夕立は馬の背をわける 夕方になっても暑さはまったひくようすを見せず、公園に人影はなかった。じわじわと、せみの声だけがただやかましく、木陰はそよとも動かない。
おまけに分厚い雲まで流れこんで、湿気もひどい。おおよそ人間の活動できる範疇を超えている。そう思いながら、文次郎は首すじを流れる汗を、袖口で乱暴に拭った。でも帰りたい、とは思わなかった。
滑り台は陽光をたっぷり吸収し、肉でも焼けそうにギラギラと輝いている。砂場に放置された、真っ赤なスコップ。ベンチに置き忘れられたタオル。
それらがまるで自分みたいで、文次郎はにわかに苦しくなる。夏の夕方。
喉が締めつけられるような、息苦しさの理由は、わかっていた。先を歩く男――留三郎の背中を、じっと見つめる。こんなふうに人を誘い出しておきながら、黙りこくる憎たらしい背中を。
近いのに、遠い。手を伸ばしそうになり、文次郎は思いとどまる。伸ばしてどうする。
真っ白なシャツに包まれた留三郎の背筋は、ぴんと伸びて美しく清潔だ。日頃のトレーニングのおかげで引き締まった腰。小さな尻。
そこまで考えて、文次郎はさすがにあからさますぎる自分の視線に、自分で恥じ入った。留三郎に知られるはずもないのに、誤魔化すようにごん、と拳で額を叩く。
へんなことを考えるな。へんなことを――、なにも。考えるな。呪文のようにくり返す。
「寄り道をしていかないか」
夏休みの部活帰り。そんなことを留三郎が殊勝なようすで言うものだから、おかげで文次郎は茶化すタイミングを逃した。なんでお前と、疲れてるんだ。いつもなら、そう言えたのに。
どこか思いつめたような、留三郎の眉間。
「べつに、かまわんが……」
文次郎がかすれた声でこたえると、留三郎はあからさまにほっとしたように、表情をわずかに解いた。どきりと心臓が跳ねる。まさか、と、期待が小さく芽吹く。
留三郎とは犬猿の仲、などと呼ばれていて、顔を合わせれば喧嘩ばかりしているのだが、どいうわけだか、文次郎はこいつのことが好きらしい。自らのことに、らしい、というのもおかしなものだが、でも自分でもにわかには信じられなくて、俺が、こいつを? と、今でもなんども自問している。オレが、こいつを。こたえは、YES、だ。
いつからとか、どうしてとか。理由はわからない。わかっていたら、きっとこんなふうになっていなかったし、そもそも恋――そう呼ぶのは、おそろしく照れるが――というものに、理由などあるだろうか。
だらだらと住宅地を抜ける。ヴーンと、低く唸るエアコンの室外機の音が、さらに暑さを冗長させる。
留三郎は、相変わらず黙ったままだ。人を呼びつけておいて。意図が見えず、文次郎は焦れる。
言いたいことがあるなら言え。真綿で首を絞められるように息苦しい。担いだ竹刀が、肩にめりこむようだと思った。
期待と不安。地面が揺れる。文次郎の心と一緒に。
「……留三郎、喉かわかんか」
沈黙に耐えられず、代わりにそう尋ねると、コンビニでも寄ろうという声が返る。ほんとうは、公園になど寄らずに帰ろうと言ってはくれないかと期待したのだが、そうもいかないようだった。
大会は、順調に勝ち進んでいる。もうすぐ全国大会だ。留三郎も文次郎も、調子はすこぶるいいし、部活のメンバーもそれぞれきちんと仕上げてきている。
留三郎にとっても、文次郎とっても、最後の夏。
公園の土からは、陽炎が立ち上っていた。手に持ったペットボトルが、ぐっしょりと汗をかいている。
「そこ、座らねえ?」
ふいに留三郎がふり返り、小さな東屋みたいになったベンチを指さす。その頬がやけに緊張しているように見え、文次郎は息をのむ。何を考えているのだろう、留三郎は。
留三郎の指さした東屋は、太陽の下のこちら側からは、外界から隔絶されたひどく暗い場所に見えた。なぜかいやな感じがして、でとさも文次郎は頷く。小さな東屋。なんの、変哲もない。
屋根の下にはいっても、はっきりいって暑さは変わらなかった。薄暗くはあったけれど。
「あっちい……」
留三郎は呟くと、顎を手の甲で拭う。首すじを垂れる汗。呼吸をするだけで息苦しいのか、半分ひらいた唇がいやに色っぽい、と文次郎はつい、そちらに目を奪われて、慌ててそらした。
「誘ったのはお前だろう、文句を言うな」
反射的に口をついた、皮肉めいた科白に半ばほっとし、半ばしまったと文次郎は思う。横目で留三郎を見やると、彼はぼんやりと手のなかのペットボトルを見つめていた。
聞こえていなかったのだろうか。しおらしい態度。まったく、調子が狂う。
「……あの、さ、」
とつぜん、留三郎がぱっと顔をあげる。文次郎は反射的に、ぐるりと目をそらした。横顔を食い入るように見つめていたことに、気が咎めたのだ。自分がとても下品な人間になったように思えた。
ハーフアップされた襟足。留三郎はいつも、長めの後ろ髪を無造作にくくっている。わずかにのぞく項。
「へんなことを、言うかもしれないけど、……」
ためらいがちに、留三郎は口をひらく。怒るなよ――。
「そ、んなの……。言われてもないのに確約はできん」
胸が高鳴る。思いつめたような、やけに真剣な留三郎の瞳。それは勝負を挑むときの、物見の隙間から垣間見えるのと同じ。
文次郎は知らず、居住まいを正した。そんなはずはないと打ち消した、淡い期待が再び首をもたげる。まさか。そんなはずは。
「……お前、すきなやつとか、いる?」
そうっと開かれる留三郎の口は、うすく形がいい。考え考え、ゆっくりと動く唇。
文次郎はもう、指の先まで緊張していた。すきだ、と言われたら。もしもその唇に、すきだと言われたら、文次郎はおそらく即座に心臓が止まってしまうだろう。
「留三郎……、」
「……俺、C組の子に告白されたんだ」
「……は?」
我ながら、間抜け面をさらしたと思う。何言っとるんだ、お前は。と、言わなかった自分を褒めてやりたい。
だが実際、文次郎は脱力した。そして張りつめていた緊張が、引き潮のように静まって、反対に血の気が指先からなくなって冷たくなっていく。ざわざわと。
淡い期待が、同時に崩れ去る音がする。脳内で
「……なあ、文次郎。どうしたらいいと思う?」
――どうしたら?
「……なんで、俺にそんなことを聞く」
どうにか絞りだした質問は間抜けで、知るか、勝手にしろ、と言えたらどんなにかよかっただろうと思った。拒絶もできない。
「……お前が、……いや、なんとなく、聞いてみたかった、……から、」
留三郎は唇を尖らせる。どこか言い訳じみて、ばつが悪そうに見えるのは、ばかなことを言っている自覚があるのだろうか。
だってこんなのは、留三郎にとって、自分はその程度なのだと言っているようなものじゃないか。なんとなく、だなんて。そして、なんて自分はばかなのだろうと思った。少しでも期待した。ほんとうに、おおばかだ。
ぎゅっと眉間にしわを寄せ、留三郎はすがるように文次郎を見つめた。なにか答えてくれと、困ったような、どうしたらいいのかわからない、という顔。
どうしてそんな顔をするのだろう。胸がかき乱される。苦しい、と思った。
くるしい。腹が立つ。いまいましい。この阿呆。すきだ。でも、すきだ。こいつが、たまらなく。
「だから、つまり……」
留三郎が、まだなにか言っている。言おうとしている。
でも、なんにも、聞きたくなかった。
「……そうか、」
「文次郎……?」
もう、どうにでもなれ。と、それすら思わなかったと思う。すらりと立ちあがる文次郎を、留三郎は怯えたように見あげた。
そびやかした首が、存外細い。シャープな顎。それを、くんっと指で持ちあげる。あ、と留三郎の唇が驚きのかたちに変わるのが、視界の端に掠めた。
「……っん、」
噛みつくみたいに口づけた。勢いあまって歯が当たる。初めてのキス。
ぽこん、とペットボトルが地面に落ちる音。蝉の声。ふたりを取りかこむ、深い陰。
抵抗がないことが意外だった。それほど驚いているのだろうか。考える余裕ができて、ほんの少し、唇の角度を変えようと離した瞬間。
肩を思いきりつかれた。身構える暇もなく、文次郎は後ろへ数歩たたらを踏み、よろけて尻もちをつく。東屋の外で。
「……っ痛ぇ、なにしがる」
「それは、こっちのせりふ……っ」
唇を、留三郎は拭う。手の甲で思いきり。拭うな。苛立ちが募る。
「……なんで、こんな……、」
ああ、最悪だ、と文次郎は思う。いつまでも暑さはひかないし、おかげで汗がだくだくと吹きだし、シャツのなかを伝うのが気持ち悪い。しかも、尻もちをついたところは、ちょうど留三郎が落としたペットボトルの近くだったらしい。
尻と指先を、甘い飲み物が濡らしていく。指先で跳ねる、炭酸のつぶ。
「なんで……、」
最悪だ。ほんとうに。
「お前がすきだからに決まっとろうが」
こんなこと、言うはずじゃなかったのに。嘲笑うような、せみの大合唱。
「お前のことがすきだ、留三郎」
そう言った自分の声は、随分情けなく、あえぐようだった。
「……、文次郎、……?」
なあ、留三郎。お前の頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。瞳が、戸惑いとは違う種類の揺れを見せているのは。気のせいだろうか。
この期に及んで、まだ自分は諦めることができないでいるのだろうか。淡い期待を、掴もうともがいているのか。
「……俺、は、……」
じり、と留三郎のスニーカーが地面を踏みしめる。スラックスを折り曲げた、むき出しの踝が、ひどく小さく思えた。
冷たい雫がひとつ、文次郎の頬を打ったような気がした。