『ヨダナさんが国を滅ぼす話』 懐かしい湯殿は少し傷んでいた。
一糸まとわぬドゥリーヨダナが椅子に腰掛けると下働きであろう少年がその体を洗い始める。数十人は使えるだろう広さの浴場にはドゥリーヨダナとその少年のふたりきりだった。
「他の者はどうした?」
「みな死にました」
その答えに、ふむ、とドゥリーヨダナは考え込む。
カルデアでいつものようにビーマと言い合いをしていたドゥリーヨダナが突然飛ばされたこの特異点は彼の生前のハスティナープルによく似ていた。
異なるのは大きな戦でもあったかのように荒廃しているところだろうか。
街中ひとり召喚されたドゥリーヨダナがとりあえず王宮を尋ねると門番は叫んだのだ。
──ドゥリーヨダナさまがお戻りになられました!!
歓喜の声と共に王への謁見の場へ連れて行かれそうになったドゥリーヨダナが、その前に身支度を整えたいと言うとこの湯殿に通されたのだ。
それは生前ドゥリーヨダナがよく使っていた湯殿だった。
少なくともこの指示を出した者はドゥリーヨダナをよく知っている。
王と言われてドゥリーヨダナが真っ先に思い浮かぶのは父たるドリタラーシュトラだが、ここまでの道中で見た王宮の内装は父の趣味ではない。もちろんドゥリーヨダナの趣味でもない。
華やかさが分からぬ者が無理に背伸びして飾っている、そんな印象を受けるものだった。
考え込んでいたドゥリーヨダナの体に下働きの少年がそっと泡を滑らせる。
「──その、痛くはないですか?」
ドゥリーヨダナは顔をしかめた。
「森育ちのゴリラが粗相をしただけだ、気にするな」
彼の貴き体には噛み跡や引っかき傷や青あざ、そして傷跡がいくつもある。そのどれもがただひとりにつけられたものだ。
不機嫌そうなドゥリーヨダナに少年は手を止めた。その視線がドゥリーヨダナの体に落ちる。
「──ああ、羨ましいな」
年老いた男のようなため息に気づかないふりをしてドゥリーヨダナは話を変えた。
「城下を見てきたが、街の半分以上は砕けていたな」
「神罰の星は多かったですから」
「──106人の国を救った王子たち、か」
街中で歌われていた英雄譚を指摘すると少年の顔が泣き出しそうに歪んだ。
「人間を減らすために神罰を与えると神々が決定を下した時、おまえだけが諦めなかった。動かない者を殴り倒し、嘆く者を蹴っ飛ばし、軍を再編し、神々に抗った。──死にたくないと叫びながら」
「そんな勝手な理由で殺されてたまるか」
ドゥリーヨダナの言葉に少年は懐かしそうに笑う。
「それに同意したからこそ。カルナとアルジュナが弓を並べ。ユディシュティラたちが声の限りに神罰に反対する神々のマントラを唱え、百王子が民を誘導したんだ」
「ビーマは何をしておったのだ?」
「お、──ビーマセーナはカルナとアルジュナが砕いた星の欠片が降ってくるのを弾いて出来るだけ遠くに飛ばす役目だった。ドゥリーヨダナと一緒に」
「それで王宮は比較的無事だったわけか」
ドゥリーヨダナが腕をあげると少年は思い出したようにそこに泡をこすりつける。その拙さに目を細めてドゥリーヨダナは問いかける。
「で? 何人が死んだ?」
少年が顔を上げる。紫色の瞳がぽっかりと開いた。
「みな死にました。──ひとりを除いて」
■
謁見の間は閑散としていた。と、言ってもドゥリーヨダナの生前と比べてのものなので。今のクル国としては十数人の大臣が並んでいるのは賑わっている方かもしれない。
玉座は空で身支度を整えたドゥリーヨダナが立ち止まると同時に楽士たちが勇壮な音楽を奏で始める。
頭を下げる謂れのないドゥリーヨダナが立ったままでいると、湯殿にいた少年が入ってきた。玉座の前に立つ。その姿が揺らいで変わった。
「──驚かねぇんだな?」
見覚えのある王冠を被ったビーマセーナの言葉にドゥリーヨダナは呆れたように首を振った。
「おまえの体の洗い方は下手なのだ」
「──そっちの俺も、ということか」
玉座に腰を降ろしたビーマが手を動かすと、豪奢な椅子が運び込まれる。当然のようにドゥリーヨダナがそれに座ったのを確認してビーマ王は口を開いた。
「見ての通り俺は王をやっている。──みんな死んじまったからな」
「ここのわし様はどうした?」
「行方不明だ。少なくとも死体は見つかっていねぇ。──が、聖杯にドゥリーヨダナを連れてこいと願ったらおまえが来た」
このビーマ王はドゥリーヨダナがこの世界のドゥリーヨダナではないとちゃんと認識している。
万能の聖杯が違う世界からドゥリーヨダナを連れてきたということは、この世界のドゥリーヨダナはもうどこを探してもいないという事なのだ。
ドゥリーヨダナは首を傾げた。
「なんでわし様を喚んだのだ? 荒廃したとはいえ生き残った民を統べて王になったのだろう? パーンダヴァの悲願ではないか」
「他に誰もいなかったからだっ!!」
ビーマ王の叫びにドゥリーヨダナは大げさに顔を歪めた。
「おまえ、それをわし様の前で言うのか?」
王になる為に何度も従兄弟を排除しようとし大きな戦まで起こした男にビーマ王はひたりと視線を当てた。
「──そうだ、おまえは王になりたがっていた。死ぬのは嫌だとあんなに言っていたのに。…どうして?」
最後の方は視線を落として呟いたビーマ王にドゥリーヨダナは肩をすくめた。どうやらこの世界のドゥリーヨダナはなにかやらかしたらしい。
「わし様が『行方不明』になった時おまえはそこにいたのだな?」
ビーマ王が顔をあげる。それが答えだった。
「ふぅん」
ドゥリーヨダナは思考を巡らせる。降り注いだ砕けた星の威力は街の惨状を見るに爆撃にも等しいものだっただろう。それを打ち払うために駆け回る自分とビーマ。体力配分に慣れた自分とちがって、力任せのビーマは耐久戦などしたことがない。次第に注意力が散漫になり。──まあ、自分なら眼の前で死なれるくらいなら、代わりに死んでやるくらいはしただろう。
「大体の状況は分かった。──だが、おまえには関係がないではないか?」
並んでいた大臣たちが影絵のように揺らぐ。ビーマ王が目線を強めた。
「お前の生き死にが俺には関係ないと?」
「わし様の世界では、おまえは俺を殺したぞ?」
手段についてはドゥリーヨダナは明言しなかったが、ビーマ王の視線はその左足に注がれた。そこに大きな傷跡があるのを湯殿の少年は見ていたのだ。
唇を噛み締めて衝動を押し殺したビーマ王は玉座から立ち上がった。
「立ってくれ、ドゥリーヨダナ。──次の王はお前だ」
言われたドゥリーヨダナは改めてあたりを見回した。地味な装飾、傷ついた宮殿、半壊した街。それは生前ドゥリーヨダナが欲しかったものではない。が。
頭上にあった王冠を手に取ったビーマ王がゆっくりと歩いてくる。その表情を見て、ドゥリーヨダナは仕方なく立ち上がった。膝などつかない。
継承の儀など無視して立ったままのドゥリーヨダナにビーマ王は口の端を歪めた。
「あちらの俺は苦労してそうだな」
「わし様の知った事ではない。──あやつが勝手にしているだけだ」
顎をあげて子供のように言い張るドゥリーヨダナにビーマ王は苦笑を零した。
そんなビーマ王にドゥリーヨダナが片眉をあげる。
「おまえ、何年こんな事をしておったのだ?」
「──さあ、もう覚えてねぇよ。ほら、王冠だ。おまえずっと欲しがっていただろう?」
ふたりの距離が近づき、ビーマ王が王冠をドゥリーヨダナの頭の上に載せる。ドゥリーヨダナが満足げに笑った。
「ふふふ、これでこの国はわし様のものだな?」
「そうだ」
肯定するビーマにドゥリーヨダナは冷酷な顔で見返した。
「では、王たるわし様は宣言する。クル国はここで滅ぶ。──もう似合わん王などやらんでいいぞ」
ビーマの目が見開かれた。その輪郭がゆっくりと溶けていく。王宮の天井ががらがらと砕け落ち差し込んだ光が見る影もない荒れた床を照らし出した。大臣たちはすでにいない。先程までビーマが腰掛けていた玉座は横倒しに朽ちている。
聖杯にかけていた願いが打ち消され、廃墟に戻ったクル国はどこまでも静かだった。
「──ほんとうに、ひとりだけ生き残っておったのだな」
「俺は誰よりも頑丈で何でも食えた。──それだけだ」
人の気配のない街を見渡したドゥリーヨダナに消えかけているビーマは笑おうとして失敗した。
「悪ぃな。おまえが欲しがっていたものを守ることさえ俺には出来なかった」
「ハァ? わし様は欲しておらんが??」
ドゥリーヨダナの手が呆然とするビーマの頭を掴んで引き寄せる。
「わし様が欲しかったのは、富と権力と友と安全! こんな形だけの国などいらんわっ!」
至近距離で大声を浴びせられて、薄い色の瞳が瞬く。それがじわりと緩んだ。
「──そうか、俺が勝手にやっただけか」
「おまえはいつもそうだ! 独り善がりで! 自分勝手で!! 人の話を聞こうともしない!!」
「ふふふ」
自分の悪口を並べ立てるドゥリーヨダナに微笑んで、ビーマは手を伸ばした。王冠に触れる。
「それでも、おまえにコレを渡せた。──それだけで十分だ」
笑ったままのビーマの姿が溶けて消える。
ころり、とドゥリーヨダナの頭上から王冠だった聖杯が汚れた床に転げ落ちた。
「馬鹿者」
ドゥリーヨダナの呟きは静まり返った廃墟に落ちて、誰にも届かなかった。
■
「聖杯を拾って来たとはどういう事だ、このトンチキ」
カルデアに戻り事情聴取からやっと開放されたドゥリーヨダナを待っていたのは、彼が特異点に飛ばされる寸前に言い合いをしていたビーマだった。
その苛立っている様子にドゥリーヨダナは顔をしかめる。
「わし様は疲れておる。おまえとのくだらん口論の続きはまた今度だ」
「ん?」
何かに気づいたかのようにビーマが首を傾げ、次の瞬間にドゥリーヨダナの腕を掴んだ。
「行くぞ、食堂。──そんな顔を晒してんじゃねぇ。美味いものでも食わせてやる」
「ハァ!? いきなり何をっ!!」
ビーマが何を言い出したのか理解出来ないドゥリーヨダナを引きずってビーマはずんずんと歩き出す。
「待てビーマ!! 待てと言うに!! おいっ!人の話を聞け!! 馬鹿者ーっ!!」
理由もわからず抵抗するドゥリーヨダナに食堂の喧騒が近づいてきた。
特異点の廃墟となったクル国の静けさが脳裏に蘇る。
「──おまえは人に囲まれて間抜け面で料理でも作っておればいいのだ」
ドゥリーヨダナの呟きにビーマは一度振り返ったが、結局何も言わず歩みを早めた。
もうすぐ暖かい賑やかさがふたりを包むだろう。