風のメノウ 前編 イチゴ飴のお代にね、お金じゃなくて、上等な矢羽根になりそうな鷹羽を渡していったお兄ちゃんがいたんだよと、屋台の店番を手伝っていた緑羽のリトの少女が言った。
それはきっと祖先の霊が風の化身となってお祭りを見に来たのでしょうと、父親の吟遊詩人は微笑んで、勇ましげな曲で手風琴を鳴らした。
◇
天変地異から一年が経った春は、リトの村を瞬く間に過ぎ去った。
「おみず流すよー!」
弾む声と共に頭上から落ちてくる水飛沫を、チューリはぶるりと大きく頭を振って払った。撥水性の高い羽毛から滑り飛んだ水飛沫が、あちこちの緑の若葉にまで乗っかって、ここにだけ雨が降ったみたい。あちこち隙間に潜り込んでホコリだらけにヨレていた羽毛が、しゃっきりと引き締まる思いがした。
「もういっちょ行くよ~!」
第二波の滝水は、少し中心を受け止め損ねて、チューリの長い冠羽をくたりとさせた。身体を洗って足元から方々に流れ散っていく水が、ホコリ混じりの黒ずんだものから透明な水流に変わったのを見て、ふうっと一息をつく。
「よし、だいぶキレイになったね!」
村の上階のせり出しから、さっきまで水の入っていたバケツを持った赤い羽根のリトの少女がくすくすと笑っている。村の五人姉妹の長女、ナンだ。彼女がリリトト湖から汲んできたばかりの冷たい水が、チューリの身体中の羽先に付いた汚れを洗い流してくれたのである。
「“チューリくん洗い”で、村のお掃除もおしまいだね」
今日は、村の大洗いの日だ。今まで午前中いっぱい、岩島に螺旋階段が取り付くような木造建築をしたリトの村を、リト族総出でピカピカに洗い流して拭き浄める大掃除を執り行っていたのだ。
「もう一杯かけてくれてもいいのに。村中の床下もぐり込んで、あっついんだもん」チューリは翼の手うちわでぱたぱたと自分を扇ぎながら、心底残念そうに言った。
「チューリくんの羽、ホコリがくっついて取れるのが見てわかりやすいからって、みんなが狭いところのお掃除確認頼んでたもんねえ」上階からしゃがみこんで見下ろしている少女ナンは、しみじみと苦労をねぎらうように頷いた。
最初は、ちょっと女神像の裏を見といて、だとか、手すりの下の掃除をお願いね、とかだったのだ。若くて目が良いから、低いところもしゃがまなくてもいいから、と褒められたりノせられたりしているうちに、あれよあれよと村中のスミっこのホコリと仲良くする羽目になってしまった。
流石に途中で「オイラの翼は羽箒じゃないよ!?」と苦情を訴えた。だが父テバもその友人のハーツも「俺らも通った道だ、諦めろ」とニヤニヤ笑うばかりで、ちっともチューリに味方してくれなかったのである。こんな白黒羽の苦労が継承されるなんて聞いてないよ、とチューリはいつもは自慢の翼がちょっぴり恨めしくなったものだった。
「まっ、楽しかったからいいけどさっ。ナン!バケツの数は足りてる?」
「だいじょーぶ!それより、ねえ、そろそろ広場の風カンナ始まるよ。お客さんも来始めてるし、ハーツおじさんが準備してた。水気を払ったら、急いでね!」
「ふふん、オイラ水浴び上がりの羽根乾かしだって、一番なんだよ!」
素早く息を吸って、目をぎゅっと閉じる。そうしたら次は羽をぶわりと開いて回転させるイメージだ。
ぶるぶると勢いよく全身を震わせて、撥水性の高い羽から水滴を滑らせる。
「わっ、こっちまで水が跳ねてきたんだけど!」
「うーん、七分乾きってところかなー」
「もー、張り切りすぎて洗濯物にまで水を飛ばさないようにね!」
呆れ声は親しげに笑っている。赤い翼がひらりと羽ばたいて、足でバケツの取っ手を掴んでリリトト湖の対岸へ向かって飛んでいった。リリトト湖の外周に新設された備品倉庫にバケツを返しに行くのだろう。
昨年の天変地異の猛吹雪で、リトの村はあわや陸の孤島という窮地に立たされた。日頃は自分たちの内々で生活を立ててきたリトたちも、外の人々からの支援を受けて生き延びたのだ。
その反省から、タバンタのあちこちにリトの村の管理する備蓄用倉庫が点在するようになった。防災の備えだ。今年に入ってから本格的に計画が動き出して、橋を架け直したり、外との取引を強化したり、他にもチューリの知らないところで、族長たちが色々やっているらしい。
「オイラも身支度を整えたら、手伝いに戻らなくっちゃ」
冬が明けたら、雪は雨になる。氷は水になる。大地を洗い流して、若葉がピカピカ繁るまでに、リトたちも大急ぎで換羽が必要だ。
去年はブリザゲイラの吹雪のせいで少し遅めの雪解けを迎えたリトの村も、今年の春は心機一転、みずみずしい活気に満ちている。端的に言って、忙しい。いや天変地異からの復興に駆け回っていた去年だって忙しかったのだけど、追われる必死なそれよりも、積極的に外につながる活動を始めた今年は、やりたいことの意識が強い分、自覚できる忙しさを感じる。チューリやナンたちも一人前として数えられて、村の行事の運営に走り回っている。遊ぶ時間は減ったけど、仕事を学ぶ度に面白いことが増えていて、苦ではない。
たぶん友達の皆も同じ気持ち。
──大洗いが終わったら、春のつぎ、かあ。
春が過ぎて夏が来るまえに、外では梅雨という雨季があるそうだ。だが、からっ風吹きすさぶタバンタはリトの村では、変わらず雨は傘なんてものを持つのが馬鹿らしいほど縁がない、珍しいものだった。
──もし雨がどっさり降ったら、オイラたちが大洗いをしなくても、村中ピカピカに洗い流せるのかな?
でも、少し寂しい。いやすごく寂しい。みんなで村中の板の裏や屋根上をあちこち飛び回り潜り込み、確かめて回りながら掃除をするのは、かくれ鬼をしているみたいでワクワクするのだ。
掃除と点検が終わったら小さなお祭りがあって、屋台のお店も出るし、兄弟岩のところでのど自慢の老若男女のリトたちが歌のステージをしていて、賑やかなハレの日なのだ。
──リトのご先祖たちも、オイラたちの大洗いを見て、安心してくれるのかな。
リトの村の居住スペースは、100年前から変わらない形のままの伝統建築だ。外に家が増えることはあっても、減ることはない。それより前のことはチューリにはまだわからないが、たぶん、このメドーの止まり木岩のある辺りの村の様子はそんなに変わっていないと思う。
──雨雲がかかってたら、天の上のご先祖たちから地上のオイラたちの賑やかさが見えなくなっちゃうかもだし。
やっぱり、雨じゃなくて良かった。オイラたちで力いっぱい村をキレイにして、ぱーっとお祭りができる方がきっと良い。
もう一回、ぶるぶると全身の羽を震わせる。毛先は少しだけしんなりと束を作っているけど、滴るほどの水気は飛んでいった感覚がある。
「よーし、これならもう服を着ても大丈夫そう」
茂みを盾にして濡れないように置いておいた服を手に取る。身体にぴったりと馴染んで飛行の邪魔にならない皮鎧に、母ちゃんの選んでくれた緑のスカーフ。お守りつきの矢筒に、それから父ちゃんがくれた大事な弓。弓に結わえ付けられている青い衣に、染みやヨレがないことを慎重に確かめて、ほっと息をつく。
服のベルトと、武器を背負うかけ紐をきゅっと締め直して、戦士の着付けはばっちりだ。いつでも皮鎧を着て出られる状態にしているのは、戦士の心構えなのだと、先輩たちから教わったものだ。
最後に後ろ髪を編み紐でくるりと結わえて、おくれ毛がないかはたはた手で確認している時、チューリは頬の跳ねっ返りの羽毛にぴくりと感じるものがあった。
──びゅう、と誰かの翼が風を受ける音がする。それと、厚手の布のはためく音。二つ分だ。リトや鳥の翼ほどの柔軟さはなくて、片方は滑空に慣れてないヒトなのか風乗りがちょっとぎこちない感じもする。
「おーい」
声がした。聞きなれた声だ。何度もチューリが風を送って、不可能を打破する天空の冒険を一緒にした、大好きで憧れてる戦友の声!
「オイラ、ここだよっ!」
見上げればパラセールを拡げて上階の広場に着地しようとするハイリア人の男女が二人。この湖の孤島のリトの村に、空からやって来るハイリア人は限られている。
チューリはワクワクした気持ちで広場まで飛び上がった。
◇
垂直上昇は、見事に空からのお客人たちの意表を突いて、丸く広がった眼が青の二つと緑の二つ。チューリはしたりと自慢気な笑顔を浮かべて、ふわりと広場の欄干に着地してみせた。
「どう?オイラのチューリトルネード!なかなかでしょ?」
「驚きました……階下から突然、目の前にあなたの姿が現れたものですから」
「リーバルみたいだった」
長い耳に金の髪をした男女が二人、チューリの飛行技術を褒める。退魔の剣の勇者リンク、そしてハイラル王家の姫ゼルダは、ハイラルの大地の恩人でありリトの村の恩人であり、チューリの戦友だ。
とりわけ、彼らは伝説の英傑様と“同じ時代を生きていた”のだから、その褒め言葉がおべっかじゃない本当だとわかって、リトの少年の胸にぽこぽこ嬉しさが湧いてくる。
「へへ……リンク!それにゼルダ姫様も!リトの村にようこそ!二人も広場の風カンナ、観に来たの?」
「そう。リーバル広場の改修工事をするって聞いて、手伝いたくて」
「風カンナというのは……リトで発達した木工技術の一つでしたか?風圧によって、ごく浅い表面の汚損だけを吹き払うという……」
「そう!カンナだけど、刃がついてるわけじゃないんだ。ヒスイの石の力を借りて、リトが風を起こす力をぎゅっと凝縮して放出すると、まるでカンナをかけたみたいにうすーく汚れを吹き飛ばせるんだよ!」
両の翼を空に突き上げて、チューリは一生懸命と説明をした。二人がお客人として来ると聞いてから、ハーツや職人たちに講義を受けて、上手く話せるようにこっそり練習していたのだ。
「ふふ、100年前から変わらない形を残しているリーバル広場の掃除は、大洗いの日でもとっておきの最後の一大イベントだと聞きました」
ゼルダは楽しそうに耳を傾けている。リンクはそんなゼルダとチューリの話し込む姿を微笑ましそうに見つめる。
リーバル広場の手入れは特別で、職人たちがリトの風の力を組み込んだ特殊な工具で、繊細な風圧で汚れや傷みを吹き払う作業をする。
その道具が風カンナと呼ばれているのだ。
木材の材質に合わせて、目の荒さの違うおが屑や油、薬剤を調合した特別な木粉を一緒に吹き付けることで、元の材木を傷つけずに、古い塗料や汚れだけを薄く吹き削ることができる。
風の力の注ぎ込み方の調整や傷み具合の目視判別など、習練して身につける技術が必要な職人仕事は、これを見るために他所から人がやって来る、ちょっとしたリトの伝統名物だ。
「話に聞いてはいましたが、実物を見るのは初めて。リトの木工技術はハイラルいちと名高いですから、実はとても楽しみにしていたんです」
胸の前で両の手を合わせて、ゼルダは弾んだ声で語る。王家の末裔として国家復興のために賢者たちと誓いを交わした今でも、彼女の知的好奇心が旺盛なところは変わっていない。
「シーカー族の技術と合わせて、遺跡の発掘や廃墟からの歴史資料の救出などの目的に転用できる可能性もありますし、エノキダ工務店でも住宅販売のアフターサービスとしてクリーンリペアで長く木造建築物を保全する技術に注目しています。いずれ私たちの復興事業にリトの職人の皆さんのお力添えをお願いする日も来るでしょう、今からよく学んでおかなくては……」
チューリが「ゼルダ姫様は物知りだね」と目をくりくりさせる横で、リンクが少し悪戯っぽく笑って「でもね」と言う。
「あんまりにも楽しみにしすぎて、広場の修繕を手伝うんだと張り切り出してから、彼女はハテノの塗料と染料をありったけ買って持っていこうとしてたんだよ」
「あのインパがお説教をしそうになるくらい浮かれてた」と続けて呟いたリンクに、それまで意気込んでいたゼルダの笑顔がぴしりと固まって目を丸く見開き、顔を赤くする。
「い、今はもう反省しています。その、東風屋さんには無茶を言ってしまいましたね……」
しおしおと縮こまるゼルダに対して、「皆、姫様のこういう話も聞きたいんだよ」とリンクがどこかズレたフォローをする。インパというのは、カカリコ村に住むシーカー族の先代族長の名前だと聞いた。チューリが知っている範囲では、その人は長生きなおばあちゃんで、リトの英傑と同じように100年前のリンクたちと一緒の時代を過ごしたそうだ。今度会いに行って英傑様の話を聞いてみたい、とチューリは思っている。
「オイラも聞きたい。だって、リンクやゼルダ姫様がオイラたちの大事な弓や技、故郷のお祭りのこと、一緒に大事にしてくれるの、嬉しいもん」
テューリがそう言うと、リンクは満足げに頷き、ゼルダも困り笑顔ながらどこかほっとしたように頬を緩めた。
チューリはただ、リンクとゼルダが、故郷の職人たちの技を知ってくれていることが、嬉しかった。
「ゼルダ姫様!リンク!」
「あ、父ちゃんたちだ」
低く朗々とした声に、広場の一同が振り向く。いち早く反応したのはチューリだ。父母を呼ぶ声は、少し子供の甘えた声音の響きを引きずっている。螺旋作りの村の廊下から、妻のサキを伴って、リトの村の族長のテバが少し急ぎ足でやって来ている。
「遅いよう!」とじゃれついて文句を飛ばす息子に、「おまえが戻ってこなけりゃ始まらんから待ってたんだ」とテバの大きな白黒鷹縞もようの翼がぽんぽんと頭を撫でる。
「あなたたちは、もう。まずはお客様にご挨拶が遅れたお詫びでしょう?……お二人とも、お出迎えが遅れて申し訳ありません。遠方からよくお越しになってくださいました」
夫と息子を嗜めながら、撫子色の髪を揺らして妻のサキが深くお辞儀をする。続くようにテバが頭を下げると、チューリもぎこちないながらぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、かしこまらずとも、以前と変わらず接して構いません。私たちは皆ハイラルの明日を担う同志ですから」
サキの礼儀にゼルダも丁重に応える。リンクはこのようなときは旅する冒険者ではなく、自らは下がって主を立てる騎士のような所作で静かに控えている。もちろん、姫の言葉に同意する気持ちあってのことだ。
「では、お言葉に甘えさせていただこう」とテバが少し申し訳なさそうに長い眉を困らせて苦笑した。テバの言葉に合わせて「自分も」とリンクがテバの方に拳を軽く突き出した。応えてテバもまた翼の手を拳と握り、軽く小突き合わせる。
かつて大事件に共闘した戦友同士、飾らない無骨な性質もどこか気が合うのだろう。「オイラも!」とうずうずして真似をするように一回り小さいチューリの翼が突き出される。一同がふっと微笑ましさに明るい笑みを浮かべながら、リンクとチューリの二人が兄弟のように拳を突き合わせて笑い合う様を見守った。
「しかし“パラセールで来る”とは聞いてたが……まさかゼルダ姫様も一緒に空からとはな」感心したようにテバは腕を組んで頷き、彼の背よりも小柄なハイリアのお客人の顔を覗き込むように少し背を曲げる。
「なかなか格好よかったでしょ」リンクは澄まし顔で答える。
「ああ、まるで英傑様が大厄災の日に飛んできた伝説みたいだった」
「さすが、パラセールになってもそこは目敏いね」
「パラセール?伝説?」知らない話が出てきた、とチューリが嘴を挟む。
テバがちょっと肩を竦めて妻に目配せし、サキは嘴許に手をやり上品にふふ、と笑う。村の上階からリンクたちが降り立つのを見ていた両親たちは、話が何のことかわかっているらしい。
そういえば、前に見た時と少しパラセールの布地の色味が違っていたような気がする、とチューリはリンクたちの滑空姿を思い出す。チューリだけ下から見上げていたから、リンクたちの身体で隠れてよく見えなかったのだ。
「オイラだけ仲間外れ?やだな、早く教えてよう!」
ふふん、とゼルダとリンクの二人が悪戯を企むような顔を見合わせて、“何か”を後ろ手に持った。待たされるチューリはくりくりと丸い目を瞬かせて、ちょっぴり頬羽をむくれさせる。
リンクがえへん、と勿体ぶった咳払いをした。
「じゃーん、最新デザインだよ」
リンクとゼルダが、それぞれ両手を前に突きだし、リトの翼のように“ウワサのパラセール”を拡げた。
パッと彩り鮮やかな帆布が、その姿を現す。
「あっ、オイラだ!」
「それにこちらは、リーバル様だな」
前で結んだ鮮やかな薄緑のスカーフに、緑がかった黒い羽先の映る白い翼、リトの飛翔を妨げないための開放的な構造をした皮鎧。なびく帯布は、チューリの腰にかかっているものと同じ。顔こそ映っていないものの、間違いなく風の賢者チューリの姿を模したデザインだった。色とりどりのタッセルは、村の子どもたちの彩りを思い出す。
ゼルダの持っている方のパラセールは、もっと分かりやすい。黄色い嘴、群青色の羽毛に白い羽の縞が差す翼、赤い目蓋の閉じたかんばせ。正面中央に大きく、胸の前で翼を交差させたポーズのリトの美丈夫を描いたデザインがあしらわれている。特徴的なカラーリングに飾り玉やタッセルの翡翠モチーフを見て、多少の教養ある者ならば、これがリトの英傑を象った一品だと気づかぬ者はいないだろう。
「細かな模様まで綺麗に染め抜かれて、素敵ですね」
サキは布地に触れ、見た目だけでなくその造りの確かなことに感嘆の息を漏らす。
「ハテノ村の東風屋さんの高い染色技術は、リトの彩り豊かな服飾文化とも相性が良いかもしれません。あちらの方に出向くときは、ぜひ寄ってみてください」
「ハテノ村には新聞で話題になっていたSAGONOブランドもあるそうですし、ええ、楽しみが増えました」
「リトの族長夫妻の訪問は、芸術家の店主にも良いインスピレーションを与えるきっかけになると思います、きっと喜んでくれるでしょう」
「そうだといいのですけど……」
このヘブラから出たことが滅多にないサキは、自信なさげに眉をこまらせつつも、期待するような眼差しで笑う。「大丈夫だよ」と胸に太鼓判をたたいてみせたのはリンクだ。
「前にチューリをつれてった時は大喜びしてデザイン画を書き上げてたし、寧ろテバのも作ってもらおうかって既に話し合ってるんだよね。どの部位が良い?」
「身体の部位は指定条件なのか……?」テバが困惑した様子で聞き返す。
「あら、面白いじゃないですか。せっかくですし、あなたの柄の生地で家の玄関マットでも作っていただきます?」
意外にも話に乗ったのは、妻のサキの方だった。ひくり、と嘴の端をひきつらせたテバが彼女の方を振り返って、動揺の現れた身振り手振りで説得しようとする。
「……一旦、考え直さないか?その……あれだ、今度の出張先で良い菓子を見繕ってきてやるから、ああ、ゲルドの宝飾品店に連れていっても良い」
「もう、冗談に決まってるでしょう」
「……むぅ」
唸ったテバが眉を潜めて目を閉じ、指先で額をかく。「胸上と正面胴下と来て、次は背中が良いんじゃないかって検討してるとこだから、大丈夫だよ。自分がテバの背中に乗せてもらったみたいなもの」とリンクは元気付けるように言った。
「あまり小さいものは難しいですが、壁飾りやフラッグなど、他の布製品へのアレンジには対応できるそうですよ」
「族長の居所が、外からの方にも一目で分かりやすいように、姿を旗で掲げるのは良いかもしれませんね……」
「勘弁してくれ」
苦々しい声音で、右手で顔を覆ったテバが白い翼のもう片方を白旗のように挙げる。「かわいらしいと思ったのですけれど」と残念そうな声をしたサキも、指の隙間からのテバの心外そうに訴えるような眼差しにとうとう鈴を転がしたように吹き出して笑った。この夫婦も、村を担う族長の立場となってから、良い意味で互いに腹の据わった信頼を新たにしたように見える。
両親の軽口の応酬に、むずむずとして落ち着かないチューリは、ねえ、とゼルダ姫のパラセールを指した。
「ゼルダ姫様もパラセールで飛べるなんて、オイラ知らなかったよ!鳥望台のメンテでプルアが言ってたけど、あれってハイリア人には難しくって、リンクくらいしかテスターができない~って嘆いてたのに」
「ええ、私がリンクに手解きを頼んだんです、パラセールの扱いを学びたくて。その、まだまだ滑空の腕前はひよっこ、ではありますけど」
勉強熱心な姫君は、手足や背筋を痛めない姿勢の取り方や、着地の注意など基本的な動作は理論を以て覚えた。しかしながら、ハイラル全空の覇者であるリンクに追い付くのは難題なようだ。
「風に乗る、というのは単純なようで難しいですね。今回も、平原の鳥望台から風向きを見てまっすぐ飛んできたつもりだったんですが……何度も脇に逸れて、上昇気流で飛び直すことになってしまいました」
ゾナウギアの扇風機やハイラルボックリを活用した人工的な上昇気流で、高度を稼ぎ直して滑空してきたらしい。
「なら、風の中心に勇気を持って飛び込むつもりで、思いっきり翼を拡げるのがいいんだよ!風は賢く自分で通りやすい道を流れるから、ただ遮らないように掴むんだ」
「あ……“迷わない”ことが大事、ということですか?」
「そう!自分の行きたい方向への意思をしっかり示して、風と意気を競り合うつもりでね、昇るときも滑空するときも一緒!」
ねっ、とチューリはかつて天空の大冒険を共にしたリンクへと目配せした。ハイラル一番のパラセールの使い手のリンクは、チューリとゼルダの視線にウインクを返して応える。
「ほら、餅は餅屋、空のことはリトに聞くのが一番だ」
「ええ、そのようですね。またアドバイスをお願いします、チューリ先生」
先生。チューリの目がきらりと輝いた。ちょっと得意気、でもあんまり分かりやすく嬉しそうにするのもカッコ悪い気がするから、なるべく何でもない風に落ち着かせて、「任せてよ!」と軽く自分の胸を叩く。完璧。
「調子にのって、ゼルダ様を吹っ飛ばすんじゃないぞ」
「ダイジョーブだよっ!」
父テバのからかい嘴をいなして、チューリは胸を張った。
「さて、挨拶はこれくらいにして……本題に入ろう」
テバが父の顔から族長の顔になる。向き合うゼルダもまた、一人の取り引き相手として顔を引き締める。
ラネール地方ハテノの村の住宅から対極の位置にあるリトの村まで一直線、監視砦の鳥望台を経由して、遠路はるばるこの未来のハイラル女王が自らやって来たのは、観光だけではない。
「件の品を見せて貰えるだろうか?」
「はい、ここに」
ゼルダの視線を受けて、リンクが背負っていた箱形の大鞄をおろす。鞄の口を開けると、何層かの引き出し状になった収納スペースが揺れで中身が崩れぬように固定されているのがわかる。
膨大な引き出しに収められているのは、アトリエ東風屋の協力のもと集めあげた染料の数々だ。
ひとつの色、ひとつの鉱石からも抽出の方法や混ぜ物次第で、全く色合いが異なるものになる。赤が五色あれば青も黄色も緑も五色以上ある。特に上塗りに使う白や橙、樹皮色は、他の塗料と混ぜる際の色味を考慮して、材質違い作り方違いのものがわんさと詰め込まれ、相性の良い素材をリスト化されていた。
「見事だな。これならうちの職人連中も満足するだろう」
「よかった。リトの皆さんから塗料について相談を受けたとき、これしかない、と思ったんです」
「いや、本当に助かった」
リトたちから、塗料の相談を受けていたゼルダが、ハテノの東風屋との協力を経てリトまで配達にやってきたのだ。多忙なハイラルの指導者じきじきの提案に、リトたちも初めは驚き遠慮したが、なおも強く希望したのはゼルダ姫本人だった。
「私も何かしたくてたまらなかったのです。この……英傑リーバルの名を縁にもつ広場を塗り直すための仕事となれば、どうしても関わりたかった」
ゼルダ姫とその騎士にして退魔の剣の勇者リンクが、英傑の末裔ではなく、100年前の姫巫女と英傑その人であるという事実は、今のところ知る人ぞ知るところの話である。ハイラル復興事業の始まりから、関係者にじわりじわりと情報が拡がっていて、そのまま受け止めている人もいれば、新聞社のユニークなジョークの一つだと思っている人もいる。どちらにしたって、今、この二人がハイラルの人々を繋げる橋渡しに奔走していることに払う敬意は変わらないので、誰も気にしていない。
「このリーバル広場にとっても、俺たちにとっても、嬉しい限りですよ。空も、風も、こんなに良い飛行日和なんだ、きっと天も祝ってくれている」
テバは改まった恭しい態度で胸に手をあて、ゼルダたちに会釈をした。
このリトの村では、どちらかというと二人が100年前の人間であることが受け入れられている方の情勢だ。
チューリの背中に揺れる弓の青い衣と同じ色をしたゼルダたちの青い衣に、慕う英傑リーバルのことを思い出しているのかもしれない。
「今回の差配は、どこまでも私の我儘です。国を復興せんとする王家の末裔としての責務ではありません。あなたが騎士として付き従う必要もありません。でも……リンク」
荷物を渡し終えたゼルダが、今まで一歩を引いて、後ろに控えていたリンクの方に振り返る。
「あなたが一緒に来てくれて、よかった」
「ついてこないで、と言われても、行くつもりでした」
ふふ、と誰からともなく笑い声がこぼれ出す。
リーバル広場に100年前と現代の縁者が集う空間を、青い線を描くようにヒンヤリトンボが軽快に横切り、そよ風がからりと風車を回した。
「俺たちリトももちろん、二人のお客人を歓迎するつもりだ。協力、感謝する」
廊下で道具の搬入準備をして控えている者、絵具の調合をする者、布巾や水の入ったバケツを準備する者。
村の敷地内からすれば、けして狭くはないリーバル広場だが、こうも人々が集まると少し窮屈な感じもする。冬の囲炉裏の近くでぎゅうぎゅう押しくらまんじゅうするみたい。
ひとの一団からチューリは一人抜け出して、広場の縁の近くに立った。とんとんと前趾足で床板を鳴らし、オオワシの弓の背負い具合をしっかり確かめる。
「じゃっ、オイラ行くよ!」
──皆に見送られて故郷を飛び立つのって、ちょっとむずむずする。
でも悪くない心地。誇らしいってこういう感じ。100年前の大厄災の伝説は悲劇に終わってしまったけれど、でも、強大な厄災と戦うと決めて、きっと挑み勝つつもりで飛び立ったリーバル様も、同じ気持ちだったらいいな。
チューリは今日一番の高い風を掴まえて、天鳥船までひと息で飛んでいけそうなくらい、力強く羽ばたいた。
「──武運を」
村一番の若い戦士が、青い衣飾りをつけたリトの大弓を背に、天高く飛んでいく。
一言、祈りを込めてから族長がくるりと皆を振り返る。その背にも揃いの大弓があること、そしてお客人二人が揃いの青い衣を着て、勇敢なる剣士が同じ大弓を背負ってきていることに、リトたちは不思議と胸に熱いものがこみあげるのだ。
「さあ、俺たちも仕事にかかるぞ!」
テバの大きな白黒翼が、ぱんと一打ち柏手を鳴らし、号令をかけると、リーバル広場に集まった人々は顔を明るくして一斉に作業に取りかかった。
◇