いつも祝福に間に合わないアシュくんの話 長い紫の髪に美しい花びらが散っていた。
白、薄紅、黄色に真紅。色とりどりのそれは広がった旦那の髪を彩っている。
夜は深まりつつあった。
華やかな祝福は終わり、俺はいつも、──間に合わない。
◆
「遅参をお許しください」
夜半の宮殿でそう詫びた俺に旦那は鷹揚に微笑んだ。
「アシュヴァッターマン。熱は下がったのか?」
機嫌の良さを隠しもせず、旦那は俺の顔を覗き込む。
その長い髪から祝福にと撒かれたのだろう美しい花びらがはらはらと落ちた。
主の性格と身分を反映した賑やかな華燭の典はすでに終わり。宮殿の奥はしめやかに最後の儀式へと向かっている。
少しの待ち時間に俺が通されたのは、一ヶ月続いた結婚式の間ずっと寝込んでいた俺への旦那からの配慮だった。
「この度は申し訳なく、」
「よいよい。おまえがこんな時に体調を崩すなどよっぽどだったのだろう?」
旦那の言葉に俺は下げた頭の影で唇を噛んだ。
「少しの時間だが、おまえが祝いに来てくれたのだ。それだけで充分だ」
その声は笑っていた。
結婚式が終わった後の花婿のすることなどひとつしかない。
これが政略だけで行われた婚姻だったなら、まだ俺は耐えられたのだろうか。
しかし、今頃褥で花婿を待っているだろう花嫁は旦那が選んで連れて来た女だ。
旦那の性格なら、きっと深く愛するだろう。
仮病ではなく、吐き気がこみあげる。
着飾った旦那の足元に縋りついて憐れを乞えば何かが変わるだろうか。
「──旦那」
「どうした、アシュヴァッターマン?」
顔をあげれば幸せそうな旦那の表情が目に入り、俺は何も言えなくなる。
旦那はそんな俺に何を見たのか顔を綻ばせた。
「一ヶ月も寝込むとさぞかし不自由だっただろう。──どうだ、おまえも妻を、」
「まだ早いです」
言葉を遮る不敬に旦那は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。その機嫌の良さに息がくるしい。
「ドゥリーヨダナ様」
侍従の声に旦那は息を吐いた。
「そろそろ行かねばならんのか。──わし様は友ともう少し話していたいのだが」
旦那のわがままに侍従の視線がこちらを向く。
震えを殺した声で俺はいつものように旦那をたしなめた。
「王族の初夜なんざ、儀式みてぇなモンだろう。わがまま言って困らせんじゃねぇよ」
砕けた物言いに旦那が爆笑した。
「確かにそうだ。儀式にうるさいバラモンに叱られたならしょうがないな。わし様ともあろうものが少しナーバスになっていたようだ。すまないな、アシュヴァッターマン」
旦那の謝罪に俺はまた頭を下げた。
「明日、また参上いたします」
「楽しみにしておる」
口調を戻した俺の視界の端に旦那の靴が向きを変えるのが映った。
足音がゆっくりと遠ざかって行く。
──俺はそのかすかな音を永劫のように惜しんでいた。
◆
あの時と同じように美しい花びらがこの人の長い髪を彩っている。
異なるのは、それが血と泥に汚れ、精悍な顔立ちが無惨に踏み潰されているということだ。
「──遅参をお許しください」
夜半の森の中は全てが暗く沈み、抱き上げた体から天上の花びらがはらはらと散るのがかろうじて見えるばかり。
腕の中で旦那がうめき声をあげた。
生きている。
それだけで息がくるしくなる。
旦那の傷は顔だけではない、攻撃が許されるはずがない太ももは潰れ大量の血を流していた。
誰でも分かる。──旦那の先は長くない。
「アシュ…タ…」
「ここにいます」
言葉を遮って、その手を握りしめれば。ゆるやかに旦那がそれを握り返す。その弱々しさに叫びだしたくなった。
──なぜ、この人がこんな目に合わなくてはならないのか
「必ず、パーンダヴァの連中にこの報いを」
呻くように告げた俺に旦那は笑ったようだった。
「明日、成果を報告しに参ります」
誓って。そっと旦那の体を置いて立ち上がる。駆け出した。
ああ。明日まで旦那の体力は保つだろうか。
──俺はその僅かな命を永劫のように惜しんでいた。
夜の森は深く祝福の名残はもう見えない。