居るなら、俺の仕事は無い。俺は要らない。」
山姥切は目を伏せて俯いた。いつも無意味に跳ね回っているアホ毛まで下を向いている。俺はその様が痛々しく思えて、鶴丸に断る言葉を告げようとした。
「なーんだ、そんなこと気にしてるのか。はっは、そんなの簡単だ。国広ちゃんが有給を使えばいいじゃないか。」
「な、」
開いた口が塞がらない俺の傍らで、山姥切は首を傾げている。
「だってまだ一度も使ってないだろ。」
俺は勝手に話を進める鶴丸と国広との顔を交互に見比べる。一度も有給を使っていない、その事実にも驚いたが、今はそのことに構っている暇はない。
「そんなことに休みを使うな。」
「えー、だって。休みなら何したっていいじゃないか。な?」
山姥切を見ると、あいつはただ瞬きを繰り返しているばかりだ。
「大体…。有給を使ってまで俺に同行する意味はないだろ。仕事じゃないなら、わざわざ俺に付き合う必要がない。」
息を呑む音がして山姥切を見ると、心なしか表情が更に曇っている気がした。
「あ、そんなこと言っちゃうのか加羅坊。嫌だな、これだから女の子を分かってない男っていうのは…。」
「はあ?」
鶴丸の呆れたような態度に苛立ちが燻る。
「難しく考えるなよ。大体、加羅坊。君はこの旅行に誘う相手が居るのか?居ないだろ?それに君は客室のもてなしにも料理にも関心がない。」
珍しく鶴丸の声色に冷たさを感じて、身構えた。こんな鶴丸は久しく見ていない。俺が非行に走ろうとした愚かな青春時代に一度見たきりだ。
「俺はこれをくれた相手に何と感想を伝えればいいんだ?何も言えやしない、君は土産話の一つだって持ってきてくれないんだから。」
空気が重くなって、渇いた喉を飲んだ。威圧感に呑まれるままに目線を下げると、急にコロリと声色を変えられる。変に明るく、嫌に優しい詐欺師のようなトーンだ。
「それが国広ちゃんが居れば、ことは全部丸く収まるんだ。国広ちゃんは気になるだろ?ここの料理、美味そうだぜ?ほら、夕食のメニュー見てみろよ。松阪牛のステーキだってさ、うーんいいね。本当なら俺が行きたかったよ。」
「社長…。」
山姥切に見せた鶴丸の微笑みは、幼い頃の俺に向けたようなそれだった。なぜそんな顔をする?戸惑って心臓のリズムが狂う。
「仕事のことは考えなくていい。国広ちゃんが行きたいかどうかだけ聞かせてくれよ」
「あ…俺…。」
恐る恐る山姥切は俺を見上げた。その瞳は潤んでいて、どこか頬も熱を帯びているように思える。その意味が分かるような、分からないような気がして、俺まで瞳に熱が移ってしまった。山姥切は俺には何も言わずに俺から目を逸らして、ふるふると震えながら睫毛を伏せた。
「俺…行きたい。カラチャン先生と一緒に…ここに行きたい。」
「ッ……。」
蚊の鳴くような声に、俺は息を呑んだ。濁流のような衝動が雪崩れ込んできて、何も言えない。口を開けば、気を抜いてしまえば、無意味に山姥切を掻き抱いてしまいそうだった。
「ふーん、ほら。聞いてたか?加羅坊。国広ちゃんは行きたいんだって。加羅坊だってなあ、取材旅行?ってやつ?だと思えばいいだろ。外を歩いた方が驚きの、面白いネタと出会えるかもしれないぜ?」
「……。」
無言で鶴丸と睨み合う。何処かうまく丸め込まれた気がしてならない。先程威圧感を出してきたのは何だったのか。鶴丸はいつも通りにヘラヘラとした顔で俺を見ていた。どこからどこまでが鶴丸の思惑なのか分からない。昔からそうだ。もうとうに、それに抗うのも真相を解き明かすのも諦めた。
「あんたに。山姥切に不都合が無いなら、構わん。付いてくるなら好きにしろ。」
山姥切は驚いたように俺を見上げて、唇をはくはくと動かしている。その幼気な隙間に衝動が煽られて、俺はそっぽを向いた。
「おお〜、よかったな国広ちゃん。加羅坊、一緒に旅行に行きたいってさ。」
「本当に…?」
「ほんとほんと、なあ加羅坊。」
俺は舌打ちをして頭を掻いた。山姥切が俺に幸運をもたらす天使ならば、鶴丸は一体何なのだろうか。山姥切を連れてきたのはこいつだ。ならば天使か?いや、断じてそれはない。なら試練を与える神?試練を乗り越えれば加護を与えてくれる、乗り越えられなければ与えられるのは…。俺は馬鹿なことを考えながら麦茶のグラスを手に取った。グラスを伝った水滴で机は僅かに濡れている。俺はそれを指で拭って、どこか浮き立つような気持ちを収めようとした。