彷徨アシュくんをきれいにする話 旦那は美しい男だ。
繊細な美しさではないが、鍛えられた大柄な体と愛嬌のある顔立ちをしている。鎧姿の時も美しいが、今のように三臨で着飾っている時も美しい。
その美しさの隣に在るべきではないのだ、『俺』は。
俺が立ち尽くす森は命に満ち溢れていた。近くの川からせせらぎが聞こえている。柔らかな風に木漏れ日は踊るように陰影を作り、鳥たちは姿を隠すことなく囀っていた。サルがのんびりと枝を渡っていく。木から滑り降りたリス達が地面を走り、苔むした岩に座っている『俺』の足元で立ち止まった。
「おいおい、これはおまえたちのものではないぞー」
『俺』の隣に座っているドゥリーヨダナがそう言いながら、食べかけのクロワッサンのかけらを地面に落とす。リス達が群がった。
「かわいいものだ、そう思うだろう? 『アシュヴァッターマン』」
「そいつには見えてねぇよ」
俺の言葉通りに、旦那の隣でうなだれるように座っている『俺』はぴくりとも反応しない。
そいつの足まで伸びた赤い髪は泥だけでなく汚れている。ほとんどボロ切れの服だったものから伸びている手足は膿んだ傷と爛れで元の肌の色が分からないほどだ。顔は浮腫み、額の傷から流れ続ける血でまだらに染まっている。脂だらけの目は白濁していてろくに見えはしなかった。
旦那がまた懲りずにクロワッサンをちぎる。そいつの口元に押し付けるが、かさついて割れた唇は開く様子がない。
困ったように肩をすくめて、旦那が離れて見ていた俺を振り返る。
「アシュヴァッターマン。わし様の代わりに水を持ってきてくれんか? わし様、動けんのだ」
「動けるだろ? 捕まえられているようには見えねぇ」
反論すると旦那は『俺』を見た。そして俺をもう一度見て。ため息をついて立ち上がる。
そのまま川の方へと歩き出した旦那に、『俺』はつられたように立ち上がった。旦那の後を追い、早足で数歩進み、崩れるように地面に倒れ込む。病に侵された足では力が入らないのだ。
ゆるゆるともがく『俺』に旦那が戻ってくる。助け起こそうと手を掴むと悲鳴が上がった。
悲鳴といっても枯れきった喉があげる音に過ぎない。
でも、それは旦那が手を離すには充分だった。
「そんなにも痛いのか?」
眉を寄せた旦那に俺は吐き捨てる。
「幻に触れられて怖ぇんだよ」
インドに出来たこの微小特異点はそれほど古い年代のものではない。
危険度も低く、森の浅いところではまだマスター達がピクニックをしているはずだ。
地元に近いからと誘われた俺と旦那だが、俺がマスター達の手伝いをしている間に気がつけば旦那が居なくなっていた。
元より準備とか訓練とかが嫌いな旦那だ。どうせ途中でいなくなるだろうと思っていた俺はピクニックが始まってから旦那を探しに森に深く分け入り、──そして『俺』の隣に座る旦那をみつけたのだ。
「なるほど、では痛いわけではないのだな」
地面に這いずる『俺』の前で旦那が頷いてる。嫌な予感がして止めるより早く、旦那が『俺』を抱き上げた。
先程のものよりひどい絶叫が上がるが、それはヒュヒューと喉が鳴るだけで旦那にはそよ風のようなものだろう。恐慌を起こして暴れている手足もそれは同じ。旦那の長い髪が多少揺れたが、それだけだ。
旦那が余裕たっぷりに笑う。
「暴れるな、暴れるな。──おまえちょっと汚れすぎだぞぉ。わし様の臣下なのだから身だしなみはきちんとしてもらわないとなー」
言葉通りに川に向かう旦那の後を俺はついていく。
止めたところで止まる人ではない。
あれは痛みがないのではなく、痛みを感じられないほど正気を失っているのだと自分の口からは言えなかった。
視界が開けて、森が途切れる。歩いて渡れる程度の小さな川はそれほど深そうではない。
観念したのか、明るくなった事に驚いたのか大人しくなった『俺』を川に放り込むのかと思えば、旦那は『俺』を抱いたまま川に入っていく。
「旦那っ、俺がやるから!」
だから岸に戻ってくれと言えば、汚れることを嫌う旦那が嬉しそうに笑った。
「手伝ってくれるのか、アシュヴァッターマン!!」
戻る気はなさそうな旦那は川底に腰を下ろす。座り込んだ旦那の胸のあたりまで水に浸かった。
抱え込んでいた『俺』を背中から抱き込んで、旦那はくん、と鼻を鳴らした。
「──まずはこの髪をなんとかするぞ」
「洗ったところでまた汚れるだけだぜ」
「それはわし様たちも同じだっただろう?」
言いながら旦那の手は水をすくい汚れた髪にかけていく。『俺』は旦那のされるがまま、ただ視線だけでその動きを追っていた。
水音を立てて近づいた俺を振り返ることすらしない『俺』の側で、俺も川の中に腰を下ろす。日差しに少し温められた水が俺達を包んでいた。
ぱしゃぱしゃと軽い水音が連なる。
しばらくふたりで髪をほぐし泥を取り除いていると、旦那が大きなため息をついた。
「いかんなー。近代文明に慣れるとシャンプーが欲しくなる。昔はわし様どうやって沐浴していたの?」
後半は横に座っている俺に向かって首を傾げるが、俺も今では石鹸のない生活など耐えられない。
「アシュヴァッターマン。おまえ、ひとっ走りカルデアに帰ってわし様の入浴道具一式持ってきて来んか?」
「持ってきてもいいけどよぉ。…この時代に界面活性剤を川に流すのはアウトだろ?」
「アウトかー」
「地道にやるしかねぇってことだ」
結論に旦那が唸った。それでもやめようとは言わずまだ泥がこびりついている長い髪をひっぱり、不意に顔を輝かせる。
「わし様ひらめいた!」
「却下!」
どうせろくでもない事だろうと即座に制止すると旦那は子供のように唇を尖らせた。
「おまえ、マスターに似てきたな。──まあ聞け、わし様の素晴らしいアイデアを」
「まあ、聞くだけなら」
手を止めずに言うと、旦那は水に投げ出されたままの『俺』の手を持ち上げた。
「自助努力という言葉がある。自分の事は自分でしてもらおうではないか!」
無理だ、という言葉を俺は飲み込んだ。
この頃の俺は耳も塞がっていてよく聞こえない、目もろくに見えない。手の指だって節が変形してよく動かない、意識だってはっきりしていなかった。
そんな人間に何かが出来るはずがない。
だというのに旦那は『俺』の手に自分の手を重ね合わせた。まだ絡んでいる赤く長い髪に『俺』の手を添える。
「こうやって、動かす。もう一度やるぞ、こう」
無理やり髪を梳かせても旦那の手が離れれば『俺』の手は水に落ちてしまう。旦那は文句も言わず、その手をまた取った。
「こうやって上から下、上から下、」
また『俺』の手が水に落ちる。旦那はその手をまた取った。動きを再開する。
見ていられなくて髪をほぐすのに集中する。それでも繰り返される旦那の声と、手が水に落ちる音は終わらない。
俺が片側全ての髪をほぐし終わった頃、旦那が歓声をあげた。
「出来たではないかーっ!!」
乱暴に頭を撫でられている『俺』は、おぼつかない動きで髪を上から下へと撫でている。
正直、それは梳いているとは言えたもんじゃなかったが、旦那が教えた動きを再現していることには間違いなかった。
「さすが、わし様のアシュヴァッターマン!!」
大喜びしている旦那の手元を見て、俺はため息をついた。
「で、旦那。どれほど進んだんだ?」
俺が綺麗にした片側の髪に比べて旦那が受け持っていたはずの髪はほとんど手つかずだった。
その後3人?がかりで髪を洗い終え、旦那は『俺』を立ち上がらせた。
「危ないからなー。手はこっちだ」
意味が分からずまだ髪を撫でている『俺』の両手を旦那が掴む。そして俺を見た。
「よぉし、アシュヴァッターマン! やってくれ!!」
「何をだ?」
聞き返すと、旦那はわざとらしくまばたきした。
「分かりきっておるだろ。このボロ布。体を洗うのに邪魔だ」
「斬れってか? まあ、あってもなくても同じだな」
旦那の正面にまわりこむと、『俺』の背中が見える。やせ細った小さな背中だ。綺麗になった長い髪をかき分けて、ボロ布の端を掴む。色褪せて汚れた生地に『あの時』自分が着ていた服を思い出した。
腕のブレードを当てる。元より擦り切れほつれていた布は切れ目さえ入れれば簡単に裂けた。
『俺』はじっとしている。多分、自分を捕まえている旦那を見ている。触れてくる幻に魅入っている。
だって、旦那は死んだ。太腿と顔を潰されて、俺の腕の中で息絶えた。
だから再会などあるはずがないのだ。
むき出しになった体は傷や爛れだけではなく、ところどころ不自然に膨れ上がり変形していた。
それは旦那からも見えているはずなのに、旦那はそれには何も言わず『俺』を水の中に座らせる。
「自分で体は洗えるか? ──そうか無理か。ならじっとしておれ」
声をかけて、旦那は俺の体に水をかける。
「痛くないか?」
「痛くねぇよ」
俺が代わりに答えると旦那は少し笑う。
痛いはずがない。例え幻でも旦那がしてくれることならば痛みなど感じるはずがない。
旦那の手が『俺』の肌をそっと拭う。膿を流し、傷口をすすぐ。『俺』はじっとそれを見ている。
紫の瞳に目線で促されて俺も『俺』の体を洗う。覚えのある傷口を流し、かゆみを覚えていた箇所を擦る。
ふたりして洗っていると『俺』の手が動いた。髪を撫でる。上から下。上から下へと。
「──よく覚えたな。今度からは自分でするんだぞ」
『俺』の顔を覗き込んだ旦那の表情は見えない。
ただその声色に俺の視界が少し滲んだ。
長く伸びた髪に比べれば体は洗いやすい。そこそこ時間は掛かったが綺麗になった『俺』を旦那は再び立たせた。
真っ裸の『俺』の前で、旦那は自分のクルタに手をかける。濡れて張り付いていたそれをなんとか脱ぎ。
「ほら、腕を通せ」
くたりとしたクルタにやせ細った腕をなんとか通して、服を留め。旦那は満足したように頷く。
「うむ。わし様ほどとは言わんがまあまあ似合っておる」
「似合ってなんかねぇ」
「うううん? 嫉妬というやつか?」
にまにまと笑う旦那から、そして旦那の服を着た『俺』から俺は視線をそらせた。
似合ってなかった。痩せて筋肉が落ちた体には大柄な旦那の服はぶかぶかだったし、綺麗になったからこそ目立つ傷跡だらけの体には優美な装飾が施された服はちぐはぐだ。
視線を巡らせて見上げた空は薄く色づき始めていた。夕暮れだ。マスター達のピクニックが終わる。
「──帰らねぇと」
俺の言葉に水音が返った。
振り向くと『俺』が旦那にしがみついていた。
ありえない動きに絶句している間に、旦那の表情が驚きから微笑みに変わる。
大きな手が赤い長い髪を撫でた。
「アシュヴァッターマン。わし様とておまえと一緒にいてやりたい。だが、わし様には大切な務めがあるのだ。──わし様がこうと決めたことを違えたことがあったか?」
『俺』は答えない。
俺は知っている。──答えは否、だ。
旦那の手に促されて、『俺』はゆるゆると旦那から離れた。その手を旦那が引く。
「岸までは一緒にいこう。その後は、わし様を見送る栄誉を授けてやるぞ」
そんな栄誉などいらない、
『俺』はそう思っただろうが大人しく旦那について歩き出した。俺もそれに続く。3人分の水音が繰り返されて。──すぐに終わってしまった。
岸に上がれば水を吸った服は重いだろう。ほぼ鎧だけの俺は先に地面を踏んだふたりを見た。
ぽたぽたと水滴をたらすふたりの足元は濡れていた。顔を見合わせているふたりの頬はすっかり乾いて、無表情の『俺』に旦那は笑いかけていた。
「では、達者で暮らせよ」
どこかそぐわない言葉をかけて、旦那は森へと向かう。俺はその後を追った。
森の中、一度だけ振り返る。夕暮れの中、『俺』はこちらを見つめたまま立ち尽くしていた。
■
──川辺に夜が来て、朝になって、昼が傾き、また夜が来る。それを何度か繰り返してやっと『彼』は動き出した。
真新しい服は柔らかくて暖かく、木の枝から彼を守ってくれる。清められた傷口に体が軽かった。
歩く。歩く。歩くことしか出来ないから歩く。時折思い出す。夜も朝も関係なく。歩く。歩く。何度も転び、何度も起き上がる。
そうして、気がつけば真新しかった服が重くざらざらしていた。
無目的に歩くのをやめて『彼』は水辺に向かった。水に浸かる。手を動かす。
髪を撫でる。上から下に。上から下に。
──幻でも、そうすれば大切なひとが喜んでくれたから。