まぶたに浮かぶいちご色 ぽてぽて歩く毛玉の子らの彩なす群れを連れて、尾長の猛禽が木立の間を行く。
青い尾長の猛禽の目元は、赤い目蓋に、白い縁もように、緑の目がおりなす苺のブローチのよう。その苺の実のように赤いまぶたがさっと降りて、次に開いたまなざしの先にはいつも赤赤とした果実が生っているのが見つかるので、雛鳥たちは彼の赤い目蓋と苺の果実、緑の目と辺りの緑の草木とを見比べて、線でも繋がっているのかしらと不思議そうに首をかしげながらついてきたものだった。
まぶたに浮かぶいちご色
苺ジャムをつくるリーバルとテバの話、と族長テバの思い出。
ぼんやりと『飛ぶ鳥尽きて、』 の話を前提にしています。
※捏造200%
リトの村の文化について多大な捏造幻覚描写があります。
※好き放題時系列解釈
BotWエンディング後→厄災の黙示録世界に飛ばされる救援者たち→数年後にTotK開始、という勝手な時系列解釈を前提にしています。
※野生動物への餌付け描写
現実では、野生動物に人為的に餌を与えることは自然環境や野生動物の生態系への悪影響が考えられます、真似しないでください。本作は現実での野生動物への餌やり行為を推奨する意図のものではありません。
※喋っている人の口に食べ物を入れようとする行為は、誤飲や窒息の恐れがあり、大変危険です。真似しないでください。
◇
ぽてぽて歩く毛玉の子らの彩なす群れを連れて、尾長の猛禽が木立の間を行く。
尾長の猛禽の未明の空のように青い翼が、いつもの弓ではなく小剣を握っている。行く山道の上まで青々と繁茂した緑木を、柄頭に秋の枯木葉実を編み重ねたような渋い染め飾りのついた小剣で打ち払い、追いかけてひゅるりと風が吹く。
冬山へブラの氷雪のごとく冴えた白刃で青い猛禽が道を引き、続く毛玉の子らが道から隔てられた草花森林自然の様子を興味津々に目を凝らす。
さあっと頭上を駆け抜けた葉擦れの風音につられた毛玉たちの顔が上を向いた。空を枝の隙間をくるくる遊び踊る木の葉が子らの黒目がちな眼を誘う。滑空する鳥のように風に乗る木の葉を追って、小さな嘴たちがぴいひゃあ鳴いた。
「あ、イチゴ」「こっちにもある!」
ひらりと木の葉が舞った先で、赤い春の果が実っているのを子供たちが見つけた。とはいえ、そのイチゴの茂みはまだ果実のほとんどが青く、寧ろ白いイチゴの花々の方が多く場所を占めている。それに気が付いた子供たちは少し落胆したように伸ばしかけていた手を引っ込めた。──自然の恵みを採り尽くしてはいけないよ、と先導の青い猛禽に言い諭されてここまで歩いてきたのだ。
子供たちの様子に気付いてか、青い猛禽が声をかける。
「皆、ここまで通ってきた場所は覚えてる?」
「えーとタバンタの原っぱのハシでしょ、それからつらら崖の洞窟でしょ、あと……」
「登山道のちかくの林!」
「ほねのぬま!」
「おばけの木~」
矢継ぎ早の元気な返事に、青い猛禽が満足そうにうなずく。
「うん。原っぱの端と、ここの森が他所の旅人にも紹介していい採り場。さっき通ってきた洞窟の先の湿地と向こうの林の先のは教えない。それと、あのおばけ大樹の近くのは十年に一度くらいしか甘い実がならなくていつもは渋いばっかりだから、ほかに食べるものが無い時だけ採るよ」
青い猛禽のレクチャーは、リトの子らにへブラの自然の歩き方を示すものだった。村から出て、タバンタ雪原の雪の中に埋もれた“宝探し”をした後に、雪原の馬宿であたたかいミルクとマドレーヌを貰った。そしてリリトト湖の外縁部をぐるりと一周するようにリトの村近辺の自然を見て回ってきたのだ。
青い猛禽の苺のように赤いまぶたがさっと降りて、次に開いたまなざしの先にはいつも赤赤とした果実が生っているので、雛たちは彼の赤い目蓋と苺の果実、緑の目と辺りの緑の草木とを見比べて、線でも繋がっているのかしらと不思議そうに首をかしげながらついてきたものだった。
先導を追い抜かさんばかりにきょろきょろ辺りを見回したせっかちな雛が、あっと声をあげて青い翼の腕を引いた。
「リーバル、あっちのは?」
名を呼ばれて青い猛禽が首を向ければ、小さな翼が木々の奥、湖畔の茂みを指差す。どうやら自分で赤いイチゴの隠れているのを見つけたようだ。
「そこのは弱って群れから出た獣が採る分だからダメ。でも良い観察眼だ」
そっと胸の前で進行を遮るリーバルの青い翼に、せっかちな雛鳥は素直に従った。
「いい子だ。もう少し歩いたら、皆で祭りのお菓子を食べよう。最後までしっかり”祭りのお役目”を務めてくれたら、その分たっぷり、ね」
リーバルの言葉に、わっと雛鳥たちの声が湧く。
雛鳥はそれぞれ手に小さな小麦色の鳥を抱えていた。リトの祭事のために作られる鳥形の堅いパンだ。こっそりとかじっている者もいる。
しかしながら、指で叩けばカツカツと音も立つほど固く焼きしめられたパンは、小麦粉よりも小鳥の木の実を砕いた粉を多く占める生地に幾つかのナッツ類とつなぎのタマゴが使われているだけで、ほとんど調味はされていない。普段、みずみずしい果実や甘いタルト、バターたっぷりの小麦パンを食べなれているヒトの味覚を満足させるようには作られていないのだ。小麦色の鳥の翼の端にかじりついた子も、すぐにうえっと舌を出した。
「余ってる“ヒバリのパン”は、あと幾つ?」
「もう皆、のこり一つずつくらいだよ」
「そうか、じゃあそろそろ村の方への道に戻ろう」
雛鳥が持たされている小麦色の鳥、“ヒバリのパン”と呼ばれるものは、“春告げの祭り”のために作られた。厳しい冬を越えても残しておいた素材を隣人たちで持ち寄って、春の到来を祝うための菓子として焼いたものだ。とにかく持てる限りたくさんの数を焼き、同胞や旅人や鳥獣を問わず、雪解けの先で出会う者たちと分け合って食べるものとされている。
「昨日からみんなでいっぱい手伝って焼いたの、トリさんたち、食べるかなあ」
「トリさんたち食べなかったら、取りに来て良い?」
くりくりとした目に見つめられて、リーバルは困ったように黄色の眉尻を下げた。
「うーん……春告げのお祭りは、たくさん小さな鳥の形の焼き菓子をつくって、隣人たちと“わけあう”のが肝要だ。その時に誰か一人だけが食べ過ぎないように、余ったものを木につるして大地に返したり野の鳥たちにも分けてやったりしてるんだから、あんまり“トリさん”たちが食べるかどうかを気にするものってワケじゃあないけどな……」
人が小麦の鳥の焼き菓子を分かち合い、大地自然に捧げ、大地は野草や果実や魚といった自然の恵みを返してくれる。食べ物の余裕がない時には、大地に捧げる分のヒバリは草糸や小枝で組んだ鳥の形の置物のなかに少しの木の実や乾燥果実を詰めて代わりを為すこともある。
大地の動物たちにも分け与えるために、焼き菓子自体に味という味は付けず、ひとが食べる際には春の恵みとして手に入れた果実のジャムや、魚や野菜のスープにつけていただく。
清貧に冬を乗り越えてきたリト自身の血肉を分け捧げる意味が込められた鳥型のパンは、翼を広げた鳥の形の意匠の型で丸く生地をくりぬき、豆や胡椒の粒で目がつけられている。
「そうして大地に感謝の挨拶を済ませることを、リトたちは春告げの儀式として、地上で最も強大な鳥の責務の一つに数えては誇りに思っている。君たちも、これからそんな誇り高いリトの一族としての自覚を持つようにね」
青い猛禽が厳かにそう締めくくったが、帰った後のお菓子に思いを馳せてはきゃあきゃあさえずる雛鳥たちは、小難しい伝統の話なんて誰一人として耳に入っていなかった。
やれやれ、とリーバルは小さく嘆息する。ここまで子らにリトの伝統とヘブラの自然について説きながら引率してきたとはいえ、彼らがすべてを真面目に聞いてくれているとはリーバルも思っていない。来年の春まで覚えているかも怪しいだろう。彼らが大きくなって、祭りを運営するリーバルらの立ち場に着くようになってようやく覚え始めるかどうか、そんなものだ。お祭りの子供の役目は、まず故郷で、季節に何かの祭事があったことを記憶に留めておいてくれたらば、それでいい。
そうして村へと戻る道すがら、日ごろ若い戦士が自主訓練をするのに使っている岩場の空き地にさしかかる。
「ここ?」小麦の鳥の置き場所を尋ねて雛鳥が言う。
「いや、こういう場所は開けすぎて、警戒心の強い野鳥が餌を食べるには向かない」
言い諭して道を少し離れ、近くの資材小屋を通りすぎて、川を渡り森に入り、辺りに人の手の入った痕跡が薄くなる境までやってきて止まる。今度こそと雛鳥が青年の顔を見上げる。
「うん、春告げのおすそわけをするのは、この辺りまでだな。あまり人家から遠すぎても、小さな野鳥は肉食の大型鳥を恐れて寄り付かないから」
言ってリーバルは「さ、後は自分たちで考えて木につるしておいで」と振り返った。
「大きく強い鳥、小さくはしこい鳥、それぞれの領分がある。草を分けて駆けるもの、木々の上を渡るもの、水辺の泥を跳ねて行くもの、野の獣たち……それぞれの領分をうまく読み取って森のバランスを取ってやるのも大事な仕事だ」
一足早く手持ちの菓子を吊るし終えた勤勉な雛が、ととと、とリーバルの近くに駆け寄ってくる。そして背に負った大弓に触れようとした雛の小さな翼を、やんわりと掴んで止める。勤勉な雛は、気付かれたことに驚いた様子で首をかしげた。
「これも、せんしの、おしごと?」
いいや、とリーバルは屈んで、掴んだ小さな翼をその雛の胸へと返し、差し示した。それから立ち上がり後続の子らにも見えるように大きく両の翼を拡げる。
「僕らリトの全員……優れた狩人の務めさ」
リトの狩人の意味するところは、獣を狩り、山を知り、毛皮や肉を売って生活する生業のことだけではない。人界と自然界との狭間にあって調停を為す暮らしを自覚し、またそれを誇りを持って存続させていく者である。
「かりうどー?」「あたし、弓も剣も習ってないよー!」
まだ自分で武器を持つことを許されていない子供たちは、ピンと来ていない様子で首をかしげた。
「狩人は、風にのる翼と、ものがよく見える目と、するどい嘴の“使い方”をきちんと学んでいるリトのことさ。いずれ皆も、渓谷と山岳の息吹きを知っている立派なリトになるんだ」
子供たちが顔を見合わせる。そしてすぐにニヤッと笑みを浮かべた。
「おれ、“街”にいきたいからいーや」「ね、平原の“じょうかまち”にはあのおっきな木よりもおっきい店があるんだってよ!」「道も壁もたくさんのキレイな石でできてて、お客さんも金とか銀のルピーでお買い物するんだって!」「父ちゃんからシゴトを習ったら、“街”へ出て自分の店を持つんだ!」「あたしも歌を歌って旅をして、大きな街の舞台に立つの!」
きゃあきゃあと子供たちは、未だ見ぬ都会の街へと想像を膨らませる。大人のリトなら半日もあればひとっ飛び行って帰ってこられる城下町も、タバンタを出たことの無い子供たちにとっては遠い憧れの場所だ。
(──とはいえ、それほど夢のある街でもないけど。)
リーバルは少し困り眉を寄せて首元のスカーフを撫でた。
叙任式典を始め、英傑の職務として何度かハイラル城とその下町とを訪れたことがあるリーバルは、あの街はさほどリトに住み良い街ではない、と思う。羽ばたけば「洗濯物が飛ぶ」「商品が転がる」と文句をつけられるし、人の往来が多すぎて息がつまる。何より、その城下町は今、魔物の軍勢に占拠されて瓦礫と火の海だ。子供たちが行きたくとも、行かせられはしない。
それでも、文明の象徴であるその城を取り戻さんがために、リーバルたちの属するハイラル連合軍は日々じわじわと戦線を上げて、決戦を迎える準備をしている。
(──ま、この子たちが遊びに行ける日が戻るようにするのも、僕らの務めだ。)
気持ちを切り替え、リトの英傑らしく偉ぶってごほん、と咳払いをして、リーバルは子供たちのお喋りを止めさせた。
「君たちの行きたいその街だって、かつては森で、山で、自然の一部だったのを人が切り開いてきたんだ。街で暮らすつもりの君たちも、授業をしっかり聞いてこの大地とのつきあい方を覚えておけば、街でだって“よい風”が吹いてくれるだろう」
「追い風!」
「フ、正解。ただし!向かい風も活かせるようにならなきゃ、半人前」
「え~」
「さ、帰るよ。村につくまでしゃんとしな」
指先だけがへブラの雪渓のように白い青い翼の腕を優美に振りかざして、尾長の猛禽は行く。風と共に狩人の知恵を示し教える戦士について歩く子供たちは、木もれ日と翠風を浴びるに覚えて木々のざわめきのなかのルールを学んでいく。風の通り道、水の導き、火の立てる場所と立てられぬ場所。踏みしめて腰を据えてよい立地と、避けるべき魔物や野盗の潜みやすい立地。危険のある大樹の枯木や弱い崖、ぬかるみと沼の見分け方。鳥の間合い、狼の間合い、熊の間合い、狐の間合い。縄張りの渡り方と競り合いの仕方。
ハイラルの自然がもたらす恵みと危険は、表裏一体だ。しかしながら適切な知恵と敬意を忘れなければ、大地の神秘は心ある人間に微笑んで、恵みを多くもたらしてくれる。
「さあて、ここまでの授業中も我慢できずに抜け駆けの“つまみ食い”をしちゃった食いしん坊は、誰かな?」
村近くの林まで戻ってきた一団に、リーバルは問いかけた。小麦色の鳥は皆、祭りのお役目の通り、野に置いてきて手元に無いが、何人かの雛鳥たちがハッと嘴を押さえた。
「全部食べなかったなら、まあ良し。後でご褒美のお菓子があるって言ったのに、待ちきれなかった子は反省するように」
「でもさ、結局そのゴホービって、ヒバリのパンの残りでしょ」
「ヒバリのパンってさ、あんまり……おいしくないよね」
「これなら、朝ごはんの小麦パンのほうが良かった!」
(──僕も、最初はこんな風に文句をつけたっけな。)
つまみ食いを棚に上げて、そうだそうだ、と文句で調子づく子供たちに、リーバルは懐かしむように目を細めた。大しておいしくもないヒバリのパン。祭りの伝統だ、分け合うことが大事だと言われたって、納得して大人しくなるほどリトの子らの翼は小さくない。
子供らしい不満と背伸びをした責任感で、小さな嘴が問いかける。
「こんなので、かみさま、うれしいの?」
かみさま。人でも獣でも、魔物でもないそれの実在をリーバルは知らない。だが、伝承は、我らリトが歌う祭りには、たしかにその存在が欠かせないのだ。
隣人と大地に自らの糧を分かち合い捧げることで、春を迎えるこの祭り、そこにはもう一人、大事な客人が居る。
「──そら、来たぞ」
リーバルが顎をしゃくった先に、突風が吹く。瞬きの次には、旋風起こして人影がひとつ。リトの大人をして胸に抱えるほどもある大きさの木の網籠を持った、白い大柄のリトが立っている。
テバだ。しかし普段の彼の服装と違う。
髪を飾っているのは色とりどりの石環ではなく、摘みたての草木のみどりを編んで作られた特別製の飾りだ。肩と背中にかけている簑も黒に近いような青々とした深緑で、白く染めた草でリトの紋を交えた伝統的な模様が編み込まれている。その編みぶりは鳥の羽並みのように美しく揃っていて、大柄なリトをさらに一回り大きく見せていた。
ゆったりと余裕そうな動きで持っていた籠を置いた際に、ちらりと覗く内鎧は、暗い赤に染め上げられた革の仕立て着で、金銀にきらめく糸で風と大地を表す幾何学的な模様の刺繍が施されている。
そして最も特徴的なのは、顔の仮面だろう。
神獣ヴァ・メドーの頭部の形にも似た、緑色の仮面が彼の顔を覆っている。
緑を基調とした仮面の頂点は彼の長い冠羽を隠さんほどに高く、顔全体から放射状にトサカを広げる仮面は嘴の先までをずいと覆い隠している。眼窩のように二つ穴が空いているが、外からは表情がまったくうかがい知れない。両の嘴元あるいは頬から突きだす牙のような形の飾りと、嘴の先と左右の両端から垂れる橙の輪飾りによって、まるで鳥とは別の生き物の首が乗っているようにも見える。
「──大地を見守り、我らを試す“カミさま”のお出ましだ──……」
春の化身だ。それも頭にかぶった雪を押し退け顔を出す新芽と、冬の枯山を怒濤の勢いで洗い流す雪崩を吹かす、荒々しい春の一番風の。草木萌ゆる大地がそのまま隆起し、鳥の形を成したように、ずらりと生花草木の編みこまれた装身具で全身を覆っている“春告鳥”だ。
雨風をはねのけ、雪にも凍えぬ強靭な羽毛の鎧を纏うリトたちは、常ならば飛翔の邪魔になる羽織や被りの装飾は身に付けない。頭に被る編み笠や、肩から上半身を覆う簑といった装身具はいっそ外からやってくる“稀人”を指す記号だ。
決して生存に易いとは言えないへブラの土地に外からやってくる“稀人”は、風変わりな旅人と、もうひとつ。
──天から降り来る“神秘の存在”だ。
神話にならえば旅人を意味する特別な“蓑”をつけることで、“彼”は人界と神秘を行き来する資格を得た。
一時、神の意を受ける存在に身をやつしたのである。
厳冬の終わりの最後に立ちはだかる、“神の息吹”の試練。この冬を乗り越えて来た者たちが、春の恵みを甘受するに相応しい強さを備えているかを確かめるために、若き戦士を自らの遣いとして春告鳥がやってきたのだ──そういう祭りの儀礼である。
「よくぞ……」
低い男の声が、仮面の奥からくぐもって聞こえてくる。蓑虫のように突っ立っていた戦士に動きがあった。ばっと大きく翼の腕を拡げた。緑の網目から点々と覗く白い羽毛が、草むらの繁みでぽつぽつと目立つ苺の白い花のようにも見えてくる。
「よくぞ来た、冬を越えた者たちよ!女神の恩寵たる春の風を抱く前に、汝らの大勇と天命を今一度、我に示されよ!」
びりびり響く大きな声に、びくりと何人かの雛鳥が怯えてあとじさる気配がした。いくらなんでも役に入りすぎだ。祭事の戦士として誇りは十分だが、やる気がありすぎて闘志で子供を怯えさせている。リーバルはひきつりそうな嘴の端をニコリと得意の笑顔に変えて、子供たちを振り返った。
「さあ、皆、村で習った冬送りの挨拶は覚えているね? “緊張しい”の神使殿に、ばっちり手本を見せてあげようじゃないか」
リーバルに促されて、はっと自分たちの役目を思い出した子供たちが、互いに目を合わせあって、怯えとは別の緊張に静まる。その一瞬の隙にリーバルは、やる気のありすぎる戦士に向けて、ぎんと音のつきそうな鋭い視線をやった。視界の端で、ただでさえ上背のある男が驚いたように背筋をヒョッと正して縦に伸びる。そして窺うようにそろそろと身体を丸めて縮こませる。これで多少は威圧感が減ったか、どうやら意図は伝わったようだ。
やれやれ、と嘴のなかでため息を転がして、リーバルは子供たちに目配せをする。まんまるの青い眼差しがきらきらと決意に満ちて自分の方に集まったのを見て、赤い目蓋がウインクをした。
すう、と息を揃えて、小さな嘴たちが一斉に開く。
「メルーメド・リッジェーデ・タバルタバン!」「タパゾナスヴァルー!」「リリッテレア・ゾナラウ!」
順に挨拶の口上を述べる雛鳥たちの声に合わせて、導き手の青い猛禽は、これまで山道を切り開いてきた飾り小剣を演舞のように振って、柄の秋色の束飾りが風になびく数度、冬の白刃が曲の軌跡を描いた。
そして子らの溌剌とした合唱が切れると同時に、神使の前にひざまづく。飾り小剣を恭しく差し出して、礼を捧げる。
「ビィーイナ・ドゥイ・リト!」
高らかに宣誓した青年の纏う衣、翻る白い襟巻きの裾を渡るように染められたリトの紋様を見て取り、春告げの神使は小剣を受け取り頷いた。
「──ビィーイ・ンナドゥ・リト!」
厳かによく通る言祝ぎの声と共に、剣を持つとは反対側の自由な方の大きな白黒翼が振り上げられる。そしてその翼端を中心に渦を巻き上げるように烈風が起こる。凄まじい勢いで周囲の砂塵や草花のかけらが風に流されていく様に、子どもたちの目が釘付けになる。
瞬きを許さない気迫怒涛の風。
そして応えるように導き手の若い戦士の青い翼が背の大弓を取って、羽ばたく。
瞬きの間に天高く上昇した戦士は、渦の中心めがけて音を置き去りにするほどの神速の矢を射った──子どもたちは確かに、その矢が空を裂き、渦の中天を穿ち、透明な音の花咲かせるを見た。
「我、空を穿ち、風を繰り、翼無き大地を闇より挙げ奉らん。祖の舟いまだ高く、天覆う淀を祓いたもう」
ぱあん、と矢の鏑の音。破裂音がするや否や、神使の頭上から先ほどとは逆風の凄まじい旋風が落ち来て、リトの子たちの髪を逆立てはねあげた。
どこからか運ばれてきた色とりどりの花ばなが吹雪となって雛鳥たちの眼前に押し寄せてくる。
子らは足を踏ん張り、向かい風に目をつむりかけながら、冬春を打ち合う戦士たちの言葉を待った。
「汝らの大勇は示されたり!ここに、目覚めの息吹きを与えん!」
厳かな声でそう締めくくると、神使と呼ばれていた戦士が、顔全体を嘴の先まで覆っていた仮面を額の方に上げる。仮面の下から現れたのは、ずいとヘラのように長い眉が鋭い目元をさらに引き締め、きりりと凄みのある戦士の顔。一呼吸の後に一転、戦士の眉は下がり、朗らかそうに破顔する。見慣れた顔にフッとリーバルは笑みを溢した。
「みんな、祭りの飾り付け、よく頑張ったな。森の隣人たちを代表として“春告げ鳥”が祝福を授けよう!」
そう言って、戦士──テバが背に負っていた籠を下ろす。籠の蓋を取り去れば、赤く輝く春告鳥の祝福の中身が顔を出す。
「さあ、この中身が何かはもう分かるな?」
今度はリーバルが合図をするまでもなく、子らの声はそろって言った。
「「「「いちごのジャム!」」」」
◇
「こらこら、一人ずつだ。ちゃんと全員に瓶をひとつずつ、あるからな。この場で菓子と一緒に舐めてもいいが、食べ尽くすなよ。家に持って帰って、父ちゃん母ちゃんきょうだいたちと皆で分けるんだぞ?」
「一人占めする欲張りには、来年の実りが無くなるぞ!」
白い翼と青い翼が手分けして籠の中のジャム瓶を渡していく。はぁいとのびのび返事をしながら、真っ赤な苺ジャムの透けるガラス瓶を持った雛鳥たちが駆けていく。
頭の上に掲げるお調子者。大事に胸に抱えている慎重な子。ぶんぶんと瓶を持った手を振って競うように走る元気な子たち。瓶の口を飾るリボンを咥えて自由な両手で飛んで行こうとするせっかちさん。ようやくありつけたご褒美に、とっとと嘴をつけている食いしん坊たちもいる。
子らを見送り空っぽになった背負い籠に蓋を戻して、ふうっと大きなため息が出た。そのあとに続くように隣の嘴からくつくつと含み笑いが聞こえてきて、テバは渋い顔をした。
「やあ、ご苦労様、テバ。なかなか様になってたね」
リーバルの言葉と声音は素直な労いだった。しかしテバの渋い顔はますます眉間に皺が深くなる。
「全く“ご苦労”ですよ、この歳になってこんな祭り衣装を着るなんて思いもしませんでした……」
「山々への“春告げの挨拶”は、“末の戦士”の役目なんだから、仕方ないだろ?」
「末の戦士、ねえ……」
「僕だって去年までその赤い仕立て着と青蓑で山中飛び回ったんだ」と言う嘴ぶりは、まさしく当て付けたっぷりにテバの着なれぬ衣装の着心地をチクチクとさせた。いや実際に衣装の上から白い指先でつつかれもしていたが。
「君の分は身体のサイズに合わせて新しくしたんだから、動きやすくて気分もよかったんじゃないの?僕の時は、毎年毎年同じのを着せられて、お役目だっても気分の張り合いがないったらなかったよ。冠や蓑はいつも新しく編み直すからいいけどさ……」
それも3年間も、か。とテバは内心で少し同情した。この歳若くもリトの戦士たちを指揮するへブラの大将である青年が、長年その熟練ぶりにそぐわない新米戦士扱いを受けていたのだ──という事実を、先日テバもニヤニヤ笑いの先輩リトのたちから聞いた。ずば抜けた才覚と努力を以ってしてハイラル王家に見込まれたリトの英傑も、あまりの若さ早さの躍進に、ヘブラのリト達の寂しがりとたまたま後輩の育たぬ時勢と重なっては、まだまだ子供と数えられるうちだった……ということだ。
自分よりも歳若くありながら軍を率い戦士の頂点に立つリーバルの、そんな素朴な村の子としての姿は、偉大なるリトの英傑の伝説を聞いて育ったテバには意外なものであった。だが、長命ならざるリトにおいて、枯れず100年を伝え継がれた英傑への親しみと思えば、かえって納得のいくものでもあろう。
なれば、テバがこうしてチクチクとからかわれるのも、一時的とはいえ末の戦士である自分の仕事と思う他無い。とはいえ、リーバルよりもさらに歳の嵩んでいる自分がガキの扱いを受けるのは、いささか諦観に押し込めるに難い“苦労”である。
「大きな羽織蓑の透かし編みも例年通り上等にできてる、新調した上着ベストの刺繍も君によく似合っ、て……」
新しい衣装を見分していたリーバルの声が、ふいに途絶える。何か損傷でもあったかとテバが慌てて様子をうかがうが、リーバルはごく真剣な顔をしてまじまじと刺繍を見つめている。糸の染めがどうこう、この模様はいつもは無いはず、等とぶつぶつと言った末に、ぐん!と鬼気迫る勢いの翡翠の眼差しがテバを見上げた。
「おい……これ、服屋の刺繍職人イヅバミの一点物刺繍じゃないか!どういうことだ?あいつ、僕が毎年何度頼んでも衣装の刺繍デザインをしてくれなかったのに、いったいどんな文句で口説きおとしたんだい?!」
「は?いや、服屋の若い職人のことなら、向こうから勝手に来て……『普段、この手の派手な衣装を着るのは未熟な若造ばかりだから、新しく大きい衣装を用意するついでに色々と新商品用の練習台にしたい』と……」
「練習台?それ、あの言い値の前払いでしか動かない気分屋が、タダで仕事をしたってことか……?!」
「まあ、村の祭りのためですし」
「あいつがそんな殊勝な理由でやる気になるわけないぞ!どんな風の吹きまわしだ!」
信じられない、と言うようにリーバルはテバのベストを掴んで凝視している。自負とこだわりの強いリーバルのことだ、これはしばらくかかるだろう。テバは腹を決めて、衣装を着せられたトルソーの役目に徹することにした。
熱心に衣装の見分を続けるリーバルにされるがまま腕をあげたり背中を向けたり、くるりと回ってみせたり。衣装を身に着けている当のテバが気付かなかったような仕込み装飾を見て取っては、目を丸くしたり眉を寄せたり唸ったりするリーバルが三度目の「うーんよくできてる」を呟いたところで、テバは声をかけた。
「あー、そろそろ、満足してもらえましたか?」
「……本ッ当によく君に合うように仕上がってる!羨ましいくらいにね」
テバの纏う春告げ鳥の祭り衣装を仕立ててくれた職人たちは、採寸や衣装の調整に際して皆あれこれとテバに話をしてくれた。村の伝統のこと、祭りのこと、今までの戦士達がどんなふうに祭りの役目をこなしていたか。テバも自分の生きる時代に残る伝統について話した。
特に皆の嘴の滑りが良かったのはやはりリーバルのことだった。自分を飾る服飾にはこだわるリーバルの行きつけの店、馴染みの職人だと聞いて、テバが勢い込んで普段のリーバルについて尋ねてみれば、皆照れ臭そうにしながら自分の腕前と店の看板商品について自慢話をしてくれたものだ。なかでも、先にも話題に出てきたリーバルとほど近い年ごろの若い職人はこっそりと『あいつはいつもその時のボクにできる一番の品ばかりを欲しがるから、機会と期待に見合う作品ができてない時は断ってるんだ。いずれリーバルが成長期を越えて、もっと大きな晴れ舞台に立つ時に、相応しい仕立ての衣装を作れるようにしたいんだよ』と秘める決意を明かしてくれたのだ。それを正直に言ってしまえば、今この場のリーバルの機嫌を取ることはできるだろう。
だが、テバとしては、あのリーバルに負けず劣らず意地っ張りのこだわり屋な若い職人が打ち明けてくれた憧れ目指す努力を口外したくない。
「次の春は、御山を巡る春告鳥の戦士の役もリーバル様のお役に戻るんじゃないですか?そうしたら俺の着たコイツを踏まえて、もっと洗練された衣装を用意してくれますよ、きっと」
「そうかな……ん? いや、来年もまた僕が末の戦士の役をやるなんて決まってないだろ! 」
「ハハハハ」
「どういう笑いだい?それは」
「いや~ハッハッハ」
「ねえちょっと! 」
しばらく小突かれては笑い誤魔化してじゃれていたが、とうとう嘴に青い手が伸びてきたので、テバも茶番を切り上げることにした。かのリトの英傑をからかうなんて、なんだか自分もこの時代のリトたちに感化されているようだ。
「俺がこちらの世界に来るまでのことはよくわかりませんが……厄災復活の影響で戦いの緊張ばかりでしたし、久しぶりに慶事の仕事ができて、皆が張り切ったんでしょう」
「張り切って、ね。うーん。皆が面白がるのも無理はないか……君は僕よりも、いや、この世界のどのリトよりも後に戦士になった、リトの末裔なんだから」
「ハハ、物珍しがられてるってだけですよ」
テバは今いるこの世界の100年後の時代からやってきた人間である。若さで言えば、少し前までキャンプに居たチューリの方が最新のリトの末裔と呼ぶに相応しいだろう。しかしながらチューリはまだ、弓を持つことが許されていない見習いの子だ。それに今はもう、テバたちを呼んだ時間移動の力を持つ白いガーディアンによって先んじて未来に帰されている。
他に三人、未来から呼ばれた戦士達がいるが、それぞれ出身であるゲルド、ゴロン、ゾーラの拠点に身を寄せているため、ヘブラで目にすることは少ない。
へブラのリトたちにとって、よく目にする未来からの救援者たちの一人が、このテバなのである。
最初に出会い、戦闘を共にした経緯ゆえかリーバルと行動を共にすることが多く、さらにリトたちからは馴染みが深くなる。それはもう言わば“末っ子が珍しく友人を連れてきた”というような、面白がりとからかいで厚くコーティングされた親愛の念であるが。
「ま、これで君も僕の苦労がわかったんじゃないの?」
「はい、はい。もう散々とジイさんどもに言い聞かされてますよ。『今年の末のはいやにでっかいが、ちょうど紅白で縁起も良くめでたいじゃねえか』だとか、陰でもあちこちで面白がりやがってアイツら……」
「君、意外と地獄耳だよな」
ぶつぶつ言うテバの愚痴を聞きながら、二人は村の共用炊事場までやってきた。
100年前の炊事場は、テバの知る未来の村のような、囲炉裏に鍋が一つきりを石床が囲って据え付けの棚に食器や調理器具が収納されているこじんまりとした調理場とは違っている。
湖の外にも広がる居住区画にある炊事場は、鍋も火も石壁をくりぬいた竈のように三つ並んでいるし、食料の貯蔵庫も建物が一棟用意してある。少し離れたへブラ山脈の麓近くの方には藁葺きの氷室が幾つかあり、山の湖から切り出した大きな氷と一緒に生鮮食品が保存されている。
ここいらで昼食でも取るか、とテバが思案し始めたところで「おうい」と二人を呼びかける声があった。
振り返ると、灰色の羽根と黒い嘴をした壮年のリトがいた。腰に服屋の紋のついた前掛けをしており、手にはバスケットとそのフタの上に風呂敷包みを乗せて持っている。
「よう!待ってたぜ。村に春鳥のパンが行き渡った。リーバルもテバも“お役目”ご苦労さん。こいつで最後だ」
そう言って壮年のリトは手に持ったバスケットをちょいちょいと示して見せる。バスケットはテバとリーバルの分の恵のジャムとパン、乗せていた風呂敷包みはテバの着替えを持ってきてくれたようだった。
「ほら、着替え持ってきてやったぞ。リーバルはともかく、テバはその衣装のままじゃ飯食うにも窮屈だろ」
「ありがたい、脱いだ衣装はどこへ預ければ良い?」
「着替えたらオイラが持ってっといてやるよ。つーか『衣装を回収してこい』って使いに出されたから、ついでにオメーらの分のジャム届けるように言われたし」
そこで言葉を切って、壮年のリトはじっとテバの方を見た。嫌な予感にテバは嘴の端を下げ、リーバルは視線を外した。
「しっかし、今年のはでっけえ春告げ鳥様だな!」
プッと吹き出すのをこらえきれていないリトの様子を見て、テバはもう何も反応するまいと目を閉じて顔をしかめた。そしてそのまま黙々と衣装を脱いで軽装に着替え始めるので、リーバルはため息をつき、「まったく。……僕は知らないよ、ちょっと氷室に行ってくる」と呆れたようにその場を離れた。残されたリトも流石にやりすぎたと困ったように眉を下げながら、しかしやはり笑いが堪えられないらしく、笑顔なのかしかめ面なのか歪な表情になっている。
「ほぅら、衣装だ。知っての通り、俺のために、特別に、新しいのを誂えてくれたそうだから、せいぜい傷つけないように丁重に運んでくれ」
殊更に恭しい手付きで衣装を差し出すテバの言葉の端々に、嫌味が込められている。散々からかわれて、ずいぶん虫の居所が悪いらしい。リトはとうとうブハッと吹き出した勢いのままひとしきり笑い、大きく息をついて頭をかいた。
「はあ~、笑った笑った。いやあ悪かったって、からかいすぎたよ。ほら、お前らの分」
そう言って壮年のリトは、抱えていたバスケットを衣装と交換するようにテバに寄越した。
「む、一瓶しかないのか?」
バスケットを手渡されたテバが中身を確認すると、ジャムが一瓶に、網籠に盛られたイチゴに、皿とスプーンが二揃いだけ。皆に平等に恵みを行き渡らせるはずの祭りのジャムが、一人分足りていない。
「これは君の持って帰る分。僕のは、こっち」
「リーバル様、お戻りに……それは?」
いつの間にか戻ってきていたリーバルは、氷室から取ってきたらしい布巾を被せられたボウルと、さらに追加で炊事場の棚の奥から籠箱を取り出して見せた。
布巾を取り去られたボウルのなかには、真っ白な粉雪の積もったような山から真っ赤なイチゴがのぞいている。白い粒はきび砂糖を細かく精錬したものだろう。そして箱の奥から取り出した籠のなかには、まだ未熟そうな青いリンゴに、ハチミツ壺、柑橘類の皮を乾燥させたもの……。
「これは……“材料”ですか?」テバが尋ねれば、リーバルは頷いた。
「手伝いながらちょっとずつ自分の好むに合わせて村のやつとは別のレシピを考案したんだ。だから、僕の分のジャムは自分で作る」
控えめに言って村一番のジャムだぞ、と得意気な顔をして尾長の猛禽は胸を張った。
◇
「んじゃ、おいらはここで。あとのことはリーバルに訊いとけよ」
そう言って、春告げ鳥の衣装を抱えたリトは颯爽と駆けて行った。両手いっぱいに荷物を抱えながらなかなかの速度と体幹だ、とテバが感心している横腹を、「君もこっちにきて、手伝ってよ」とリーバルの肘がつついた。
ヘブラの苺のジャムは、事前にイチゴに砂糖をまぶして水分を出させて、その水分を利用して煮込む。リーバルが氷室から取ってきたというボウルのイチゴはすでにその準備ができていた。あとは他の材料と合わせて煮込むくらいだろう。手伝うような部分があるのかと思いながら、テバはナベの前で取ってきた材料を並べるリーバルを横から覗き込んだ。
「まず、イチゴの水分を出させるのは、その年のイチゴの出来映えにもよるけど、一晩もおいて砂糖全体がじんわりと赤くなっていれば十分」
おもむろにリーバルは籠盛りにされていた青果のイチゴを手に取り嘴に放り込んだ。そして咀嚼した後にイチゴのヘタを嘴から指で取り出す。テバの方にも幾つか投げて寄越されたので、怪訝に思いつつも真似をして嘴に放り込み、ヘタを吐き出す。そしてヘタをゴミ入れに放ったリーバルは白い指先を擦り合わせた。
「このくらいの赤色かな」
「え?!」
赤く染まった指先を拡げてみせたリーバルに対して、テバが大きな声をあげる。
「な、なんだよ」
「イチゴ一つ二つ食べただけで、指先がそんな赤くなりますか?」
「え?君だってそんなもん……じゃ、ない」
今度はテバの黒い指先を見改めたリーバルの方が大きな声をあげた。
「うわっ、なんだそれ。イチゴの赤いのが指先に全然ついてない!目立たない!ずるいじゃないか。そんなのつまみ食いしたってバレないわけだ」
「羽根色のせいか……?そういえば、一緒につるんで馬鹿をやっていた俺の親友も、羽根色は暗く目立ちにくい方だったか」
「なっとくがいかない……」
リーバルはむくれた様子で顔周りの羽根を膨らませている。こういう仕草がガキっぽいのだと言ったらますますむくれるかな、とテバは思いつつ眉尻を下げて苦笑した。するとリーバルが何か思いついたように、きょろりと翡翠の目をテバの手に向けた。
「むっ。ねえちょっと、手、貸しなよ」
「何か良からぬことを考えてますよね?」
「…………」
「うわっ、変なところに果汁を塗り込まんでください!」
黙ったままのリーバルが、問答無用でテバの翼の手の甲にべたべたとイチゴの果汁を擦りつける。テバはすぐに手を引っ込めようとしたが、日頃から強弓オオワシを握るリーバルの握力はやはりすさまじく、両手で掴まれるとなるとびくともしない。みるみるうちに翼の白い羽根がリーバルの指先と同じように赤く塗られていった。
「ふむ、一晩おいて、白い砂糖が君の羽の白と比べてこれくらいの赤い色味になってれば、イチゴの水気出しは十分だね」
「ジャムを作るのに、羽根を汚してまで確認をする必要とは……」
「でも白い紙に色をつけてみせたって、君、覚えらんないだろ。自分の羽根色の具合なら、長年身に沁みついてる記憶と比べるから、忘れないよ?」
「むう……」
反論ができない。テバも自分が食う程度の名称分類の曖昧な飯は作れるが、きちんとした食事や料理はいつも妻の仕事だった。その妻が供してくれる料理名すらも、それぞれ覚えているか怪しい。サーモンムニエルはわかる、その横にくっついていた野菜の何かは何と言ったか。調理されている肉や魚の種類は食えばわかるが、焼いたそれと煮込んだそれと油で揚げたそれの名前はどうだったか。調理方法によって名前が変わるなんて、出世魚の名前が変わるのに似ているな、などとくだらないことを考えたのは覚えているが、その方法も名前も思い出せない。
リトの戦士の道に邁進してきたテバにとって、料理とその調理過程には理解と興味の網目が杜撰なのだ。座学のように教えられたって、意識の網をすり抜けて忘れ去られるだろうことは容易に想像できた。
「それから柑橘類の乾燥ピールを刻んで、砂糖と混ぜる。青いリンゴはすりおろして鍋に入れる」
「こっちは普段のきび砂糖と同じような茶色になるくらいの量ですか」
「皆で分ける方のイチゴジャムは大鍋で煮てしまうから、イチゴの果肉も潰して混ぜちゃうだろ。僕の分は粒の形を残したままのがいいから、早く火から引き上げる分とろみがつくように少し他の酸味のある果実を足すんだ」
鍋の中身を少し混ぜたスプーンの背に、砂糖つぶを張り付けるように砂糖を取って、そのまま砂糖のついたスプーンの背でイチゴを軽く押し潰す。これを全部のイチゴでやる。そしてすべての材料を鍋に入れ終えたら全体が馴染むまで焦げないように煮詰める。
焦げないように時おり鍋を木べらでかき混ぜながら、リーバルは呟く。
「煮詰めた後で冷やして時間をおいた方が味はまとまるけどさ……出来立ての味も好きなんだ」
材料を混ぜて、煮詰める。多少レシピが違うとはいえジャムはジャム、シンプルな作り方だ。テバが見ていても、さほど他のジャムと味に違いが出るようには思えなかった。案外、“出来立ての味”をどうしても食べたい、という単純素朴な理由がこの青年に木べらを取らせているのかもしれない、とテバは少し微笑ましい気持ちになった。
「……なんだい?」
「いえ、何も」
「そう。……で、最後が忘れちゃいけない。少しだけ胡椒を引いて入れる」
「胡椒、ですか?ジャムなのに?」
嗅いでみるといい、とリーバルが小皿に少しだけ胡椒をミルで挽いて寄越してくる。
小皿の上に乗った粗挽きの粒は、普段見慣れている白黒の胡椒粒とは違い、赤みがかっているのが目についた。鼻孔を寄せて嗅いでみると胡椒の香りと言えばそうだが、見た目どおり少し雰囲気も違っている。
「フム、普段の料理に使う胡椒よりも、少し刺激が甘く、香りがみずみずしいような」
「うん。普通の胡椒よりも真っ赤に熟してる実を選り分けてあるものだからね。ほとんどゲルドの外の市場までは出回らないものだけど、ゲルドの商人に直接渡りをつけて融通してもらってるんだ。へブラのイチゴは味がしっかりしているから、少しスパイスを加えるとイチゴの甘みの引き立て役になる」
リーバルが自分でひとっ飛びして、馴染みの商人から買い付けるらしい。「後で良い香辛料を扱う店の名前を教えてあげるよ、村でも幾つかの商店が取引してて、ゲルドに出稼ぎに出ているリトもいるはずだ」とリーバルは言ってくれたが、テバは少し返答に困った。テバの知る100年後の未来で、その店が続いているかどうかは分からない。扱っている地域くらいは参考になるだろうか。
「それで、旨いんですか」
「甘いものはもちろん、バターと合わせたり、味気ない焼き菓子にのせるとバッチリ」
言われてみても、テバの脳裏ではスープや肉料理で食べなれている胡椒の味とイチゴジャムの味とがどうにも結び付かない。考え込みすぎて、想像の胡椒の香でくしゃみをしそうになったところで、リーバルが木べらをお玉に持ち変えた。あくを取りながら、「氷水のコップ用意して」と言われて、汲み置きの水に氷室から取ってきてあった氷を加えてコップを差し出す。
少しだけ鍋の中身を掬ったお玉から、ぽたりと一滴。透明な水の中で煮詰めたジャムの赤い雫がその形を維持したまま沈む。冷めたらちょうどいいとろみになるだろう。
「よし、こんなもんかな」
「これで終わりですか?」
「そうだ。でもこのほんの少しが、ずいぶんと風味の違いにつながる」
「ほう……」
「そんなに物欲しそうな目で見つめなくたって、後で分けてあげるよ。どうせ作りやすい分量の都合で、一瓶じゃ入りきらない量になるからね」
「いや、そんなことは」
「おや、リトの英傑謹製のとっておきジャムを食べたくないって?」
「……謹んで、馳走にならせていただきます」
「よろしい」
鍋から大きめのバットに中身のジャムをそっくり移して、保存用に瓶に入れる分を冷ますべく、しばらく待つことになった。使った調理器具や余分な皿などを手分けして片付けて、炊事場の一角に食事用のスペースを取る。
さきほど衣装の回収に来たリトが持ってきてくれたバスケットから、リーバルがヒバリのパンを取り出した。食べるのかと思いきや、持って眺めているだけだ。テバが受け取った分のジャムはあるが、今日は開けるタイミングではないだろう。
「特別に美味しいってわけじゃないけど、何だか村の祭りの時だけ食べるこういうお菓子が好きなんだ」
「この、食べにくいパンが?」
「うん、貰う側だった昔から」
「そりゃあ……変わったお子でしたね」
テバは目をぱちくりさせている。それまでの恭しい口調に対して、どちらかというと失言の部類だろうが、気が付いていないようだ。別にリーバルも気にしていない。この男は従者でも部下でもないし、本人だってそんなつもりでリーバルに付き合っているわけではない。その方が、リーバルにとって好ましい。
「君だって、この祭りのパンを食べるときはバターやベーコンや焼いた卵じゃなくて、絶対にイチゴジャムに手を伸ばすだろ?普段は甘いパンなんてそんなに食べないのに」
「ああ、それは確かに。どうもこのパンは甘いものと合わせる気分になるというか……祭りの菓子のジャムは妙に旨く感じるの、なんなんでしょうね」
「なんだ、知らないの?」
「え?」
「実際にこのイチゴジャムが、いつものと違うんだよ」
ヒバリのパンは、今ほど食べ物の余裕がない時代から行っていた祭礼のレシピをそのままに作っている。
レシピを残すのが大事だからと使う素材も当時を再現するべくさほど上等なものではないし、味付けもうっすらだ。食べていると「子どもがそんなのかじっても嬉しくないでしょ」と気遣う大人から「これでも付けて食べな」と砂糖やハチミツたっぷりに煮詰めた苺のジャムを差し出されるくらいに。そうして食べ合わせるジャムは、まさにひと匙の宝石だ。
「普段店で売ってるようなジャムと違って、素朴すぎる伝統菓子を食べやすくするためにとびきり甘ァくみずみずしく作られている、特別なイチゴジャムなんだ」
一番成りのイチゴを取っておくのはもちろん、使っている砂糖の種類や量だって上等で、口当たりのみずみずしさも保存の向きより味の向きを優先しているからだ。ビン詰めにはするが長くは保たないから、春に食べきる量だけしか作らない。
リーバルも、子供の頃は知らずに食べて、苺のジャムなんていつも食べてるのに祭りの菓子のときだけ特別に美味しく感じるのが不思議だなんて思っていた。
「だから、自分で自分の嘴を養えるようになってから、初めて自分でイチゴのジャムを作ってみたときに、味が全然違って驚いた……っていうのが、僕の子どもの頃の話だけど……」
ちらりと視線をやる。ほけっとした目とかち合う。「さては君、厨房に立ったことがない戦士かな」と含み笑いで横目をやるリーバルに、テバはきまり悪そうに頭をかいた。
「俺ァ厨房に入るのを咎められるタイプの悪ガキだったもんで……」
「つまみ食いかい?」
「いや、つまみ食いはバレたことがないんです、よ……あ」
言ってから、しまったと嘴を押さえて目を泳がせる大の男をリーバルは見上げるようにねめつけた。間違いなく聞いたぞ、とじっと見てやれば、時間もかからず陥落した長い眉がハの字に下がる。
「……小麦粉と油、香辛料によるブービートラップ大量製作と村中設置の前科です」
「……とんだいたずら小僧も居たものだね」
どうやって作ったのかと問い詰めれば「狩猟罠の扱い方と獣避けの匂い袋づくりの応用で……」と、すらすら答えが返ってきた。いたずら好きの悪ガキは白い戦士の腹のなかに未だに健在らしい。未来の子供たちはずいぶんと苦労することだろう、どんないたずらをしても“経験豊富”な大人たちに先回りされてお説教が待っている。
──この男も昔から“戦士の鑑”と敬意と親しみに背中を叩かれるよな誇りと気高さに生きる人物じゃなかったのか。
リーバルはなんだか気分がよくなった。英傑様、リーバル様と敬い慕われるのも悪くないが、近頃この時代とリーバルに慣れてきたテバの無防備で飾らない荒っぽさが垣間見えるのは、友人のことを深く知るようで愉快だ。有り体に言って、楽しい。
「さしもの君も、嘴よりも憧れから先に生まれてきたわけじゃなかったみたいだな」
「冗談はよしてくださいよ……リーバル様は、幼い時分から調理の手伝いもなさってたんですか?」
「ん、まあね……」
リーバルは言葉を濁した。“手伝いを口実に菓子や果物のはし切れを貰えるのを目当てにしていた”とは、あまりに子供っぽい理由すぎて言いたくない。特に、このリーバルのことを英傑様と呼び慕ってくる歳上の男には。知ったが最後、あの黄金色の目がくるりと丸くなって、彼の息子を見るようなぬくったい眼差しになるに決まっている。自分がからかうのは良いが、からかわれるのは村の皆でもう沢山だ。
「僕……族長に面倒をみてもらっていたし、自分もいずれ族長になるつもりでいたんだ。だから、戦士の技術だけじゃなく村の運営のことも知るために小さい頃はあちこち手伝いをしてた」
「幼い頃から族長となることを志して?それはご立派ですね」
おもむろにテバの声色が少し高くなった。“憧れの英傑リーバル様”の話題になると喉が力むのだ。よし、いいぞ、完全に信じてるな。まあ実際、嘘じゃないしね。リーバルは余裕に肩を撫で下ろして、得意そうな顔のまま話を続ける。
「そう、だから祭事をよく理解するために恵みのイチゴジャム作りも……」
「お手伝いすると一番に味見としてイチゴもジャムのお菓子も食べられるから、イチゴのある春はよく来てたのよねえ」
「そう、春先はイチゴの余りがよく貰えて……じゃない!違っ、はあ?!」
言葉を途中で遮られたかと思えば、乗っ取られて余計な嘴を滑らしてしまった。動揺するリーバルが大声を挙げた拍子に周りを振り返ってみれば、いつの間にやら囲まれている。昨晩から菓子や料理の仕込みに大わらわだった村の姉さん婆さん方だ。
「昔っから苺が大好きで、羽根が生えかわる頃なんか“この子は苺ばっかり熱心に探してるせいで、目蓋も赤くなったのね”って、皆よく言ってたのさ」
「まあっ、こんなに一人占めしちゃって。氷室の奥に隠してあった分を持っていったわね?目を閉じてても苺のある場所は分かっちゃうものね」
「お台所のお菓子も、イチゴの匂いがするとすーぐ気付いていたものねえ。あ、氷の余り貰っていくよ」
会話への闖入者に驚いたリーバルが嘴をはくはくと開け閉めしている間に、おかみたちはポンポンと思い出話に花を咲かせていた。その様まさに矢継ぎ早の継矢で筈が花になるがごとし。一拍遅れて、右に左に聞き入るテバの顔がどんどんと喜色満面になる。
「ほーう!」
「なっ、おいこら、よせ!目を輝かせるな!皆も!余計な話、しないで、くれ!って「はい、お駄賃」はっ……むぐっ?!」
翼を振り回しケンケン抗議に騒ぐ青年の長い嘴の隙間に、ひょいと小麦色の小鳥が放り込まれた。先ほどまで子供たちと一緒に森に吊るしていた、例の焼き菓子だ。テバの手元にもひょいひょいと籠に積まれたヒバリのパンが置かれる。
粉々しいパンで急に嘴を塞がれたリーバルが目を白黒させている間に「ほいよ、きょうので一番の焼き立てさ!」とウインクする婦人たちはくすくすと花のように笑い、風のように去っていった。
「む、むぐーッ!もご、もぐぐ!」
食べ物が入っている嘴では言葉も出せず、しかしリーバルは諦めず嘴元を手で押さえながらも必死で抗議の唸り声をあげているようだ。
しかし遠くから返る声は「夕の宴は良い鱒が手に入ったよ、お腹を空けときなさいな」「あんまり甘いのばかり食べ過ぎるんじゃないよ!」と、ものともしない調子。
「気をつけておく!」とテバが代わりに返事をすると、遠くからは「頼んだよう」という高い声が、隣からは物言いたげな視線がちくちくと来た。純粋に自分の食いすぎに気をつけるつもりで言ったのだが、リーバルからは悪いように取られた気配がする。
「むぐ……」
さて、長らく言葉を失っていた青年は、かしましい女将たちが去ってからたっぷり二呼吸分の時間をかけ、ようやくごくりと嘴の中のものを飲み込んだ。そしてため息と共に胸を押さえてぐったりと肩を落とす。その疲弊ぶりは日頃戦士たちの集まりでちょっかいをかけられた時にも見た姿だ。どうやら普段から彼を可愛がっているのは、戦士の老輩ばかりではないらしいな、とテバは苦笑した。
「リーバル様、水です」差し出すと、引ったくるような勢いで手元のカップが消える。
「んんっ……ぷは!くそ、粉っぽくて嘴のなかがパサッパサする……!」
「最後の焼き上げで、残りの生地をふんだんに使ってくれたみたいですね」
水を差し出す傍らで、テバも一口かじってみた。ほんのりと木の実由来の微かな甘みを感じるが、日頃食べているパンや焼き菓子に比べるとほとんど味とは言えない。バターや膨らし粉や砂糖が使われているわけではない素朴な焼き菓子は、非常に固く舌触りもごわごわしていて、さすがに単体では食べにくさが勝る。固いわりにつなぎの材料が少ないためぼろぼろと崩れるし、それが嘴のなかの水分をからからにして喉とおりも悪い。だが、焼き立てのおかげでほんのりとあたたかくて、それだけでなんだか腹の底に灯るここちよさがある。
「んぐぐ……はあ、ようやく落ち着いてきた……」
「嘴直しにはこちらを」
先ほど分けて取っておいたイチゴの籠を差し出すと、すぐさま迷いの無い白い指が伸びてきた。いちご好きの少年の話はあながち誇張というわけでもなさそうだ。
「ふう。さて、そろそろジャムの方も頃合いかな……」
保存用に瓶に詰めた分は少し酒を足して、熱が冷めきるまでまた少し口を開けて置いておく。後で飛行訓練場の食糧庫に持って行くのだという。バスケットに入れたままのテバの分のジャム瓶と同じように、瓶の口に青いリボンが巻かれた。
そして入りきらずにバットに残った分をそれぞれの器に盛って、ヒバリのパンを並べた。遅まきながら昼食代わりだ。
「さあて、村一番と豪語するジャムの味はどんなもんでしょう」
「ふむ……うん、上出来」
焼き立ての小麦の鳥と合わせるのにも惹かれるが、まずはスプーンでひとすくい。苺の粒ごと赤いジャムを舐めて、ぷつぷつとした苺の食感とてらりと甘い蜜が舌の上でとろけるのを楽しむ。ほんのたまに、ざりりと胡椒の欠片が舌を刺激して、追うように甘い春の恵の味が殊更にやわらかく覆い尽くす。まるで礫を巻き起こすほどの勢いで花の香りを運んでくる春嵐のようだ。
「美味い」と素直に溢せば、隣の青年の顔が今日一番に晴ればれ笑んだ。
「“未来から来た神使殿と作ったジャム”なんて、これが一期だろうね」
「俺はほとんど見ていただけですし、そう大した曰くでもありませんよ」
「そうかい? 僕は、きっと今年食べたジャムの味は忘れがたいだろうな」
「君は?」と尋ねかけられて、テバの脳裏にはさっきまで横で見ていたリーバルの姿が過った。真剣に鍋と向き合う、伏し目がちの赤い目蓋。青と白の羽毛のなかで鮮烈に浮かぶそれは、煮詰められた赤い蜜よりも目を引いて。
「忘れがたい苺色、ですかね」
「なんだよ、まだ羽根に塗ったの根に持ってるのか?悪かったよ、どうせこのあと湯浴みだろう?洗ってあげようか」
「流石にそいつは遠慮願いますよ!」
雪融けはとうに昔とばかりに青々と繁った木立を分けて、冠長の猛禽が行く。
赤い革の仕立て着と深い緑の嵩を着て、谷を飛び越し野原を駆け抜け、へブラの御山を一回り。緊張と衣装の窮屈さから汗ばむ身体が、湯気のぼる秘湯に後ろ髪を引かれながら、へブラの大地のあちこちに風を届けて仮面の春告鳥が飛び回る。
空から見下ろした林の小道、姉妹の他の子よりも少し長じた赤い翼の娘が先導するリトの子の一団を見つけて、びゅんと勢いよく降下した。わあきゃあ湧く歓声に、えへんと咳払いをして、お互い静かに歩みよる。
言葉の意味は最早遡ることのできない時間の波に忘れ去られた祭儀の挨拶を、秘密の暗号のようにワクワクした気持ちで言い交わす。“我らリトは冬を越えた” “我らリトは春をあなたと分かち合う”
冠長の猛禽が捧げられた剣を受け取り、風を返す──春の息吹だ。
「──さ、皆!春告げ鳥から、恵みの息吹を受け取ってね!」
──ごう、と強い風が渦巻いて、村近くの林で花びらを舞い散らすのが見えた。
仕事を終え、炊事場まで降りてきていたテバの手元にも、旅好きの花弁がひとひらやってきた。今年も春告鳥の戦士は目覚めの息吹を降ろして、上手く役目を果たしてくれたらしい。今ごろは子供たちが跳ねるような騒ぎで赤いジャム瓶を抱えて、一斉に村に戻ってきているところだろう。
鍋の汚れを布巾でぬぐいながら、チューリが戻ってくる前に調理場の用事を済ませられたのは良かった、とテバは思う。もし見られていたら、つまみ食いだのなんだのとぴいこら文句をつけられたことだろう。
やりきった達成感に長い冠羽をそよがせている白いテバの後ろ頭に「お、こんなとこに居やがったか」と聞きなれた声がかかった。
「よう、族長サマ。部屋でも蔵でもなくこんなとこほっついてるとはな、仕事は区切り付いたのか?」
「ハーツか。ああ、在庫管理はまずまずだ。他は、ようやく書棚の分類と確認が終わって、支援を受けた各所との契約書や証書を収めなおしたところだな」
「おいおい、まだマイナスをゼロに戻したってくらいじゃねえのか、それ」
幼馴染みのハーツは、テバの言を聞いて意外そうに片眉をあげた。タバンタの風に黒い羽毛と黒い長髪をそよそよなびかせるこの男は、先日まで故郷の村を出てハイラル平原中央の監視砦に出張していた。家業の弓職人の看板を下ろして、行方不明だったゼルダ姫を捜索する調査団リトたちの頭取をしていたのだ。
ゼルダ姫の一件が片付いてからも、ハーツはリトの族長の“相棒”としてテバの代わりにあちこちに飛び回ってくれている。物資の補給に渡りをつけたり、各地に散っているリト達の様子を伝えてくれたり、その伝達力は新聞よりも早い。呆れたような物言いも、その分、テバの実務の補佐をする暇がないことで心配をしてくれているのだろう。世話になりっぱなしの親友に少しは見栄を張りたい気持ちはテバにもある。だが、事実は曲げられない。
テバは努めて冷静な声をして答える。
「まだゼロにして始められるんなら上々だろう」
「ま、それもそうか。ようやく“吹雪”が止んで、いつも通りの日常が戻ってきたんだしな……」
ハーツがふいと螺旋づくりの村の階下の木陰を見やる。少し前まで、そこには異常な勢いで村を包囲していた猛吹雪の名残が白く積み上がっていた。木製の回廊のあちこちに積もっていた雪をかき除いて、そこに集めていたのだ。
「あの吹雪のせいで、今年の“祭り”はもうダメだろうとばかし思ってたが……間に合って、よかったな」
「ああ、リンクにチューリにゼルダ様たちと……ルージュにも感謝せんとな」
テバは頷きながら、手元に置いていたゲルド紋様の焼き込まれた赤い石の器を一枚、ハーツに寄越した。
へブラでは見慣れない作りをしたこの器は、リトの大きく発達した手でも、持つと少し重たさを感じる。そして倉や物資置き場にまとめて置かれている同様の器は一枚どころではない。
これらの器は、先日ゲルドから、なかにイチゴを載せてはるばるへブラまで輸送されてきたのである。
『食料物資の支援要請?──もちろん、手を貸そう。だが、遠くへブラまで我がゲルドから供する品ならば、今日の飢えを凌ぐ食物よりも、心を潤す“嗜好品”の類がよいだろう。特に、疲弊した民の士気を戻すのに、平穏な日常の象徴である“祭り”はぴったりだ』
少し前まで続いていた天変地異の一つ、猛吹雪による分断で、リトの村は食糧難に陥っていた。狩猟採集を生活の主体とするリトたちにとって、自然のもたらす恵みが細くなる冬は厳しい季節だ。長期保存の効く備蓄食の数は少ない。冬も終わりがけて春も間近に迫っている頃ならば尚更、蓄えが尽きるタイミングであったのも災いした。
羽毛に身を包んだ翼の民リトでなければ出歩くこともままならない吹雪に閉ざされた山岳は、最後の頼みの綱である外部の商人たちとの取引さえも絶たれ、辺境の小村はじりじりと飢えに喘いでいた。
そんな窮地を打開したのは、やはり退魔の剣を携えた勇敢な戦友リンクと、テバが息子のチューリの活躍であった。
二人の小さな英雄が吹雪の原因を打ち祓い、リトの村に光る風を取り戻した後、村の機能を一刻も早く日常の軌道にに戻すための仕事はテバたち大人の張り切りどころだった。
食料物資の確保は最優先。
村内設備の点検や破損の修復のために諸々手配をするのも順次息つく暇無く。
もちろん春を迎える祭りのための準備もしたい……などと考えてはいても、とにかく“物が足りない”。
ただでさえ食料を切り詰めていたのに、そこから祭り用の余剰を出せるならば、そもそも『食料難』などと題打って支援を募る記事を新聞社に提供していない。チューリにも“賢者の仕事”がある。
『──今年の祭りは、諦めるか?』
会議に呼び集めた仲間たちの強ばった声。
それを聞いた時、テバの脳裏に浮かんだのは、子供たちの笑顔だった。くたびれた目蓋と目尻の下がり気味な、健気な強がりの笑みだ。
子どもたちは疲れている。ずっとだ。それでも文句も言わず、大人の仕事を手伝い、吹雪を堪え忍んできた。そして村の平穏が戻ったことを笑顔で喜んでいる。立派なリトの一員に育っていく子らが誇らしくあると同時に、そんな無理をさせてきた族長として不甲斐なさがつきつきと胸を刺した。
『俺は……、頑張ったあの子らにせめて腹一杯甘いものでも食わしてやりたい』
そう思ったか言ったか、どちらだったか。気付けば身体が動いて、監視砦への空路を取っていた。長らく村に籠っていた翼が風を受けると、まるで息を吹き返したように身体がすいすいと自在に動いた。
急な来訪に驚いた顔で村はどうしたと詰め寄ってくるハーツや息をきらして追いかけてきたギザンの制止を躱しながら、鳥望台横の広場に集まる各地の族長の名代たちを目の前にして、するりと嘴に出たのは、一言。
『──イチゴはあるか?』
と、まったく脈絡も要領も得ない不躾な要求だった。
白黒翼に取り付いたハーツが慌ててリトの食糧難について弁解をするのを横目に、テバは見た。
それまで何事か話し込んでいた青い瞳のハイリア人の剣士と、白い唇の大柄なゲルドの女剣士が、顔を見合わせ、にやりと笑ったのだ。
『なら──良い話があるぞ』と。
「今年の春告げの祭りのジャム用に集めたイチゴのほとんどは、ゲルドから輸入したんだっけか」
言ってハーツは赤いゲルドの陶器皿をさらりと撫でた。彩色に使う顔料が違うのか、ゲルドの小物に使われている赤色は、リトの工芸品の赤色よりも紫がかってとっぷり濃い風合いをしている。青と黒の翼をした彼の手にあると、ますますその赤みが際立って、皿の一枚が宝石のような艶やかさを持って見える。
「ああ、ついでに胡椒やハーブといった香辛料や酒類なんかもな。向こうも向こうで蘇る死体の災禍に遭ったと聞くのに、荒らされた街の復興で物資が足りてねえなかで、太っ腹なもんだ」
「新聞でウワサのゲルドの女王さんが、まさかあれほど若いたァ俺も驚いたぜ。次の機にはへブラのイチゴをゲルドのお嬢さん方にご馳走してやらねえと」
今年のリトの春告げの祭りで皆に行き渡ったイチゴのジャムは、ほとんどがへブラ産ではなくゲルド産のイチゴを材料としている。
ゲルドの街の苺畑で育てていたものと、ゲルド高地の標高の高い積雪地帯に自生している苺を採集したものだ。
酷暑のゲルドの街で栽培に成功していたイチゴも、人の踏み入り難い険しい自然の中でしか取れないイチゴも、どちらも本来ならば、市場でとんでもない値がつく希少な高級品だ。
そんなレア物イチゴがなぜ食糧難のリトの村へと運ばれてきたか。
それは一重に、テバの要請を受けてひとっ走りをした退魔の剣の騎士からリトの窮状を聞いたゲルド女王ルージュが、それならば、と機転を利かせた提案をしたおかげである。
『どのみち、畑も蔵もギブド共に荒らされてしまって商品としてはとても流通させられなくなった品々を、王室が買い上げておったのだ。イチゴもその一つ。潰れたものでも用立ててくれるのであれば、ゲルドとしても渡りに船。……もちろん安くはするとも、どうじゃ?』
強かに青い唇をつりあげる若きゲルドの女王は、的確にリトの需要を見抜いて取引を持ちかけた。
テバたちは、調査団への協力も兼ねていたリトの若い衆が、抜群の機動力を活かしてゲルドの街の復興用の建材を運ぶことを対価として、その取引に合意したのだ。
「まさか、お前があんだけ堂々とゲルドの女王サマと話を進められるとは意外だったな……」
「なに、向こうの手際が慣れていただけだ。ビューラ殿の口添えもあったしな、お前がリトの名代として行った監視砦で女王の近臣のビューラ殿と信頼を築いていてくれたおかげでもある」
このハーツも、他種族との援助物資のやりとりにおいては監視砦に出張していた時に築いた人脈で活躍してくれた。
また、そうして集められた支援物資やイチゴについては「勇者リンクの仲立ちで種族間交流復活の先駆け……スクープの予感だぜ!」と張り切って腕をまくった新聞記者ペーンと、ゾナウギアを活用したリンクの謎の箱形移動機械が並んで空を翔て運んできてくれた。轟音をひびかせながら川も砂利道も急勾配の坂道も、果てには渓谷を滑空して飛び越えても踏破する自走式荷車は、リンク曰く“有蓋式冷蔵貨物自動車量産型ロクゴウ”とかいう名前だそうだ。天変地異と一緒にハイラルに現れた“新しい技術”は、日々驚きの進化をと遂げている。土地の余っているへブラでもゾナウギアを利用して何か開発できないか、方々と意見を擦り合わせているところだ。
そんなこんなで外部とのやり取りも増えてきたリトにおいて、村の長としてヘブラを離れがたいテバに代わって出先の仲間を仕切りながら、あちこちへと顔を出せる身軽な相棒のハーツがいることは大いに助かっている。
「監視砦での付き合いは、別にそういう打算があって動いてたわけじゃねえんだがな」ハーツはぼやく。
「分かっているさ。おまえの人徳のおかげだな」テバはさらりと返すも、ハアと不服そうな息を吐かれる。
「フン。テバにこうも担ぎ上げられると落ち着かねえ。明日は槍でも降るんじゃねえか?」
「言ってろ。……今年の祭り菓子はモモちゃんも手伝ったんだってな」
娘のモモの話を出すと、ぱっとハーツの顔が明るくなる。ハーツの一人娘のモモは村のなかでも一番遅く生まれた幼い子で、まだ村の外には出たことが無い。以前はどこかぼうっとしたところが多く不思議な子だったが、今は弓職人の父親の手仕事に興味津々で、暇を見つけてはあれこれ手習いをしているそうだ。舌ったらずな喋り方は相変わらず、今はもう一人だけで家の留守を預かれるくらいには大きくなった。ハーツもモモを信用して留守を任せているとはいえ、しばらく仕事に追われて離れていた分、娘のそばにいられることが嬉しいのだろう。
「おう、ジャムもパンもどっさり持って帰って来てくれてたよ、俺ァしばらく腹が重くて飛ぶ気がなくなるかもな」
「そいつは良い、今のうちにしっかり休んでおけ」
テバが鷹揚にうなずくのを見てハーツは訝るような視線を向けた。
「なんだ、“今のうち”って。せっかく色々片付いて肩の荷が下りて帰ってきたってのに、また俺を方々に飛ばすつもりかよ?」
「フ、まあな。食料物資の援助を求めて方々に約束を取り付けた際に、各地から色々と定期貿易の提案があった。恩返しじゃないが、うちの“外交担当”にぜひとも話をしたいと言ってきてるからには、応えんわけにはいかないだろう?」
「俺の本業は弓職人だっつの。ったく、人使いの荒い事で……」
「だが、おまえもなんだかんだ楽しんでるだろ」
「じゃなきゃやってねえよ!」
うらっとハーツの黒い翼その青墨色の羽先がテバの額を突いた。反射的に眉をしかめたが、人相の悪くなったそのままテバはにやりと悪童のように笑い返してやる。
「これからのリトの村には金が要るからな」
「金ねえ。こんなちいせえ村から絞り出せる金なんて、たかがしれてる。吹雪からの立て直しのための援助物資に対する返礼をどうするのかだってまだまだ目処が立ってねえんだろ?」
「そこはやりようだ。新聞社と提携してリトの機動力を活かした広告業を請け負うとか、橋を直して交通の便をよくして観光業を強化するとかな。まあ方々の顔をつないで人を雇い分ける俺の仕事が増えるわけだが……」
「ちょ、待て待て。なに、なんだよ。こないだまで村の物資出納帳見ただけで頭痛を起こしてた奴が、急にめきめきやる気になってんじゃねえか。……なんかあったのか?」
訝るハーツに、テバがちろりと片目を開けて見やり、もったいぶるように目を閉じて「実はな、」と嘴を開く。
「土地を買った」
「土地」
「雪原一帯とヘブラの山の幾つかと、秘湯周辺だな。山の辺りに関しては買ったと言うより、誰のものかもわからなくなっていたところをこれから明確に土地の所有権者を名乗るために、証人に立ってくれるように馬宿協会とハイラル王家や各地の族長に献金をした形だが」
「献金……」
これが土地の権利書で、こっちが各方面から発行してもらった証書のやつで、とつぎつぎ飛び出る巨額の流れに眉をしかめ、あんぐりと嘴を開けてオウム返しを続けるハーツの顔には、まざまざと“俺はイケイケの売れっ子家業職人だから耐えられたが、無名の見習い弟子の頃に聞いたらショックで寝込んでた”と書いてあるようだったので、テバは声が笑いで震えないように幾らか気を使う必要があった。
「あと一番高くついたのはエノキダ工務店への10年後の施工予約だな」
「エノキダ……ああ、ギザンが橋の件で世話になったとか言ってたあの……」
「腰を据えて仕組みとデザインとの話を詰めてもらえるように担当をつけて契約を組んだ分、手付け金も含めてなかなか取られた。ありゃあ職人だけじゃなく商売人としてもなかなかやり手だぜ、ゼルダ様たちが見込むわけだ」
エノキダ工務店の棟梁格社員の専任契約の総額はそれはそれは高く、リト族の男が故郷に一度も帰らず出稼ぎに飛び回って、すべての事業を大成功に収めてもそれだけ稼ぐことが出来るかどうか、という大金だった。
今のリトの村の資金総額を以ってしても当然足らないその提案は、初めはぼったくりではないかと疑ったテバだったが、契約書のどこをどう読んでも隙が無く、いやあるいは隙だらけのように依頼するテバ──リト族の側に負担がかからないように文面が並んでいた。
手付けの前金はともかく、残りの支払いの仕組みに工務店の利益がほどんどなく、まるで「払えるようになったら払ってくれ」とでも言うような慈善事業じみた有様だったのだ。
『住宅以外も造れると実績を立てれば仕事の幅が広がるから』だのと最もらしいことを言っていたが、エノキダ工務店が建築物を選ばず仕事をこなしてくれることは、研究者プルアの技術を詰め込んで設計した鳥望台の建設やリトの村の橋の件でよく知れ渡っている。まるで詭弁だ。
『どう読んでも対等ではない、被災への援助にしても度を超えている』
商談の場でそうテバが指摘した時、エノキダ社長はあのシノビダケのような特徴的な長髪を揺らして天を見上げてから、
『……足りない分は、ウチからの投資だ。あんたはそれくらい“動かす”ようになる器がありそうだからな』
とニヒルに笑ったのをよく覚えている。
値段は高くついてもその分だけ仕事の質も担保される──新生ハイラル王室御用達のエノキダ工務店は信頼に値する名店として、これからの歴史に深く名を刻んでいくことだろう──村の橋の修繕をきっかけに、早いうちから縁を持てたのは幸運だったとテバは思う。
ふーむと商談の空気を思い返していたテバの横で、ハーツが開けっぱなしの嘴からゴホッと忘れていた呼吸を取り戻すような咳が転がり出た。
「げほっ……はっ!?……ぶっ飛んだ話で意識が飛びかけたぜ!……んで、そんな大金かけて、“施工”ォ? そりゃいったい“何を”だよ?!」
「博物館だ。リトの伝統と大厄災に関連した英傑伝承を大きく取り扱う記録展示と探求の場を作りたい。俺はその辺りの学がないから、どういった形にするかはゼルダ様や調査団の学者にも相談をしているところだが」
夕飯の献立を決めるように当然とテバは言い切った。不意を突かれたように、一寸とハーツが黙り込む。そして徐に開いた嘴は、慎重にテバの内面を推し量るような響きで言葉を紡ぐ。
「──なんだよ、もう引退先の確保か?」
「ん。それもいい案かもしれんな。カーンのように来るもの拒まずで後進育成をするのは、俺には向かん。それに、あの好々爺のカーンの後釜に厳めしいジジイが居座って、あの飛行訓練場が人の寄り付かない老いぼれの住処として錆び付いていくのは、不憫だ」
「それは言えてる」
「だろう」
神妙な顔で白黒の戦士は二人、うむ……と頷き交わした。
このテバの頑固さが先代族長カーンのように柔和になるどころなど、まったく想像がつかない。テバも我がことながら、矍鑠とした爺の自分はいつまでだって一人ヌシの顔をして、梃子でも動かぬ大岩のようにあの訓練場に居座っていそうだと思う。
「んん……まあ、今さらおまえが考えなしに突飛なことするワケじゃねえってのは、分かってるさ。神獣が暴走した時だってそうだった。矛盾があるように見えたって、おまえは物の要を捉え違えないから、どうしても必要があってその目的が立ってるんだろう。分かってるんだが、なあ……」
ハーツは分かっていると嘴にしながら、歯切れ悪く言葉を探しあぐねているようだった。
──神獣暴走事件。
かつてこのリトの村の存亡をゆるがした大事件だ。村に伝わる伝説において、大厄災の折に人知れず消失したはずの神獣ヴァ・メドーが突如として現れ、リトの民を襲い始めた事件である。
100年前に伝説を残した類い希なる強さのリトの戦士が、ハイラル全土を襲った大災害に立ち向かうために超古代兵器・神獣ヴァ・メドーを繰り戦ったということから、メドーはリトの守り神として知られていた。
何千何万と無限に沸く魔物たちを一閃になぎ払い、人々の安寧を守る、この世で最も大きな翼を持ったカラクリ仕掛けの鳥、それがメドーであった。
民を守るはずのその守り神が、何故か民を攻撃したのだから、当時のテバたちは大いにどよめいた。
空の支配者を自負するリトたちが、空に浮かぶ機械の大鳥に恐れをなし、村には絶望と苛立ちが募っていたものだ。テバと共に偵察に出て翼を撃ち抜かれたハーツもまた、その絶望を数えた一人だった。
あの頃──誰もが、身の何千倍はあろうかという暴走神獣に抗おうという気を挫かれていたのだ。
…………テバ以外は。
暴走神獣。あの戦いは、誰かが挑まねばならない戦いだった。
敵わぬと諦めて縮こまって、機がやってくるようなそんな易しい試練ではなかった。
無謀ではたち行かねども、無茶でも抗ってみせなければ、この先のすべてのリトの誇りの芽が踏みにじられる、そんな局面だった。
だがリトの民は、100年の荒涼とした時間のなかで、人の生活圏がどんどんとへブラの自然に呑まれていくを見た。見てきた。その強大無尽で魔にも人にも容赦のない力に、ただの人間が寄り集まったとて抗うことはできないと固く信じ込んでしまうほど。長い間、常々と、恐ろしい自然の息吹を浴びてきた。
だから、飛ぶことを止めてしまったのだ。
数年前のあの時、テバを一人で無茶な戦いに飛び出させてしまったのは、何も血の気の多いテバの気性のせいだけではない、このリトたちの諦観のせいでもあった。
──翼撃たれ、その諦観を数える一つとなったハーツはよく知っているのである。
今でこそ、リトたちは老いも若いもなく絶望的な困難をに立ち向かう心を持っている。猛吹雪にも食料難にも諦めず、結束して事にあたる活力に満ちている。それをまとめあげているのは族長のテバで、支えているのはハイラル各地の復興を推し進めてきたゼルダ姫の実績が見せた希望だ。
──仲間と共に手を取り合えば、どんな困難にも抗える。
思い出した今だからこそ、かつて諦めが村の空気を支配していたあの神獣暴走事件が、いかに闇と紙一重の危うさだったのか、当たり前の平穏が風前の灯火のように脆く崩れ去る寸前だったのかを気付いて、恐ろしくなる。
先の猛吹雪に際して、ハーツも含めてリトの大人たちをしゃっきり動かしていたのは、平穏を噛み締めるほどそういった冷え冷えした後悔と、今度こそという奥底に燃える熱とが背筋をぴんと緊張させるからでもあったろう。
──では、あの時からリトの誇り高き魂の訴える裡火のままに生き急ぎすぎているテバはどうだろう?
テバとハーツは幼馴染みだ。生まれた歳も弓を手にした歳も一緒の気の知れた親友だ。馬鹿も真面目もずっと隣でやってきた。だから、お互いの考えることは手に取るように分かる。どうしてそんな風に考えるかの過程まではきちんと理解できなくても、顔を見れば今考えていることの輪郭や気持ちは分かるのだ。
ハーツのけして見せまいとしている苦いうしろめたさを分かっているし、テバの飽くなき克己心がぼうぼう苦さを燃やしつくす火を分け与えようとしていることを分かっているのだ。
迷いと決意は表裏一体。白黒隣り合うと、いつもそうだ。
テバは黙って待っている。ハーツはがしがしと頭をかき、少し俯くと長い黒髪をばさりとかきあげて、意を決したように言う。
「あー……その、なんだ。飾っちまうのか?戦士の誇りも、この自由と孤高の先を行く風の暮らしも、手の届かない額縁の向こうに……遠い伽噺にするみたいに?」
緑をしたハーツの視線がふっとテバの向こうを見通す、いや、弓だ。言葉の選びようを迷うように青い目蓋がせわしく瞬いて、揺らぐ緑の瞳の先は、テバの背にあるオオワシの弓を見ていた。
きっと「族長になってから、戦士の前線にでなくなって夢のかたちに諦めを混ぜてしまったのか」とでも考えているのだろう。
『──この弓は、綺麗に飾られて棚に仕舞われているべきじゃない。オオワシの弓は空を駆けて、この手に届かぬを射落として届かせるために在るものだからだ』
かつて神獣暴走事件の時、当時、誰も扱えるリトがいなかったこの弓をテバはあるハイリア人の剣士に託した。翼なくして空の支配者と堂々渡り合うあの小麦色の髪に空色の目をしたハイリア人の青年は、まるで村に伝わる風の英傑のように颯爽と弦を引いて細を穿ってみせた。
リト伝統の至高の名弓オオワシ。この弓が、飛ぶ鳥なくして壁掛け飾りに甘んじていたのはもう数年前のこと。今は、テバの手にも形作れる相棒となり、星々すら射んとする鳴弦が誇り高く響いては、道を示してくれている。
道。そうだ。俺の道は、あの時よりも少し、先へと進んだ。憧れの先にあった孤高の弓は、共に空を行き戦士の魂を示す象徴として、この背にも、頼れる戦友たちの背にもある。いつでも最新の使い手の元へ渡し継がれる青い布飾りは、いつでも挑戦心を忘れぬ戦士への追い風を示すように揺れている。
「テバ?」
「ああ、分かっている」
テバは友に答えねばならなかった。遠く憧憬の旅路を行く決意を誓った友に、今の自分がどこまでやってきたのか、伝えて、答えて、彼のお墨付きをもらった弓を連れて行く先を明かしてしまう必要があった。
二つ、まばたきをする間、言葉を選んだ。鋼色の目蓋が開けば金の目に迷いはなく、嘴を開く。
「ハーツ、おまえが考えているのとは、少し、違う。俺はいま、こうして村を預かるほどには、鍛え飛ぶことにも一つ余裕ができる域までやってきた。こうして夢への旅路を飛びながらできることを考えてみて……自分の手に掴んだものを数えながら、届かないものに挑み続ける道がここにあったのだという、軌跡を残すことに興味があるだけだ」
「軌跡だと?」
「どれほど遠く離れているように見えても、弓は……この弓は、その届かずを射落として手を届かせるためにある手段なのだと。俺があのハイリア人の友に気付かせられたように。諦めるな、と誰か次の戦士の追い風になる、道しるべの軌跡だ」
ハッとしたようにハーツが目を見開く。伝統。継承。永遠を誓い遂げる約束。寿命の長くないリトにおいてそれらを成立させるその難しさ、それらを支える輝かしさ──憧憬。そういった手腕と苦労には、家業で何千年もの時間を越えて弓の製法を受け継いできた弓職人の方がよく承知していることだろう。
緑の目が丸々としているのを覗きこんでやって、テバは悪戯っぽく嘴の端をあげた。
「そうだ、おまえのことも飾ってやろうか? あちらさん、何でも住宅設備だけでなく彫像も得意らしくてな。博物館の内装にリトの弓職人の伝統的な作業風景ってんで、『実物大の人形に実際の道具を持たせて並べる展示品を作らないか』と言われてるんだ。その人形のモデルにおまえを推薦しとこうか」
サンプルとして見せられた小さな手乗りサイズの魔物のフィギュアの精巧さは見事なものだった。以前にエノキダ氏がとある好き者の依頼で造ったという、イチカラ村の小舞台に飾られた魔物の彫像を元にしているらしい。ウワサでは、イチカラ村の魔物像はまるで本物の魔物がそこに居て動き出すのではないかと思う程に精緻な再現度をしているらしく、新たな名物として旅人の間でも人気と聞く。
実際に生きているリトの姿と共に文化や伝統を伝え残すことができるのならば、それは詩文や口承での伝承をより力強いものとして支えてくれるだろう。
「オイこらテメー……黙ってりゃ俺に断りなく話進めてやがってよォ……」
テバの提案に、ハーツがふるふると肩を震わせて、ばっと顔をあげながら長い前髪をかきあげた。
「……なかなかイカした提案じゃねえの……!もっと早く言えよそういうことはよ!」
「フ、おまえはそういうところが好きだ」
「俺も」
ワッハッハ!と男どもの大笑が響いた。こうしてハーツと未来を語っていると、ガキの頃の悪だくみを思い出すようでこそばゆくも愉快な気持ちになる。テバはゆるむ頬を顎から覆うように片手で押さえた。それでも喉がくつくつ鳴るのは収まらないのだから、春の陽気の浮かれぶりはおそろしい。
ひとしきり笑って、はあーっと息をついたハーツがテバに向き直る。
「だがよ、どうしたって急にそんなことに舵を切ったんだ?」
「そんなこと?」
「土地を保存するだとか、村の伝統の形を殊更に残すとか、資料館を作るだとか、そういうのだよ。昔からお前は、戦士の誇りが続いていくことにはえらくこだわってたが、それは武術のなかで戦士のなかで、お前のなかで極めて終わる話だったろ」
「まあ、そうだな」
「今に思えば、カーンからの引き継ぎで族長になったのだって、急な話だったしよ。“リトの族長”の右腕になって何年か経ったが、俺は未だに驚いてんだぜ?お前が族長になるなんて!」
ハーツはおどけるように言ったが、目付きは真剣だった。
数年前まで、戦士テバと言えば無鉄砲の頑固者、思い込んだら一直線で他が目に入らない、その金の眼が戦士の憧憬を映してしまったからには、もう死ぬその時まで戦いに身を投じてしまう炎の有り様だ……と老若男女から呆れ果てられていたものである。
「燃える炎みたいに御しきれない戦士と名高いおまえが、お行儀よく“籠”に収まって、人の道照らすカンテラのように在り方を変えたんだ。いったい、今度は何を考えた?」
皆が知りたがってるぜ、おいそれと聞けないままここまで来ちまった。懐かしむようにハーツは言う。ずっと一緒に村に居た筈なのに、知らない間にずいぶん物を考えるようになった、とリトの仲間たちは首をかしげながら族長テバを見ていたらしい。
カンテラか。夜を行くための灯りに例えられるのは、なかなか悪い気はしない。それは、人を導くものだ。人を安心させるものだ。テバにとって、いま必要な資質だ。
──そうか、そういうところも、伝えておくべきものか。
この友はいつも、テバの気を配り忘れていた部分を言葉で探して、補ってくれる。
テバは少し考えて、ふとじゃらりと硬質な音のした足元に目をやった。木造建築のリトの村も、火を扱う調理場だけは、床が石張りになっている。色形もまばらな床石が輪郭の凹凸を組み合わせて並んでいる様は、この大地を紙面に起こした地図にも似ている。
地図、地図か。
テバは足先の爪でかつりと石床を叩いた。つられて、ハーツが床に目線を落とす。
「──ハーツは、100年前のリトの村の話を覚えているか?」
「ああ?あー、大厄災の前はもっとリトの数が多くって、居住区画が広くって、見張り台のある基地拠点も哨戒の戦士も大勢居て、リトがヘブラのあちこちで暮らしてた……みたいな話だったか?」
急に話を振り返されて戸惑いながら、「カーンの爺様から英傑様の話と一緒に聞かされた気がするが、あまり覚えてねえな」とハーツは頭をかいている。
「おう、それだ。かつてこのヘブラは今よりももっと沢山のハイリア人やリトが入り交じって暮らしていた。山野渓谷の多いこの土地にも、少ない平地を余さず道沿いには大小様々な村や街が立ち並び、タバンタ大橋は馬車が行き交うほどの大盛況で、今は村の広場にしかなかった英傑様の名も村を越えて広く知れ渡っていたんだ」
「お、おう」
「今や魔王の脅威が祓われ、ゼルダ様やチューリたちが祖先の祈りを受けてとこしえに平和を目指すこの国は、きっと大きくなる。これからのハイラルはすさまじい速度で変わっていくだろう。発展、開拓、交易……リトの戦士とて、技を磨き戦うばかりではいられないほどに」
「そういや近頃は魔物も減ってきてると聞くな。山の獣との付き合いはあるとはいえ、戦士の仕事も減るってもんか」
「外からの人間も増えた。住まう人間が増えれば、山も雪原も渓谷も拓かれていくだろう。この辺境の土地は自然が厳しいから、初めはなかなか移住者は少ないかもしれんが……時間の問題だ。平穏と繁栄が続けば、人が溢れる」
「見てきたように言うじゃねえか」
不思議そうにするハーツに、テバは目元だけで笑った。──本当に見てきたんだ、と言ったら、嘘になるだろうか。
「──以前、リンクに地図を見せてもらったことがある」
「地図?あのプルア殿が作った鳥望台から情報を収集して表示する、“プルアパッド”とかいう板に映るヤツか?」
「少し違うな、1万年前の古代シーカー族が記し遺したという地図情報が入ったシーカーストーンとかいうものだ」
「ああ、プルア殿とロベリー殿が、前に研究対象にしてたってやつの方か」
消えちまったメドーみたいなの、とハーツは言う。神獣ヴァ・メドーは暴走事件の鎮静化の後に、村の塔に止まって翼を拡げ、帰ってきた守り神として相応しい威容を放っていた。
そんなメドーはハイラル城に向けて凄まじい光線を撃ってから、しばらくして忽然と姿を消してしまった。100年前に行方不明になった伝承と同じように文字通り何の痕跡も前触れもなく消えてしまったのだ。これは、リト以外の種族に伝わる各地の神獣にも同じことが起きたらしい。
リトたちの間では、メドーは再び空へと飛び立ったのだとよく言われている。この村もあの大きな鳥にとっては長い旅の通過点に過ぎなかったのだ、ちょうど良い“止まり木”だったのだろう、と。いずれ機があれば、また居心地よい止まり木を思い出して立ち寄ることもあるかもしれないと思えば、その期待の気持ち自体が村を良く維持していく皆の張り合いになる。守り神の残した加護だ。
そして役目を終えたように大地を去ったこの神獣たちと同様に、シーカー族研究者のプルア、ロベリー両氏の研究対象だった古代遺物も、ほとんどが消えてしまったらしいと聞く。
これら消滅騒動が起きる前に、テバはリンクからシーカーストーンを借り受けたことがある。彼の操作のもとにウツシエと呼ばれる映像記録や、それを利用した図鑑などのデータを旅の話と共に見せてもらったのだ。
その中に、地図があった。リンクの旅の足跡に添って地名を浮かび上がらせる、古き地図。
「地図を見比べてみると、100年前の大戦の前と後で、我々リトの土地としてその地図に残された村と飛行訓練場が、本来のリトの縄張りに対してどれほど僅かなものだったかと身に染みたのさ」
もし……100年前に生きていたリトが今のへブラを見たら、きっと荒涼と変わり果てた大地に、自分の故郷を見失って、本物か疑ってしまいそうじゃないか。
「そいつが、俺には少し、……もの足りんと思ってしまってな。ああ、こいつは悔悟だよ」
テバは思ったのだ。たった“これっぽっち”を護るために、あの英雄は命を散らしたのか。一瞬でもそう過った自分を恥じた。否。そうではない。けしてこの大地からリトの故郷の存在を消さぬために、彼は戦ったのだ。
魔王の軍勢に侵され、人が散り散りになり、大地が荒れ果て、城が崩れようとも……このハイラルにはいつまでも“国”がある。
たしかに残る山河。人々がつむぐ伝承。地図にはいつまでも古きハイラルの御名があり、俺たちはどれほど辛い別れや敗北があろうとも、その縁だけは失くしてはならないと抗ってきた人々のお蔭で、生きている。
どれほど荒廃が続いても、国という形有る限り、自分が生まれ育んでくれたたしかな居場所がある、という誇りと安堵を失わずにいられるのだ。
それと同じように。死地にあっても背を向けず戦い抜いた彼が見ていたのは、リトの村という小さな“国”だ。
かつての祖先が守り通してきたこの故郷を、生かされ受け取った俺たちは誇りを研ぎ澄まして、その成長を、変化を、よりよい存続を求める明日を、諦めてはならないのだ。
「これから俺たちの生きる時代のリトの痕跡は、地図にどれだけ残るだろうか。100年、1000年と先の同胞たちが見下ろした時に、俺たちの残した翼はどれだけ自由を語っていられるだろうか。そんなふうに思った」
「それで博物館を作って、しっかり記録に残そうってかァ?」
ハーツがようやく得心したようにぼやく。過程と理屈は理解しても、テバがそう至るほどの思いきりの強さに追いつかないといった声音だった。呆けたよな問いに、テバは悠々と笑んで頷く。
「ああ。こないだ“地上絵”というのが見つかっただろう。あれはなかなか洒落ていると思ったんだ。空から見下ろした時に分かりやすい威容に加えて、どこか親しみぶかい懐かしさがある。──あれくらいでかい軌跡を残せたら、空行く民の誰もが想い馳せると思わないか」
「そりゃまたでっけえ話だな……」
ハイラルを襲った未曽有の天変地異に際して大地のあちこちに現れた白線図──“地上絵”を発見したのは、空を飛んで旅をしていたリトだった。地面に不思議な線が現れたことに気が付いた人間は地を行く民にも居たが、それが何か伝える意味を持った“絵”であると気が付いたのは、空高くから大地を見下ろした翼の民が最初だったのだ。
テバはエノキダ工務店への依頼に「建物としての機能性を損なわないようにしながら、天上から見た時に意味のある造形にする」という注文をつけた。
いつか遥か未来の空からこの故郷を見やる誰か、もしくは今も見守っているかもしれない誰かにも、あの壮大な地上絵のように何かが伝わってほしいと願った。
「きっと俺たちの暮らしも、誇りの示す在りようも変わっていくだろう。悪いことじゃない。だが、俺は、そこに始まりがあり、変わり行くものがあったのだと伝えたい。始まりに種火があったからこそ、夜を怖れず燃え続けた炎がここまで道を照らし広げたのだという敬意を、いつかこの先の誰かにも知ってほしいんだ」
この先の未来で同じ気持ちを抱けとまで望むのは高望みだろうか。それでも、リトの翼が高みを目指してきた軌跡を知ることで、琴線に触れるような思いを一瞬でも覚えてくれる誰かがいるならば、その可能性が生まれるのならば、きっと意味はある。俺たちは、青い夜明けにも赤い闇の中にも見上げた星を、いつまでも覚えているのだと。
「それにだ。──リトの男ならば、歴史に轟く名を残してみたいと志すのは、当然だろう?」
忘れぬように、証を立てよう。憧れた魂のさけぶ歌を刻んだ碑を。時の濁流にのみ込まれようとも、その碑がある限り水流を割き水面を叩く波濤が名をささやくように。決して消えぬその碑を守り抱くために、どれほど遠く変わり果てた高い空からでも見つけられる故郷があるように。
100年、できてきたことだ。だが甘んじては遅れるだろう。我らは知っている、翡翠の風が振り向くのは一度だけ、追う者を信じるゆえに進み続けるのだ。
はるか古代に先人が託したというアマノトリフネの伝承は、当時の賢者が持てる限りを尽くしてリト達の営みの中に伝え残され、唄うリトの声伝いに浮かび、今も天におわしているという。
ならば、俺たちは? 戦士は問う。
賢者が立ち、魔王を退け、先人たる彼らの命を以ってあがなわれた大地を受け継ぐ意志をとこしえにと臨む我々は?
「──ならば、今を生きる俺たちは、より確かに続く魂を強く、深く大地に刻み、清々しく天へ打ち上げて見せるべきだ」
戦士の答えは明瞭だ。100年の闇の中に星を求め、答え続けてきた問いを、未来に向けるだけのことだ。暗中飛行は慣れている、向かい風も嵐も尽きない空にはずいぶん親しんできた。すべてはあの日の憧れを越えるため。魂の限り果て無き空の星を追う──想いは変わらず、ただ、目標地点が定まった。この未来の誰かに伝えるために、俺は弓鳴りと搏翔で道を引きこの血の最後の一滴までを使って軌跡を編むのだと。
「そのための道行きだ、このくらいの困難で停滞してはいられん。俺も、俺たちの村も」
白い翼が差し出される。黒い翼が迷うようにそれに重ねられようとして、ふいと嘴の前に指をさす。
「この業突張りめ。俺の名も忘れずに残すんだろうな?」
「無論だ、相棒。頼りにしてるさ。俺一人でできることじゃない」
「フン、突っ走る前にそう言えるようになっただけ、俺もさんざ骨折り損をしてきた甲斐があったかね……ったく」
ため息とともに白黒の翼が交わされた。戦士は嬉しそうに笑った。呆れたような素振りを見せる旧友もまた笑っている。ざあざあとまた風が吹いた。勢いばかりが先んじる春の風は、大地を洗い魂を撫で、翼の民をより高い空へと駆り立てる。
「あーあ。せっかくのめでたい日くらいしっかり休めるかと思ったが、こうも族長サマから期待されちゃア、一仕事してこなきゃ羽根の据わりが悪いったらないぜ」
「何も今日からすぐにやってくれとは俺も言わんぞ。まだまだどこも相談段階なんだしな」
「馬ァ鹿、こういう人間付き合いは早くから小まめに顔なり便りなりで意思表示を出しとくのが肝心なんだよ。それに、モモたちから『しっかりお腹をすかして帰って来て』とも言われてるしな」
「そういうものか?……おまえの苦労性も筋金入りだな」
「誰のせいだ、誰の!」
冗談めかして感心してみせれば、ぱあんと手を叩き落とすように離されて、衝撃がびりびりと手のひらに残る。羽毛の厚い翼の手をして小気味の良い音が鳴った、相変わらずこの相棒の手出しは容赦がない。まったく、と形ばかりの不機嫌顔でかぶりを振るハーツも、すぐには緩んだ目元を直せはしないらしい。お互い、意地張り嘴先勝負もここまでだろう、本当のところこれ以上一緒にいたら、浮かれた気分でバカ騒ぎを始めてしまいそうなのが分かっている。
テバにも増してカッコつけのこの相棒は、そういうタイミングを承知していて、そそくさと距離を取るのが上手い。この度も良い音を鳴らした手をひらひら振って退散しようとした黒い後ろ頭が、板張りの廊下の方を向きかけて、ふと止まった。
「そういや、さっきから不思議に思ってたんだが……」
「なんだ?」
ハーツがぐるりとテバとその周りを見渡した。内務の増えたとはいえ鎧を着込み弓を背負ってかかさない壮年の戦士が、ナベに皿に木のお玉に水汲み桶や食材と囲まれて、似合わぬ調理場の三角イスにどんと構えている。
有り体に言って、浮いている。新婚の頃から滅多なこと以外では炊事は妻に任せきりの修行一辺倒、囲炉裏の火を見るよりも訓練場の吹雪に安心を覚えるような身体のどこを切っても戦士の顔しかなさそうだった男が、村の調理場でのんべんだらりと暇な隠居オヤジのように座っている。
額に五本の長い冠羽がそよぐのは麦穂にも似ているか、いや流石に無理がある。
「お前、なんで調理場で休んでんだ?飯でも食いに来たのか?」
「いや、ちょっと料理をしててな」
「料理ィ?サキちゃんの作るもんがどれだけ失敗しても何でも食って『美味い』としか言わないせいで、新婚早々に奥さんノイローゼにさせかけてた、お前が?」
「新婚って、一体いつの話を掘り起こしてんだ!……別にいいだろう。褒めるのが下手でも、自分で料理をしてみるくらい」
「いや、文句つけるつもりはねえけど……」
首をかしげながらもハーツは「ま、後で聞かせろよ。良い酒があるんだ。俺もちょっくら良い首尾を掴んで肴にできるよう一仕事してくるぜ」と片手をあげて出て行く。
まずは手土産の選定だ、と呟いていたから、ちゅん天堂や紅孔雀に贈答用の食材や織物なんかを確認してくるのだろう。もしかしたら、今日中にひとっ飛びして自分で挨拶に向かうかもしれない。あいつも随分、羽根が軽くなったものだ。今の身のこなしで戦えば、あいつがまだ現役戦士だった頃よりもいい勝負ができそうだ。
──俺も、変わっていく。そうしていつか、憧れた道の隣に追いつく、はずだ。
頼もしい相棒の背を見送りながら、テバはふと春風の気配が強くこちらに向かっていることに気が付いた。舞う花びらを引き連れて、山野の青さと氷雪の冷えた空気が首を掠める、春告げの風だ。
とたたたと軽快な足音が村の木張りの回廊を駆けあがってくる。びゅんと一度は調理場の前を過ぎ去った白黒毛玉の風が、つむじ風のように舞い戻ってきて、白い冠長の猛禽のかたちになる──目視からの反応速度も上々、見事な旋回だ、また飛翔の速さと小回りの良さが上がったか。
「あーっ!父ちゃん、もう食べてる!」
そんなことを考えていたら、羽毛を膨らませた小鳥のような高い声がテバを非難した。チューリだ。どうやら子供たちが春告げの役目を果たすのを待たずに、テバがつまみ食いをしたと勘違いしているらしい。
「まだ、食べてないぞ」
「手の甲にジャムの赤いのついてるのバレバレだよ!も~っ!」
「いやこれは、食べた時のじゃ無くてな……」
テバは弁明をしようとしたが、チューリは完全に立腹して腕を振り上げてピョコピョコ遺憾の意を示している。こうなるとなかなか話を聞き入れることはない。どうも父親の悪いところが似て、一度思い込むとなかなか話が通じないのだ。
「オイラたちお祭りの準備でまだお菓子食べてないのに、父ちゃんだけずるいや!」
「?ずるいこたあ無いだろう、リンクに持たせた分はどうした?」
「え、リンク?」
リンクの名前を出した途端、チューリの青い目がきょろんと丸く理性的になった。まったくこの息子は実の父親よりも、勇者と呼び声名高いハイリア人に信頼を置いている……ふとテバは自分の幼い頃を思い出した。そういえば、自分もガキの時分は「何かと“英傑様”と言えば聞き分けがよくなったものだ」等と言われていた。こんなところでも親子で似てしまうものか。
──破天荒なリトの男子には、憧憬が良い手綱になる。
今のチューリにとっては、テバにとってのリトの英傑のような存在が、あのハイリア人の勇者リンクなのだろう。彼の憧れのうちで大きく比重を占めているのだ。その理由が、100年前の英傑様と肩を並べた強者であることを端とするのは、確認するまでもなくテバも知っている。
──本当によい導き手になってくれたものだ。
チューリは蒼穹のような染めの大弓の手入れと共に、弓柄に巻き付けた青い衣をいつも丁寧に整えている。まだまだ見下ろすほど小さな我が子の背に青い布飾りの大弓が揺れる様子を見る度、テバは胸に言葉がつまって熱く溶け出すような、言い知れない誇らしさを思う。
「父ちゃん?」
「……いや。ぼうっとしてただけだ。春の陽気に当てられたかな」
「……なら、いいけど。前みたいに、またこっそり自分の分だけご飯減らしてフラフラしてるんじゃないかと思っちゃうよ」
「あれは……判断を誤ったと思っている。本当に」
チューリが言っているのは、先の猛吹雪の食糧難の時、テバが自分に振り分けられる分の食料を外回りに出るリトや子供たちに再分配していたことだ。取り纏め役として村でじっとしている自分よりも外で活動している仲間や食べ盛りの子供たちに食料を行き渡らせる方が良いと判断したのだ。結果として、指示を出している最中にふらりと立ち眩みをして、妻のサキや相棒のハーツから嘴を青くして問い詰められて、テバのやせ我慢が露見した。あれはあまり思い出したくない、子供達が健気に村のために働く中で、一人だけ丸一日寝床に押し込まれてただでさえ足りない飯を食わされていた時の気分の滅入ることといったら、恥のあまりに入る穴を掘りたくなるほどだった。
テバが苦い顔をしているのを見てチューリは溜飲を下げたのか、さして追及もなく本題の話を促してくる。
「それで、リンクがどうしたの?」
「いやな、祭りの主役はおまえたちだ。ならばおまえたちが一番に菓子にありつけるのが筋だろう?だから、おまえたちが村に戻ってきたらすぐ配れるように用意を進めていたんだ。リンクに頼んで、出来立てを届けてやってほしいとな」
「でも、オイラが会ったときのリンク、何にも持ってなかったよ?」
「何?おかしいな、丁度このジャムを拵えてる時にアイツが寄ったから、瓶に入りきらない分を菓子に挟んで、おまえとリンクとゼルダ様たちの分を入れた籠を渡したんだが……」
「んん……?あっ!そういえば、会って早々なんかリンクが 『風にとられた!』 って探し物に走ってったから、それかも」
「探し物?アイツは今どこにいるんだ?」
「えーと、一目散に“メドーの止まり木”の方まで登ってたみたいだった」
言ったチューリも、テバと同時に首をかしげた。いくら風の自由にすさぶリトの村でも、ジャム入りの菓子が入った重さのある籠があんな高い場所まで風にさらわれるとは考えにくい。仮に誰かが盗って逃げたとしても、あんな逃げ場のない場所に向かう盗っ人がいるものだろうか。飛べない他種族の集落ならまだしも、ここは翼の民リトの村だ。あの青い空の目をしたハイリア人の戦友の奇抜な行動は、まったく腑に落ちない。
「リンクって時々まるで未来が見えてるみたいにヘンなことするし、何か言えないワケがあったのかな?また賢者の力が必要な危機が迫ってるとか……」
でも秘石は反応してないなあ、とチューリは腕を組み、秘石のミサンガがついた片足をとんとんと地面に打ちならした。翡翠にも似た緑の淡い輝きをした緑の秘石は、以前にチューリが猛然とハイラル城の深穴へと飛び出していった時のような変化はない。
「まあ、いい。どうせ一人一つじゃおまえもリンクも足りんだろうと思っていたからな。このバスケットをゼルダ様のところにお持ちするついでに、リンクも呼び戻してきてくれ」
バスケットにはもちろん、いちごのジャムの瓶が二つ、木の匙と皿が人数分に、焼き上がったばかりで卵黄を塗った部分の焼き目がつやつやと輝く堅焼きの小麦色の鳥がたっぷりと詰められている。
「わかった!オイラも食べてもいいよね?」
「ああ。だが、あとでゲンコがスペシャルブレンド茶を淹れてくるそうだ、あまりがっついて茶が出る前に食べ尽くしてくれるなよ?」
「だいじょーぶ大丈夫!オイラちゃんと見張ってるから!」
リンクの大食らいよりも浮かれたチューリの食べすぎを心配したのだが、あまり伝わっていないようだ。軽快に駆けていく若鳥の背を、父の八の字の眉が呆れたように見送る。
ついていく方がよかったか。こんなときこそハーツがいれば。あれこれ考え、テバは顎をさすった。
リンクがいれば大丈夫だろう。あのハイリア人の友人は奔放な旅人でありながら要の礼節を知っているし、ティータイムでもよくチューリの手本となってくれるに違いない。
そうして忙しい足音が遠ざかったと思えば、今度は草木を踏むのを避けるような淑やかな足音が近づいてくる。
「あなた、チューリはもう皆様のところに?」
妻のサキだ。彼女は数日前から村の女たちを仕切って祭りの菓子や料理の準備をしていて、テバとはしばらく顔を合わせる暇もなかった。外からの物資搬入と荷解きの易さを考えてリリトト湖の外縁部に臨時の炊事場を立てていたから、お互い仕事を終えて家へ戻ればどちらか寝入っていて、起きた時もどちらかいない。朝に来賓であるゼルダ姫たちへの挨拶を揃ってした時にようやく元気そうな顔が見れたくらいだ。
村内の調理場の汲み置きの水桶や調理器具の配置が換わっているのを見て、少し首をかしげながらサキは隣にやってくる。
「ああ、ジャムも菓子も一通り捌けたよ。おまえも俺に付き合っての朝から客人への挨拶に祭りの料理の手配に立ち通しだろう、手狭だが、今はここが一番人目もない、ゆっくりしたらどうだ」
「あなたは?」
「俺も休む。そろそろ小腹も空いた」
「じゃあ、私たちも一緒にお茶にしましょうか」
いそいそとサキがティーポットの準備をし始める。「水桶はさっき汲んで来たばかりだから使っていい」と言えば、ぱっと顔をほころばせた。「ハミラさんのところの娘さんたちからお茶っ葉を分けて貰ったんですよ」と言ってへブラでは見ない柄をした茶葉の袋をゆすって見せる顔は実に楽しそうだ。自分が族長となってから、根っからの心配性の先を我が子だけでなく村全体へと拡げた妻は、寧ろ以前よりも溌剌とした空気を纏うようになった。心配に顔を曇らせてばかりだった彼女に笑顔が増えたのは族長仕事のいいところだろうか、とテバは肩をごきりと鳴らしながら伸びをした。
「ゲンコちゃんのスペシャルブレンドではないけれど……ゼルダ様に教えていただいて、リラックスできるお茶の組み合わせを選んできたんです」
「ん、香りは既に十分良いな」
「味の方も期待してちょうだい」
「大きく出たな。ま、楽しみにさしてもらおう」
かちゃかちゃとティーセットの整えられていく音を聞きながら息を吸い込めば、春風に混じって異国情緒あふれる乾燥した草葉の匂い。微かに潮の香りも混じっているから、海辺の土地で飲まれる茶葉なのだろうか。
ハミラとカッシーワのところの五つ子の姉妹たちは、近頃、旅がらすの吟遊詩人の父親があちこちの土地で土産に買い集めてきた茶葉をブレンドするのに凝っているらしい。姉妹それぞれで村人や旅人に試飲を配り、一番評判の良かったものをちゅん天堂で仕入れる新商品にするのだと言っていた。
テバも物資確認の傍らで何度か飲んだことがある。しかし普段飲み慣れないものの味は良し悪しの判断がつかなかった。「どれも旨い」と正直に言ったら、「やっぱり?」「そうだよねえ」「全部商品にしちゃおっか?」「日替わりブレンドとかどう?」「それ“名物”っぽい!」とテバそっちのけで姉妹たちはかしましく会議をしていたので、そのうち族長会議の出張で土産物として持っていく日もあるだろう。
そして彼女たちの父親の吟遊詩人は祭りの今も不在だ。よほど旅が性に合っているらしい。あの楽士殿の華やかな音楽はきっとこういう時に村に響いているのがよく似合っただろうに、と少し惜しい気持ちがする。便りが無いのは元気の報せだとハミラは笑っていたが、放浪が過ぎるのも考え物だ。それに、姉妹のうちの誰かが「茶葉が決まれば、いつか父の旅路について行って仕入れに行くのだ」と言っていた。そうなれば、リトの村は増して寂しくなるだろう。
風の音、鳥の聲、湖のせせらぎ。
木板の軋む鈍い響き、からから回る風車の軽やかな響き。
耳を澄まして、高い子らの声や豪奢なアコーディオンの奏でる楽の音に思い馳せれば、どうにも今の村では物足りない気がしてくる。
そんなことを考えてテバが耳羽を弄っていると、ぐう、と腹が新しい音を提供した。それを聞いて、隣に座っていたサキがそわそわと立ち上がろうとする。
「お茶を蒸らす間に、何か食べますか? といっても、すぐに出せるのはヒバリのパンくらいかしら。ジャムは皆に配ってしまいましたし、倉まで取りに行かないと……」
「待て、休めと言ってるのにそうこまこま働きすぎるな──ジャムは俺が用意したのがある」
「あなたが?自分で?」
軽食の準備をしようとしていた妻が青い目を瞬かせた。証拠を示すようにテバがジャムを詰めたビンを差し出すと、その目はさらに丸くなった。顎で促すと、藤色の指がビンの口元の青いリボンを解いてきゅぽんと蓋を取る。ふわりと甘酸っぱい匂いがこぼれた。
「あら、おいしそう。まだほんのり温かいわ。こちらはいつもと違うジャムですね?」
妻から焼き菓子と木の匙を貰って、ジャムを塗る。潰しが甘いいちごの涙形を残したままの果肉から垂れる真っ赤な蜜が、夕の日差しを閉じ込めたようにてらりと光って、よく焼けた小麦色の生地にしみ入る。
一口かじれば記憶に違わず、思い出を少しはみ出す、普段のジャムとは異なる鮮やかな甘さ。祭りの時だけに食べられるジャムのとっておきな味わいに満足しながら、テバは目を細めた。
「ああ。特別なんだ」
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