片側のオレンジは愛を知っている。運命の出会いと言っていいのかわからないが。初めて本心から可愛いと思ったあの女は、あれから店に来ていない。俺はサンタクロースの存在を未だ信じているガキが、12月のカレンダーを日々眺めるかのようにして、大抵の新卒がはじめての給料を貰う日を、その週の休日を待っていた。今思い返すと馬鹿らしい。
ゴールデンウィークも過ぎた店内は、冷房をつけていないと蒸し暑くなった。出来れば開店作業のあるシフトには入りたくない。俺は今日までに適当にマッチングアプリで繋がった女を二人抱いて、大人しそうで聞き分けの良さそうな客の女を一人抱いた。アプリで会った女は連絡先を消したし、客の女の方はそれとなく適当にあしらっている。平日のシフトは客の入りが穏やかなせいで余計なことを考えるから気が重い。
「やぁくんさ、最近機嫌悪い?」
「なんで。別に。」
同僚の姫鶴に急に痛いところを突かれて、俺はむくれた。
「えーだって。お客さん居ないと顔怖いしぃ。」
「あんたの方が黙ってる時よっぽど怖ぇよ。」
「おれって美人だもんねぇ。」
姫鶴の人をおちょくるような返答に眉根を寄せて、俺は奴に背を向けた。俺と姫鶴の良好とも不仲ともつかない会話など知らない客は呑気に店の中へと足を踏み入れる。それに入店の挨拶を口にして嘘くさい笑顔を作り、不必要にディスプレイを弄り回した。今さっき来た二人組の女子大生らしき客は、何も買わないだろう。何かを買いに来た客とただ見に来ただけの客は案外違って見える。思っていた通りに、その二人は店内を軽く見て周るとすぐに店の外へ出て行った。折角姫鶴から逃れられると思ったのに。
「初対面なのにいきなりリップ贈られるとか重すぎじゃん?しかも高い奴とか〜。」
「……うっせえ言うな。」
「あーあ、おれも夏の新作リップ欲しいなぁ。やぁくんおれにも買ってよ。」
「…あんたのが稼いでるだろ。」
「そんなことあるけどぉ。人に買って貰う、ってのがいいの。」
「そういうもんか。」
「そうだよ、女の子食い散らかしてる割には分かってないんだね?やぁくん。」
俺は舌打ちをして、姫鶴から逃げた。あいつからあの女について茶化されるのはこれが初めてではない。顔を合わせる度になんやかんやと言われるのだからたまったものじゃない。気を取り直そうと、行き交う客に意識を向けた。そこでふ、と一際目立つ人物を見かける。あの女だ。
「いらっしゃいませ。」
こちらへやってくるあの女に、俺は微笑みを浮かべた。
「あ、えと、薬研さん。」
「はい。また来てくれたんですね、嬉しいです。」
女は気恥ずかしそうに俯いた。ネイビーのジーンズとフレア袖の短めなトップス、私服はラフな装いらしい。随分見違えた。何も知らなかったメイクもそこそこ手慣れたようだ。唇には俺がこの女に贈ったであろうあの色が塗られていて、口の端が上がってしまう。
「今日はどういったものをお探しですか。」
「えと…かわいい…アイシャドウ、欲しくて…。」
俺は女を店の中まで誘導しながら、目を細めた。健気にも俺が言ったことをずっと覚えていて、今日はわざわざそれを果たしにきたらしい。可愛いことをしてくれる。
「先日のお約束、覚えててくださったんですね。私がお客様と一緒に探させて頂きたいと言ったこと…。ふふ、嬉しいです。」
女は驚いたような顔をして俺を見ると、すぐに目を伏せた。目頭に塗られたハイライトがキラキラと瞬いて眩しい。
「あ、俺…私、もう忘れられてるかと思って、迷惑かと思った…んですけど。」
「いえ、迷惑だなんてとんでもないです。」
そっと甘く囁くように、女に言葉をかける。女は一瞬だけ瞳を輝かせて俺を見た。まるでに嬉しいとでも言うような瞳。そんな反応をされると嬉しくなってしまう。自分の罠が上手く機能したことを知らされると、気が急いてしまっていけない。
「ちょうど今人気のパレットが数少なくなってきていまして…。今がお買い得ですよ。」
俺はちょうど辿り着いたアイシャドウのディスプレイを大げさに示した。嘘は言っていない。
「そう…なんですね。どれがいい…のか。」
「沢山あって迷いますよね。」
「俺にはどれが自分に合うのかとか、まだよくわからなくて…。」
「そう、ですね…。でしたら、まずは可愛いと思われたパレットを手に取ってください。色や似合う、似合わないは関係なく、ただ可愛いと思ったものを選べばいいんです。」
メイクの知識が少ないにしても、可愛いといった尺度で物を選ぶことはできるだろう。女が身に付けている小花が散りばめられたシースルー生地のトップスにちらりと目をやって、視線を戻す。
「幾つか候補が決まったら、教えてください。私も別で選ばせて頂きます。お時間があればまた実際にメイクをさせて頂いて、そこでどれを購入するか決める…という形は如何ですか。」
女は従順に頷いて、俺の提案に了承した。
「それでは、ごゆっくりご覧ください。」
我ながら、よく磨かれた営業スマイルだと思う。客の心の隙に忍び込み、安心感を与える。目の前の女も例外でなく、つられたように俺に微笑み返した。けれどこの女のそれと俺のそれとを同列に扱うことは正しくない。彼女の笑みは、純粋で美しいものであるから。相変わらず花が咲くように笑う女だ。俺はどこか胸が苦しくなって、彼女に背を向けた。